自分で 権利を持つ、著作物、音楽や、ストーリーなどに関して、守る必要がある、ややこしい、時代に、なったような、空気に なってます。
ネット上で、AIなどを使い、誰かが、複製的に、私の公開しているものから、新たな作品を作ったような、主張をされると、最悪、私のブログが、消えるかもしれませんよね?
仰天ニュースで、〝昔から 普通に 使えたものは 使える〟と、私の予想通りの、見解になった 事例がありましたけど、このように、著作権を、システムに自動で管理させると、いろいろ、めんどうなことが、起きます。
上記は、商標で、この記事のテーマは、題名に著作権は発生しない、内容や思想の話、となります。
(例えば、私が「ハートのねこ♡の大冒険」と書く時、わたしの、主人公 ハーティー💛の、ハートのねこ♡の大冒険だ、と、言うことになります。 文章のまとまりには、より強く 著作権が、持てる ので、あからさまに、題名をパクられた場合は、私の作品の、同一性の侵害に当たると、主張できるわけですよね。)
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日本のアニメでは、ルーシーでおなじみ、現実の、現代の、オーストラリアでは、未成年、つまり、子どもの、SNSの登録・書き込みなど、もしかすると、閲覧全てまで、よくないと、あるいは、違法になるらしいですね。
だとすると、このようなブログも、見れなくなるかな。
お金を盗む、ハッカーのように、現代、AIなど、システムの知識を悪用して、ずるをすることで、子どもが、犯罪に巻き込まれる事例が、後を絶たず、上記の、企む者は、まったく、その 子どもへの責任に無頓着なので、子どもの、SNSを禁止する国では、そういう、ハッカーのような、子どもの社会を狭めた原因になる者に、責任を取らせるように、カウンセリング付きで、更生させるように、持っていくべきです。
それを見込んでの、子どもの、SNSダメ、にしてほしい。
(だとすると、国際問題に絡んでくる点で、世界全体の問題 です。 中国のハッカーが、オーストラリアで SNS経由で、子どもに、犯罪行為をした場合は、中国政府が、オーストラリアに協力的になれば、世界は、仲良くなれます。 中東も アメリカも アフリカも、同じようにすればいいです。―― ※これは 実際にあった話ではなく、例です。)
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私のストーリー、「ハートのねこ♡の大冒険」は、 時々、書き加えたり、訂正するので、数十年で、全く同じものを保証することは、ありません。
これも、著作権上の配慮 を 含みます。
(マイナーなところで、アイテム名を変える、など、ストーリー内容に 影響しない範囲で、変えることがあります。)
つまり、単純に、決まった著作物がある、というわけではない です。
よって、性善説、というのが、有効ですね。
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ポイント1・・・著作物は、作ったときに、権利が付与される (日本)
あくまで、日本でなので、世界的に、AIで、いろいろできるようになった現在、まず、日本全体から、性善説において、この、作ったときに、同一性が生まれることを、主張する必要 が あります。
子どもを産むとき、基本、中絶できるときまでは、子どもは存在していない、中絶できない、バースデー前までは、風来のシレン(SFC)のデバッグルーム のように 公式には ないことになっている存在、として扱う感じ、生まれたら、作品なら、リリースされたら、正式な誕生という例で、説明可能ですよね。
著作物という 子ども も、アイデア として、裏設定や、前設定で、残っているもの は、デバッグルームの 扱い ですよ。
それらも含めて、性善説で、作ったときに、権利が付与されます。 日本では。
そして、日本の憲法と法律は、その、モラルにおいての、性善説 (リベラル) が、基本 です。
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ポイント2・・・自分で 著作物の誕生日を 公開する 自由がある (真実性)
ウソはつくな、ということです。
つまり、私の場合、YouTube のチャンネル などで、いろいろと、作った時期を、記述してます。
このように、 基本、性善説において、 自分で、誰にでも分かるように、ネット上で、著作物の、誕生日を、主張しておいてね、ということです。
だとすると、これから必要になってくるのは、不当に、システムに、弾かれない、使用可否の 話 ですよね。
基本、著作権があって、許可していない限り、使用不可なので、配信サイトで配信している音楽は、その配信サイト経由で、配信可能。
著作権者が、きちんと、その及ぼす範囲を 決められるので、何も 問題は ありません。
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今回の、最大のポイントは、〝自分で、自分の著作物の 他者の使用の可否を 登録できるシステム〟が、不可避に、できたらしい、ということです。
しかし、これは、自分で、著作物の誕生日を、ネット上に公開し、防衛したとしても、うまくいかない場合に、頼れ、という、制度なので、そもそも、悪用のされようは、無いと、思います。
それが、タイプ5の、第2層で見る、性善説、ということです。
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性善説 性悪説 とは?
偶然か、わたしは、家で、本を読みがたい時に、外に出かけて、読むことがあり、いまのところ、ケン・ウィルバーの、ワン・テイスト が、唯一の、持ち出す本です。
ワン・テイスト には、性善説などについて、詳しく書かれており、どちらの一派にも、過激な主張者が おります。
ルソーが、純真でない者は、処刑、と、解釈されることが あったように、ニーチェの、超人思想は、ナチスに悪用され、頂点以外はゴミ、と なりました。
前者は、性善説、自民党、リベラル、後者は、人種至上主義を含む、共和党、保守、ということです。 または、その 健全なタイプと、歪んだタイプがある ということです。
インテグラル理論では、前者を、大人の、オレンジ(5)、後者を、子どもの、アンバー(4)、の意識に、置くことが、あります。
性善説とは、赤ちゃんは、生まれながら に、純真で、社会制度などの 規範によって、その、創意は 滅ぼされ、回復される必要がある、という、思想です。
より広義には、人は、究極的に、ウソをつかない、ということです。
性悪説とは、子どもは、いたるところで、鎖につながれて生まれ、自由になるために、もがいて、成長する、という、思想です。
インテグラル理論では、インフラレッド、マジェンタ、レッド、アンバー、オレンジ、グリーン、ティール、と、 成長し、 様々な、発達ラインも、定義できる、とします。
モラル、対人関係、感情、論理的思考、スピリチュアリティ、欲求、価値 、などの、 いろいろな、ラインが あります。
不健全に、成長が止まると、野蛮な人類の誕生であり、子どもが、人種差別主義者として、あるいは、テロリストとして、無法地帯をつくり、世界を壊していくだろう、ということです。
2つの思想の統合としては、わたしが、ポテンシャル、健全性、を挙げています。
未来予知があるとして、子どもの最大の可能性が分かるのなら、そこに、最大の潜在性が付与できて、性善説において平等なので、多様な能力の中で、その、健全なピュアリティを、見ることが、できる、ということです。
この見方には、第2層の意識を、必要とします。
(第1層や 子どもへの 翻訳 可能。--- 例えば アニメ。)
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つまり 今回の、著作権の 申告する必要があるかどうか、オーストラリアの子ども SNS 禁止の法律、などは、性善説、リベラルにおいて、条件を満たさない場合に、適用される、ということです。
性悪説、つまり、まだ、成長が必要と判断される子どもは、著作物を 一人前に公開する権利と責任が 免除されます。
つまり、まだ、著作物を、ひとりで公開できないだろう、ということです。
よって、上記の権限を悪用する者も、成長が必要で、性善説の範囲から 除外されます。
つまり、思想としては、そういった輩は、悪用不可、という、きまりごとです。
なので、善悪の観念が弱い者たちに、道徳的に、それを教えられるシステムが、期待されます。
レッドの人間に対しては、罰を受けることも、明確に 説明すべきです。
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もはや、著作権に関しては、インテグラル理論を、直接 使った方が、早いです。
そして、このコーナー、シナリオではない ノンフィクションなので、ふつうの方法で、著作権登録できません。
(必要なら、サイトごとの登録に なるかな?)
また、事実に関しては、広範囲の、引用、場合によっては、転載も、認められることがあるので、ゆるいです。
このコーナーは 独創的なので、ある程度、感情や思想が、出ていて、著作物ですけど、うまいこと、事実だけ抜き出す場合は、個人の非営利重心なら、自由に 引用してくださいよ。
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法律は、強制ではない (リベラル)
性悪説において、レッドの人々が 居るので、善悪を、罰を通じて 示さないと、成長も 理解も しないので、強制となります。
ただし、リベラル教育は、それを強要できないので、奨励します。
性善説を発揮できる人物になったら、もはや、法律は、強制ではありません。
なぜなら 日本の法律は、リベラル憲法、日本国憲法に基づいていて、憲法の方が、強いから です。
そして、モラルを忘れると、リベラルは崩壊するので、性善説を保つためには、性悪説において 成長が必要と判断できる人々は、該当範囲で、除外されます。
その人々は、勝手に法律をつくれないし、乱用不可で、著作権関連も、同様です。
よって、性善説 と、法律が言うとき、日本では、実は、かなり複雑なことが、含有されてます。
(今、書きながら、理解しました。)
ちなみに、余談ですが、この、書きながらと 言う 視点は、私が、内向直観のタイプ4に、日常のひとりごと経由で、タイプ7を重ねた結果、生じてます。
直観的に、思ったことを、なるべく正確に、出力するという スキル (極めた クセ) です。
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補足も書きましょう。
アメリカの トランプ大統領は、自ら、保守、共和党の派閥だと 言っていたはずなので、基本は、性悪説、 歪んでいる場合は、人種至上主義、を、主張する タイプだ ということです。
つまり、性善説において、トランプ大統領は、除外できるかもしれない、ということです。
これは、TPP脱退とか、著作権も含む、より広範囲な、国際法にて、効いてきます。
ティールのモラルの波に、語るに任せるといいです。
トランプ大統領が、正確な 性善説を、含めるなら、世の中の問題は、解消方向に向かう でしょうが、そうでないならば、反面教師として、いい例です。
また、私が、コロナ病、と言っている、咳払いウイルスの脅威 とは、否認、怒り、で 止まった、-- 悲しみ、受容、に、決して行かない、アリと人ではアリの側、決して交わらない、性悪説の生物圏側、性善説の心圏側、が、乖離して、バラバラになっている、不健全極まりない状態の、こと です。
そこから、危険運転 (公道を突然100キロで飛ばす、自転車をスレスレで速度を落とさず追い越す、裏道の見通しの悪いカーブで徐行しない) 、咳払いと鼻すすり (逆咳ハラと言う派閥も むしろ コロナ病として含むかも) 、その他、注意力を捨てるという、疾患 で、観測できますよね。
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・著作 思想は 全体的に どこへ向かうのか?
著作権は、インフラレッド、マジェンタ、レッド、アンバー、オレンジ、ではなく、ある種の、新聞社的、テレビ局的、音楽会社的、出版社的、グリーンのエリート主義からできた、著作権法 重心の、視点だと思います。
上記の会社は、アンバーか、オレンジから始まり、グリーンに行きつく ということです。
そこには、コンテキスト理論などを、含みます。
ここで、性悪説は、より詳細な、性善説に、道を譲り、各自の 道徳的な 解釈と責任において、アートのリンキング、思想のスクラムフォースが、成り立つことになります。
フレデリック・ラルー著 の、ティール組織の 視点 では、複雑な世の中が、それでも、自転車の 感知―応答 のように、うまくバランスされている、と、書かれる、理由に当たる視点ですね。
そして、著作や、感情は、高度な視点を 含みながら、----- 競合する部分性を放棄し、より全体へと統合される、ホロンになります。
著作は、思想は、世界中心的に、性善説的に、まとまっていく、ということです。
あるいは、そのジャマな思想を、予知の悪用を含めて、やっつける、ワクチンとしていく、ということです。
ここに、オーストラリアと子どものSNS、現代の悪いハッカー問題、などが、より深い理解 として、帰ってきます。
くわっ! と言っても、いいかも🐤です。
才能と 差別、性善説と性悪説、という、多様な視点も、含まれてきます。
広義のアートは、決して、争う方向には 行かず、人同士が、よりうまく、助け合うことになると、説得力を持った著作として、支持されます。
(有名にならず、フォロワーも 居らず、形態形成場 に、リンキングされる バージョンも あるので、自由です 。)
よって リベラル憲法で、近未来の 著作権によるシステムが 創発するなら、深い性善説の制度、と なります。
そして、日本の保守派も、成長という重要なファクターで、この潮流に、いくらでも、貢献できます ね。
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著作権と性善説の追記 ~音楽と深さの視点~ (2026 05 19)
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内向直観型 の、スポーツ選手、の視点は、弱虫ペダル や、アオアシ で、サポートされていると思いますけど、芸術、そして、インテグラルな視点、そして、音楽、ポップス の場合 は、多少、ややこしくもなり、例として、補足します。
相変わらず、私の視点ですけど、進化の構造 (ケン・ウィルバー) を 読んでいて、身体的な境界が、単一の境界ではない、と、書かれていました。
レトロ・ロマン派の、かなり、ラディカルなのの、注の、批判のところですね。
つまり、感覚や、身体の、かなり、ファンダメンタルで、還元的にもなる、領域にて、目に見える、身も蓋もないところが、強調されて、とらえられる、ということです。
直観は、そうではなく、かなり、メタ的、そう、MBTIでも、書かれているように、メタ要素で、とらえます。
アオアシで、個人戦術ができない、と、主人公が、判断されるとき、それは、どちらかというと、社会感覚のズレ、ということでしょう。
私もですけど、特に、内向する直観タイプの場合、子ども時代なら、とくに、わけのわからないリアル・シグナルを 内向にて吸い、判断機能で、出力することになります。
(ハートのねこ♡の *章 の、最初の、へんねこの回 が、わたしの 小学生の時に 作った 漫画をベースに、2021年時、連載しています。)
わたしの、音楽、2005年~2014年頃 までの曲を、載せているサイトを参考に、直観的な音、マントラとも言えますけど、そういった表現を、記号論的に、とらえてみます。
つまり、すべては、文脈(コンテキスト)に、拘束されている、ということですね。
当時流行った、ニヒリズムも、脱構築によって、私の芸術に、異議を唱えることが、できるわけです。
例えば、「愛の歌」には、「パッ」という 単語が出てきますけど、これを、閃き、つまり、直観として、表現することができ、私の場合、そうでしょう。
ならば、非インテグラルにて、感覚と、ニヒリズムによって、この言葉を、作風にすることも、可能で、その場合、閃きの否定を、フラットランドの、感覚にて、私の直観の死角をついて、乱用することも、できるわけです。
これが、そのまま、パクリとか、盗作にならないわけで、ばれないようにやれ、と、上から言われる場合も、ハートのねこ♡の12章の 天使と直観の話 を、しっかり読んでみると、あり得そうに、思えてきました。
ケン・ウィルバーは、進化の構造で、退行主義、フラットランドの陣営が、かなりの悪意を持って、暴力を行使するように活動している現実を、注などで、しっかりと、書いていました。
このように、リアルでは、ネット含みますけど、やっかいなことが、いろいろ、あります。
自転車ではないですけど、ヨーロッパのワインを 試飲できる機会があって、おいしかったので、例えば、そういうのが、嫌いなわけでは ありません。 ( 愛するのは、基本、ジュースですけど。)
また、リベラリズムと憲法9条の話、を書き、神戸や花火と私の近況 も、アップデートしながら、この春を、過ごしています。
深さを知る、ボーカリスト、シンガーソングライター、作詞作曲に 通じる人なら、時々、これは、一度、悩んでおかなければならない、とか、引っかかる時も、ありますよね。
性善説とはいえ、すべては、解釈と、リアルアップデートと、主張と定立です。
例えば、パクれる、ばれない、とかいう意図がある場合、それも、主張、パラダイムですよね。
そして、解釈しなければならない、という、めんどうな側面もあります。
わたしは、自分の曲を、歪められたくなかったので、むしろ、自転車に、乗りました。
(ボディ・モジュール。)
直観型が、楽器が多彩な、感覚型に、音楽で固められたら、フラットランドでは、太刀打ちできないので、そこでは、戦いません。
よって、自転車で、頭を使って、道路交通法を守り、すり抜けをせず、車道メインで、車列にも並び、1.2車線走行や、1.0車線走行、と名付けた方法で、クロスバイクで、3万キロ、走り納めました。
いまでも、ママチャリで、六甲山牧場は、行きます🐏
曲の話に戻りますけど、「パッ」という記号、聴覚の範囲では、物理的な音、これを、直観をディスる形で、フラットランドで行使されたなら、わたしは、気になる、ということです。 (傾向性の話。)
既に、わたしと、アニメのワンピースの相性がいいように、統合的リンキング、という文脈で、私たちは、先にすすんでいる と 思います。
そこは、ゆきちゃん も、同意してくれるでしょう。
わたしならば、誰と、どういう深さで、関係を持って、芸術をしているのか、そして、どう発表しているのか、ですよね。
そして、周りに分かるように、あらいざらい、話すこともない ので、フラットランドの影のすべてを、網羅することなど、無理です。
それもふまえて、芸術をやっていくことは、綱渡りのような気もしますけど、その綱が、吸いつくように、極めて 丈夫なような、気もします。
インテグラルな、音楽は、境界が、フラットランドと違い、身体にはなく、メタ的な、ソウルフルなところに、あります。
その境界に、敏感だと、いうことです。
フラットランドは、境界が、快楽的に、身体付近にありますから、楽器を持って、個体から、相手の耳に聞こえる境界で、やれていれば、成り立つ流れです。
それが 助長されるのは、あまり、良くは、ありません。
カバーばかりの、ポップ系のアーティストも、オリジナルだと、深さに支障があるからですよね。
私の場合は、境界は、近接的というより、地球的に、感情・思想的なところに、あります。
その境界をとらえるには、ヴィジョン・ロジックを、扱うわけです。
ワンピースなら、深さのホロンのまま、子どもに理解される ように、書きます。
だからといって、浅く、還元的で、子供じみている、わけではありません。
音楽もそうで、アニメの ななついろ☆ドロップス (サントラのカテゴリーの 本編の曲) も、少女漫画の属性がある 子ども向けにもなるホロン ですけど、深いです。
インテグラルな芸術は、より、多くのホロンを含む ので、フラットランドの病理にも、影響を受け、子どもたちのことをも考えるなら、無防備では、居られないというわけですよ。
なので、時々、こうして、現実的に、あるかもしれない例も、やや、あやういところもありますが、主張したりしています。
すべては、芸術家自身 が、道徳的に自由な主体 を サポートされながら、よりよい 意味で、戦っていかねば ならないことです。
リベラルなら、道徳は、オレンジに あってしかるべきなので、それが前提で、道徳的に自由な主体、です。
子どもの視点、そして、発達ラインの視点、を考えると、音楽のことが 分かっていない者に、演奏させるのは、上記の破綻でしょう。
その場合、あらかじめ、そういう 企画であることを伝えて、合意してもらえば、いいわけです。
それも、フラットランドのルールではなく、メンタルな境界線を持った、信頼の原則で、理性にて、行う、ということです。
そうでなければ、空気の、魔術段階的の、押しつけです。
フラットランドに行きがちな、技術者関連は、感覚的な目にばかり、意識を取られて、芸術家が、こころの目、スピリットの目(=眼) で、時間を選択している ことを、忘れがちか、知らないことがあるので、興業の主催者には、向かないことも 多いわけです。
そこは、スポーツとも、違います。
感覚の目で、芸術をやっているなら、より深くは、芸術ではない、と言えます。
音楽なら、感覚のみに焦点を当てている場合、アーティストの思想を、無視している、ということです。
こういった切り口で、健全な、ホロン階層、ホラーキーを考え、芸術とは、音楽とは、と、内省してみると、いいのです。
わたしが、もはや、ふつうのアーティストを やれていないのは、インテグラル理論にて、感覚的な、フラットランドからの侵略を、食い止めているからです。
奴ら (フラットランドの陣営) は、視点・主張ということですけど、パクれれば勝ち、という、パラダイムですよね。
私は、それに対抗して、思想において、病理的なホロン (いわゆる ゾナハ病化) を、論破することで、バランスを取り、メンツや、尊厳を、保持 します。
すると、次第に、その、思想の面が、ジャマになり、奴らは、わたしの、芸術面を軽視し、理論的に、つぶしにかかろう、と、するかもしれません。
その流れになったとき、深く 芸術を シェアしておけば、いいわけが、立つわけです。
私の音楽は、こうして、真剣に、作っていますよ、誰もから理解される、ことは、理屈に合わないので、深い解釈において、今の形でいいんですよー、と、言えますよね。
欲を出すなら、深さと、そのつながりに、です。
だから、わたしは、いろいろな、視点から、そうできない、フラットランドに対して、説明はできる、と、言ってきたわけです。
そして、ポスト形而上学において、説明可能=解体可能 なので、実践的 なのです。
ここは、ポストモダニストの、よく知るところですよね。
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ラベル:AQAL 統合的リンキング (著作権)
