所与の〝人〟は、いないのです。
人間関係において、相手を理解するには、社会・文化的な〝話題性〟が、必要です。
シナリオ、関係のモード、と 言っても、いいでしょう。
私のブログが、炎上しないのは、話題にする意味が、ないからです。
意味を持てない、ということですね。
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意思疎通が、人間関係にとって、必須ということです。
レッドには、レッドの、コミュニオンが、あるということです。
これは、タイプにも、言えます。
静かにしてほしい人が、いるとしましょう。
その人が、自己中心的な人で、かつ、近隣で 業務中の 立場 だったら。
自己中心的な者には、本人にとって ある意味 脅威のある出来事のみが 自分に関係するので、それ以外の状況、要素には、無頓着、無理解を、意味します。
それが、私たちには、ポスト形而上学、としての、AQALの要素に、意識的になり、他者の立場になることを考慮する一例、として、利いてくるわけですが…。
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では、例の立場の者に、静かにしてほしい場合、どうすれば、いいのでしょうか?
おまわりさんでは、アドバイスが、関の山でしょう。
トラブルにならないように、かつ、そのアクションを起こす意味を、読み切って、しかし、ある程度の対応の素早さも、包摂しつつ…。
前置き長いですけど、それだけ、人は、他者の立場に 立ちがたく、自分の感覚で、生きているわけです。
社会動物として。
いろいろな、レベルで。
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つまり、例の立場の者は、静かに言っても、聞きません。
それならば、伝えない方がよい、しかし、距離が近い。
このとき、相手は、何に、そもそも、反応し、私の何を、見ているのでしょうか?
それが、トラブルの原点になります。
正しく分かれば、言い方のヒントになります。
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要は、この立場の人は、言われるだけで、業務を妨害されたと感じるので、大きな組織の一員ないし末端なら、特に 歯止めが 利かないわけですが、まず、自分の業務を 妨害するな! と、守りに入るでしょう。
なので、個人の 自己中心的な 近隣住民に、要望を 言うときも 同じですが、言っている立場の者 (この例では私) の すべては、無理解で スルー、存在すら しておらず、ただ、眼前の事象が 妨げられている、私でなくとも 同じことを要望する程度の 共通の視点 (静かにしてという要望) で 言っている、というところに、集約するので、その先は、相手が、普遍的に、事実、不利益を 受けない限り、やめない、となります。
これは、直ちに、今 流行りの、クルマの信号無視、その他 危険運転全般に、大きく、関係する、カテゴリーとなります。
こういった視点・シチュエーションでの、おまわりさんの ひとつの 意見は、たぶん、社会は不平等であることを前提に見て、深刻なトラブルにならなくてよかった、というところです。
つまり、言っても無意味なのに 言うしかないような状況になるときに、どうすればいいのだろうか、と、AQALを使って、考えさせられる、ティール組織的な 視点のお話を 今、私は、行っていることに、なるのでしょう。
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自己中心的な人は、他者を、ほぼ、全く理解しないので、他者の持ち物なども同様で、とにかく、自分のすべてを、妨げられないようにすること以外、興味がないです。
繰り返し、人は、全般的に、他者の立場に、立ちがたい生き物ですが、成長できる意味では、学ばなければならない責任も含有し、私が今、書いているのも、その洞察においてです。
不安の中に、手を突っ込んでみるのも、必要です。
私が 自転車に乗る場合、他者の立場に立てば立つほど、追い越しが発生しにくい 裏道寄りの車道を 走行すべきだと気付きますが、ルールを無視・軽視する 危険運転のクルマを、何も言わずに放置し続けるのも、リベラルの危機と 感じます。
このように、業務関連など、なんらかの、許可・免許を 持っている者ほど、その乱用が目立つ時代に なったようで、ウイルス禍から 他者の立場に立つ コミュニケーションが 阻害される方向に動いて 今に至った、資本主義のテリトリアリズムが 明らかに分かるように はびこっている、などの状況判断から、そう 言えると 思います。
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とすると、直接 言うことで、トラブルになる、と、読めるので、カッコ悪くとも、言わないを貫くのが、大人、というわけです。
これでは、奴隷制を壊すのは、不可能でしょう。
子どもの権利条約、動物愛護、クリーンエネルギー、プライバシーの権利、著作権・・・ いろいろな変化・進歩が、グリーンのレベルから、経てきたというのに。
なので、結局は、相手がスルーせざるを得ないように、独り言を叫んで、伝える、という風に、落ち着くのかもしれません。
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ここで、せきばらい とは、何らかの怯えの投影で行うけど その トラブルは おことわり という、直喩ではなく暗喩で ありそうだなと、気付きます。
わたしが、日常で、最も、最近、嫌う、感覚的な、社会現象なのですけど。
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自己中心的な人間は、人というものを、判断できないので、相手の性格を見ることは、おそらく、まず、ありません。
切り裂きジャックに、共通の日本語を しゃべられても、切り裂かれることに 私たちは同意できないので、私は逃げるので、その程度の地盤で、分かりあえる文脈は、皆無です。
なので、話し合えるか、という問題ではなく、言葉を交わしても、自分のことを理解してくれそうにないと、判断できるとき、ほぼ、関係できないと、悟る必要がある、ということです。
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私は お店で、つまり 顧客として、日常の外出先や、旅先でふるまうわけですが、この場合、私は、性格を持つ人ではなく、ジャガイモや、アンドロイドで、いいわけです。
あくまで、業務上の動き・決済などが発生する ファクター、ということになります。
店と顧客という関係では、道徳のレベルや、人間性の理解は、あまり関係なく、それでも、社会の中で人との接点を 持っているとは 言われる、あいまいなゾーンが大きい、領域です。
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基本 これら、自己中心的な者とのかかわり、店と顧客との関係、などは、事実として、自分のことを理解してもらう必要もないし、理解もされない、というところで、全く、関係しない、使い捨ての方向に、定まっていきます。
微妙な論点ですが、本当に、人と分かち合っている 流れを引き寄せるなら、これらを理解し、可能性の薄い ルーティーンからは、離れるべきです。
特に、芸術家は、違和感を 感じることが、あるはずです。
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そもそも、オリコンヒットチャートの役割は、アニメの番組表と同じく、話題作りに、必要だから、見るのです。
それ以外に、本来、大したメリットがなく、だから、私の歌や、書いたものは、大衆にスルーされます。
これも、咳払いは 恐怖と 無意識の アクティングアウト、トラブルを避けるために 何も 言わない 現代人、と、同じ視点で、説明できます。
自己中心的な者だけは、自分に指図するな、と、そういう、咳払い的 シャドーを、怯えを、何も言わないことも我慢できず、危険運転や 罵声としての言い返しで、あるいは、自分ができる範囲での嫌がらせで、衝動的に放散する、その違いは、ありますが…。
大人のだんまりの、稚拙なバージョン、です。
痛い思いをしたくない点で、一緒ですから。
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なので そういう、話題作り以外は スルー、も、結局 バカを見ないために、防衛する、ということで、大して、他者を理解する意図は、持っていません。
そんな、現代で、恋愛、そして、それに準ずる、ファンや 追っかけも、あります。
多少は、他者の立場に立とうとする流れが 生まれますが、ぶっちゃけ 意外に そうなりません。
では、どこに、相手を深く思いやる、共感が成り立つ、文脈が、生まれるのでしょうか?
もし、その余地がなければ、人類は、平成で、終わり???
。
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前置きが、長すぎました。
具体的な、雲行きから、入ってみようかな…と。
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エニアグラムや ユングのタイプ論 からの 相性と 共感
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私は、内向直観型の タイプ4 なので、Nを フィーリングで、取り入れるわけです。
なので、外向直観型の タイプ2 のことを、最も、理解できると、納得できます。
理論上の話ですが、最近、実体験として、成り立っている気がします。
タイプ2は、フィーリング・センターを、外側に放散します。
タイプ4は、フィーリング・センターを、内側に感応します。
タイプ4のコミュニオンは、タイプ2です。
私が 視点を 取ってきた、これまでの 応用ですが、くわしくは、過去の記事たちを ご覧ください。
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逆に、私は、外向Nの E2 (E=エニアグラムのタイプの意味) に、すべての人を 当てはめて 思い込んでいる可能性が あります。
よく取れば、このタイプに、変換して、他者を理解できれば、人間関係が広がる と、言えます。
この視点は重要で、あなたのタイプで、有利な、この理解・状況を、つくるべきです。
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以上も受けて、思うところは…。
まず、可能性の感じない、他人、つまり、トラブルにしかならない、自己中心的な者との かかわりは、拒否するべきです。
そこから、そうではない関係の中で、相手が、自分のことを 理解しているかもしれない シグナル・文脈へ、可能性として、開き続けていく、という、実践が、直観できるのです。
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わたしは 今まで、かなり 興味を持てる 関係にしか、反応していませんでしたが、それで、近接的な人間関係は、深くは、ゼロでした。
影響力というなら、クリシュナムルティが言う、煙のない炎、クリアに疑うこと、が、私にとって、商業的な話題に関係しない アートを提示することで、それを 深くできることが、理解の輪でつながる、感情体、私の 魅力になり続けたのだと、思います。
一般に 知られないことと、深くなり続けていくこと。
ただ、最近は、慣習にも 強いタイプを、包摂しつつ あるので、別のことにも 気づき、このコーナーを 切り出してます。
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私が、ポピュラーな歌詞を メロディで 共感したとします。
それが、理解で、私の視点ですが、感情体としての、つながりが、発生する、重要な、コンテキストなのでしょう。
一般、日常には、これは、あるのか、深くは、何に該当するのか? ということです。
より、はっきりは、戦争をしない! ということです。
私が、兵士に駆り出されることで、こうして、インスピレーションや、アートを、生み出せなくなることは、明白で、私の文脈では、膨大な、感情体の、損失です。
私の 深いつながりは、近接的には、皆無ですが、重要です。
戦争しない未来を、先陣して予知を発揮している人々が、長いスパンで見て、つくってくれたと、思います。
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別視点で、ワンピースのサターン聖のような権力者と ニカの関係、のように、そもそも 恐れの対象(ニカ)を、他者の視点として取ることは不可能 なはずなので、権力者は、恐れの対象 (≒正しい意図としての予知) とは、主体的に関係できず、それを、存在しないかのような、投影としての、物のように、見るはずです。
つまり、未来予知の悪用は、一次的な意味では、簡単には、起こりえないけど、原爆を誰でも落とせる視点のように、条件が整えば、横から取られる、というようには、言えます。
ワノ国の、オロチと、そこは、同じでしょう。
恐れでも、先のことを信じるに十分なことも、それを壊す動機も、あるわけです。
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近況でいいなら、音楽シーンでは、ジャズは 商業と関わりやすい、タイプ1・タイプ7に強い、演奏ジャンルと 言えます。
見方を変えると、外向Nの E2で、シンクロすることで、私は、音楽から、こういったコーナーで紡ぐ、論理的な洞察を、受けるのかもしれません。
私が、耳をふさぐのは、ただ、咳払いや 内容の伴う噂話を スルーする というだけでなく、いろいろな、内的な感情・ひらめきを、感覚的な歪みに 妨害されることなく、感じ続けていたいから、です。
しかし、私は、内向NTで動くので、Fを 基本的には 駆動させずに、タイプ4で、直観します。
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早急に、書きなぐったように なりましたが、結論の前に、少しだけ、先に進めます。
私が、フィーリングタイプの、タイプ3に、強くなっているとする場合、タイプ3は、3の倍数、三角形の、慣習に強いタイプらしく、フィーリング・センターが、内外向します。
つまり、理論上、三角形のタイプだけで、すべての人間関係を見れるなら、誰もが、受送信できる という視点が、導かれます。
アン・シャーリー のように、外向F の、E4 なら、フィーリング・センター (スキル) は、内向しながら、ユングの感情のオーラ・タイプ (性質) は、外向するわけです。
この場合は、補助機能 (感覚や直観) が、フィーリング・センターで、内向・感受しているはずで、全体的には、感情のオーラが最も強く、フィーリング・センターで、内向させて、バランスしている、ということです。
ユングのタイプ論的なオーラが 外向すると、行動力が得られ、エニアグラムのセンターが内向すると、感受するタイプになります。
エニアグラムが 外向する、ユング的には 内向タイプ なら、エニアグラムのセンターで 相手に 感受してもらいながら、内的な世界を深めていく というスタイルに、なるでしょう。
よって、複数のタイプの 掛け合わせを 持っているのが、自然 です。
それが、三角形のタイプに、集約していく、と、見れます。
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ユングのタイプ論と、エニアグラムで、内外向の性質が、個人の内部で、異なる場合、特に、三角形のタイプは、ユングのタイプ論では 両方ですから、非常に、ユニークな、タイプダイナミクスが生まれると、考えられます。
そして、ポスト形而上学では、所与の〝人〟は居ないので、全てはまず、意味を持てるような、文脈の、解釈として、これが人だ、と、感じたうえで、なんらかの、コミュニケーションが、発生している と するわけです。
よって、自己中心的な人との 関わり方は、関われないことが前提、という意味で、どういう風に、人と関わっていけばいいのかの、ひとつの、分かりやすいヒント になります。
グリーンまでの第1層は、レッド・アンバーなどの プレ合理的な人々と、黙るくらいしか、うまくかかわる方法がないと 言いそうですが、めんどうな契約が 多くなってくる この社会の仕組みで、正しく関わらない方向が 救いであることを、知っておくことは、もはや、応用です。
なにも、恥ずかしいことはないので、理性を伴った愛の音楽でも、没入して、モチベーションを上げて、新たな関係に可能性を開いておく方が、無限に楽しい、ということです。
そして、プレ合理的な人々との、大人の年齢との かかわり方は、話にならないと 分かり切っているので、複雑な社会の中で、あえて、最重要の悩みの種にする必要も、ないのです。
これらを、うまく使って、どうすれば、リベラル憲法が歌う、平等が、本当の意味で、次世代継承しつつ、バランスできるのか、達成と 持続 できるのか と、考える意味 は、あります。
所与の人が いない以上、平等は あり得ないですが、それが、ティール的に、平等ということで、アンバーのとらえる、分相応の宗教、を 卒業すること、と、同義です。
そこも、この社会で、話を ややこしくしないために、自分のタイプに合ったモチベーションを、日々、ダイエットのように、実践し続けていくこと。 それが、やったもん勝ちの、カギだと思います。
そのために必要なのは、正しい知恵、考え方、その根拠となる、英知の情報 です。
わたしも、こうして、書くことが 無意味だとは 思えないので、今は、立場に深刻にならず、これを 使命として、定立しておきます。
では。
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ラベル:AQAL