2025年06月12日

ポスト形而上学と タイプと 人間関係の モチベーション



所与の〝人〟は、いないのです。

人間関係において、相手を理解するには、社会・文化的な〝話題性〟が、必要です。

シナリオ、関係のモード、と 言っても、いいでしょう。

私のブログが、炎上しないのは、話題にする意味が、ないからです。

意味を持てない、ということですね。




意思疎通が、人間関係にとって、必須ということです。

レッドには、レッドの、コミュニオンが、あるということです。

これは、タイプにも、言えます。


静かにしてほしい人が、いるとしましょう。

その人が、自己中心的な人で、かつ、近隣で 業務中の 立場 だったら。

自己中心的な者には、本人にとって ある意味 脅威のある出来事のみが 自分に関係するので、それ以外の状況、要素には、無頓着、無理解を、意味します。

それが、私たちには、ポスト形而上学、としての、AQALの要素に、意識的になり、他者の立場になることを考慮する一例、として、利いてくるわけですが…。




では、例の立場の者に、静かにしてほしい場合、どうすれば、いいのでしょうか?

おまわりさんでは、アドバイスが、関の山でしょう。

トラブルにならないように、かつ、そのアクションを起こす意味を、読み切って、しかし、ある程度の対応の素早さも、包摂しつつ…。


前置き長いですけど、それだけ、人は、他者の立場に 立ちがたく、自分の感覚で、生きているわけです。


社会動物として。

いろいろな、レベルで。




つまり、例の立場の者は、静かに言っても、聞きません。

それならば、伝えない方がよい、しかし、距離が近い。


このとき、相手は、何に、そもそも、反応し、私の何を、見ているのでしょうか?

それが、トラブルの原点になります。


正しく分かれば、言い方のヒントになります。




要は、この立場の人は、言われるだけで、業務を妨害されたと感じるので、大きな組織の一員ないし末端なら、特に 歯止めが 利かないわけですが、まず、自分の業務を 妨害するな! と、守りに入るでしょう。

なので、個人の 自己中心的な 近隣住民に、要望を 言うときも 同じですが、言っている立場の者 (この例では私) の すべては、無理解で スルー、存在すら しておらず、ただ、眼前の事象が 妨げられている、私でなくとも 同じことを要望する程度の 共通の視点 (静かにしてという要望) で 言っている、というところに、集約するので、その先は、相手が、普遍的に、事実、不利益を 受けない限り、やめない、となります。


これは、直ちに、今 流行りの、クルマの信号無視、その他 危険運転全般に、大きく、関係する、カテゴリーとなります。

こういった視点・シチュエーションでの、おまわりさんの ひとつの 意見は、たぶん、社会は不平等であることを前提に見て、深刻なトラブルにならなくてよかった、というところです。

つまり、言っても無意味なのに 言うしかないような状況になるときに、どうすればいいのだろうか、と、AQALを使って、考えさせられる、ティール組織的な 視点のお話を 今、私は、行っていることに、なるのでしょう。




自己中心的な人は、他者を、ほぼ、全く理解しないので、他者の持ち物なども同様で、とにかく、自分のすべてを、妨げられないようにすること以外、興味がないです。


繰り返し、人は、全般的に、他者の立場に、立ちがたい生き物ですが、成長できる意味では、学ばなければならない責任も含有し、私が今、書いているのも、その洞察においてです。

不安の中に、手を突っ込んでみるのも、必要です。


私が 自転車に乗る場合、他者の立場に立てば立つほど、追い越しが発生しにくい 裏道寄りの車道を 走行すべきだと気付きますが、ルールを無視・軽視する 危険運転のクルマを、何も言わずに放置し続けるのも、リベラルの危機と 感じます。

このように、業務関連など、なんらかの、許可・免許を 持っている者ほど、その乱用が目立つ時代に なったようで、ウイルス禍から 他者の立場に立つ コミュニケーションが 阻害される方向に動いて 今に至った、資本主義のテリトリアリズムが 明らかに分かるように はびこっている、などの状況判断から、そう 言えると 思います。




とすると、直接 言うことで、トラブルになる、と、読めるので、カッコ悪くとも、言わないを貫くのが、大人、というわけです。


これでは、奴隷制を壊すのは、不可能でしょう。

子どもの権利条約、動物愛護、クリーンエネルギー、プライバシーの権利、著作権・・・ いろいろな変化・進歩が、グリーンのレベルから、経てきたというのに。

なので、結局は、相手がスルーせざるを得ないように、独り言を叫んで、伝える、という風に、落ち着くのかもしれません。




ここで、せきばらい とは、何らかの怯えの投影で行うけど その トラブルは おことわり という、直喩ではなく暗喩で ありそうだなと、気付きます。

わたしが、日常で、最も、最近、嫌う、感覚的な、社会現象なのですけど。




自己中心的な人間は、人というものを、判断できないので、相手の性格を見ることは、おそらく、まず、ありません。

切り裂きジャックに、共通の日本語を しゃべられても、切り裂かれることに 私たちは同意できないので、私は逃げるので、その程度の地盤で、分かりあえる文脈は、皆無です。

なので、話し合えるか、という問題ではなく、言葉を交わしても、自分のことを理解してくれそうにないと、判断できるとき、ほぼ、関係できないと、悟る必要がある、ということです。




私は お店で、つまり 顧客として、日常の外出先や、旅先でふるまうわけですが、この場合、私は、性格を持つ人ではなく、ジャガイモや、アンドロイドで、いいわけです。

あくまで、業務上の動き・決済などが発生する ファクター、ということになります。

店と顧客という関係では、道徳のレベルや、人間性の理解は、あまり関係なく、それでも、社会の中で人との接点を 持っているとは 言われる、あいまいなゾーンが大きい、領域です。




基本 これら、自己中心的な者とのかかわり、店と顧客との関係、などは、事実として、自分のことを理解してもらう必要もないし、理解もされない、というところで、全く、関係しない、使い捨ての方向に、定まっていきます。


微妙な論点ですが、本当に、人と分かち合っている 流れを引き寄せるなら、これらを理解し、可能性の薄い ルーティーンからは、離れるべきです。

特に、芸術家は、違和感を 感じることが、あるはずです。




そもそも、オリコンヒットチャートの役割は、アニメの番組表と同じく、話題作りに、必要だから、見るのです。

それ以外に、本来、大したメリットがなく、だから、私の歌や、書いたものは、大衆にスルーされます。


これも、咳払いは 恐怖と 無意識の アクティングアウト、トラブルを避けるために 何も 言わない 現代人、と、同じ視点で、説明できます。

自己中心的な者だけは、自分に指図するな、と、そういう、咳払い的 シャドーを、怯えを、何も言わないことも我慢できず、危険運転や 罵声としての言い返しで、あるいは、自分ができる範囲での嫌がらせで、衝動的に放散する、その違いは、ありますが…。

大人のだんまりの、稚拙なバージョン、です。


痛い思いをしたくない点で、一緒ですから。




なので そういう、話題作り以外は スルー、も、結局 バカを見ないために、防衛する、ということで、大して、他者を理解する意図は、持っていません。


そんな、現代で、恋愛、そして、それに準ずる、ファンや 追っかけも、あります。

多少は、他者の立場に立とうとする流れが 生まれますが、ぶっちゃけ 意外に そうなりません。


では、どこに、相手を深く思いやる、共感が成り立つ、文脈が、生まれるのでしょうか?

もし、その余地がなければ、人類は、平成で、終わり???










前置きが、長すぎました。

具体的な、雲行きから、入ってみようかな…と。





エニアグラムや ユングのタイプ論 からの 相性と 共感



私は、内向直観型の タイプ4 なので、Nを フィーリングで、取り入れるわけです。

なので、外向直観型の タイプ2 のことを、最も、理解できると、納得できます。

理論上の話ですが、最近、実体験として、成り立っている気がします。


タイプ2は、フィーリング・センターを、外側に放散します。

タイプ4は、フィーリング・センターを、内側に感応します。


タイプ4のコミュニオンは、タイプ2です。



私が 視点を 取ってきた、これまでの 応用ですが、くわしくは、過去の記事たちを ご覧ください。




逆に、私は、外向Nの E2 (E=エニアグラムのタイプの意味) に、すべての人を 当てはめて 思い込んでいる可能性が あります。

よく取れば、このタイプに、変換して、他者を理解できれば、人間関係が広がる と、言えます。


この視点は重要で、あなたのタイプで、有利な、この理解・状況を、つくるべきです。




以上も受けて、思うところは…。


まず、可能性の感じない、他人、つまり、トラブルにしかならない、自己中心的な者との かかわりは、拒否するべきです。

そこから、そうではない関係の中で、相手が、自分のことを 理解しているかもしれない シグナル・文脈へ、可能性として、開き続けていく、という、実践が、直観できるのです。




わたしは 今まで、かなり 興味を持てる 関係にしか、反応していませんでしたが、それで、近接的な人間関係は、深くは、ゼロでした。

影響力というなら、クリシュナムルティが言う、煙のない炎、クリアに疑うこと、が、私にとって、商業的な話題に関係しない アートを提示することで、それを 深くできることが、理解の輪でつながる、感情体、私の 魅力になり続けたのだと、思います。

一般に 知られないことと、深くなり続けていくこと。


ただ、最近は、慣習にも 強いタイプを、包摂しつつ あるので、別のことにも 気づき、このコーナーを 切り出してます。




私が、ポピュラーな歌詞を メロディで 共感したとします。

それが、理解で、私の視点ですが、感情体としての、つながりが、発生する、重要な、コンテキストなのでしょう。


一般、日常には、これは、あるのか、深くは、何に該当するのか? ということです。


より、はっきりは、戦争をしない! ということです。

私が、兵士に駆り出されることで、こうして、インスピレーションや、アートを、生み出せなくなることは、明白で、私の文脈では、膨大な、感情体の、損失です。

私の 深いつながりは、近接的には、皆無ですが、重要です。

戦争しない未来を、先陣して予知を発揮している人々が、長いスパンで見て、つくってくれたと、思います。




別視点で、ワンピースのサターン聖のような権力者と ニカの関係、のように、そもそも 恐れの対象(ニカ)を、他者の視点として取ることは不可能 なはずなので、権力者は、恐れの対象 (≒正しい意図としての予知) とは、主体的に関係できず、それを、存在しないかのような、投影としての、物のように、見るはずです。

つまり、未来予知の悪用は、一次的な意味では、簡単には、起こりえないけど、原爆を誰でも落とせる視点のように、条件が整えば、横から取られる、というようには、言えます。

ワノ国の、オロチと、そこは、同じでしょう。

恐れでも、先のことを信じるに十分なことも、それを壊す動機も、あるわけです。




近況でいいなら、音楽シーンでは、ジャズは 商業と関わりやすい、タイプ1・タイプ7に強い、演奏ジャンルと 言えます。

見方を変えると、外向Nの E2で、シンクロすることで、私は、音楽から、こういったコーナーで紡ぐ、論理的な洞察を、受けるのかもしれません。

私が、耳をふさぐのは、ただ、咳払いや 内容の伴う噂話を スルーする というだけでなく、いろいろな、内的な感情・ひらめきを、感覚的な歪みに 妨害されることなく、感じ続けていたいから、です。


しかし、私は、内向NTで動くので、Fを 基本的には 駆動させずに、タイプ4で、直観します。





早急に、書きなぐったように なりましたが、結論の前に、少しだけ、先に進めます。


私が、フィーリングタイプの、タイプ3に、強くなっているとする場合、タイプ3は、3の倍数、三角形の、慣習に強いタイプらしく、フィーリング・センターが、内外向します。

つまり、理論上、三角形のタイプだけで、すべての人間関係を見れるなら、誰もが、受送信できる という視点が、導かれます。


アン・シャーリー のように、外向F の、E4 なら、フィーリング・センター (スキル) は、内向しながら、ユングの感情のオーラ・タイプ (性質) は、外向するわけです。

この場合は、補助機能 (感覚や直観) が、フィーリング・センターで、内向・感受しているはずで、全体的には、感情のオーラが最も強く、フィーリング・センターで、内向させて、バランスしている、ということです。

ユングのタイプ論的なオーラが 外向すると、行動力が得られ、エニアグラムのセンターが内向すると、感受するタイプになります。

エニアグラムが 外向する、ユング的には 内向タイプ なら、エニアグラムのセンターで 相手に 感受してもらいながら、内的な世界を深めていく というスタイルに、なるでしょう。

よって、複数のタイプの 掛け合わせを 持っているのが、自然 です。

それが、三角形のタイプに、集約していく、と、見れます。




ユングのタイプ論と、エニアグラムで、内外向の性質が、個人の内部で、異なる場合、特に、三角形のタイプは、ユングのタイプ論では 両方ですから、非常に、ユニークな、タイプダイナミクスが生まれると、考えられます。

そして、ポスト形而上学では、所与の〝人〟は居ないので、全てはまず、意味を持てるような、文脈の、解釈として、これが人だ、と、感じたうえで、なんらかの、コミュニケーションが、発生している と するわけです。


よって、自己中心的な人との 関わり方は、関われないことが前提、という意味で、どういう風に、人と関わっていけばいいのかの、ひとつの、分かりやすいヒント になります。

グリーンまでの第1層は、レッド・アンバーなどの プレ合理的な人々と、黙るくらいしか、うまくかかわる方法がないと 言いそうですが、めんどうな契約が 多くなってくる この社会の仕組みで、正しく関わらない方向が 救いであることを、知っておくことは、もはや、応用です。

なにも、恥ずかしいことはないので、理性を伴った愛の音楽でも、没入して、モチベーションを上げて、新たな関係に可能性を開いておく方が、無限に楽しい、ということです。

そして、プレ合理的な人々との、大人の年齢との かかわり方は、話にならないと 分かり切っているので、複雑な社会の中で、あえて、最重要の悩みの種にする必要も、ないのです。


これらを、うまく使って、どうすれば、リベラル憲法が歌う、平等が、本当の意味で、次世代継承しつつ、バランスできるのか、達成と 持続 できるのか と、考える意味 は、あります。

所与の人が いない以上、平等は あり得ないですが、それが、ティール的に、平等ということで、アンバーのとらえる、分相応の宗教、を 卒業すること、と、同義です。

そこも、この社会で、話を ややこしくしないために、自分のタイプに合ったモチベーションを、日々、ダイエットのように、実践し続けていくこと。 それが、やったもん勝ちの、カギだと思います。

そのために必要なのは、正しい知恵、考え方、その根拠となる、英知の情報 です。


わたしも、こうして、書くことが 無意味だとは 思えないので、今は、立場に深刻にならず、これを 使命として、定立しておきます


では。



ラベル:AQAL
posted by インテグラルとど at 23:04| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする