2023年09月14日

時空間の発達ライン (ハイパー変数『Z』) の〝立体図形 (レフェラン)〟



数年ぶりに、図書館へ行きました。

フランクルの〝意味への意志〟を、ざっとですが、読みました。

ティール革命、ポスト形而上学、あたりとも、関係すると思います。


フランクルと、同期だと思う、心理学系の哲学者は、E・フロム、と、ロロ・メイ、だと思います。

こういった本を読むときは、インテグラルのAQALを頭に入れておくと、流し読みでも、なんとなく、意味が取れます。


フランクルの この視点の、行きつく先は、〝みらいのことば〟だと思います。

本人は、ダビスタ99が制作される頃まで、この世界に実存していましたから、〝進化の構造〟を 読んでいたかもしれませんね!


みらいのことばの本来のレフェラン、立体図形 (ハイパー変数、JAZZにもWで包まれている 『Z』)、その投影された〝平面図形 (フラントランドの魔術的視点)〟しか見ない のが、現代の権力、抗争の腐敗と言えて、それが、ウイルス禍にも、なっていくと、私は思います。

交通戦争は、クルマが、ルールを、歩行者・自転車に対して、現状、守れないからと言って、成り立っていることを、良しとしていると、世に意味が無くなって、研究界でも、そんなもんでいいか、ということに、なりうるわけです。

つまり、なにも、かんがえていない。


アウシュビッツは、そもそも、ドイツ人が引き起こしたのではなく、先の第一次世界大戦と、そのあらゆる原因が、おそらくは、フラントランドが、大混乱として、それを生み出したと言えます。

今の時代の、ウイルス禍を体験していれば、この混乱は、理解できるでしょう。


仕事をやらないのが不道徳だと決めつける視点は、クルマは群れれば何をしてもいい、というのと、同じことだと思います。

音楽家は、芸術家は、これを知っておくべきです。


本でも情報でも、普遍性、内面、多様性の中の統一性、モラルの段階、こういった視点を、強調しているものが、ほとんどありません。

だから、そこを真剣に探求しようとしている人々が、一定数、いるわけですよね。


普通に考えれば、どの時代でも、これの〝その社会に適切な段階〟として、内面が、強調されないわけが、ないのですが・・・。

現代は、異常と言わざるを得ません。


みらいのことば、つまり 時空間のラインにおける〝内面としてのセンス〟も、思いやりに基づくものです。

モラルのラインを無視して、語ることができないと言えましょう。


都市部の、クルマの通勤社会が、時代に、冷酷さを、当たり前に良しとするのは、世に何の意味も、持てないからです。

もし、意味を持っていたら、内面性、普遍性に、開くでしょう。


現代の技術は、意味を喪失した現代人が、持て余しており、危険です。

ウイルス禍の言いたいことは、ほぼ、それです。


その意味で、フランクルは、ウイルス禍 (ラヴォスでも ノストラダムスの大予言の視点でもいい) を、言い当てていました。

あらかじめ、予知で、このことが分かっている程度では、どの高度と象限から行っているのか不明なため、フラットランドの魔術的な平面図形の見地からしか、すなわち、大混乱してしか、これをとらえることが、できず、思いあがれば、社会を大きく、傷つけます。


未来とは、現在、今の中にある、記憶であり、憶測、視点です。

過去も、同様で、精神分析と シャドーモジュールで、よく扱われていきます。


予知と言っても、予感と言っても、ほとんどは、現在の抱える問題が、尾を引いて、視点化されます。

現代に、仕事に、意味がなければ、上記の超感覚的予感も、意味がありません。


未来は、この意味で、現在より優れているわけではありません。


むしろ、この、現在が、積み重なっていくことで、過去のしがらみや、未来へのたわごと が、意味への意志として、統合されていくのですよ。


未来を見るとして、ほとんどは、現時点での自分の世界観・埋め込まれた文化圏内ですから、それは、過去、伝統の重荷からしか、行動していない、と言えます。

さらに、未来を、外形として、外側の象限として捉えると、意味は〝解釈〟できません。


ジャズのライブで、ラッパ楽器を鳴らしまくるシーンを、考えてみてください。

それを、どの視点、高度と象限で、とらえるか、です。


結局は、真剣に、現状を理解して、何とかしようとした者に、ヒント、そして、答えが、与えられていくと言えます。

フランクルは、これを、〝神は いる〟として、言いました。


リアリティとは、未来とは、あらかじめ 与えられているものでは ないのです!
posted by インテグラルとど at 06:18| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする