2021年05月06日

〝みらいのことば〟と〝ポケモンショック〟 ~ラフテルとクイーン~

もし、未来予知が存在するとしたら、あらゆる厄災は、未然に防げるはずです。

例えば、子どもが、安全に自転車に乗って旅ができる、ポケモンのアニメ[ここでは初代や2期が基点]のような世界では、大人たちは、予知によって、健全な協力関係を築くことができるでしょう。

また、おそらく、この視点は、最近大規模に生まれつつある〝みらいのことば〟の解釈に関係する視点のために、また、別の理由から、誰も手を付けていないと思われる仕事だと思います。

とは言え、気になっている人は多いと思いますので、書けるところまでは、書きましょう。


ヤドキングは、しゃべることがあり得ます。

このように、ポケモンは、心圏にアクセス可能な、いわば〝人間〟的な存在であり、また、振興芸術の出力地点である、3人称のソフトウェアに基点を置いた文化的システムである、と言うこともできました。

こころのかのうせい、と、近未来システム、の2つを、メインのテーマとしてアニメ化しているフシがあります。


近況から入るとしますと・・・。

ウイルスショックに関しては、該当の研究対象が、某国・某所にて、保管されていたようです。

起こることのすべてのシステムは、あらかじめ、どこかで、研究・プログラムされており、まさに、なつかしき初代の、ミュウツーの逆襲 (――20年以上前の映画をさしています――) の通り、人間が世界の均衡(ないし時間)を操作しようとして起こった、と、解せます。

映像技術システムもまた、詳しい者たちが、研究を重ねていたと思われます。


もし、Dの意志 (仮に〝みかん〟) に敵がいて、〝みらいのことば〟をジャマしようとしたら、一番有効なのは、その活動を 終わらせるように仕向ける ことでしょう。

なぜならば、その〝Dの意志〟と関係の深い〝ジュエルペット てぃんくる☆〟は、(当時の)〝あにてれ〟で リンクされているように、ポケモンアニメ初代(2期まで)を 大きな基点(土台)としている からです。

つまり、初代や2期までの、無印のポケモンアニメを 終了させれば、その後の、ジュエルペットシリーズはおろか、あらゆるキャラクターものの アニメ化が、疎外されかねなかった ということです。

ゴースは、一期一会なのですω


ここで、重要な点は、〝みらいのことば〟の悪用は、遠隔でこそ可能、という点です。

〝光と闇は、決して交わることはない〟賢者の主張の通りです。


現代社会の大混乱の中で、遂行矛盾ではない存在を 子どもに示す必要 があり、それを手探りで始めるには、〝未来予知〟が不可欠だったのです。

もちろん、世に、それは、知られていません。

なぜならば、仕事にも、世界にも、運命にも、意味などないと、標準的・一般的には、言われていたからです。

予知があれば、これらは、いとも簡単に 覆されてしまうでしょう。

また、厄介な問題も、多数 生まれてきます。

それらを 乗り越えれば、あらゆる戦争を 終わらせることも、可能ですが。


遂行矛盾は、真実とは関係の無いところで、強い活力、依存(イズム)を持っており、全てを壊すことで〝快感〟を伴うような営みとして、知られつつあります。

子どもを取ると、どうなるでしょう?

人間も、ポケモンも、命です。 ロボットも、関連技術としては、そうでしょう。

主に、空気が、命の源であり、子どもを取り除くと、世界崩壊という厄災が、起きるのです。

(勇気も同時に失われるわけです。 光は闇と かかわりを持たないから。)


ここで言っておきますが、〝みらいのことば〟とは、ことば (某、笑い話) ではなく、〝ダイアローグ的な 直接体験〟です。

よって、裏口入学で、言葉だけを悪用して紡ぐと、それだけで、たった その程度のことで、とても重い罪に なり得ます。

そのスイッチを押すことで、世界が崩壊することを知っていて、たった一動作 行う、その責任が。


また、第2層で、〝権力・権威〟のことを〝責任〟と呼びます

これまでの権力(と呼ばれうる行為)は、みな、《虚偽・虚構・遂行矛盾・イミテーション》であると、言えます。


話は戻って、もし、映像技術の悪用として、ことが起こってしまう場合、メインの芸術制作者たち(ここでは無印のポケモンアニメのホロン)と、関係がない、遂行矛盾の死角から、逆の運命を ねじ込む必要があるのです。

てぃんくる☆を見て分かる通り、一流の制作アーティストが一丸となっている2人称の振興芸術(優れたアニメ)に関しては、そこに、悪用が入り込む余地は、ほぼありません

遠隔で、やさしいこころを〝騙し〟て、ニュースになって世間を騒がせる歴史を生み出し さえすれば、もくろみ成功だと、某陣営は考えるのです。


当てつけとも言える 《パカパカ》 というネームで誰かが呼んでいたそれは、私が子ども時代に見ても何ともありませんでしたが、確かに、色々とらえていくと、運命めいたものが ある気もします。

《それ》 は、結局、当時の様々なアニメで、使われていたものであり、今でも、時折使われているようで、結局は、《ごくありふれた し好的表現方法》 にすぎなかったのです。

つまり、振興芸術を差別している陣営は、映像技術に還元して、〝商業〟として、成り立たせようと、《基本的には隠れて》圧力をかけていたのではないか と、私たちには、察し得るのです。

現在のポケモンアニメは、映像技術に内容が支配されているように感じて 見ていませんが (※私見) 、そういうことでしょう。


芸術家が差別されていることは、もはや明白で、もし、売れ線至上主義に乗せるなら、他の  非芸術的な 《儲けられるジャンル》 と、どちらが 《売上を出せるか》 そのデータが 《みもふたもないもの》 だからです。

ウイルスにおける自粛において、2020年春にアニメが 一時ストップした時期がありましたが、国・政府は、《芸術家に対する助成金》 に、《収入のある人》 しか、認めていなかったのです。

わたしは、国の見方では、芸術家ではありません。

つまり、売れ線至上主義、企業の言いなりにならなければ、国は、(職業)芸術家とは認めない、と、明言しているのです。

それは、わたしにとって、かなりひどい宣言です。

職業選択の自由という、憲法の、否定でしょう。

こんなことが まかり通るのは、国もまた、大混乱した 《遂行矛盾》 の上に、ぐらぐらしながら、成り立っているからです。

そして、映像技術の中で仕掛けられた 《それ》 が、アニメに押し付けられた 《支配》 とすれば、国・政府もまた、加担していることになりますね。


それもふまえて、〝未来予知〟があれば、悪用もあることになり、絶対に気付かれるはずの無かった そういったもくろみが、明るみになることが 有り得ます。

とすると、遂行矛盾の権力を持った そういった陣営は、それを、20年越えのスパンで 《隠そうと》 するでしょう。

どうするかと言いますと、未来を見ながら、どうすれば、隠蔽できるか、を、ひたすら、続けていくのです。

現代の広告主義の企みにおいても、このことを、第3層では 《生活世界の植民地化》 と呼びたいわけです。

そして、隠蔽の果てに、《遂行矛盾のための担保》 が必要です。 それは、部分的に正直に言うことです。 それを元手にして、全て嘘に変える わけです。

(これは、詐欺師の、責任逃れの方法です。 芸術家として主張しておきながら、それを放棄し、その結果、さらに広い遂行矛盾に対して、実は 責任を 背負わなければ ならなくなっていた、という…)

それが、遂行矛盾と言われる ゆえんです。

この結果、敵として滅ぼそうとしたものに、表面的に加担する、という、奇怪な結果が生まれております。

それは、社会と文化を混乱させるだけでなく、結果的に、生活世界の侵略、遂行矛盾を暴露 しているのです。


こういった、企みが、どのように起こってきたのかは、まだ、私には分かりませんが、どんどん、地下へと、入っていくような気がします。

アニメ制作陣営として 名前を挙げられている アーティスト・キャスト を言うならば、よっぽど ひどいことをしていない限り、悪意を持っていない限り、責められるべきではないでしょう。 (私は、ほぼ、名前を見ませんが。)

ポケモン関連では、そこのところは、(自己責任で) お願いしたいです。


話は、少し変わりますが、「伝統芸能」の世界を源流に、現代活躍している有名な人々が、「芸能人」だと思われます。

その意味で、振興芸術の、ミュージシャンやアニメーターや(ゲームの)ソフトクリエーターは、この流れに、反対している、という視点も得られます。

「芸能人」とは、TV局によって 《つくられた人》 とも言えます。

ある意味で、社会の群衆が、《逆らえない者》 です。

スピリチュアリティが抑圧されて数百年、代わりに、源流の芸能を 現代に牛耳るシステムこそが、テレビ番組です。

アニメも、そこに当てはめられて、今回のような議論を せざるを得ないところに、来たと言えます。

無印のポケモンアニメも、ジュエルペットてぃんくる☆も、確かに、「TVアニメ」ですからね。

TV局全部に逆らえない「芸能人」は、芸術家では ありえないでしょう。

アーティスト精神とは、何か、時間を越えて意味のあるものを、見いだすために、権力を越えていく運動であると言えます。

そうでなければ、芸術家に ならない(目指さない)でしょう。

今後、(いうなれば 芸術なのか 見解が分かれる分野かつ TV局が 選んだアニメと関わらせようとするので 出しますが―――) お笑い界が、「芸能人」として保守的になるのか、「一流のギャグアニメ」と強い親和性を持つようになるのか、見ものです。 (振興芸術は、色々な芸術的分野の中に、存在しているはずです。)


ドガースも、本来はピュアです。

ポケモンは、お金を稼ぎません。

ポケモンと人間は、〝トモダチ〟でしょう。

なら、人間もまた、ポケモンのように、あらねばならないのではないでしょうか?

ポケモンが、人間のように生きているという意味で。


ポケモンを〝平和な世界〟に置き換えると、かなり、真実味が増します

そうでないポケモンは、《嘘》 でしょう。


今回のコーナーは、本来、私が、書くつもりは なかったのですが、子どもの頃の私が思っていたこと も、たぶん入っていますので、提示してもいいでしょう。


もし、予知が使える陣営が、無印のポケモンアニメに 存在していたのならば、彼らは、ポケモンショックを、防ぐことができた と思われます。

ということは、皆、騙された、ということでしょうか?

脅されて、子どもを人質に取られていたりとか。

それも、マネマネの実の能力だったとか。。


真実を未来に託して、それを〝越えていく〟誰かが現れるまで、待っていたのだと。


そして、その全貌は、わたしにも、わかりません。


仮に、これらの出来事が、偶然だったとしても、多くの人々は〝偶然なんてないんだよ〟と言います。

それすらも包括した上での〝偶然〟なので、それは、行き当たりばったりとは真逆の、すべてが一致した〝偶然〟です。


仮に、予知で、連続殺人犯の名前や居場所が分かっても、言えないでしょう。 書けないでしょう。

では、どうしますか???


未来に、託すしか、ないのでしょうか?


夢とは、子供じみた (子どもと無関係の稚拙な大人の) ものではなく、歪んだものでもなく、時間を越えた何かです。

それはまだ、ほとんど、私たちに開示されてこなかった しんぴ です。


もうひとつ、私の見解を述べておきますと、ポケモンアニメは、あくまで、無印が基点であり、互換性を失わなかった4期までが、初代の視聴者目線では、正当なシリーズでしょう。 (延長で考えても。)

つまり、以前の世代から受け継いだアニメが、初代のポケモンへと移り、それが、ジュエルペットを含む 次世代のアニメへと継承されていく、無印のポケモンは、それを見られる作品 なのです。

よって、私の立場では、アニメのコアな部分では、昔のポケモンアニメが偉大であるがゆえに、そう、偉大であるがゆえに、最近のタイトルは、抜け殻のようなものだと 言ってよいのかと 思ったり思わなかったり。

(アニメから離れているつもりなので、先ほども言ったように、単純に、最近のポケモンは見ておりません。)


ポケモンのゲームソフトの方は、ドラクエと対話しつつも、アニメ化まで計算に入れていた、ということでしょうか?

しかし、やはり、ポップライブ(音楽)的な入り口で見るならば、2人称のアニメが一番、思想としては、分かりやすい (POPなリンキング的な出力となる) ので、そこからが、得られるものが大きいと思います。


ここまで来ると、ポリゴンとは、ドラクエも含んだ、健全的な振興芸術のソフトウェア全般を差し得る指示対象であり、芸術の3人称のシステムこそ、真に生活世界の侵略のもくろみの対象であった、とも、見ることができるのです。

ダイ君に、聞いてみる・・・?


また、〝みらいのことば〟その流れは、転んでも ただでは起きない ので、確かに、すべてが一致した現在を語っている気もしますね。


共時性から見る、私の分析は、ひとまず、ここまでです。

が、たぶん、当たらずも 遠からず だと思います。


灯台下暗し、とか、言いますし。


いや、むしろ、アニメや芸術は、これから、今という瞬間において、まばゆき あかり であってほしいと思います。

それを支えると解せるアニメ もまた、共時性を伴いながら、生まれてくるのです。


~ 子どもの灯の明日へ ~ [また その〝覚え描き〟]

posted by インテグラルとど at 11:26| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする