著作とインターネットの関連で、まとめておくには いい時期だと思いました。
左の題名を副題にして 別コーナーで論じてみたいですよね。 (今は ~〝右〟~ が主題です。)
各コーナー、ちょっと長めですよん(・∀・)ω
✧全5回✧
アーティストは、コミュニケーションを〝アートでします〟!!
この常識は、アーティストにしか わからないのかもしれません。
政治や行政などのグループにて〝社会のルールを決める〟とき、〝芸術家(アートでコミュニケーションする者)の代表者〟が 居ないか極稀なようです。
いつもそうですが、ポストモダンは本来、こういった〝内面のプロフェッショナルからの交流のメリットを周辺化しない〟という運動で花開くはずなのです。
現時点での政治や行政(社会の規範を形式的に決める我々の民主的代表組織)は まだ〝本当の健全なポストモダンに開いていない〟と言えるのかもしれません。
これは、重大な〝障壁〟です。 (もったいない。(。-∀-))ccc
勘違いされているのかもしれませんが、病理的なポストモダニズム(すべて均等に正しい主張にすぎないというバージョン)で擁護してしまった場合に限り 芸術と称する〝大人の意味を成さないアダルト〟な〝し好物化〟が 蔓延するというだけで、そういったものは〝芸術(の本来の深い意図)とは関係がありません〟
正しいポストモダン運動のベクトル(功績)を明らかにしておかないと 芸術が政界や行政などに誤解されたまま 悲惨なことになるのでは―――、と気にしている 芸術界に関係ある人々は、数知れず居ます。
ルールの決め方が、ある種の暴力(言葉わるくも――)になることもあり得るわけですね。
インターネットに掲載される〝著作(記事・論文・アートなど)は 出版物と同じ(データではなく紙の本のようなもの)〟という捉え方が、子どもに分かりやすく説く意味でも 健全的に これからの時代の〝基本〟です。
そして、紙の著作の形式よりも〝コミュニケーションにて絶大なメリットがある〟のです。 (資金/自由度・加筆/アップデート・速度/リアルタイム)
人に見せたくない〝秘密裏に偏った〟画像の収集・蓄積などが〝人とのコミュニケーションの貴重な時間と精力を無くしている〟と気づいたら こう捉えているでしょう。
〝インターネットは普通の公共の場所と一緒〟です。
本当の芸術家は、コミュニケーション(人間関係)の中で、〝情報の取捨選択〟をしています。
今回のテーマは、インターネットという公共の場を〝普遍的に〟見ることによって、正しい芸術とアーティストが〝周辺化されず 芸術家とその著作同士で交流する自由なルールに最大に花開く〟根源的な〝人間性(としての芸術家と著作の交流のメリット)〟を〝強く主張する〟ヴィジョンを (さわりでも) 提示するコーナーです。
偏った隠蔽は一般企業にも見られ、一般的なインターネットに話を戻すと――(メリットの無い故意のパクリ騒動・行為と半端に主張するも嫉妬からの嫌がらせにしかなっていない主張全般 etc.―) は〝正しい芸術家のインターネット上の交流などより 反証・拒絶される〟ことで ルールがより明快となり〝信頼のできる人々同士でのアート著作の広義での引用のやりとり(無断転載とは見なされない最大限自由で高パフォーマンスな〝今〟ルール)が どんどんアップデート(差異化/包含)される〟ことを、強く主張(予見)します。
(この方向に開かないと、人類の羅針盤は 情報化をナチスに渡すようなことになるでしょう。)
(芸術家まがいの歪んだ主張含む) 真正の(健全で深い)芸術家に対しての偏った嫌がらせは、なぜか〝芸術家を周辺化したい〟という 〝公共の福祉に反する悪しき目論見〟によって 構成されています。 こういった、拝金主義的な裏を想像させるテーマも含みます。
(著作者の権利を守るリベラルな法律とは、――歪みが行き過ぎている場合の――彼らを まず縛るということです。)
ここまでのデリケートなテーマを、次世代の子どもたちに開くにあたって、〝過激すぎる描写のエンターテイメント的擁護は 真の芸術家と それを表す 未来の子どもたちに対して 嫌がらせ(邪魔)になる〟方向で見れるという 筆者の発見したヒントを 添えて、次回へ繋ぎます。
ラベル:統合的リンキング (著作権)