2019年03月24日
誰がトクをするの? ~著作にルール? 【引用(主張)=交流】~ ☆一般向け☆
芸術家は シンプルに明るい日々が良いので、今回の主張は〝アーティストと直接的な縁の無い〟人々向けとしています。 【アーティストも読めます。】
[今回のお話のポイント : 「解釈・判断には適切な深さが必要」 「嫌がらせのパクリ発言は拒絶・反証できる」 「法則・メタ要素は個人的な著作を越えている・先だって在る」 「引用は主張で コミュニケーションにとても重要な責任」 「深さを認めたい衝動の抑圧・責任の放棄が 著作的なルールと世界の 混乱となる」 「二人称の著作のルールと引用の交流を重要視し 個々人の断片化した利益に還元しないこと!」]
〝引用の主張〟とは〝主体(主観)が行う〟責任(権利・義務)です。
つまり、〝引用のネタ元(主体・主観)を理解できる(深さを持った)人〟が適切です。
〝引用の方法(慣行)〟は〝(主張が)多岐に渡り〟〝(主体・主観が) コミュニケーションとして なぜ行うのか〟を〝(解釈者が)主体・主観的に判断・理解〟する必要があります。 (その高度で〝あたりまえ〟です。)
仮に、そうでない者が〝これはパクリだ〟と言っても、〝そうやって引用(表記・描写・主張)しないと理解できないから〟〝この主張に興味のあるコミュニケーションを享受している主体の集まり(コミュニティ)は こういった関心・アート・運動・人間関係・明らかな領域での深さを持った人たちだから〟〝興味の持てる人が適切なバランス(批評や包含)によって理解できる主張の最大数を抱えているから 誰も理解したがらない単なる独裁的で歪んだ或いは稚拙な主張とも関係しないんだ〟〝だから 真に興味(責任)の持てる人たちだけが それを真剣に主張しているんだ〟〝証拠や実質も(一定の方法を内面などより 適切な者が一定期間以上試みることで)存在するんだ〟という反証・主張(深さを伴ったパラダイム)によって、実は〝(浅い パクリであるという主張を) 拒否〟できます。
それを知らない者が、その責任のすさまじさを〝知らなかった〟では きっと〝すまされない〟と思うのですが、表面上は逆に取られていて〝法律の方を(内面など無視して)独裁的に歪めて捉えた気になって、僅かでも似ているものがあれば 知らなかったでは済まされない〟とか〝パラダイム的に破滅的に崩壊〟している主張(にもならない主張)が 未だに横行して(いる気になって)います。
その深さの〝すさまじさ〟を知らないと〝社会や世界は大混乱〟し、〝表面上は それをした者が責任を取らなくてよいように 周りはふるまっているように見えるから(シャドー・投影)〟と感じても(主観)、〝真実(元の主張・パラダイム)が明らかになることで(主に内面的な)証拠が提示され 周りが納得し 責任を取らなくてよいなんてことはなかったんだ〟ということが どんどん明らかになってきます。 (それを皆が避ければ、やがて次の世界大戦 世界の崩壊が起こるからです。 外交政治にも影響を与えるからです。)
ゆえに、理由も反証できない〝虚無主義的・操り人形的・嫌がらせでナルシシズムを楽しむだけ的〟な〝これはパクリだ〟という根拠のない主張は、これからの時代〝絶対に おすすめしません〟!!
えらいことに、なりますよ。
なぜかと言いますと、〝どのような深さと規模でどのような経験(山)を越えてきた人々の主張であるか〟が見えないのに〝そんなものに価値は無い〟と断定しているからです。
価値は無いと思っても 明確に〝なぜそうなのかを長期的にでも〟〝主張〟できる熱意と実質が無いかぎり、〝知らなかったでは済まされない〟でしょう。
私が手厳しく言っている 一部のおかしな人たちとは 道路交通で例えるなら〝運転免許など機能していない(これは議論はできます)ので 自動車はルールを無視して好き勝手に運転しても良い(誰もそんなことは言っていない!)〟という主張を〝言えるから言っていいんだ〟として 自分も含め 騙している人たちのことです。 ( )内は 私のモラルに基づいた説明です。
〝パクリだという根拠のない(悪い方の)主張〟は〝上記の道路の例えで言えば 自動車のルール無視がまずいことだと私たち(社会)は既に反証している あたりまえの点を認識できない人々に騙してウソを植え付けている 本人が 嘘だからやってはいけないことだという自覚すらも崩壊している〟ということです。
これは・・・危ないでしょ?
芸術を〝売り物にしようとする〟制作の現場で〝過酷な労働〟が蔓延している実情は〝上記の無自覚的な虚無主義が 明らかな根拠と末路により いけないことである(知っていたら絶対にやらなかった)とすら認識されていないものが〟〝縛れていない〟からです。
おかしなルールで運転している自動車(売り物に特化した製品の領域 の崩壊)が多いと、自転車(売り物にするための条件がある著作各種)はまともに運転すらできません。 ―― ( ) は例えです。
これからの法律(基本的な規制)は アート関連においては〝ミラーサイトを取り締まる〟以上のところに行くべきではないのです。
解釈の深さと実質を伴う〝コミュニケーション〟によって〝引用(リンキング)は統制〟されているのであり、第三者(裁く権限を持っているとするもの)が〝間違った解釈をした〟結果〝公共の福祉に絶大な不利益を与えた (次の世界大戦が起きて地球が崩壊した)〟となると〝誰が責任を取るのですか?〟
もう一度言いますが、〝深い実質を伴った主張(とその綿密な引用のネットワーク)を(ルール上)間違って解釈する=パクリだと主張する〟は〝同じこと〟です。 法律が〝ニヒリズムに基づくと、公共の福祉を破壊します〟!
もう一度言いますが、つまり〝法律は公共の福祉を破壊します〟!??
はい??
ということです。
もっと穏やかに言いたいですが、これは、芸術家には言っていません。 その苦労を知らない人々に対して〝知らなかったでは済まされない〟部分を突いているのみです。
その気になれば、コミュニケーションをぶち壊すのは〝キャラ名やキャスト名をもじって作者や作品(主張)にあてつける〟だけで(短絡的には)事足りるのです。 法律でまずそこを縛るのは(現在当然そうなっていない点も含めて)無駄です。
なぜならこれは、引用の基礎〝コミュニケーション=私たちのアイデア・著作〟という あたりまえすぎる事実があるからです。
(私たちが受け入れられる〝私たちが適切に使えるキャラクターの(普遍的・形式的)名称〟などが コミュニケーションとして在るということです。)
著作的な〝法則〟〝深層構造としてのメタ要素〟と言えまして、〝自動車を健康に運転するための日常的なやりとり〟のようなものです。 こちらまで崩壊すると〝著作物はできません〟!!
つまり、本当に、法律がニヒリズムを支持したら〝否応なしに 破滅的な結果が出る・見て分かる・知っていたらこんな決まりにはしなかった〟ということです。
なので、〝一部のおかしな人以外は〟〝そもそも 著作に関するルールがおかしくなりようがない (そうでないと著作自体ができないから)〟となり、〝深いアーティストが著作自体の事実を主張する自由 (権利=責任・義務) が これまで同様 当たり前に存在することを 明らかにするのみ〟で成り立つことがわかります。
よって、騒いでいる人がいるなら、それは〝ニヒリズムに加担している〟ことにはなりませんか?
もちろん、公共の福祉にのっとった〝ルール〟を適切に〝話し合っている〟ならば、それに該当しませんよ。
確かに、現時点での〝企業内の隠蔽の発覚〟〝世界的な違和感だらけの政治近況〟など心配の〝著作に投影された〟形態を見ている、ブログなど誰でも書くものこそ〝著作〟の運動であるから、など、様々なことが言えますが、〝強い責任を引き受けた深い芸術家の引用の世界〟を〝殆どの一般の人々〟は〝知りえない〟点で、〝誰にでも言える程度のこと(間違った解釈) では 少なくともありません〟!
しかし、法律を具体的に運用しようとなれば、〝明らかに既におかしい部分=深い芸術家が引用の(明らかに必須な対話・リンキングの)責任を負う(自らの意志で繋がる)法則的構造をなかったことにする主張〟は〝最初から相手にすることすらできない〟のです。
よってこれは、ニヒリストが流行らせただけの〝混乱〟と言えます。
深い芸術家は まじめで仕事熱心であり、私のように〝じっくり〟論じる時間が無いだけです。
行政さん。自転車専用通行帯の路上駐停車(特に交差点直後と直前も)・車両通行帯での自動車の自転車への追い越し方。ちゃんと 正しい安全なルールの進展はありますか?――著作関連よりも 誰でも見て分かるのはまずこちらからですよ。これができれば、芸術家も よりイキイキとできるのです。(著作関連の法則・ルールを 明快に説明できるから・社会がそれを求めるから。)
記号論では 見て判別できるデータは〝シニフィアン〟です。 これだけで〝内面=著作・意図・感情や思想〟は〝網羅されますか?〟
明らかに〝こころの中の気持ち〟は〝データ=シニフィアン〟だけでは〝100%は理解不可能〟です。
データ(シニフィアン)を 質・量ともに〝膨大にすれば〟解釈はし易いのですが、それでも〝作者(とそのコミュニティ)が コミュニケーションによって 時間展開上で説明・アップデートする〟ことでしか〝100%の理解〟はできないのです。
一見、データ(シニフィアン)だけで 芸術は成り立っているように見えますが、芸術家がどのようにしてその意図を込めたのか・現在その作品内でも表れている内面的な〝何を見てほしいのか〟などは〝主体(主観)=シニフィエ〟であり、そのコミュニケーション(データ・シニフィアンと 内面・シニフィエの総合的・複雑なやり取り)にて、初めて〝本当の芸術と言う指示対象(レフェラン)〟が明らかになるのです。
AQAL(ポスト形而上学)では こういったメタ的な法則的流れを〝オペレーティング・システム〟と形容したりしますが〝深層的な法則は 深い芸術ほど 色濃く根拠を増し 引用とコミュニケーションとして複雑に反映され ルールで縛ることはできません! (さらに先だって存在する〝法則なので〟!)〟
データ(シニフィアン)を見ただけで(深さに関わらず)誰でも(そのシニフィアンの表面を把握できる感覚があるなら)〝パクリだと言える〟などということは、100%ありません! (内面的な経験を必ず通します。)
事実は逆で、上記のパクリと言う〝間違った解釈〟が〝公共の福祉を壊滅をもさせる 確固たる責任が存在することへの無視〟なのです。
時代の深さが発展するほど、稚拙な人々(未来ある健全な子どもではなく)の人生(生活)との緊張度(今まで起こらなかった現実的な問題)が倍増していきますが、こういった深さの無視こそが その倍増の〝正体〟だということです。
〝深さを認識したい (けど 責任を取りたくないから深さなんて なかったことにしよう)〟このシャドー化のプロセス(抑圧した衝動)がプレッシャーとなって、著作的な法律(ルール)に投影されます。
これを〝悪用する〟芸術もどき (とてつもなく不健全なもの) は 全力で〝規制する〟べきですが、〝深さを認識したい(原型を受け入れる)〟という〝シャドー・ワーク (セラピーのことです)〟こそ、ルールを考案する私たちは〝緊急で行う必要のある合意(実践)〟です。
私はいつも思うのですが、こういう風に〝カオスの逆 (光は闇と関わらない・愛は憎しみとは無関係・クリシュナムルティ的な法則的主張)〟を しっかりと行える運動(声)は、まだまだ稀有です。
私は、いますよ(・∀・)♡
posted by インテグラルとど at 09:00| 実用的生活実践
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