2019年01月05日

優しく強いアニメの未来 ~表現の意図は変化する~

インテグラルな資本主義漫画・アニメ視点で書きました。 (2020 07 追記有り。)

こういった主張は、〝おもしろければ何でもエンターテイメントになる〟という 根強いブーメリティスを擁護するためには使えません。(既に矛盾をきたしていますね。)

ワンピース「ゴールド」で描かれたように、次世代 特に子どもたちに開かれなければ アニメの未来は無いということです。

なぜ、次世代はテレビを見ないのでしょうか?

それは、優しいからです。

―― 過激な描写ばかりを見て、正しく強くなれるわけが無いということです。

昔の世代は、自由の表現として、社会に出るための根性論の強化・暴力にとらわれないためのヒロイックな暴力的描写 (がまだ強い傾向) から エンターテイメントを定立していき 結果として 真善美がバラバラであったままと言えます。

私たち以降の世代(概ねミレニアム世代)は、暴力描写を容認しません。人を殴りたくなってなぐったらどうでしょうか? 犯罪者の家族ってどうなりますか?

(参考になる作品:東野圭吾「手紙」―テレビ東京制作のドラマ)

ミレニアム世代の漫画家の主張は〝過激なエンターテイメント化のレッド的容認が漫画の意図を狂わせる〟です。

(アニメ化にて特に。)

(実は、気になる漫画家[漫画の意図を込める人]を2人調べてみると、私と同じ年の生まれでした。――漫画とアニメの根元に似た見解を持っているなと思っていたら、ここまで生まれた時期が似るものなのですね。)


・テレビ東京と日本テレビ[それぞれの系列]のアニメ


若者の政治離れを無くす方法=メディア等の批判を含む理解・発話」 が私たちの世代の概ね合意できる主張です。

つまり、前ミレニアム世代 (ここではミニマムライフまでの次世代に理解が乏しい大人サイドで 概ね世代を問わない人々) が、放映やアニメ化のほとんどのモードをコントロールし、売れればよいとするフラットランドの神話(独白的なレッド要素)にとらわれていた時代の仕事を 次世代と十分に対話しない形で展開してしまうことが原因です。

(私と同世代は 過激な描写を根絶するための過激な描写[武器を持つ戦闘的要素と心圏的意図] さらに次世代は 性差別されないための性差別的発話[制服を着るアイドルと前言語的バイタリティの実践]に帰結する傾向があり、それも混乱しているので これまでの世代から曲解されがちです。)


お正月に色々と映像作品番組を見る機会がありましたので、当時の日本テレビ(系)制作アニメ 「シティーハンター 95年のスペシャル」 (最初の発話が道徳的な意図によってつくられていると私が解釈できるアニメ) を挙げます。

(「ザ・シークレット・サービス」の題で1996年初頭の初放送。)

ルパンにも言えますが 命に関する過激な描写(を演出し続けること)は 基本的に 悪いカルマ(バッデスト)を増長します。 ミレニアム世代は それに慣れさせられるか否かに関わらず 根元で拒絶しています。 (虐待の連鎖の理解と似ています。 ちなみに 銃規制の反対[保持]を擁護する傾向があるのは 二大政党制のアメリカでは「民主党」に対して「共和党」です。) ――(2019 01 06 追記 ;書き方を間違えていましたので訂正しました。太字部分。傾向であり 単純な構図ではないでしょう。)

シティーハンターの原作は「週刊少年ジャンプ」なのです。 (ここでは原作の意図は直接考慮できませんが) 上記主張を通すとすれば、雑誌ではなく「世代」で漫画とアニメを定立していかなければならないということです。

ここが私世代のイタイところで、「ONE PIECE」を見るかどうかの選択と大きくかかわってきます。 (ワンピース作者の尾田さんは 子どもに見てほしい として発話していますね。)

週刊少年ジャンプは世代間にて万能ではなく、前世代的(この場合はより前慣習のレッド的)要素を〝次世代が主張している〟とされると、私たちは困ったことになるのです。

週刊少年ジャンプの思想は キン肉マン・ドラゴンボールやワンピースにおいて「深くピュア」に洗練されていきましたが、描写のタイプが「暴力を容認してしまう」発話に成り得ます。

ジャンプコミックスやそのアニメをいくつか見ていくと 文化になる意味で そういったことは分かるでしょう。

(さらに、次世代の女の子タイプ となると、戦闘要素はほぼ要らないので さらにデリケートな発話を要します。 ここにおいても 今回の議論は重要です。――深い女性タイプを主体として通していない発話のアートが多すぎるということです。)

シティハンター(95年)は、宝石(ダイアモンド)に目がくらんだバカモノが 娘とその家族の人生を狂わせる 政治的要素満載のお話です。(ざっくりですが。独裁国家からの独立運動で良いですよね。)

1990年中ごろと言えば、ZARD・栗林誠一郎が第一線です。インターネット(※)も歌詞に出てきますが まだ携帯電話が(普及してい)ない時代です。――(※)「ボトス」なので1997年ですね。

このストーリーの次世代的な問題点は そもそも 設定です。

よって、無理に次世代に開かないようにするしかないと私は思います。それで「週刊少年ジャンプ」が恥じることもないですが 理解はしてください。

(例えば、自転車に乗りがちな次世代が、自動車がぶつかるシーンばかり見せられる点。 当時の自動車社会[車同士が車間距離を取らないから ぶつかっても ドライバーは無事だから]の批判 だとしても 自動車中心的な所与の神話が仕方なくも残っているわけです。――そしてこういった〝合意の抜け穴〟が アニメ制作会社などを どういった道へ誘ったかは 一向に値します。)

破壊的な描写を 何とかしていかない限り、ミレニアム世代の一般読者視聴者を(根源的に)獲得するのは難しいのです。


一方で、テレビ東京は、〝視点〟を より正しい方向に開きました

アニメをたくさん作るのが 〝ドラゴンボールZ以後〟であったことも幸いしたでしょう。

そして、私世代がワンピース(フジテレビ系)と共に数多くのメッセージ(文化的アイデンティティ)を受けることになるものが テレビ東京系の良作アニメです。

特に、将棋的な要素で見れば、相手の「歩」を取って「歩」を打つ という対局中(A)に 「兵士が殺されて生き返ってまた戦場に赴く」などという境界症例的発想(B)をいちいちする人はいないのです。

(A) そういった把握が多数走っているので 理解が高速化できるわけです。子育て・絵本の基礎でもあります。―― おもしろいこと?に、私が知っている頃の ネタの尽きたいくらかの量産型の深夜枠アニメの発話は、これら(B)を無駄に助長している(レッド的な脱構築もどきに滑走している)ように感じました。――意味が分からないのですがω)

このように、スポーツにも言えますが リベラルなルールから発話(合意)することで 暴力的な描写は設定から無くせる ということです。

(そこがテレビ東京系アニメの努力と成果です。努力を盗用[Q/2]して そこに余計なものを付けてはいけません。)

それで内容が落ちるものは、対応せずに作ったということです。

(フェアで言うならば、〝NARUTO〟の主張に対して〝BORUTO〟の行きたい方向を考えてみる余地はあります。)

深い意図は、一昔前までは(主にそれを解体して再構成するために) 種々暴力的描写もやむなしとされていましたが、最近は 意図が深くないか〝情報の在りかを示す石〟の役割主体のアニメが多くなって バトル漫画もデリケートになっています。

(この段階で既に ニヒリズム[=ペイン]を根絶できるような〝意図〟が反映されているのです。その目的に限って そういった描写もされていたということなので、ベクトル自体がおかしいものは 最初から在りえないわけです。)

(アニメは もしもの空間に構成されるものであっても〝ポスト形而上学で言う視点〟なので、めっちゃ精神と時の部屋空間[かつ 夢にできる出来事]であろうが 描写に内容が伴います。 ある種難解な「時をかける少女」(アニメ映画)は 確か 〝[モノワールド的な微視的]時間旅行は在りえない〟というグリーンの主張をした上で 行為の責任を戒めるために意図されていたはずで、そのように定立[解釈]できないと ドラえもん系のSFは大混乱するでしょう。)



日本テレビ系とテレビ東京系、いずれもブーメリティス(レッド的要素)が残存していますので インテグラルな方向に次世代へ開こうとするときに 誤ってか 時折退行します。 (そのように私は感じて来ました。)

神話を救うのと似ていますが、当時の深い意図を 現在に再構成すること その根元が想像以上にデリケートであること 放棄しなければならない形而上学的な設定(シナリオ)要素があること、を ポスト形而上学(ギガグロッサリー)にて行っていかねば 長い目では うまくいきようが無いということですね。

さらにおもしろいことに、最近では あらゆる一般企業が〝イメージアップ〟のためにプロモーションします。

CM制作は、他のアニメ作品などとのリンキング(深さの解釈と合意)が概ね必須となり、結局は 今回のような議論と切っても切り離せない戦略を要します。

(ハッピーをただ連呼すれば救われるわけじゃないよと言いたいんだろうと(笑)――イエス イエスω) ――言ってほしいけれどね。

そういった感性を企業に評価してもらえる道が これからのミレニアム世代のアーティストのとても強いチャームポイントです。

深い解釈のノウハウというのは、もはや とてもストロングでプロフェッショナルと成り得るキャリアです。

(これまで周辺化されていた芸術領域が創発的に生き残っていくためのインテグラル的アプローチを応援するために書いています。)

政治と選挙に関わる国民主権とは、ミレニアム世代の言葉で言えば〝こうやって発話しなさい〟ということです。 (ただし、なるだけ深く実践継続的に根拠を伴って対話的に。)


最後に、「名探偵コナン」について考えましょう。

コナンは 長く続けば続くほど〝事件が起こる設定〟で見られてしまいますが この場合の視聴者(読者)の対策は〝一定期間見ない〟ことに尽きます。

されど、問題解決能力に大きな変化を促す実践と成り得ることや 銃や醜いシーンなどが基本的に(無理に)出てこないところから 意外に見れることに 次世代は気付くでしょう。

私たちの世代の漫画なので、まだ ミレニアムなエンターテイメントへの過渡期に発話されたシナリオ(視点)です。

作者の青山剛昌さんが (何らかの形で)大のホームズファンであり 主人公のコナン君(新一)もそうであり 道徳的意図から問題を解決していく という点には 多面的な将棋的に〝合意〟できるはずです。

後は 「名探偵コナン」の内部で、優しい人が見れる深い実践になるか ということです。

旧式の破壊的描写がコナンを何らかの根拠にして 次世代向けに逆定立されてしまうと 全てはコンテキスト(文脈・関係)ですから コナンも見れたもんじゃなくなります。

ミスチル(ひびき)の例えならば〝僕らの花火も紛争地域では銃声〟に解釈されるということです。(聴覚的に。)

内面からの発話なので 五感がすべてではありませんが、五感のモードも 主流の文化的言説が統制します。 その座に 誰が座ろうとしているのでしょうか?


このように、政治や選挙や国民主権とアニメを対話させると、具体的な作品名を出してくることになり得て 非常に書きにくくなります。

会社に所属している殆どのアーティストは それが理由で〝情報の在りかを示すコンテキスト〟のリンキングを行う主張の選択肢が主流になるわけです。

また、アイデアに困った者が 勘違いしてか 対象元の芸術(家)サイドを 深刻に困らせるレベルで行うこともあり得ますし、抗争などより 書かせることもできます。 (大多数の人にとって 長い目で見て とても迷惑です。)

深い意図で 共-創造する(どちらも 情報を持つ強力なコンテキスト=芸術 になる)のが自然なコミュニオンですが、少なくとも リベラルな流れを見抜く能力は必要でしょう。


今回の議論は、私が「アニメから離れたい」という近況的意図と関係して 私から発話されています。

書いているということは、やはり アニメが大好き!ということです(笑)


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

P.S.2020.07.13

テレビ東京(系)の〝まずいところ (以下も含めて私見解)〟を見つけたので、書きます。

私が 年末の音楽番組中心にまとめたページ で〝ティール組織〟を 直観的に記載 (そうすべきだという理由があった――) してから半年経ちましたが、株式事情の伝統圧力も含めて、〝会社名を (どんなバージョンでも) 出す〟だけで、〝ティール組織の包括性を乗っ取るような権力の増長を助長してしまう〟という空気を感じました。 (リストは放置ではまずいということ。)

それを踏まえて 言いますが、テレビ東京は、〝TVゲーム の主張 (から 生活世界の侵略の B面)〟を〝無思慮に助長している〟ということです。

(ここでは、言わんとしていることは、長い目で見て、察していただけると思うので、詳細には立ち入りません。 ―― アーティストは差別されている、とだけ付記します。)

上記の〝システムと植民地化〟こそ、保守派の局 (そこ自体のカタを持つ気はない――) が、強硬に言いたかったこと(シャドー)なのではないのか? ―― と思いました。

(※ 子ども時代を中心に、私は、数多くの定番TVゲームにハマっています。)
ラベル:AQAL
posted by インテグラルとど at 15:02| Comment(0) | 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください