2018年11月11日

状態-段階と 幸せのライン ~〝楽しみ〟と〝究極の関心〟⑱~ ≪補足≫

議論にまとめきれなかった〝変性意識状態と 善き楽しみの関係〟について語ります。

メインの議論に入れなかったのは、スピリチュアリティをいかがわしく思う人々が ほぼこの〝変性意識状態〟の悪用に心底うんざりしているからです。

私の意見としての結びから言うと、私は〝変性意識状態と言う領域の 使われ方自体は 好きではない〟です。

歪んだ方の稚拙なカルト教などが〝修行〟と称して訓練していくのは、この変性意識状態の〝断片〟であり、まともな叡智の伝統の〝現象学〟(キリスト教の祈りや仏教の瞑想など)においては、再現性に明確な手順とテストがあり ケン・ウィルバーが〝状態-段階〟と呼んだ〝熟達できる領域〟です。

現象学的領域は 左上の象限であるQ/1の〝ゾーン1〟で、この領域は〝粗大(グロス)→微細(サトル)→元因(コーザル)〟そして非二元的な包含・適応へと入れ子上に熟達していき、ゾーン1においての濃密な状態-段階は〝発達自体を加速〟させます。

このゾーン1の〝状態-段階〟をより普遍的・三人称的な角度から見たものが構造主義(発達心理学など)で、同じ左上象限Q/1(個の内面)を外側から見た〝ゾーン2〟において、リベラルやインテグラルなど より深い〝構造-段階〟としての成長が観測されます。 (ゾーン1の状態-段階の熟達と、ゾーン2の構造-段階的な成長(モラルや霊性のラインなど)は 別々な角度から見た個の内面ですので、非常に大きな相関関係があります。)


そして、ゾーン2の構造-段階の熟達とは、今回のテーマである〝善き楽しみのライン≒究極の関心の発達ライン(霊性・スピリチュアリティ・信仰のライン)〟の熟達と非常に関係が深く、このラインの成長は〝認知とモラルと社会性や芸術〟など、非常にバランスの取れた健全な成長を実現する〝ペースメーカー〟となると、私は主張します。

逆に、スピリチュアリティ(ラインを含め態度など 4つの定義・視点があることは挙げました)が流された(見捨てられた)近代や現代においては〝おかしなカルト教や独裁主義〟のように〝歪んだ霊性=バランスの欠いた変性意識状態溺愛主義(嗜好物化)〟ばかりが乱立してきたように、スピリチュアリティの忘却は〝歪みを悪化させる〟ことが 証明されているのです。

(上記健全なペースメーカーとは、対人関係が苦手なタイプは芸術で補って交流するなどのバランスを伴うものと言えて、そのバランスにモラルのラインの成長は必須です。)


本来、〝楽しみ〟とは〝モラル〟の成長・適用であり、それによって〝より多くの人の楽しみの視点・味わい方を学べる〟ので〝楽しみの技法〟がより深くなるのです。

ただし、その楽しみは〝健全なバランス〟であることが前提条件で、スピリチュアリティのラインはここを大きく支えます。

よって、スピリチュアリティの発達ラインは、モラルのラインと似たものになると同時に、モラルのラインと共通する〝善き楽しみの実感〟を伴うということです。

ですので、普通は、モラルのラインはスピリチュアリティのラインに先行します。

リベラルのモラルは普遍的な他者の視点を共感し、その輪が楽しみを生み育てます。その過程が〝スピリチュアリティのラインの成長〟として観測されるのです。


ということは、変性意識状態の嗜好物化である〝状態-段階の カルト的・独裁的悪用〟とは〝モラルのラインを無視し、発達ラインのバランスを無視し、せいぜい微細(サトル)状態の部分に近接するだけの おかしな修行もどき〟と見れます。

非常に唯物論的かつ、行動至上主義でしょう。

脳内の嗜好物の溺愛だけが〝楽しみ〟である、という 大きな勘違いがあるのです。


今回の一連の議論の〝楽しみ〟〝善き楽しみの発達ライン〟とは、モラルのラインの成長とそのバランスを意味し、他者を含めば含むほど深くなる〝楽しみの技法〟であり、もちろん4象限[個・社会・文化]を含み、幸せの発達ラインとも言える〝公共の福祉〟に沿った合理的な発達ラインとして見ることができます。

そこには〝楽しみ〟の交流(コミュニオン)があり、一方通行ではなく、多様性も統合方向に包含していきます。

しかも、歪みの主張をする陣営に対しては〝これは多様性の範疇ではない〟として拒絶することができる知性の成長も期待できるバランスを保持します。


エンターテイメント業界の闇(カルマ)にも言えますが、ILP(インテグラルな実践)は上記の健全なバランスにおいて自己実現を地球規模で目指すものであるのに 歪んだ営みは そのモチベーション〝楽しみ・意義〟を壊します。

民主主義を掲げる独裁国家と同じく、エンターテイメントを語る変性意識状態の嗜好物業界(傾向)は、皮肉にも インテグラルを邪魔します。

それはまったく深くは楽しいものではないですし、包含した内なる子供に悪いものです。

〝エンターテイメント≒楽しみ〟の意味が大きく勘違いされがちで、スピリチュアリティが誤認されがちな風潮が未だ継続しているのをいいことに、その座に無理やり座ろうと画策する愚か者が、この業界周辺にも多いのです。

音楽業界は、バブルがはじけて物質主義がバランスを保ったように 一昔前に俗にいう不況となり、エンターテイメントの悪用に加担し難くなったことで、硬派なアーティストが虎視眈々と活動しやすくなったと感じますが、映像業界がタイアップと称して人気を担保に音楽家を飲み込んでいっているようにも感じます。 映像業界専属の音楽などは この良き不況?の範疇外の為、その他全体の傾向と同じく 肥えた物質主義(変性意識状態の嗜好物化)を奨励しがちであり、ファンもそれに乗っかりやすくなる風潮を加速し、映像のおまけと言う風に、音楽を安っぽいものに還元しているような気がします。

こういった風潮は、作品の主張を視点化して統合していけば、(良いものが分かるという意味で) 分かると思います。

情報過多の時代を悪用しているとも取れます。


前回挙げた、日常を お客さんに巻き込んでいくという風な視点は、〝自分が慣れ親しんだ環境・立場〟を〝モラルと霊性のライン(善き楽しみのライン)によって より多くの他者を普遍的に包含〟してゆき 自分の営みがプロフェッショナル性のあるものなのだと その価値を再認識し 公共の福祉と楽しみの熟達に活かせるべきだ!と言いたいのです。

芸術に特に言えますが、金儲け主義という上記動機を鈍らせるものでなくすることが必要不可欠で、雇われる形式はこれに気を付けることで経済の流れを伴った良い影響を世界に与える、と見ることもできます。

お金が得られにくい活動をしている人は、物と機会を大事にする修行をします。

いずれにしても、モラルのラインと他者の立場の包含によって、あらゆる人々の楽しみとそのより深いものの多様性を自分のことのように感じる〝楽しみ〟の雰囲気となっていくことが、聖なるものでないはずがありません!


わたしたちは、ひとりひとり 独特な経験をし、ゆえに 健全な成長ができれば唯一無二の〝楽しみ〟を与えられる武器を持つことができ、それが70億にもなれば、幸せと楽しみしかなくなります。

認知のラインでしか地球を見れないのではなく、モラルと楽しみを持って、成長して現代を生きることで、この 地球中のプロフェッショナルの実感が、机上の空論でないことが分かります。

本来 瞑想などは、この洞察とムードの為に応用します。

人には、進む力があるのです。


これまではこういったことを〝考えるだけでは〟と思われてきましたが、それは〝所与の認知過多の視点〟であり、むしろ〝より多くの視点に立つマインドモジュールは、ボディ・マインド・スピリット・シャドー(シャドーワーク・サイコセラピー)〟といったILPとして包括して生きていくことで〝実践〟となることが証明されてきました。

〝考える〟だけでも実体験になります。 地球に大きな影響を与えます。 健全であれば。


今回の議論は、スピリチュアリティにおける深刻な誤解と その本来の活用の膨大なメリットを示すために編集しました。

ぜひ、ご賞味ください♡
ラベル:AQAL
posted by インテグラルとど at 09:00| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする