2018年11月05日

手を繋ぐ 日常の愛 ~〝楽しみ〟と〝究極の関心〟⑰~ ≪FIN≫

様々な人々が〝人々は手を繋げる〟と叫びました。

実質的な経験と根拠を伴って

それでも、多くの人々が概ね無関心に見えるのは、〝歪みと言えるものの全貌が見えないから〟です。

それが見えつつあるのが現代です。

確かに人は、きれいな物を見たがります。

私もですが、それが楽しいということなのだと気付いたころには、きれいなものとは、その〝手を繋げる真実を実感すること〟なのだと分かっていました。

ただし、多くの人々の常識が〝それに無関心〟であるどころか〝無意識の敵意〟すら示しているように感じて、歪みの超自我(抑圧するがそれ自体は抑圧されないもの)が働いていると言えるという意味で、恐ろしく思って窮屈でした。

真実がいつも爽快だとは限らないからです。

そして、そこまで無意味に悲惨なものでもありません。 そういう蜃気楼は、楽しくもないです。

欲望や嗜好物の刺激で自分を鈍らせることを〝楽しみ〟だと思っている人は、それが〝苦しみ〟であることを知ることで〝大きく混乱〟します。 それが嫌なだけなんですね。


原理を言うと、シンプルです。

それでも〝手を繋げる〟ことができないのは、〝自由〟の意味するところによります。

スピード違反は自由ですか?

そう主張する人もいるということです。

それをよい方向に縛って緩和する〝霊性≒善き楽しみ〟の成長がまだ不十分にしか根付いていない現状で、彼らを長い目で見て置き去りにしつつ 先に進むこともできるのか? 騙されることの無い知恵を身につけつつ彼らを赦して ワクワクし続けることができるのか?


私は、これをイエスと取れてもノーと取れてしまっても、これを理解して実践している限りは、現時点で十分だと感じます。

ゆえに、大切なのは〝子どもの頃の自由な気持ち〟をつぶされないこと、或いはそうされて逆上しないことで、こういった考え方や経験の交流がレアならば、十二分にこういったページは意味を成すと感じます。


皆、何らかの自分の専門分野という場所を持っていて、うまくいっているのなら そこがあなたの〝日常〟です。

カフェでもホテルでも、そこで仕事をしていれば その人にとっては日常なのです。

そこに〝楽しい〟ことを深く持ち込めている場合で、お客さんがいるならば、自分の専門分野に招きこんでいくことで〝日常-楽しみ〟を広げて統合的対話をしていきます

それが、楽しみを持続させて開花させて成熟させていく〝コツ〟だと感じています!


きっと、愛するあなたと!
ラベル:AQAL
posted by インテグラルとど at 09:00| Comment(0) | 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする
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