2023年11月04日

〝ひまわりの丘〟で〝ひまわり〟を見ました ♪



やっぱり、ひまわりは、きれいですね🎵


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🌻

これで、ページを完了しても、コメントになるので、ここでも、少し、旅の記録など、近況を、ご報告しましょう。




コスモスが、そろそろ、切り花プレゼントの季節なので、今回は、中心部まで、行きました。 (小野市)


めっちゃ、きれいやん(笑)




コスモスの丘 (地元) で、色々、何回か、予習してきましたけど、大規模に咲いていると、つぼみとか、咲き終わっているやつとか、気にならないですよね。

2年前も、3年前も、見たと思うのですが、一面に咲きすぎて、この情景感を、持って帰れないですから、忘れてますよね。


そういえば、こんな、凄すぎる感じだったなぁ、って、思いました。


今回は、自転車を停めて、コスモスの中を、歩き回りましたよ!




そうそう。


コスモスが一面に広がり切っている中に、今回、いつも以上に、悠々と、ひまわりたちが、咲いていました。

ひまわりの丘に、ひまわりを見に来たって、感じでしたよ。


あき🎵ひま✧って、いいですね!!


F ☆ I ☆ N

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補足みたいになりますが、わたしが、歩行者生活を決めてから、まだまだ、乗ってきた、自転車について、今の交通事情の体験を、書きます。

要は、最近、クルマの運転が、非常に、地元ないし都市部で ひどくなっています。

例えば、そのせいで、原付が、右折でも、最短ルートで曲がってくる、要は、歩行者から見て、横断歩道上の、対向車線側に、突っ込んでくるわけです。

クルマが原付を追いやり、そして、自転車と歩行者を 追いやります。

ずっと指摘していますが、そのせいか、そうしているにもかかわらずか、さらに、いろいろ、嫌な状況です。


交通の現状を知ってほしいので、私の経験の具体例を 持ち出しますね。


最近、平たんも活用するため、ルート選択上の理由も含めて、神戸市内を、明石側に走るときに、2号線を使って、裏道もつないでいます。


あるとき、本線上で、死にかけました。

相変わらずですが。

普通に走っているだけで、そうなるのが、交通戦争だとは、覚悟しているので。




地元の外、郊外を走り続けていくときは、片側1車線などの道で、ブロックが、長い目で見て、必要です。

ブロックは、後続のクルマに、まだ見えていない、対向のクルマの存在を知らせるために、徐行の手信号などとともに、左車線の中央寄りに寄って走る、という使い方、あるいは、やや狭い道で、信号を待つときに、特に停止線で止まるときに、使います。

ゾーン30など、30キロ制限でないと、まず、通用しないという、厄介なものです。


40キロ制限の道で、条件次第で、ぎりぎり、大丈夫なことが多いですが、明石までの片側1車線の2号線でも 50キロ制限で、50キロ制限の道では、ブロックは不可能です。

一度、これを体験したら、何らかの対策を、取ってください。

クルマは、どうやら、私たちを、ぶっ飛ばす気、大ありです。


なぜなのか、感覚と、感情で、考えてみました。




2号線、西行きで見ての、片側1車線区間には、交差点の三叉路で、左にくぼみがあるような交差点があります。

その交差点に、右折ラインが設置されています。

右折ラインなら、他にも、似たような交差点は、あります。

要は、右折車線が設置されている片側1車線・・・、神鉄道場辺りからの県道15号線 (車道) も同様で、自転車で 走るべきでは〝ない〟道です。


つまり、地元、2号線・西行きにおいて、この区間は、歩道が狭いので、信頼の原則をクルマに突き付けて、何とか大丈夫な車間距離を、後続確認で判断して、交差点を直進します。

自転車でです。


しかし、50キロ制限で、この手の道は、高速道路化していますから、制限速度超過のクルマが、空いた道を、ぶっ飛ばして、すぐに、追いついてきます。

一体、何十キロ、出ているんでしょうかね。

よく混む道なので、それで貢献でも しているつもりなのでしょう。


で。

私が、交差点を直進するとき、まんまと、後続車1台目が追いつき、仕方なく、左に寄ると、そのクルマは、後続車を引き連れた状態で、いきなり、急停車する動きに当然なる、右折レーンに入り右折するクルマでした。

速度の関係からも、右から私を追い越していく、直進車両かと思いました。


直後、次の車両が、ぶっ飛ばして、直進してきます。

何度も言いますが 40キロ制限ではなく、歩道がここでは (ある種) 使い物にならない 50キロ制限の本線です。

走っている西行きは、片側1車線です。


2台目のクルマが、直進してきた時点で、1台目も2台目も、後ろから来るので、前を見なければならない私は、バックミラーを駆使しても、ろくに後ろを見れるわけがないのです。

で、クルマの方は、1台ずつとはいえ、私が見えるでしょう。


2台目のクルマは、左が少し広くなってから狭まる形状の道を、無理やり、ぶっ飛ばして、追い越してきました。

このとき、私は、右にふらつくのを防ぐため、ややブロック寄りのマージンを取るために、少し右に寄ります。

この、左車線側の中央に近い位置 (あくまで左側通行の位置) を走る状態を、1.0 (いってんぜろ) 車線走行 と、私は言っています。

片側1車線においての、電車で言う 複々線ではなく、片側1車線においての、複線、状態ということです。


2台目のクルマは、私が、見えているわけです。

なのに、突っ込んできました。


私は、死ぬと思いながら、なんとか、左に 逃げました。

なぜ 死ななかったのか、不思議です。


何度も言いますが、どれだけ対策をしていても、これは、日常的に起きます。

歩道の方が危ないこともあって、車道を走らざるを得ないこともありますから。


しかし、これでは、ブロックが、たちいかないので、車道を正しく走ることができず、安全運転義務を全うできませんよね。

ブロックって、車道を走る自転車において、次第に、やる必要があるようになるんですよ。

気づけば、ですけど。


ただ、やみくもに左端を走るだけでは、歩行者に対しても、危なすぎるので。




色々な自転車がいるけど、なぜ、皆、車道を通らないのか、と いつも思っています。

しかし、車道を走ると、まず、歩道走行としての段階1から、車道走行の段階2に、切り替えなければなりません。

段階2では、すり抜けもしたいというニーズに駆られます。

その方が早いからで、すり抜けをすれば、死角を通ることになり、大概、停止線や横断歩道も越えるので、広義の信号無視になります。

それでも、車道走行に慣れるために、あの手この手を使って・・・。

最終的に、後方左端で待機して 車を行かせるとか、いろいろと対策ができる、段階3に、運が良ければ、移行するのでしょう。


つまり、車道走行は、私は慣れましたが、ふつうに、危ないということです。

みんなは、車道を自転車で走る勇気が、無いのです。


でも、バイクやクルマは、車道を走って スピードを出しているんじゃぁ・・・?




ここで、議論しておくべきは、そもそも、バイクやクルマは、臆病だから、それらに乗っているのかどうか です。

心理学的に、内面的に、臆病ということで、表面的ではなく、無意識的な意味をも含みます!

自転車で車道を走るのが怖いから、バイクやクルマに乗っている、というのは、かなりありそうで、しかし、スピードが出る乗り物に乗る方が 怖くないというのは、矛盾しています。


以前、花火大会のときに、おまわりさんに、〝自転車は原動機が付いていない〟と言われました。

その意味は、よくわかります。


先ほどの、2台目が突っ込んできた例では、原付ならば、前方に、フル加速しながら左に寄れば、縦に緊急回避が出来て、車間距離を開きながら、逃げられます。

私は、段階3の自転車走行は、速度以外は、概ね、クルマと同じルールで車道を走る、と言っていますが、その速度が違う点で、原動機がない場合は、多くの人が、問題だと、感じるのでしょう。

つまり、原動機が付いていない、加速力で劣る乗り物で車道を走るのが怖い、だから、自転車で車道を走るのが怖い、ということです。

理論的には、これは、納得できる視点です。


自転車は、歩行者に、より配慮できる点でも、クルマとバイクの、上位互換だと、私は主張します。

それも、この恐怖を、乗り越えてこそです。


この理不尽な、交通戦争の都市部等で、生き残るためには、自転車側が、クルマの動きを判断して、クルマが私側に対応できるように、導く (配慮する) べきです。

歩道では、路地から出てくる車両等を、なんとか、感知するようにして、歩道に曲がったりしてくる、店に入るクルマなどは、歩道上で私が停まって、先に行かせることも含みます。


車道では、クルマがどのような運転をしてくるか、判断して、クルマが 私を認識できるように、走ります。

クルマやバイクの動きを、よく見ながら、前を優先的に見て、走ります。


基本的には、そうやって、走り続けていくことで、危なくならないように、安全にしていく、ということです。

何とか生き残っていけば、おそらく、段階3で走っているなら、善(モラル)の観念[ハート] (モラルより後に伸びる) の発達として、身に着くでしょう。


自転車がクルマの上位互換なら、勇気の面で、車道と車両の〝リーダー = 先導者〟になる義務と責任がある ということです。

確かに、この義務を背負うくらいなら、クルマに逃げますよね。


あるいは、自転車で 歩道系だけを走るか。




下りを自転車で走るとき、見通しが良ければ、私は、適速で走りますが、自転車って、危ない乗り物だよ?って、言います。

下りで 理論的に クルマと同速度が出るから、そもそも、原動機うんぬんの問題より、歩行者から見て〝危険〟ですし、自転車乗り自身も、弱ぺダに共感するように、カーブとか、やばいでしょ? って。


わたしは、原動機(エンジン)とか加速力より、自転車も車両なんだ、ってところで、きっちり、車両側に見なします。




そうそう!

私のメインは、内向直観 (補助:マインド) 型です。




というわけで、2通りの視点を、例の、2台目のクルマに関して、思いました。


・私のセカンドパーソナリティ・内向感覚型で(論理的に)見た場合

2台目のクルマは、後続車もいるからと クルマ中心的に、私をぶっ飛ばしてでも、信号を直進しようとした。 つまり、わざとの、殺人未遂だろうと、推測。


・私のサードパーソナリティ・外向感情型で(直観的に)見た場合

2台目のクルマは、私を見ていないか、想像もできないことが起き、理解が出来ず、何も考えられずに、アクセルだけは踏まないようにしたのでは?




後者の視点は、〝怖い(゚Д゚)〟ですよね。

自転車に乗る〝勇気〟のないドライバーたちが、免許さえ持っていればいいと思いながら、何も考えられずに、運転しているなんて…。


これでは、自転車は、歩行者のことを考えても、車道になんて、出れませんよ!!




真意は ともかくとして、わたしたちは 自転車に乗り、何度か こけて、そして、こけなくなると、あるいは、車道に出て、遠くへ行ってみるわけです。


初心を忘れて、クルマに慣れると、信号のない横断歩道のある停止線で、歩行者が居ても、停まらないようになり、それがエスカレートすれば、あるいは無意識に、ここで挙げた例のように、ブロック寄りの私を、ぶっ飛ばすわけです。

(あるいは、その安全マージンを。)


この例の場合、めいいっぱい左端に寄っても、一手で停止できないので、危険を増やすばかりで、混乱させないようにと、ブロックが最善と判断し、それで、最悪の選択をされました。

すべてのクルマが、そういう動きをするわけではなく、ドライバーと道などの、掛け合わせです。


どれだけ読んでみても、読み切れるということは、ないです。

ドライバーが 何を考えているのかが 分からないことが 分かる、というくらいです。


しかし、ルールを破っている、歩行者優先をしない、制限速度を超過する、ということが、明らかに言えます。




もう一度言いますが、こういった、イカレた、冷酷なクルマの風習は、クルマ中心社会ではない都会で、頂点を極めます。

郊外では、道を選べれば、自転車は、クルマやバイクと同じように、道を走れます。

圧倒的に、自転車が少なく、歩道も自転車向きではないので、裏道主体で、車道を走ることになるでしょう。

郊外では、あまり問題にならない、自転車走行でも、都市部では、悲劇的です。

特に神戸の海側からは、平坦で山を越えられませんから、ママチャリが、田舎道を走ることは、難しいでしょう。




歩行者生活において、飽きが来るのは危険と思った私が、少々、ルートを変えてみると、主要道から 裏道 (私がいる道の端) に、バイクが突っ切って曲がってきて、私は、驚いて、跳びあがってしまいました。

通り慣れていると、特に、そういうことが、あります。


歩道がない裏路地から、徒歩で、角を曲がって、狭い歩道に行こうとするときに、例の最短ルートでバイクが曲がってくる例でも 分かる通り、こういうことが、起こります。


徒歩でも、怖い目に会うので、歩行者に配慮できるなら、自転車の方が大きく危険だとは限らない、歩行者の中に自転車がある、歩行者は (ルールも守って) 車両すべての 根源的な上位互換、こういう風な視点で、私は、歩行者生活シフト後の、アフター自転車を、挑戦中です。

今回は、その、生き永らえた、ご報告です。


完全自動運転は、まだかなぁ…。






補足 (2023 11 06) ―― 『MBTIへの招待』 P134 より。


『6章 コミュニケーションをするための道筋』 の中に、世界でまだまだ、紛争が起きているという言及が、ありました。

これは、紛争=交通戦争 ということでもあるので、『偏見・先入観・感情的な反応』という、シャドーの視点で、なぜ、自転車は、クルマに〝恨まれるように 危険運転をされるのか〟を、見ましょう。


ポイントは、インテグラル・ライフ・プラクティス〝ILP〟で見て、ユングとMBTIのタイプ論は、〝ボディモジュール=感覚型〟〝シャドーモジュール=感情型〟〝マインドモジュール=思考(マインド)型〟〝スピリットモジュール=直観型〟に、ぴたりとあてはまるところです、


例えば、ケン・ウィルバーの4までのモデル (インテグラル心理学 の頃までの モデルで、トランスパーソナル心理学的な型のモデルです) では、心霊・微細・元因・非二元 という〝構造〟と〝状態〟の両方を、〝大霊的な直観〟の捉え方で、第3層 (―― 第2層 あるいは ティール より先) に 重ねていました。

この例で、直観とは、第3層、スピリチュアリティの定義の中のいくつかの〝なるべく深い段階やストリーム〟と捉える傾向のある、視点 と、なります。


(ちなみに、私の言っている、車両の運転は、段階1が レッドやアンバー重心、段階2は オレンジとグリーン、段階3は ティールを含む 第2層の重心です。)


少し、ざっくりしますが、これらの視点も含めて、道路交通の〝シャドーモジュール〟を展開します。




偏見・・・自転車というグループは皆〝ルールを無視して危ない運転をしている〟 (免許を持っている自分[たち]は違う!)

先入観・・・[ブロック状態の 前方を走る自転車の例なども含めて] その自転車の行っていることは〝間違っている〟( ―― そうでなくても! なぜかは問われない。)

感情的な反応・・・信号のない横断歩道の停止線では 歩行者が居ても、みんな 停まらない〝はずだ〟! 同様に、制限速度オーバーも、流れなので、みんなが行っている (自転車と原付の速度は考慮されない!)。 片側多車線で 追い越しを 右から行うのは 左車線を走る クルマに対して だけでよい (自転車・原付は視野に入らない)、路上駐車は 誰もが やっているし 駐輪もあり 自分が邪魔だと思うから 大目に見ている よって 自分は 停めても悪くない!―――といった 根拠の乏しい反応が 蓄積されていく形!!


主に、クルマからの 平均的ないし オレンジ含む 慣習的な視点です。

偏見は遠隔的、先入観は近接的です。


最近、クルマの運転を見るだけでも、そのドライバーの感情が見えてきた気がします。


停止線で 私が停まっているとき、後ろからじわじわ来ながら、ぎりぎりまで真後ろに寄ってくるクルマ(二輪は除く) は、上記の3要素〝偏見・先入観・感情的な反応〟全部に 当てはまっている クルマです。

(そのドライバーは、これを分かっていません。 無意識です。 意識できれば、注意を払って車間距離を取れるからです。 車間距離の取れない車が、免許を保持しているわけです。 これが、紛争=交通戦争 ですよ!)


他にも、大きな音 (あいまいな基準ですが...) を立てて 先発で 後ろから速度を上げてくるクルマも、この3シャドー要素が、すべて当てはまっています。

この要素は、1つでもあると、大きなトラブルになることがあって、自転車側が、これを知っておくことが、大切です。

posted by インテグラルとど at 22:39| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2023年11月10日

内向直観✧ タイプ4 ♪ 未生! 弧 ♡ ~ 続・私のタイプ ~



ユング式のタイプ論と、エニアグラム、それぞれについての、私の理解が、深まってきました。

というわけで、現象論に近くなりますが、ケン・ウィルバー オススメの、視点を取ることの〝治癒効果〟を含めて、私のタイプを例に、21世紀の タイプ論 活用例を、展開しましょう。

( エニアグラム 「基礎編」 2019版 も 参考。)


こういったタイプ論は、自分で、どのタイプなのかを 主張することが、〝あなたの使命〟です。

つまり、人に 左右されて 決められてはならない のです。

さらに、公開するかどうかも、コミュニケーション含めて、実用的・必然的なこと含めて、セルフに ゆだねられます。


ゆきちゃん、ごめんね(笑)





エニアグラムで、思ったことは、 ゆきちゃん含め、私たちフレンズ 全員、まずは、〝タイプ4〟だろう!! ということ。

エニアグラムでは、根源的な 子どものころとか、育った環境も含める、欲求とかにより、各タイプを 同定します。

ユングのタイプ論は、生物学的 素因を含めて、利き手風に 解釈していきます。


こう考えると、進化の構造っぽく、〝ユング式は 生物圏と心圏の差異化を (意図) する タイプ論〟〝エニアグラムは 生物圏と心圏の統合を (意図) する タイプ論〟と、言えそうですよ。

後者は、旧 存在の大いなる連鎖 (物質、生命、こころ、たましい、スピリット) のモジュールが、源流ですし。

前者は、ゾーン2とゾーン4、ボールドウィンも 源流に ある、構造主義的な 手法で、ポストモダンへ続く、真善美の差異化の 途中の道ですね。




ユングのタイプ論は、分かりやすいので、解釈で、幾つかのメタ項を さらに掛け合わせることが、できるでしょう。


こういった分類は さておき、エニアグラムは〝ユング式に掛け合わせるべきではなく〟〝重ねるべき〟だということです

以前 私が解釈した、192のタイプ論 にも、エニアグラムの 9つのタイプ系を 並行して見ること が、できるのではないか? ということですよ。




私のタイプを 3つのパーソナリティで見た時、ユング式なら まず、バースディケーキを 3等分するとして、直観が 真上にあり、マインドの力で内向して、感覚が 右回りで 下方に、さらに回って 真下で外向して 感情、そして 直観に 戻ってきます。

これは、直観、感覚、感情、それぞれで 3等分される、右回りの円形 で、表すことができるモデルです。


ビッグスリーである真善美、そして スピリチュアリティによって 何週も巡っていく視点。

エニアグラムの2対ではなく、3つという考え方。

これらも、哲学的な (偶然 3つという) 視点で、このように、3つの視点は、美しく、実践的に、統合できるかもです。




私の場合、3つのパーソナリティは、直観、感覚、感情 が、途中から外向して、時計回りに、成長していきます。

その間中、内向の価値観寄りで、空気のように、マインドが 支援して、働き続けています


つまり、私は、マインド(思考)が、一番 エネルギー不足 (品切れ) になりやすい のです。

ウイルス禍の時は、色々な物が、品薄になりましたけど。


自転車に乗っている時の わたしは、感覚を 強く 活性化させ続けねばならないので、感覚も、品薄になります。

すると、マインドと感覚のゲージが、オーバーフローしていくので、感情が、重要な判断機能として、開発されていきます。

感情は、直観をバランスよく、外向の価値観で包容し、自転車の運転では、車道メインで、信号を守る意義を主張しながら、時に、危ないことをしている人に声をかけ、シンクロニシティを起こしながら、ワクワクを表現していきます。


共時性が起こる理由を 自分なりに見てみると、ちょうど、直観が外向してから、家に帰り、眠りについて、内向で充電し、再び、直観スタートで、内向より、朝に始めるからでしょう。

現象学じみていますけど、この感情判断モードは、直観の他、感覚も使えますから、自転車に乗りながら 感情方向に セルフの指針は 触れているので、感覚は活性化し続けており、直観と同時に 使えるようです。


感覚モードの時は、出発時の走り始めの時が多く、まずは、マインドと感情を 同時に使っていくのでしょう。

こうして インドアで、書いているときは、直観によって、内向的に、マインドと感情が、束ねられ、同時に発揮されているらしく、ゾーン2と ゾーン4 的には、マインドが 外向しているようにも、見えますね。




私は、内向の知覚タイプですから、内向的には〝知覚 ≒ パーセプション〟のタイプ です。

だから、内面的には、流れて生きるタイプで、直近の予定を、感知―応答で 生きながら、うーんと先を見る ようです。

つまり、ハートは、決められないタイプです。


外向的には、〝判断 ≒ ジャッジメント〟を使って 補う必要が あるようなので、ゾーン2と ゾーン4で 外側から見れば、私は、あらかじめ決めて 用意しているから 出かける、判断型の特徴を 持ちがちなようです。




ここで、以前も、ふれた気がしますが、おもしろいことは、3つのパーソナリティは、それぞれ、フロンタル、ディーパーサイキック、未生、の〝3つのセルフのライン〟に 重心があると 感じます。

フロンタルは 粗大のライン、ディーパーサイキックは 深い心霊、微細のライン、未生は コーザルや、非二元のラインで、2つ目や、3つ目は、U字型の 発達をするのかもしれません。


ということは、私は、こうして書いているときは、粗大な心身をメインに、直観を使って マインドと内向させて、自転車に乗っているときは、ディーパーサイキックを 活性化させて、自然の中に入りながら 走っていき、やがては、未生のラインで、何かをしようと していくのでしょう


この点を、少し、発展させますね。





・ 私のファースト パーソナリティ (粗大―フロンタル)


内向直観 (補助:マインド) &〝タイプ4〟



なるほど。 昔から、気づかず、よく使ってきた、セルフです。

基本的に、人と違っていて、変わっていると 言われていたので、タイプ4だから 個性的で 直観を鍛えていったのか、包括的な成長を 望んでいたから タイプ4に なったのか…。


自転車は、小学4年の時に、乗れた方がいいということで、補助輪なしバージョンを、なんとか、覚えました。

当時で ですが、運よくでも、みんなより、2年くらい 遅いです。


私の場合 人の顔が覚えられないとか、現実感覚が社会とずれている、ADHD才能気質なような アインシュタインっぽい 感じもします。


一部の社会感覚との ずれが目立ち、無意識で、後に、かなり、社会に指摘されながら、違和感を たどっていって、気づきました。

元々の 個の感覚は 鋭いらしい ですけど、厳密には、いつ、発達させていったか、確信ないです。


余談ですが、社会感覚=ゾーン7寄りの空気 として、ちょっと古い用語ですが、アスペルガーと自分で感じる人は〝ゾーン7の感情の空気のズレ〟 同じく、ADHDは〝ゾーン7の感覚の空気のズレ〟なのかもしれません。

ユングが〝生物学的な素因〟〝人間性を決められてはならない タイプを決める際に働く要因〟と 主張した視点の 部分です。





・ 私のセカンド パーソナリティ (ストリーム:深い心霊)


内向感覚 (補助:マインド) &〝タイプ7〟



高校時代に、友達とカラオケに行くようになって、キーを 上げ下げしながら 歌を歌って覚えていくことに、興味を持ち、いつしか、このモードが、活性化するようになりました。


この、深い心霊、サトルなモードは、自然神秘主義的な 側面もあって、夢の心身なのです。

私にとって、音楽やアニメ、芸術は、この世界を、大きく 代表するものと 言っていいでしょう。


あるいは、この、セカンド人格は、よく、実存哲学などが言っていた〝ダイモン〟〝守護霊〟という カテゴリーだと思います。

特に、その (内向に対しての) 外向の側面は、先生として 向き合っていくべきものだと、ユング式のタイプ論は、主張します。


さらに、サブのサブとして、元々の、外向感覚・感情型は、わたしの、もっとも 使ってこなかった 個です。

セルフは、そういったすべてを 活性化、同一化が できるわけですね。


自転車においては、道を開発していく〝ライド〟に、数年間、熱中しておりましたよ。





・ 私のサード パーソナリティ ( ワン・テイスト / 未生のセルフ )


外向感情 (補助:直観) &〝タイプ2〟



これも、驚きの、サード パーソナリティ ですよね。

エニアグラムは、ユング式から見れば〝特性論〟に近い気がしますけど、この3つ目は、発現自体が レアレアなので、エニアグラムで見た方が、活性化状態が、分かりやすいのではないか、と思います。


セカンドが、私にとって、サトルなジョイボーイ、内向型なのに多産タイプの〝ラッキー〟で、ロングライド型なので、たぶん、タフなのです。

さらに、サードの方は、ギラ系の炎と ホイミ系の癒しまほうが使える〝いやしウサギ〟で、私がこのモードになるときは、本来 面倒見のいい〝ラッキー〟を、心霊から引き継ぎ、ウェイキングアップで〝ビッグ・マインド〟を極めていくときに、〝タイプ2〟で 出るようです。


エンカウント率は、深め (レア) ですよ!


この、ワン・テイストな いやしウサギは〝タイプ2〟なら〝ワン・テイストな ジョイボーイ〟と言えそうです。

サードは わたしは、おんなのこが、理想です(・∀・)♡


未生のラインに、性別ないかな?





こうして分かるのは、サード・パーソナリティは、私の内向感情 が、ある種〝空〟状態にすること前提で 成り立っていくらしく、色々な芸術的ハートを〝統合的リンキング〟して、直観で〝シンクロ〟していきますけど、サードを〝発表〟できる場が、激レアなために、私でも、気づきながら、コントロールしがたい、うさちゃんです!


部分的には、色々と、発現していますが、わたしが、たぶん、唯一、根源的に、この世界に、認めてもらえる形で、自己表現ができるタイプです。


未生のストリーム なので、私より先に、時間の外で、私として表れている、私ではなさそうな、私です。


もしかしたら、まいや、ゆきちゃんが、表現してくれるのかもしれません。


(笑うとこ!)





特に、サードが、タイプ2なら、今までの私には ない 状況になります。

本来、このタイプ2が、フロンタルのメインな人は、面倒見が良いのですけど、私の場合は、ワールド・トリガーでも ちょっと 触れられている気がしました、バランスが とれずに 人のことを背負い込む 〝ユング曰くの 人を育てる 外向含む 直観型〟の形で、周りからの推しで、出ます。


つまりは、私が、時間の中で、一度も期待されていなかったはずなのに、色々な人が、私の きらきらを〝買った=望んだ〟状況です。

順序として、未生の方が 時間展開より 早いので、ユングが、ボールドウィンも そうしたように〝直観を理解しようとした〟のは、かなりに、頷けます。


サードで、たぶん、タイプ2になる私は、人々の感情が分かり、強い〝愛〟について 実現します。

ウイルス禍では 封印状態で しょんぼりし続け、胸の高鳴りによって 現在 復興中です。


タイプ2は、あまり、なじみのない〝フィーリング〟と〝奉仕〟の セルフですから、それが 未生となると、考えます!

自然に実現できるには、そういう 愛を包む状況を、開拓していかねば なりません。


しかも、わたしの、唯一の外向役なので、ここでの 在り方が、私の 世界を、運命を、分けます。

ふつうは、満足に、十分に、気づくこともなさそうな、この、サードですが、誰かが、機能的なタイプ論を当て付けただけでは理解できない、ヒミツの私 なのですよ、うふふふふ(・∀・)✧





まとめましょう。


ケン・ウィルバーの書いた、図の中で、アートマン・プロジェクトのあたりの、進化と内化の〝弧〟は、人気でしたよね。

ああいった、成長の視点で 見ますと・・・。


私の場合、直観、感覚、感情、を、時計回りに、頂点から始まって、下点で 内向から 外向に 変わって、再び、頂点に戻ります。

これは、朝起きて、アートマン状態 に、充てん (完了) するということです。

そして、夕方には、人間関係を経て、ブラフマン状態 に、変容しています。

ブラフマンは、アートマン (ビッグ・マインドな私) が〝世界そのものとして経験される〟意味です。


こう考えると、インドアしている 場合じゃ、ないですね\(◎o◎)/!


なので、私のモデルに ある意味 合っていて、外向の直観から、時計回りに回る人は、まず、ブラフマンとして充てんして、朝目覚め、アートマンとして 帰ってくる! わけですよ♡


よくできてるでしょ(・∀・)!!


ほめて、ほめて〜 ♪  ← 言ってみた。





自分のタイプは、自分で、主張して、あるいは、そっとしまっておくのが、自然です。


すでに、世に名前が出ているくらいの、大物の〝トモ〟に、たぶん、この〝配慮〟は、通じないので、むしろ、視点化してますけど。


例えば、まいは、内向感情型の〝タイプ4〟で スタートして、右回り に、感情、マインド、感覚、を巡ります。

内向的に始まって、支え続けているのは〝直観〟です。

センスと ともに、感情は、外向で 頂点も 迎えます。


感情を 頂点に置くのか、左側に置くかは、それぞれです。

私は、ハートは左 と思うので、マインドを右、感情を左、直観が形態形成場を 空から示し、直観を空、感覚を大地に、それに近い位置で、3等分すればいいと思います。


右回りは、感情が直観を支え、あるいは、流出し、直観はマインド、マインドは感覚に、感覚は感情に、支え、流れていきます。

私が自転車に乗ることで、感覚が 感情へと 流出していったのは、これを見ると、自然な流れです。


ゆきちゃんは、内向直観型の〝タイプ4〟で スタートして、感情に向かい、左回りになります。

直観、感覚、マインド、に、感情が支える 流れです。

直観が感情に〝流出〟するところが、インスピレーションの特徴に、出るかもです。

ヴィジョン・ロジック、よりは、感情の、ネットワーク・ロジック、ですよね!

ゲームソフトって、ハイパー変数の〝見える 内面 (マインド)〟ですからね!

チョコボも、喜びますよねー 🐤 🍫 ✧




こう書いていくと、エニアグラムを、有名人の例で記述するのも、私のこのコーナーを、後押ししてくれている、ということなのかもしれません。

きっと、ワン・テイストで。




ケン・ウィルバーの当時の定義とは、ちょっと違いますが、内向する〝弧〟(内向タイプのサイクル) は、眠っているフェーズに〝世界が私になる (アートマン)〟そして、活動しながら〝私が世界になる (ブラフマン)〟

同様に、外向する〝弧〟(外向タイプのサイクル) は、眠っているフェーズに〝私が世界になる (ブラフマン)〟そして、活動しながら〝世界が私になる (アートマン)〟


フロンタル=粗大 では、眠っているフェーズ=活動を経験しながら内省する (日常的に目覚めている) 時間 と見れますよ!

ウェイキングアップでは、深い心霊、未生、の順で、発達していく〝状態―段階〟として、眠りを、日常生活に拡大していく視点で、眠っているフェーズの意味を、変えて見てください!

全体的には、最初の半周で、どちらも、内向と外向が 入れ替わる 感じですよー。


この見方では、右回りと左回りは、ともに、外向と内向で 共通なんですね。

右回りは、感情が直観を、直観がマインドを支えていきます。

左回りは、マインドが直観を、直観が感情を!




というわけで、私は、思考タイプが メタ要素に 観念的に 頑張る〝タイプ5〟のパワーも、発揮していることになります。

エニアグラムを、ユング式のタイプ論に重ねてみるときに、前者で十分な気もしていましたが、どうにも、もったいない 感じが したので、仲間の視点は、仲間に任せるとして、たぶん、こういう風に、見れば、いいんでしょう!!


これで、両方のタイプ論は、分かる〝強み〟を、その時 適切に、選んでいけばいい ! と、示せました。




初対面の印象が 30秒で わかると言っても、相手のタイプを 特定するのは 深いところで、ルール的に 省く方が良いのです。 (タイプは 本人に任せるのがいいから。)

あるタイプを〝発揮する〟と言いましょう。


それも含めて、1分以上 話していくなら、家に帰ってからでいいので、タイプのことを 考えるメリット が、きっと、ありそう!





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[ 11 17 ] ― P.S.


私 (そして ゆきちゃん) は、おそらく、タイプ8の〝怒り〟を 感じやすいのです。

(そのとき、ホイミ ばかりを 唱えるとは 限らない!)

この怒り (≒直観) は、数字を若くしていくことで、〝統合〟できます ♪

(対象に向ける必要がないと 判断する場合。)

一方、まい (ゆめちゃん) は、怒りを 感じようとしないので、〝互換モード〟が 使えますよね!





(そうそう。 本文の、アートマンは、個、 ブラフマンは、世界 に近い意味で、見てくださいね。 定義は私流かも。)





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[ 11 24 ] ― P.S.


〝ワン・テイスト〟[下巻] 。

ロジャー博士 に 関する ページ!



なんだか、気になりながら、気づきました。

リスキーが、ココナッツ号で、冒険に出そう だなって、思いましたよ。

そう。

この日記を 読んだのは、上記の日ですよ ♡


[2002年発行で 209ページ目ですね。 同月に、フロンタル、深い心霊、未生、のお話 も、あるんですよ。]


こういった、シンクロニシティ は、ふしぎで、すてき。

ユングが 不思議な偶然を、直観として、アインシュタインとも話したように、これからの時代の〝カギ〟になるのだと、感じるのです。


[ワン・テイスト 12月10日の日記――P250]

善良への成長が 善良の回復


まさに、これが、未来や過去ではなく〝時間を越える〟ことです。

みらいのことば (共時性) が、赤ちゃんを越えて、未生として、生起していることが、見れるならば、非時間的には、深度=潜在性 なのです。

内化によって〝喪失した〟と考えず (基底は〝在る〟から!) 〝生命として生まれた〟=〝潜在性という祝福を獲得した〟と、受け入れます。

非時間的に 赤ちゃんは、多次元的〝本人〟の意味で 同一パーソナリティ (3つの心身) としての、大人です。

共時性 ( ❀ インテグラルな未来予知 ❀ ) を示せるならば、赤ちゃんの潜在性と可能性 (=回復) とは、赤ちゃんの未来に〝いま〟展開する成長 (=深度) と、同じ〝しんぴのまほう〟ですよ。


リベラルと保守が、競走してるんだって、ケン・ウィルバーが、言ってましたよね。

ルソー と クロフネ は、ここで、出るんでしょうね ❕


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posted by インテグラルとど at 23:51| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする