2023年09月14日

時空間の発達ライン (ハイパー変数『Z』) の〝立体図形 (レフェラン)〟



数年ぶりに、図書館へ行きました。

フランクルの〝意味への意志〟を、ざっとですが、読みました。

ティール革命、ポスト形而上学、あたりとも、関係すると思います。


フランクルと、同期だと思う、心理学系の哲学者は、E・フロム、と、ロロ・メイ、だと思います。

こういった本を読むときは、インテグラルのAQALを頭に入れておくと、流し読みでも、なんとなく、意味が取れます。


フランクルの この視点の、行きつく先は、〝みらいのことば〟だと思います。

本人は、ダビスタ99が制作される頃まで、この世界に実存していましたから、〝進化の構造〟を 読んでいたかもしれませんね!


みらいのことばの本来のレフェラン、立体図形 (ハイパー変数、JAZZにもWで包まれている 『Z』)、その投影された〝平面図形 (フラントランドの魔術的視点)〟しか見ない のが、現代の権力、抗争の腐敗と言えて、それが、ウイルス禍にも、なっていくと、私は思います。

交通戦争は、クルマが、ルールを、歩行者・自転車に対して、現状、守れないからと言って、成り立っていることを、良しとしていると、世に意味が無くなって、研究界でも、そんなもんでいいか、ということに、なりうるわけです。

つまり、なにも、かんがえていない。


アウシュビッツは、そもそも、ドイツ人が引き起こしたのではなく、先の第一次世界大戦と、そのあらゆる原因が、おそらくは、フラントランドが、大混乱として、それを生み出したと言えます。

今の時代の、ウイルス禍を体験していれば、この混乱は、理解できるでしょう。


仕事をやらないのが不道徳だと決めつける視点は、クルマは群れれば何をしてもいい、というのと、同じことだと思います。

音楽家は、芸術家は、これを知っておくべきです。


本でも情報でも、普遍性、内面、多様性の中の統一性、モラルの段階、こういった視点を、強調しているものが、ほとんどありません。

だから、そこを真剣に探求しようとしている人々が、一定数、いるわけですよね。


普通に考えれば、どの時代でも、これの〝その社会に適切な段階〟として、内面が、強調されないわけが、ないのですが・・・。

現代は、異常と言わざるを得ません。


みらいのことば、つまり 時空間のラインにおける〝内面としてのセンス〟も、思いやりに基づくものです。

モラルのラインを無視して、語ることができないと言えましょう。


都市部の、クルマの通勤社会が、時代に、冷酷さを、当たり前に良しとするのは、世に何の意味も、持てないからです。

もし、意味を持っていたら、内面性、普遍性に、開くでしょう。


現代の技術は、意味を喪失した現代人が、持て余しており、危険です。

ウイルス禍の言いたいことは、ほぼ、それです。


その意味で、フランクルは、ウイルス禍 (ラヴォスでも ノストラダムスの大予言の視点でもいい) を、言い当てていました。

あらかじめ、予知で、このことが分かっている程度では、どの高度と象限から行っているのか不明なため、フラットランドの魔術的な平面図形の見地からしか、すなわち、大混乱してしか、これをとらえることが、できず、思いあがれば、社会を大きく、傷つけます。


未来とは、現在、今の中にある、記憶であり、憶測、視点です。

過去も、同様で、精神分析と シャドーモジュールで、よく扱われていきます。


予知と言っても、予感と言っても、ほとんどは、現在の抱える問題が、尾を引いて、視点化されます。

現代に、仕事に、意味がなければ、上記の超感覚的予感も、意味がありません。


未来は、この意味で、現在より優れているわけではありません。


むしろ、この、現在が、積み重なっていくことで、過去のしがらみや、未来へのたわごと が、意味への意志として、統合されていくのですよ。


未来を見るとして、ほとんどは、現時点での自分の世界観・埋め込まれた文化圏内ですから、それは、過去、伝統の重荷からしか、行動していない、と言えます。

さらに、未来を、外形として、外側の象限として捉えると、意味は〝解釈〟できません。


ジャズのライブで、ラッパ楽器を鳴らしまくるシーンを、考えてみてください。

それを、どの視点、高度と象限で、とらえるか、です。


結局は、真剣に、現状を理解して、何とかしようとした者に、ヒント、そして、答えが、与えられていくと言えます。

フランクルは、これを、〝神は いる〟として、言いました。


リアリティとは、未来とは、あらかじめ 与えられているものでは ないのです!
posted by インテグラルとど at 06:18| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2023年09月17日

私は 「感覚型」?「直観型」? ~ユングの「タイプ論」10章を読む 🎵~



尾田さん(感情型)、桜井さん(思考型)、まい(感情型)、ゆきちゃん(直観型)

※ 全員「内向型」で、「直観」が使える!


私は、桜井さんが言うように、自分のことが全く分からないので(笑) ユングの『タイプ論』の10章を、読んでみました。

(他のところは、読めれば、読みます。)


内向型は、あまりに難解なため、アーティストは、もはや、自分型を、適切に主張するしかないわけですよね。

私の視点で、展開すると、文脈上、人間関係に『タイプ』を持ってくる必要があるので、今は、そういう流れで。




ケン・ウィルバーの「統合的なマインドフルネス論」でも、タイプ論が進められていて、まだ、本気で読んだことがなかったので、今回は、そのコーナーの冒険です♪




私は、いわば、ケンタウロスを越えていっているので、『非二元的・現実感覚的にとらえた直観』を扱うタイプ、と言い放っておきましょう。

それは、いったい、なんなんだ。




私は、直観という、とらえられないものを、まず、思考によって、支持し、そこで、科学を学んでいくわけですね。

次に、その合理性、判断基準の自己関連ラインが伸びてきたことで、安定性が増し、音楽を志すことに。

そこで、ボーカルとして、感覚が必要になってくるために、それを表現するための感情を、思考と対になる形で、新たに、極めていきます。

そこで、コード進行、作曲、ライブ活動、その中の人間関係などが生まれます。

さらに、色々やりつくして、出口が無くなって、私がふいに始めたのが、ブログ活動と、自転車です。

前者は、最初から、日誌と音楽配信をも発展させたもので、既存の進化版ですが、後者は、小学校の後半に覚えた自転車に乗ることを、未知のエリアへ冒険すること という、直観の興味をそそる形で、展開させます。

ここで、感覚を鍛えて、社会的な世界での移動能力、という、大技を、他をすっ飛ばして、覚えるに至ります。




直観(型)の弱点は、感覚ですから、私の場合は、外向が投影されます。

ロングライドは、身体をマネージメントしているからというより、周りが無茶だという基準でもお構いなしに、行きたいところに、繰り返し行けるように安全に取った方法で、貫いた結果です。

まず第一に健康のことを考えるならば、こんなに、乗りません!


ということで、今、歩行者生活にシフトできるのは、その、大技を、覚えたからで、これで、無理をして、遠くまで行く必要が、無くなりました。

私にとって、自転車をスポーツとしてやり続けることは、はたから見るより、はるかに困難だったようで、それを自分で分かっていないところが、むしろ、それを裏付けてます。

ゆえに、自転車に乗ることには、自分が想像だにしていない、大きな意味があった、と思います。


現に、これによって、社会側、外向感覚側の、自転車旅の中に、色々な共時性が起き、気づけるようになり、内面と予知の手がかりや根拠が、よく見えるようになりました。

まぁ、強迫症状の方は、マシになっても、完全には、消えていませんが。




ユングのモデルは、本人も言っているように、いわば、理想気体型で、人間は、そんなに単純であるはずがありません。

私に言わせていただくと、第2層によって、ケンタウロスは、ある程度、型の対になる壁を、越えます。

マズローの時代、すでに、ユング本人は 心理学の世界に かかわっていなかったと思いますので、これは、心理学史では、自然な流れでしょう。


私は、非二元的な領域では直観型、粗大な領域では感覚型、にシフトしている可能性があります。

この2つは、元は同じグラフ軸の 対極にあるような関係で、知覚的な、センス型です。


超越、第3層に向けての成長は、直観機能によって、自力で行いやすいと思いますが、ユングは、対極にある型にエネルギーを注いで、次へ行くんだと言ってます。

そこで、あたらしい、エイジェンシーとコミュニオンが、生まれるわけですよね。


ユングの『タイプ論』は、非常に読み応えのある本で、10章を読んで、これを書いておりますが、引用も交えて、どんな内容なのかも見ていきましょう。

引用は太字です。 引用元などは、ラストに付記します。




感覚は無意識的な前提によって取捨選択される――著しく高く評価されている感覚である。――直観はより大きな〔可能性〕を捉えようとする、なぜなら〔予感〕が最もうまく働くのは、まさに可能性の直覚によるからである。

P395


これは、直観型の説明ですが、感覚型との共通〝知覚〟として捉えることもできます。


直観、予感など、ユングは、普通に使っていて、現代の常識が遅れていることが、よく分かります。

ガチガチの科学世界である、医学界でも、ユングは、よく知られているでしょ?


私が、たびたび、自己関連ラインの他に伸びる、時間と空間のライン、の、ある意味での男性方向と女性方向のタイプ、として、空間予知と、時間予知を上げている、その現象、進化が起きているであろう 人々を、ユングはタイプで表し、それが『直観型』です。

私が自転車に乗れたように、感覚型でも、時間と空間のラインを第3層まで伸ばせるのは、普通に可能でしょう。


そして、外側に共時性が起きていくとも言いましたが、内面でも外面でも、みらいのことばでも、その〝評価されている知覚〟の シンクロニシティは偶発的、つまり〝無意識〟です。


ここで、わたしは、ノイマンを出しますが、彼の研究については、以前、紹介して解説してます

ノイマンの本にも翻訳用語として出てくる『超個人的』は、集合的無意識、すなわち、形態形成場の意味で、ケン・ウィルバー『統合的なマインドフルネス論』の〝第3層の抱握〟〝たんぱく質の構造がクリアされると似たようなものが合成に成功しやすくなる話〟と同じ〝形態形成場の話〟です。

他に、超個人的という言葉は、ただの、稚拙な無意識を表す場合があり、インテグラル理論で、高度と象限を特定して解釈する必要があります。




人々の中に何らかの能力や可能性を予感する力をもっているため、彼は人々を「育て上げる」こともできる。――自らの生をいとも簡単に浪費してしまう――生き生きするのは彼自身ではなく相手の方だからである

P398


私は、みらいのことば、共時性をリンキングされる立場にありますが、社会的には、全くの無名です。

理由は、理解されないから、許容範囲を越えているから、です。


ややこしいことに、巻き込まれたくない内向型なので、描くだけ書いていますが、予知や予感は、次世代の子どもでも普通に使うので、ユングの著作でも常識なように、私の書いている現状が、おかしいということは、無いでしょう。


そして、私を、ある種、意図的に悪用しようとする人がいた場合、彼らに、ある種、私のアドレスにもある、パワーが、伝導してしまう恐れが、非常に強いです。

そして、私は、無自覚です。


似た例は、優秀な科学者が、原子力の研究をしていると、世界大戦に使われた、という話ですよね。

これは、内面にも、あり得ます。


私の人生は、誰かのためにも、あるようです。

そして、その人間関係は、きわめて、驚くべき メカニズムなようです。


ただでさえ、感覚的に疲れやすい私が、利益を得られずに、ただ、年を取っていくだけというのは、つらいですよー。




努力するにもかかわらず、客体や客観的事実は圧倒的な影響力を持ち続け、――個人を無意識のうちに捉えるために意識では抵抗できない――。――「自分を保つ」ために、――内的作業を絶えず必要としている。――典型的な神経症形態は〔神経衰弱〕――神経過敏、他方で疲れやすさや慢性疲労という特徴をもつ。

P407―P408


内向的な人々は、皆、このように、インテグラルな職業、第2層、ティール革命としての〝可能性〟を、模索・実践していくしか、幸せに向かう方法が、無い気がします。

マズローの登場により、人間性の心理学、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントは、発生し、内面性と創造性は、より、正しく、勢いづいて、理解されるようになりましたよね。


JAZZもピカピカ、20世紀当時の、ユングの時代より、数十年後。 大規模に、ポストモダン〝グリーン〟の波が創発しました。

彼らの脱構築の狙いは、〝抑圧された感情を開放し、厄介な内向タイプの表現形式、ツールを見出せ!〟と、分かりやすく、見れませんか?


つまり、グリーンは、内向型や、感情型が、外向型や社会に〝差別〟されないために、力を貸し続けた、と思います。

(ただし、そのグリーン、自らの羅針盤も壊しましたが。)




内向的感情は――人前に姿を見せることはきわめて稀であり、現われるときは必ずといってよいほど誤解される。――自らの目的に合わない客体に対しては、その上を何の注意も払わずに通り過ぎていくように見える。――感情内容よりも思考内容の方が分かりやすく表わせるという事実――困難はおそらく倍加する――伝えるためには外的な形式を見出さなければ――自分本位によって歪められると共感を得られなくなって――外に対しては協調的な控え目な態度・好ましい落ちついた物腰・共感的に相手に合わせる態度――人の幸不幸などどうでもよいと思っているのでは――うまくやっていけるのは、客体が穏やかな感情状態を保っていて、こちらの邪魔をしない場合にかぎられる。――感動させるもの――に出会うと――好意的な中立の態度をとって見守るが、――優越的批判的な心の動き――敏感な客体は――気勢をそがれてしまう。

P417―P420 ―― 客体=みんな (誰か・環境含む)


まい (ノーザン・ミュージック) に会って、握手するときに、私に対して〝微妙に素通り?〟されたのは、記憶に、少し古いですが、内向型同士の出会いと発展なんて、そういうものです。

外向型を強く発展させた人は、アーティストとして、事情を知るや否や、権力的な防衛線を張るでしょ?

それは、時に 不毛な闘いにまで 崩壊し…。


それはさておき、私が、自転車に乗って、大技!〝クルマ扱いで移動する、自転車の活用能力〟を覚えても、それ以外の様々な外向感覚型のスキル〝過失割合を相手に丹念に説明して納得してもらう話術(の感覚的テンション)〟などは〝下の下〟です。

内向感情タイプの場合は、対になっている、思考が弱点ですから、本人も歌っているように〝思考停止〟になります。


このように、内向型が〝芸術家〟として、生計を立てていくことは、今の時代、とてつもなく、厄介です。




私は、直観の次に、それと親和性のある、思考を発展させましたから、ユングの理論でも、直観の肩を持たない、新たな 判断領域は、感情の発展となります。

(ユングの理論で言うと、第1のメイン型、第2のサブ型、2つが結び付き、その後、第3の、サブ型の対極型が出て、ラストの型のジャンプ台になります。)

ここから、外向型にもシフトしていくと、感覚を鍛えることができる条件が、揃ってきます。

ゆえに、上記の感情型のつらさも、今の私には、分かります。


私は、五感機能の基礎能力は 高い方なので、それを 感覚型のようには 活用できない、ということです。

はたから見れば、活用できていないのかどうかさえ、全く見えませんけどね。




桜井さんの場合、余計なことをいろいろ考えながらもセンスが良く、直観的で 知的ですから、私の、訳の分からないパーソナリティに、ウィークポイントの〝ハートで共感〟することこそ、彼の、第3層への到達という フェーズ=ゴール だったのでは、と 感じました。

感情が弱点でなければ、内向型の人々は、上記のようなスルー (ノーリアクション) を平気でやらかし、内なる複雑な感情の意味を、よく理解できます。


私は、感覚が鋭く、その領域の強迫症状も持っていたので、人が第3層に行く中で、色々な視点を重ね合わせて、人を見ていくしか、ありません。

ユングのタイプ論は、実は、のちに、高度なインテグラル理論を必要とする問題で、存在の指示対象となる領域は、深く甚大です。

(単なるタイプ論だけでは、解決できません!)




自分がそもそも否定的にしか見られていないことをはっきりと感ずる、すなわち比較的穏やかな場合には自分が余計者のような気がしてくるし、もっと悪い場合には――拒絶されていると感ずる。――あらゆる内向型の人の特徴であり、――【理解を】 むずかしくしているのである。

P413 ――【】は文脈上の私の付記説明


ミスチルの歌には、繰り返し、このタイプの描写が解釈できますよね。


社会に適応しようとすると、無理が出てきて、しかし、なぜだか、まったくわからない!!

他の人々は、平気で、社会人生を謳歌しているのに、自分は、まったく、おもしろくなくて、満たされない。

これは、いったい、なぜなのか。

どうすればいいのか。

何をすれば、解決に向かうことが、できるのか?


誰も教えてくれない、

どうしても、先が見えない。

有名になったとしても、それだけでは、何もない。

無名のままなら、袋小路で、自分がつぶれる。




それと同じことを考え、感じている仲間が、実は、第3層に向かって、走っているのですけれども、そんなことは、内向型の人々にとって、ほぼ、見えませんから、『直観』という、斬新な機能を、自分のものにしていかないと、世界が、いつになっても、すてきなものには、なりません。

私は、「進化の構造」、そして、インテグラル理論に出会って、思想家として、これを表現する道を見つけて、無名なままでも、自分をバランス化することが、できました。

今の時代には、課題が多く、やらないよりは、やるほうがいいのです!

そこで、直観というタイプは、私の中で、少しずつ自然に、許容されていきました。


自分がそうだとは、夢にも思っていないんですけど…ω。




冒険を外的に現実化――自らの思想【アート・主張・視点】を世に出すにしても、――投げ出すようにし、――実務的な能力を極度に欠いているが、いかなる形でも宣伝を嫌うため、――専門領域【そのホロンのコミュニオン】における――どうしたら彼らの好意を得られるのかまったく分からない――

P414 ――内向思考型を基準にした説明。【】は文脈上の私の付記説明。


タイプはどうあれ、基本的に、私のことです。

自転車に乗って郊外へ行くと、癒されるところで、この現実から距離を置いて、そこから、直観の実感、感覚があります。


思考や感情のタイプが基準だと、予知は、時空間のラインの男性的なタイプ〝空間予知〟となって、状態―段階は〝サトル〟〝コーザル〟そして、〝ウイットネス〟(エアデジャヴー と呼べます) 、これらが、重心となるでしょう。

私のように、直観と、ある種の感覚を基準にしているタイプならば、グロスの地に足を付けた〝非二元(ノンデュアル)〟が閃光した〝時間予知〟つまり、予感として、第3層で花開くのでしょう。

時間予知は、時空間のラインの女性的なタイプです。


いまや、この、予感だけが、私と世界のコミュニオンをつなぐ、明確な絆、根拠のような、気がします。

常識では、単なる、日常的に おもしろみもない、成功していないヤツです。




外向的な評価の仕方にいやでも歩調を合わせなければならない。――われわれの時代において、それもとくに時代の先端を行く運動において、主観的要因が過剰に・それゆえ悪趣味で戯画的な形で・姿を現わしているのも驚くにはあたらない。私が言っているのは現代芸術のことである。

P424


現代社会を、ユングに、手厳しく、あるいは、ユーモラスに、語ってもらいました✧ (≧▽≦)♡


私は、この末路が嫌で、直観的、感覚的に、強迫観念にとらわれないように、成長できる先を手探りで実感できるようにしながら、このコーナーを報告しております。

ユングによると、主機能が〝直観〟あるいは〝感覚〟ならば、常識を判断することができる能力〝感情〟そして〝思考〟の領域を、発達させることで、こうはならない、とのことです。

しかし、基本的に、この両者のタイプは、感情もマインドも発達させずに、シャドーと視点化に無知なまま、一生を過ごしていくようです。

外向感覚型なら、ある種の、飽食主義のような、快楽ライフに、浸かり切っていくでしょうし、それは、無意識なので、脱出できないわけです。

そういったものを、芸術で表現するとすれば、それは、社会が、うまくいっていないからです。

芸術家でない者が、主に、外向思考型の者が、これを表現した結果、〝交通戦争〟が起きました。

フラットランドとは、そういう意図です。

便利で早くて効率の良いものがすべてで、それ以外は考える意味を最初から消し去ってしまえ!ということです。

よって、法律上の〝歩行者優先〟は、文だけで、何の意味も、持たなくなります。


私は、クルマ扱いで自転車を走らせますから、細かいところ、安全上の2段階右折など 当然のものは説明しないとして、速度以外は〝クルマと同じルールで〟移動できます。

よって、私がクルマ(車両)に乗っている、とみなせれば、クルマ(車両)に乗っているすべての者が、歩行者優先のルールを守れないことは、あり得ない、いいわけであることが、証明できます。

後は、どの高度と象限から、それをサポートできるか、ということでしょうね。




影響がそれほど強く迫ってこない場合には、――関わりをもたない好意的中立の態度――穏やかにほどよく――熱狂的なものは鎮められ、極端なものは抑えられ――影響力をしかるべき範囲内に留めておく――無害であるとは言い切れない――無害である場合――攻撃や支配欲の餌食になりやすい。――現実の平凡さとに満足し――対処している

P428―P429 ―― 内向感覚型の説明。感情型と似ている。


先ほど挙げました、感覚タイプの、ユングによる説明です!


実は私は、予備知識のないライブを見るときなどで、この反応をしています(笑)

未来、可能性があると思えれば、私は、音楽領域など、自転車と組み合わせて感性を発揮できるようなイベントには、こういった感覚を、使っているらしいです。

しかし、行動力自体はないので、かなり、努力して、行きやすい条件を、整え続ける必要があります。


TVゲームひとつ行うだけで、しばらくは、自転車で出かけることができない、というほど、私の感覚は、一次元的です。

制約を取れば、わりと、感覚能力を使えます。


昔、まだ、自転車で車道を走るのを覚えたての若かりし頃、すり抜けをせずに走る方法に無防備で、運転の総合的な危険性を、肌で感じることが、できていなかったと思います。 スレスレで抜かされる実感・脅威も。

これが、生粋の感覚型なら、危ないことが分かっていてやるのでしょうが、私は、ただ、新たな可能性としての、移動能力に目を奪われて、再び自転車に乗り、その後、ここ数年のスポーツ自転車ライフを実践するフェーズまで、色々なことに、無頓着だったと思います。

皆が当たり前のようにやっていることが〝危険〟だと、皆は分かっているのに、私は分かっていない、なのに、まねてしまう。

それが、私が、感覚を、限定的にしか使えていなかった、十分な証拠だと思います。

ただし、生粋だが稚拙な感覚型も、感情や思考での判断ができないため、同じようになるでしょうね。


さて。 私が、感覚をあまり使えていないらしい、直観タイプであろうことを、もう少し、洞察していきましょう。




神秘的な夢想家と予見者、他方では夢想家と芸術家――直観型の人は知覚を大切にし、彼の最大の関心事は知覚することであり、彼が生産的な芸術家である場合にはその知覚されたものに形を与えることである。――直観が深まると――現実からしばしば極端に離れるようになり――ぶらぶらしている大人物――であることが多い。――道徳的なものへ転換――自分ないし世界にとっていかなる意味をもっているのか――内的で永遠な意味には適っているがいま目の前にある現実――理解されないまま――あまりに主観的すぎる。――告白し述べ伝える――荒野に叫ぶ説教者――最も多く抑圧するのは客体の感覚――強迫神経症――心気症現象・五感の過敏症・特定の人物ないしその他の客体への強迫的固着――外から判断する人にはほとんど理解できない。――自分で自分のことが分からない――どうして自分が周りからいつも過小評価されるのかも理解できない。――他ならぬ運命の力によって、彼は圧倒的な外界の困難に――出会うが、それによって内的直覚のもたらす陶酔状態から眼を覚ます

P432―P435


私が最も苦痛に感じつつ苦労してきたのは、身体的・生理的なものでした。


ライブで人前に出ようとする機会自体が、自分の正常なバランス回転をバラバラにするよう、感じ続けていたのです。

ファッションに疎く、人の認識がザルで、さらに、女の子の、形式的にも刺激溢れる制服など、脅迫的に、興味を持ったことも、少なくありませんでした。


つまり、わたしは、感覚に優れていても、直観的な気質の方を優先して、自分の世界に入りながら、生まれ育ってきた、存在だと言えましょう。




私は、ボーっとするのが、嫌いではないので、上記の〝知覚〟は〝自分の世界〟として、よく周りから指摘されていました。

そして、その〝何もしない〟は、感覚を使いますが、五感とあまり関係がないところの内面で、色々なことを起こそうとしている、ということらしいです。


ケン・ウィルバーは、ワン・テイストの日記内の〝占星術反論の回〟で〝微弱な共時的エネルギーは、物質側から上向きに来るのでは?〟との意見を出していましたが、これは、〝直観は感覚を手掛かりに使っている〟と、ユングとも似た意見に見れるわけです。

ただ、形態形成場と抱握の視点もありますから、いろいろ、多方向から状態と情報が、時間として、走り回っていることは、確実です。

クリシュナムルティも、ボームとの対話で、〝思考の終焉は 脳の物質的な過程を越えていくこと〟という風にとらえることができたので、それが、洞察―直観でしょう。




私が、小規模のライブを聴いていた時、手拍子がしたくて、乗れるように、話しかけてきた隣の人に、それとなく会話を返し、結局は、その人は、ノリノリになりました。

彼は、そのステージに立っていた人のファンだったのですが、耳元で、強い音の口笛を吹かれて、私の耳が、ちょっと、やばくなったのです。

ステージ上のその人は、一時前、声の大きさを、さりげなく、指摘していました。


ここで、ステージの彼は、音楽耳を持っている人に、爆音は厳禁であることを、知っているはずです。

感覚的に、それを防衛するべきだと、分かっていたのではないでしょうか。

ステージの彼は、楽しんで盛り上げてほしいと言っていましたが、そこにも、責任的〝例外〟はあるものです。

そして、原因はというと、例の、周りの他人を力づける、直観型の能力を使い、感覚が疎いために、防衛として不十分な状態で、環境を見ずに、隣の人を、スーパーハイテンションにしてしまった、私が、居ます。


そのライブは、楽しかったけど、ひとつ、ものを知りました。

というか、今まで、その感覚視点に、全く気付いていなかったようです。


これを書いたのは、直観型の人は、自分の身体や健康に疎く、それを置き去りにする人が多いと、ユングが言っていたことに関係します。

私の場合、もし、片耳が聞こえなくなったら、自殺するかも、と、気分が落ち、社会的に、とんでもないことを、さらっと想起することがあります。

これは、外向感覚の領域で、一部の健康が消えれば、残りの健康が消えてもお構いなくいられる、という (シャドーの)感覚です。

ドナーさえいれば助かる心臓病の人の視点を考えてみると、上記の考え方は、感覚が疎く、具体的な感覚経験に乏しい〝主張〟です。


なかなか、気づきにくい、微妙なタイプ関係ですが、金銭に関しては、私は、マインドで扱うようです。

特別な時は、または、直観的にこれが必要だと感じて支払えれば、私は、確かに、買い物しますからね。

自然な節約にとどめ、そこまで、我慢はしないです。

生粋の感覚型は、度を越えて、がめつくなれるらしいですからね。




まとめに入りましょう。




知覚(センス)系、判断(パーソナル)系


前者が、感覚型と直観型、後者が、感情型と思考型、です。

センス系は、無意識的な知覚を日常的に使いこなしていき、パーソナル系は、意識的な判断を日常世界に反映させてゆく、ということです。


このコーナーも、私が、直観的に、文章を紡いでいます。

基本は、思い浮かんだことを、そのまま、キーボードで打っていくだけです。

苦労するのは、ユングの本を探し、読み、理解して、読み返して、引用をするところ、です。

ここまでなら、感覚―思考型の方が、楽にやってのけるでしょう。


だれでも、たぶん、思い浮かんだことを、口にできると思いますが、私は、それを、発展させました。

従来の感覚は、それを、邪魔するようです。

私が、生理学的に、ひとりごとを道中で言うのも、この感覚を、うまく 直観の中に送風するため、なのかもしれませんね!


私と比べてですが、内向感覚型の人が、戦争について、恐れるとしますと、〝未来の嫌な予感〟にとらわれるように思います。 外向直観が、彼らの弱点だからです。

私の場合、強迫観念は セクシュアリティなど、人物の外面と社会に向かい、戦争に関しては、危険を呼びかけ合って、対策をとればいい、と、主張するでしょう。

混乱はせず、このブログでも、戦争をさせないことは、メインテーマです。




別の例を挙げます。


ケーキ屋さんがあって、どれが有名になるでしょうか? という、コンテスト的な判断をする機会があるとしますと・・・。


私は、チェーン店の可能性には、基本的に興味がなく、持ち合わせがあれば、個人店派です。

感覚型の人は、確実に、今のおいしさで、何らかの基準をもって、選ぶでしょう。

私の場合は、宵のライブで このケーキが こんな雰囲気で出たら こんなファンタジーが生まれるかもしれない、など、特別な時間が 産まれる 予感がするような、そんな味のケーキ、美しさから、選ぶ傾向が、確実にあります。

ただ、おいしいことは、かなり、重要ですよ!


でも、コスパでは、スーパーの半額のケーキって、おいしいんですよね…。

私の舌って、庶民だわ www。





さて。

感情型の話も、少し。


アニメを描くにあたって、優れた感覚は、必ずしも必要ないのではないでしょうか。


メロディを引っ張ってくるときに夢で鳴っているものを、邪魔しないためには、意識的な感覚は クリアにする必要があります。

ユングなら、直観をブロックするから 抑圧している、と言っている、感覚ですよー。


アニメも同様で、絵は、感情で直観的に描くことが、できると思います。

直観型のゆきちゃんが、ハートで絵を描くと、今、私が、直観的にマインドを使ってやっているものの、Bバージョンが、生まれるのでしょう。


感情と直観は、キャラクターには強く、ストーリーには弱い気がします。

ただし、マインドを鍛えれば、直観と使えますから、それが、感覚側に味方するとはいえ、非常に多彩な明日が開けそうです。

(3番目が感覚なら…。 ここで、『ワンピース』が、出てくるんですよね!!)




ちなみに、私は、様々なキャラクターとしての、人間の絵を描ける気がしません。

そういえば、考えていることを、よく忘れるのって、私が、直観―思考型の 器質的条件・特徴 (ヤドン) を、よく表しているって思いませんか!

本を読んでいるときの、各種単語の意味を、詳細に救い取るのが苦手なのも、ギターのコードは分かるけどメロディを弾くのも 楽譜を読むのも 不要で やりたくないと思うことも。


特に、ギターソロと、オタマジャクシに関しては、音楽家としてどうなのよ? となるのを、私の中で防ぐため、こうして、インテグラルな専門分野に、ハートを 突っ込んでいます!

何をするにも、自分に合ったことを理解して、そこに、継続的な時間を セッティングしていって、無駄にならないように。 それは、すばらしい活動になりますから、私は、これが、理性的だと、思っております。

クルマという便利に乗るために、自転車を極めるのも ですよ。


中ごろに触れた、ポストモダン〝グリーンの波〟ですが、内向的・感情的な〝表現形式〟を、こうして、時代の中で創っていくと、直観(予知・予感)を救うことに、なるでしょ?

だから、深さ(n)が、インテグラルな、ティール革命が、必要不可欠なんですよ!!








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引用についての、説明を示して、このコーナーを 終わります。


C.G.ユング「タイプ論」 林 道義 訳 (みすず書房)

2022年4月15日 第16刷

10章 「タイプの一般的説明」 から、太字にて、引用。


傍点=〔 〕

――の間には 著作内の文章が入り、短くするためにも、直観的に意味の取れる範囲で、快速扱いで飛ばしています。

少し長めにまとめて引用する形式をとっています。 上記の――引用形式も含めて、ユングの主張は強力なので、理解されにくい、人物のタイプを理解する目的ならば、その方が、分かりやすいと思いました。


posted by インテグラルとど at 17:32| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2023年09月23日

ティール組織の「メタ事実」🎵 「自転車」の日常世界でアクション!!



ティール組織 の本を読んでみました。


思ったことは、触れられている〝いま〟は、メタ要素にメタ要素を重ねたもの で、社会で展開するには、うんと複雑になることです。

私は、会社横断的な、特定の会社に属さない という意味で、これを定義してました。

上記の本たちは、その、エイジェンシー版と言えましょう。

(例えば、グーグルは、企業―エイジェンシーとして、グリーンでしょうが、そのグーグルマップは、自転車でコストを削減するうえで、第2層に応用できるので、グーグルの意図はともかくとして、ツールを、会社に依存しないコミュニオンとしての、ティール組織に、加えられます。 これは、ポスト形而上学においての、私の、主張―定立、です。)


ティール組織は、コミュニオン、仲間の存在が重要で、リーダー(会社の場合はCEOらしい) がティールに達していることが、カギになります。

それをふまえて、未解決の問題、まだ主流でないインテグラルなOSを、手探りで開発していく、ということです。




私は、会社、というか、社会に適応できない (※すべての人に当てはまるわけではない)、内向直観型、の、思考―様子を見てから行動するタイプ、らしいので、あえて、そうすることで、責任のハードルを上げました。

アンバーなら、怠け者とか言いますが、これを書くのをジャマする 社会強制的なコストも含めて、余計な〝食料を与えるな、そしたら金だけは稼ぐだろう〟式の 邪魔な ドミネーターヒエラルキーを、全部排除していったわけです。

食べることができれば、世界から魔法のように、戦争が消える、わけがないからです。

むしろ、格差から、それを助長するでしょう。


というわけで、今回は、やや短いコーナーとします。 (いや、長いかな・・・(笑))

要点は、私自身を、歩く、みらいのことば、地球市民社会としての〝ティール組織〟と捉えて、生きている ということ。

これを、自転車に乗る視点から、本書にあてはめますね。




私が、中央区のライブを見るために、ままちゃりで、あまり走りたくない〝危なさAの道〟を、通っていた近況。

周りの自転車は信号無視、歩行者多い、歩道は見通し悪い、車道は路上駐車、クルマは溢れていて、道もあまり選べない。

挙げると、不満しか出てきませんが、慣れていても、意味がないと言える道です。


唯一の対抗策は、クルマが来ていないときに、車道を走る、という方法です。

これは、ティール組織の会社が、苦労をしているときの状況に、ぴったりですよね。




私の自転車は、ロングライド、遠くまで行く実用規格、郊外型のルートを結ぶことが、前提 です。

それを、短距離、中距離の都市部に、応用 します。

この場合、規格のメインではなく、リスク は 上がります。

それを、主体的に選択していけるだけの、経験 を、得ていく。

これを〝ティール型、段階3の走行方法〟だと、私は言いました。

クルマ、バイク、自転車、どれでも可能 です。

ティール組織の会社も、こうして、〝コミュニティ〟から、主体的な責任 を負います。

私も、〝段階3走行の形態形成場〟というコミュニオン から、同様のことをします。


だから、はたから見れば危なそうに見える私の走行は、ただ単に、外側から観察するだけで、核が見えるものではありません

都市部で走っている私を見ても、郊外型のロングライド規格だとは、分からないでしょう

ダイヤは、トランプの規則、構造主義的で、その法則は見えません。


以上から、たかが自転車、と思われる、現代の交通戦争の還元主義的常識に、堂々、異議を唱え、モノ申しましょう。




『』太字は、ティール組織(フレデリック・ラルー / 2018 訳 / P216)から。

(漢数字は 文章統一の意味でも、通常の数字にしています。)




ティール型の企業・組織において、困難な問題を乗り越えるときに、コミュニオン内でトラブルがあったときの、人間関係の展開です。

まず、説明責任を負っている、『2人だけで解決策を探ろう』 フェーズで、ティール型を主張―定立します。

ゲームのRPGで例えるなら、1人の人の中に、あらゆるシナリオ、世界、登場人物が登場する、ソフトそのものだ と とらえるのです。

相手も同様で、私がドラクエなら、相手はFF。 それぞれ、自分の世界内に、相手が登場できる余地がある のです。

グリーンでは、すべての人物を、ヘテラーキー内のRPGに登場する、客体的な感情エネルギー的存在として、等価でとらえます。

グリーンでは、説明責任を、コミュニティに還元して、依存させるので、永遠にあいまいな決定となります。

つまり、段階3の走行方法は、完全自動運転も、創発しません。


このフェーズで、ママチャリに乗っている私は、しかたなく、交通量は少ないが、ちょっと野蛮な、兵庫区―長田区エリアを、夜遅くに、走るとします。

そして、後ろから車が来ないことを確かめて、ブロックできるように、車列に入る規格で、左車線の停止線に、停まります。

右隣の車線に、前の信号で ぎりぎり引っかかってしまったらしい クルマが居て、自転車は端を、そして歩道を走らないと、クルマにとって、そいつにとってジャマで困るから、脅してくるとします。


そやつは、レッド色の、本来免許を持ってはいけない クルマです。

当然、2車線あれば、並列できるのは当たり前で、そのクルマは、ルールをわかっていません。

また、左車線が左折、右車線が左折と直進、歩道は見通しが悪く狭く 自転車がルールを無視して 歩行者もいる、という、ふざけた交差点の場合、横断歩道を ホッチキス型に押して 迂回して移動する方法 を取るより有効ならば、停止線がベストです。


これを判らせる、主張―定立できるかが、ティール組織としての持続性へのカギです。

私は、社会に適応しては働かないこと、を実践することで、ティール組織という社会の象限の現在を、構成する方法を、模索、こうして、自転車で示せるまでになった、ということです。

そして、今、議論をしてます。




もし、ここで、そのクルマに負けたら、今後、車道を走れなくなるでしょう。

だとすれば、歩道だと、安全運転の義務を ティール型において長期的には果たせないので、歩きの方が良いことになる、自転車を実用的に使えなくなります。

車道を走る権利を、守らなければ、なりません。

自転車の車道走行 = ティールの会社 と捉えましょう。


後ろから、バス(=同僚・車両)が来ました。

別の同僚に仲裁者として参加』 してもらいます。

これは、バス=目撃者としての立場、に近い扱いですよね。

レッドのクルマは、私に、もう、無茶は出来ません。

運転席が向こうなので、確率は低いですが、ドアを開けて降りてこられれば、歩行者になって、歩道に逃げるしかありません。

そうすれば、相手は、自転車の走行妨害、クルマVS歩行者、という、2つの〝不利な状況〟を相手にする羽目になります

相手の無意識を突くのです。

そして、〝法律を盾〟にします

これを定立するために、後ろにバスが来るのは、いいですね!!




後は、左車線から直進して、交差点をパス、クルマが、直進なら、交差点後に、追い越してもらって、クリアです。

歩道付近では、3台の自転車が、見通しが悪い地点で、ばらばらに、ルールを無視しており、クルマはそれを見ているはずなのに、ノータッチです。 あり得ません。


そのクルマは、そのうち、なんらかのツケが、来ます。

会社では、汚職、業績悪化、甚大なミス、などと同じところです。

同僚たちの委員会』という〝一般の道路交通〟の 常識―ルールが生きている部分 によって、そのクルマのその後を、判定してもらいます。

彼は、他のクルマとも、きっと、トラブルになるでしょう。


ポイントは、私の走行の場合、ほとんど、端に退避して、クルマをパスさせるということで、クルマが、私にしゃべりかける機会、喧嘩を売る機会は、レアです。 今回をしのいだら、同じ人物に会うことは、なさそうです。

よって、都市部を走るときは、こういったことが起きないように、頻度を減らし、用事をひとまとめにし、極力密度の濃いイベントにしか使わないようにして、歩きでも近場の用事をこなし、ダイヤを調整していくこと で、完成を見ます。


私が車道の端で退避しているときは、クルマの相対速度は、クルマが出しているスピードなので、クルマには、〝スピードを出さない安全運転の主体的責任〟〝自転車がルールを守って車を先に行かせているという対話に応える主体的責任〟の2つが、無視できない形で、発生します。

そう捉えて、発生させています。

弱虫ペダルでは、〝車道ではスピードを出していないほうが危ない〟と言われますが、その意味をティールでとらえると、退避停車で逆手に取ることもできる わけです。

これは、きっちりと、道路交通法に描かれている解釈で、行っている退避 です。




実は、『』内のフェーズは、ティール型の会社においての、職場を離脱した方が良いかもしれない同僚に向けての、対応です。

めったにないことなのですが・・・。

私の例でのレッドの道徳段階のクルマ(段階1の走行・自転車なら歩道走行と路側帯逆走運転のフェーズです)に当たります。

そのクルマから、免許を取り除く方がいいと私が考えた場合 は、こうして、私の段階3の走行―退避によって、日々コミュニケーションをとった、地元のクルマ文化に、そやつの相手をしてもらいます。

これで、少しずつ、交通戦争が、解決に向かい、ティール型の〝運転免許システム〟が創発します




このように、見えない、メタ要素がふんだんに盛り込まれた〝ティール組織〟は、見かけより複雑 です。

レッド+アンバー+オレンジ+グリーン の企業の総和、より、ティールの集まりの方が、多くの問題解決方法を より短時間で、深く洞察します。

自転車でAクラスの車道を走るのが危ないからという理由で、このメタ要素を、葬り去れると思った、レッドのクルマは、長い目で見て、大きな勘違いをしています。

そして、喧嘩しなければ伝わらない、というのも違います。

ケン・ウィルバーが言うように、〝論争は権威的なものを判らせる 尊敬すべき方法だけど、喧嘩しない方法もあるよ〟というわけです。


イラスト付きのティール組織の本の方で、自転車の例が出てきて、オレンジ型では、あるいは 地図を持って このルートを行けば こうなるはずだ、という旅が、予想外になったら、あれのせい これのせい、となる例を紹介していました。

私なら、グーグルマップで、調べているときに、オレンジ的な要素を展開し、失敗したときに直面する痛みも、体験しておきます

そして、何も考えずに、同ルートを走るのです。

道を忘れたら、雨が降ってきたら、それはそれです。

走っているときは、直観を使えるように、簡単な感覚だけで移動できるようにしているので、オレンジ型は、ハートも準備不足だと言えましょう


推測する未来と、リアルに走る今とは、全く別のものです。

ティール組織は、つねに、後者を選択します。

ピラミッド型のドミネーターヒエラルキー、グリーンも含めて グロースな階層でない、すべては、その勝手まがいの未来は、コストです!!




以上が、ティール組織のメタ要素を、私なりに捉えた、近況です。

現在創発しつつあるコミュニティを、追っていく内容としての展開ならば、まだ古い土壌で、新しいことをやる、交通戦争内で自転車の段階3を実践する、なにか、不均衡なところがあって、ティール型の会社の今ある表面をまねても、意味はありません。本質は見えません。


これが メタ要素という意味で〝ジュエルペット てぃんくる☆のメインの制作チーム〟は、ティール組織 です。

(古い体制のテレビ局、権力者に逆らえないグリーンまでのCEOや株主は、こういったチームを、長期的には阻害します。 そこで、誰が、この文化に、主体的な説明責任を持つべきなのか、という課題が、生まれる わけですよ。 グリーンまでに任せておくと、見たとおり、権力者だけが、いいようにそれを悪用するからです。)

( わたし、そして、みんなのために、ぼそっと言いますね。 ―― ↑ この意味で、ティール組織の本に、作者が挙げていない、日本の具体的な企業の名前を、関連付けるのは、やめておいた方が良かったのでは…? こうやって、権力が…)




ティール組織は、現実の問題を、いやというほど体験して、それを解決できなかった経緯から、新たな冒険として、現在も もがきながら進む、偉大な運動、潮流、その、オーケストラ! シンフォニー・プレリュードです♪


posted by インテグラルとど at 09:56| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする