2022年05月05日

スーパー歩行者になる方法 ☆彡 ~信号無視する歩行者は 運転免許の保持者?~


自動車の運転免許とは、何なのでしょうか?

なぜ、交通戦争が起こっているのでしょうか?



これらの疑問を簡単に〝見る〟ことができる、会心の事実を〝発見〟しました。


自転車に乗って 車道を運転しているとき、歩行者が、信号無視をして、横断してくるのです。

今まで、彼らを、歩行者として、扱ってきましたが、歩行者と言っても、ひとくくりにはできないのです。


信号無視をしている歩行者は、クルマの運転免許を持っているのでしょうか?


私の判断・モラルでは、信号無視をする歩行者が 運転免許を持っている場合、必ず、返上しなければならない と、根源的に、主張します。

信号無視をする歩行者、つまり〝人間〟である その人 は、〝道徳段階=モラル〟が著しく低い からです。

別の言い方では、道路交通についての〝理解がない=重大な過失を見せびらかしている〟ということです。

これは、〝AQALは ピアノの弾き方と違い、意識外に追いやることは、その影響を積極的に許容すること〟と同じ視点です。

(人間の道徳段階[AQAL]は 簡単に変えられません。 つまり、ドライバー[≒人間]の道徳段階は、簡単に変えられない からなのです。)


自動車は、最も、〝信号順守への強制力≒クルマの倫理〟が働きます。

理由は、クルマ同士の衝突が、交通事故の中で、一瞬にして起こり、一番、悲惨だからです。


道徳段階が、レッド(3)の、自己中心的な、人間(≒ドライバー) であっても、この〝倫理(3)〟は働きます。

自分が死にたくないからです。

そして、この〝クルマの倫理(3)〟こそ、最もモラルなものだ、クルマは移動能力の頂点だから 歩行者、自転車、バイク含めて、一番偉い、そして、道徳的だ、と感じたいのでしょう。

しかし、それは、簡単に、反証されます。


自転車の運転免許とは、〝リスク〟です。

自転車は、クルマのように、運転免許が必要ではないのではなく、 (すでにあるという意味で) 必要なのです

必要な運転免許とは、〝リスク〟です。

リスクが、運転免許なのです。


リスクは、〝躓くことに意味はない〟〝死ぬことを計画に組み込むバカはいない〟を、全面的に意味します


勇気と知恵がなければ、つまり、高いモラルが無ければ、自転車は、簡単に免停になります。

自転車の免許とは、リスクですから、リスクが崩壊する=リスクを負えない状態になる わけです。

これは、健全性=潜在性 として考えると、ピュアな小学生は、潜在的に高いモラルを持っているので、自転車の運転免許を持つことができる、と説明できます


自転車は、リスクを引き受けることができないと、乗ることができません

クルマは、このリスクを極限まで割いて、リスク≒手動 を回避した 結果、〝自動車〟と呼ばれることになったのです。

よって、リスクでは クルマの免許にはならず、別の運転免許が、発行という形式で、成り立つことになりました。

ここから、交通戦争が、指摘され、そして、始まります。


クルマは、リスクを引き受けなくても、乗ることができるように設計されている ので、田舎では歩行者感覚で乗れるのが当たり前となっていますね。 (完全自動運転は、その極地・最終形態です。)

〝速度落とせ〟の表記が 道路上に見られるのも、この直接の表れです。

スピードを出すことにリスクはなく、にもかかわらず、非常に危ないので、運転免許を発行させる以外に、制限をかける方法が、見当たりませんでした。


しかし、これは、正しい方法だったのでしょうか?


クルマのドライバーは、慎重に運転することが、ありません。

適切に運転しようとします。

ここでの適切とは、クルマの倫理(4)を守るということです。

制限速度以上で流れている場合、制限速度を決して守らない、それが〝クルマの適切(4)〟です

そこに、慎重さは、無いのです。


適切(4)とは、〝免停にならないように〟運転すること です。

それさえできてしまえば、安泰なのです。


そこに、慎重さ、リスクはありません。


一方、自転車は、これらのことをすべて理解しない限り、安全に道路を走れません

クルマが〝適切(4)〟に運転するという〝ルール〟を知っていなければ、クルマに追い越されるときに、右左折されるときに、問題が生じます

しかし、クルマ側は、自転車のルール、つまり、リスクについては、知ったこっちゃありません。

クルマは、〝適切(4)〟に運転していればよいのですから。


この事実から、ひとつの視点が導かれます。

自転車は、クルマよりも、適切に、交通ルールを守ることができる、繊細さを持つ、ということです。


自転車は、クルマの上位互換〟なのです。


もう少し言うと、原付はクルマの上位互換、自転車は原付の上位互換、です。

さらに、歩行者との関係は、後に見ます。


自転車の運転免許は〝リスク〟ですが、これは、クルマよりも 適切に交通ルールを学ばなければ、クルマやバイク・原付が どのように道を走っているのか、さらに、自転車との関係は、どのようになるのか、を、あらゆる視点から学び続けていかないと、非常に、危険な目に遭い続けるのは 明白です。

自転車乗りが、自転車の運転免許の存在について、〝リスク〟の存在について、気づいていないとき、それは、非常に強烈な、見えないストレスとなって、自転車乗りに跳ね返ってきます

リスク=AQAL ですから、意識外に追いやることは、その影響を積極的に許容することになるのです。


クルマは〝適切(4)〟に走るだけでよいので、自転車の〝リスク〟というものが、いかに、難易度の高い〝見えない大仕事〟であるかが、お判りいただけたと思います。

(特に、クルマのドライバーに向けて発言しています。)


もし、この、自転車の大仕事=リスク を、完遂できたとしたら・・・。

クルマでは、決して身につかなかった、包括的な、道路交通の配慮、考察力が、身につくでしょう。


これを以って、自転車は、クルマの上位互換であることが、明確に立証されます。


クルマにしか乗っていない人は、この事実に、永久に気づくことはありません


では、歩行者として生きている人は、この視点を、どう扱うべきでしょうか?

どのような関係が、成り立つのでしょうか?


歩行者は、一番緩い存在であり、車両でもありません。

道路交通において、一番、ラフに ルールを扱えてしまいます。


しかし、それが、歩行者のメリットでしょうか?


自転車は〝車両で最強〟です。

道路交通を、包括的に見なければ成り立たないので、すべての車両の立ち位置と難点を あらゆる角度から見ることができます。

クルマの〝リスクを無くした、運転面(4)〟以外では。


しかし、車両は皆、完全な歩行者にはなれないという欠点 があります。

歩行者が唯一、車両の立場を脱ぐことができる存在 です。


歩行者状態は、ずっと昔の時代から、存在していたのですから。

そして、近未来的に〝歩行者〟をとらえたとき、そのメリットは、計り知れないことに、気づきませんか?


自転車は〝道路交通を包括的に見る〟ことができる〝可能性〟を持っていますが、あくまで、車両です。

クルマ、バイク、原付、自転車、すべての車両の視点の代表として、〝自転車の包括的視点〟が 定立されますが、これは、車両としてのデメリット、そのものでもあります。

歩行者には、車両としてのデメリットは、ありません。

歩行者は、車両より、あらゆる意味で、ソフトに自由なのです。



歩行者は、電車やバスに乗れます。飛行機に乗れます。パスポートも提示できます。

自転車は、にわか歩行者になれるため、車両の壁を越えることが可能な、たぶん、唯一の車両です。

この意味で、自転車は、部分的に、歩行者とみなせます。

やはり、自転車は、クルマの上位互換です。


歩行者は、ルールをラフに扱えますが、実際は、車両のすべてを包括できる自転車を、さらに包括することができる、可能性を秘めています

歩行者が、自転車を含む、すべての車両の上位互換である、という現実性 です。


もし、あなたが、自転車を包括的に学びつくしたなら、歩行者になったとき、必ず行っていることがありますね?

それは、〝信号を守ること〟です。


自転車は、リスクによって、信号を守ることの重要性を、最も、包括的なモラルで、直観します。

(クルマには、知ったこっちゃないでしょうが。)

自転車での信号順守は、非常に繊細な仕事であり、万が一にも、フラっと 信号を誤ってしまい、クルマに突っ込まれたら、シャレにもなりません。

クルマのように〝適切に(4)〟運転していればよいわけでもありませんから。


自転車で信号を守るために、自転車乗りが行うことは、2点です。


① 歩行者を最優先で配慮するために 歩行者になって歩く経験を積むこと。

② 歩行者の状態で信号を守ること。



①は、にわかではなく、真の歩行者として、歩行します。 ラフなルールになりがちな歩行者であっても、きっちり ②歩行者として 信号を守れるならば、自転車で信号を無視してしまうことは、ほぼ防げます。

この修行によって、歩行者で ずっと過ごしても、信号は、必ず守ることができるようになります。

なぜなら、自転車そして車両すべての視点が、歩行者との関係で、把握されているからです。

自転車で信号を無視することが危ないならば、相対的に、歩行者で信号無視しても 危ないのです

そして、自転車は、車両のトップ、上位互換なので、基本的に、歩行者が自転車に包括的理解を示している状態が、クルマに最も強く対策できる状態です

最強の自転車乗りを八星(☆8)まで鍛えた者は、スーパー歩行者になれます!!


クルマ+歩行者 で、すべてをまかなえてしまえる、と思っている者が、あまりに多い、と、ここで、強く主張できるでしょう。

冒頭で、私は、〝自転車に対して信号無視をしてくる歩行者〟の視点を挙げました。

これは、〝自転車に対して包括的な理解がない歩行者〟です。

つまり、信号無視をしている歩行者は〝八星(☆8)自転車乗り=スーパー歩行者〟ではない ということです。

また、〝信号無視をしている歩行者は 運転免許を持っているのか?〟とも問いました。

クルマは、〝適切(4)〟に運転していればよいので、自転車に対しては その程度の理解です。

車両としての包括性がない〝下位互換〟の乗り物であり、移動能力のために、他の大切なすべてを捨てて、交通戦争に加担する兵器となっているわけです。

これを縛るのが運転免許というわけですが、なるほど・・・。 そういう理由なら、信号無視をしている歩行者の大部分は、運転免許を持っているのではないのですか?


もしそうなら、大変なことになります。

運転免許とは、いわば〝モラルの証明(5)〟であり、クルマとは、いわば〝核ミサイル〟なのです。

原子力発電所を正しく駆動させるためには、適切な技術と、それを悪用しないためのモラルが必要になることは明白です。

原爆なら なおさら、兵器は、絶対に悪用しないモラル...がない者、に渡ると、そやつは、喜んで、世界を滅ぼします。

交通戦争は、基本的に、同じメカニズムです。

兵器は存在してはいけませんが、防衛は必要で、前者は 車両として下位互換の〝クルマの欠陥〟― 後者は 〝公共的・生活的な 移動能力〟にあたり、〝原発事故〟と〝原子力発電〟の関係と、ほぼ同じです。

決定的に重要なのは、防衛任務も、クルマも、原子力発電も、〝強いモラル〟が必要である点です。


運転免許が〝適切(4)〟にしか機能していないのなら、モラル(5)は 顧みられておらず、交通戦争≒核ミサイル≒原発事故 が成り立つ、直接の原因となっているわけです。

実際、交通戦争を許容すれば、核汚染も仕方がない、と取れます。

そんなわけは、無いでしょう?

あれだけ、ニュースになっているのですから。


私が気付いてしまった点のひとつは、信号無視をする歩行者は 運転免許を持っていてもおかしくない、ということです。

自転車の運転免許=リスク は、紙の形のない免許ですから、その影響は、直接、見えない形で 欠損します。

信号無視をしている歩行者が、クルマ系の 運転免許を取得する、自転車に乗り始める、いずれにしても 非常に困ったことになるでしょう。

運転免許は大人の証→信号無視をしているのは基本大人で子どもはそれをまねるだけ→大人の証とは信号無視をして免許を取れること!

という、非常に、混とんとした、最低なことになります


これは、偉いことから、ほど遠いです。

クルマは、乗り物で、モラル最低、道路交通で一番 下位互換的存在としてしか、居場所を主張できない上に、正しく運用も理解もされていない、というのが、クルマから聞こえる主張 ですよ。


☆彡


私は、以前、あまり、信号について、真剣になっていませんでした。

自転車に乗っても、かなり狭い商店街の中まで走ってよいと思うくらい、自転車を歩行者感覚で走らせていたこともありました。


これらはすべて、自転車を道路交通車両上 最強の上位互換として、包括的に学んでいかなかったからです。

クルマの、すぐに難癖付けてお高い欠陥を賠償させようとする冷血非情さと態度を、直観的に感じ取って、私は嫌気がさすほど、現実にショックを受け続け、自転車を包括的に学んでいこうと決意しました

AQALを知っていたので、自転車に適用することは、そこまで難しくなく、邪魔だったのは、現実はこうだという圧力と、間違った方法を取っていたことを改められない自分のプライドです。

クルマは、クラクションを鳴らし放題、歩行者と自転車に悲しみを与えて、喜んでいる社会です。

わたしは、何かをして、それを変えようと思いました。


クルマは、とにかく、歩行者自転車を目の敵にして、走行空間から追い出そうとします。

それを受け入れるのではなく、拒絶し、その証明として、自転車は車両のトップ、上位互換、代表の車両であり、必ず歩行者に配慮できる普遍的ルールで、道路交通を活きよう、学ぼう、とすることで、私は、クルマのエゴを、ねじ伏せることに、人知れず成功したと思います。

クルマの高慢な主張は、1から100まで、間違っているのです。

紙の免許では、これを学ばせるのは、無理だったことに、クルマ社会は、気づかない(過失・間抜けな)のか、それとも、知っていて(わざと・嫌がらせ・故意に) 放置して 交通戦争を 暴力的に押し通しているのか


自転車ですり抜けしたり、信号を守らない者は、リスクという免許で、同じことに負けています。

歩行者をひどい目に合わせても、かまわない、しかたがない、クルマが変わらないなら それが正義だ、と。


クルマが、信号のない横断歩道の停止線に差し掛かるとき、歩行者が衝突を誘発すると見なせるから、停止線で止まらない、と主張したいから、彼らは、停止線で止まらないのでしょう

これは、歩行者が横断歩道の手前の歩道に立っているときに、停止した車同士で衝突したら、歩行者に責任が発生する、と主張しています。

そんな、バカげた話は、ありますか?

事実は、原因は、クルマが、車間距離を取らないから、です。

車間距離を取らない倫理、そんな〝適切(4)〟な運転によって、クルマは道路を回っています

ちょうど、社会が くだらないことで回っているのと 同じように、です。 (宇宙兄弟で主張されているように、です。)


交通戦争の助長として、軍隊と同じような問題を はらんでいる、クルマ系の保険会社は、クルマのドライバーたちが、何も考えないように〝適切(3)〟に運転するように、強制している、と、私は、言わねばならないのでしょうか?

これは、モラルと理解の問題で、交通戦争が無いならば、クルマ系の保険会社は正義、交通戦争があれば、クルマ系の保険会社は独裁者、と言えましょう。

これを遂行矛盾だというなら、国が非営利化するしかありません。

例えば、儲けた資金をすべて国が回収して完全自動運転の定立に充て、非営利の範囲でスタッフに生活費として給料を渡す、というような。

そうなれば、クルマ系の保険会社のスタッフは、公務員ですね(笑)

こういう事業は、独立した会社として成り立たないほうが、いいのでしょう。 ―― 現状を見るならば。


いうなれば、クルマは、維持費含む定立コストが、異常に高くつきます。

内面・モラルを壊していること、これが究極の欠陥ですよ。

戦争のムードを作る触媒としてすら機能して、戦車を正義にすることにもなりますわ。

戦車も、クルマ・・・ですからね。

モラルの崩壊は、道徳段階の低いドライバー(3)の維持と同じこと、です。

彼らを免停にできない社会の欠陥(3)です。

それは、戦争の原因を突き止められないこと(4)と、ほぼ同じでしょう。

過失のように見せていますが、わざとでしょ?


この遂行矛盾を学んで、そして〝変える〟には、2つの方法しかないと思います。


・自転車で包括的に道路交通を活き切って、歩行者としての生活にシフトする。

・歩行者として、公共交通機関も含めて、生きる。



自転車を極めるかどうか、リスクを運転免許にするかしないか? この点です。


こうやってとらえていくと、バスも、市バスなど、公務員化した方が、いいかもしれませんね。


クルマ+歩行者 のみ では、自転車の包括的な道路の学びが、ごっそり添削されて、両者の欠陥が合わさった形になります。

クルマ社会から見れば、歩行者は、移動能力で最弱、つまり、正義に対しての〝悪〟です。 (移動能力が正義と思っているのなら。 そして 判断は、そうでしょう。)

歩行者から見ても、クルマは、運転するにあたり、非情に、ストレスが避けられない乗り物です。

クルマ+歩行者、ではなく、クルマ〝対〟歩行者 の状態で、運用されている のが、関の山です。

子どもを送り迎えしたいのであれば、子ども=歩行者 とみなすのが自然ですから、クルマと歩行者を対立させるのは、バカげています。

クルマ+歩行者 が、真の意味で成り立つには、自転車を極めることが、現実的には、唯一の方法です

それができないならば、クルマに頼り切って、歩行者の自由で可能性にあふれた近未来的なメリット は、受け取れません。

自転車も乗らずに、歩行者の状態をメインにするなら、クルマは買わずに、鉄道やバスと組み合わせればいいのです

完全自動運転バスとしての、タクシー並みの利便性のある近未来の交通 は、自動車メーカーの〝望まれる仕事〟です。

何事も、可能性の洞察と、その実現の情熱(ビジョン)です


そして、歩行者は、自転車の上位互換、自転車は、クルマの上位互換、だと、さらに自信を持って言えますね。


☆彡


ローカルバスの旅Z は、旅のメリットを保存しながら、現代の歩行者の立場のみを維持することで、歩行者の上位互換性を、現代的に、証明してきたと思います。

歩行者が、移動能力の制限にも関わらず、道路交通上の上位互換を発揮できるのは、現代以後に、メリットが〝創発〟しているからです。

それには、説明も必要です。


ウォーキングが流行っているのは 分かります。

テレビ東京で、鉄道沿いをマップを見ないで歩き続けていく番組を、私は、初めて見ましたが、あのように、歩き続けることは、基本的に、健康上のデメリットが大きく、歩行者の 歩きの潜在性を主張するために、いくつか、見ておいた方がよいことを書きます。


とにかく、4日で50キロなど、歩く番組は、〝昔の人間は、かなり歩いて移動していた〟ことの〝体を張った実験・再体験〟であるととらえることで、ある程度の、強気な言い訳に、換装できます。

ここで重要なことは、テレビカメラは、自転車につけて、別の自転車で旅する出演者を、追いかけることが、非常に困難だろうという点です。

これだけでも、テレビは、歩行者が道路交通の上位互換だと主張できます。

また、都市部において、地図を見ないで自転車で旅をするには、リスクが前面に出てくるわけで、これも、徒歩が有利です。

民家に取材許可を あらかじめお願いするなど、車両を使えば、なにかと、問題もありますね。

このとき、騒音対策なら自転車で、取材は、歩行者や、にわか歩行者で、行えば、かなりスムーズでしょう。

徒歩企画は、番組に相性がいいという点で、歩行者は、車両の上位互換であると、言えます。

制作費も抑えられるので、配慮や繊細さに重点を置く番組が、できやすいでしょう。

歩行者は、内面的、感情的にも、よりメリットをつくります。




まとめ ☆彡


近未来社会は、歩行者の移動能力の制約を、いかに、サポートし、より包括的な視点として、創造するか、それが、ポイントです

クルマは、海を渡れないので、海外を渡るにも、基本的に、歩行者が優れています。

自家用の飛行機も、遠くまで行けないので、ジェット機に乗って地球の裏側まで行ける自由度のある 歩行者 が、最強です。

個人+乗り物 という運用から、歩行者を起点にしたカスタマイズへ、さらに、視点、内面=モラル を 最強の基本にしていくことで、少しずつ、こういった道の、方向性が、見えてくるのです。


自転車が、乗り物で一番優れているのは、ときに、歩行者になれるからで、コスト面でも、歩行者のみと大差ないところが、内面を重視できる余裕につながっています

また、高価な自転車、メンテナンスがデリケートな自転車、というように、歩行者のみに比べて、やはり、総合的なコストがかさみ、内面的な余裕をそいでいく場合があります。 (いわゆる〝ブームとしての自転車疲れ〟です。)

歩行者は、スーパー歩行者になって、自転車、そして、あらゆる車両の走行経験を、継いで行くのです

車いすも歩行者です。 近未来の足は、より多面的な可能性にも開かれております。

自転車をやめる勇気、というテーマで、長くページをつなげることが、できるかもしれませんね。

自転車の集合的な現状は、想定をはるかに超えて、把握できないくらいに、複雑です。

自転車に乗ることは、最大の〝学び=機会〟だととらえるのが、私は、最も適切だと思います。


自転車走行や、歩行者状態で、周りの自転車が怖く感じたのなら、自転車に乗ることは、何かが違うのかもしれません。

適切なことは、そう、明らかにならず、断定するのが時期尚早なことは、よくあります。

確かに、時代は、悩める現状を、創造したのかもしれません。


そして、次のそれは、また、私たちが前を向いていることを、期待してくれるのです!



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補足 ☆彡


クルマ+歩行者 で、歩行者が信号無視をするならば、歩行者のラフさの悪い部分が、モラルが浅いままに倒壊しているから、と言えます。

自転車で道路交通の視点を包括して、スーパー歩行者になってから、上記を見れば、モラルと繊細さの重要な理解から、自分がクルマを運転できるだけのモラルを主張―定立できるか? が、納得できます。

自転車に乗る必要はないかもしれないとしても、モラルを深い意味で定立できない者は、免許を持つ資格がないけれど持っている、と、主張していることにしかなりません。

それに気づいていないことは、脱線しかけていることに気づかないのと同じです。

とてつもなく、致命的なこと、です。


ここに、現代は、フラットランドである、かなり簡単にわかる、子どもでも一発で理解できる、という、発見がありました。

歩行者の信号無視という、ごくありふれた状況だけで、内面が消去されている〝生活世界の植民地化〟危機を、誰にでも触れられるように、お話できる!ということです


参考 ―― [リンク1リンク2リンク3]


クルマの免許を保持している者が、歩行者として信号無視すると どうなりますか?

という質問と、その関連の リンクです。


この回答が、残念なくらいに、興味深くて、一言でいえば 〝内面・モラルの深さについては、全く言及されていない=視界から消し去っているか 最初から前提にすらされていない〟という点です。

これは、傷つきます。


質疑応答をしているのは、クルマのドライバー側、クルマ社会のメンバーですよね。

彼らが、歩行者自転車視点で車両に矛盾を感じて改めてほしいと悟った=スーパー歩行者 ならば、歩行者の状態で信号無視をしないので、つまりは、免許の点数だけを心配している ようです。

さらに、歩行者として信号無視をしてもよいと読めますので、前提として、モラルについての禅問答を目的としてはいませんよね?

そのデメリットが、結局は、クルマのジャマをしたから 責任を取れ! ということならば、いかに、クルマが、道路交通において、勘違いな、上位互換ぶる地位に、自らを固定し ハマり続けているかが、よくわかります。


まず、質問者が、信号無視を迷惑に思う自転車視点で、あるいは、スーパー歩行者の視点で、意図を持っていたのなら、こんな質問はしないはずです。

行うべき質問は、〝信号無視をしている歩行者は、運転免許を持っていると思いますか?〟〝もしそうならば、モラルが低いので、免許は返上するべきですが、社会がそれを考慮に入れていないように思えるのは なぜですか? そのような質問が 見当たらないのはなぜですか?〟という着眼点だったはずです。

きっと、探せば、そのような質疑応答もあるでしょうけど、検索で探すのは、困難でした。


理由は、過失割合などの、前慣習的な恐怖(3)を助長させるように計算されて作られた、スーパー歩行者から見れば、有毒でしかないような、無駄な情報が、多くヒットするからです。

〝 - 〟をつければ、ある程度絞れますが、狙い始めると、きりがありません。

クルマ系の保険会社は、そうやって、クルマのドライバーを、偏った視点に誘導しているわけです。

(これは、ぜひ、反証して、交通戦争を無くしてほしいと思います。)


企業に、X理論や、Y理論 などが、当たり前になっていても、クルマに関しては、きわめてフラットランドであり、〝運転免許という目に見える点数がある〟だけで、他のことは、何も受け付けなくなるようです。

クルマ系の保険業界ではどうでしょうか。 クルマの販売業界では? クルマのメーカーは?


歩行者の時に信号を無視、クルマに乗っているときは信号順守、は、〝目に見える計算行動〟です。

クルマは、一瞬の判断ミスが、取り返しのつかないことになるのだから、歩行者の時に信号無視をする癖を、運転免許を取った後でも直せないというなら、自ら、危険なことを行っている〝(程度の)モラルを持っている〟と主張している、としか、解釈できないですが、道徳段階を消し去っているから、こんなおかしなことが起こるのです。

道徳段階の視点、あるいは、そういった、簡単なテストの話 (中絶はいけないことですか? 行うことを受け入れますか? ―― はい、いいえ、はい、はーい、の話) で、モラルの視点の証拠を、わかりやすく示せば、上記の歩行者としてのドライバーの道徳段階は、病んだレッド(3)でしょう。

世界中心的な道徳(5)を持っていなければ、運転免許を持っていてはいけません。

なぜなら、クルマは、オレンジ(5)の技術の産物であって、それを扱うに値する、対応する内面が、オレンジ(5)だからです


この矛盾は、戦争兵器として使われる技術的視点、で、よく知られているわけです。

アンバー(4)のモラルを持っているなら、子どもでも乗れる、自転車(4)に乗ってください。

これは、自転車(n)は、クルマ(5)の上位互換だと、言える強みの一つです。


自転車で、スーパー歩行者を発揮する方法は…。


・自転車でも歩行者でも問題のない状況→自転車で移動

・歩行者のみ問題のない状況→(にわか)歩行者で移動



と、このように、歩行者は、自転車を含みます

自転車専用道の場合でも、降りることを想定していない道は ないため、どこかで、歩行者は自転車移動を含みます。


ラストに。

[運転免許 歩行者 信号無視] で検索 して、もう少し、内面寄りの質疑応答を見つけました。

参考 ―― [リンク4リンク5]


このように、運転免許というシステムは、内面・モラルを消し去るのに、うってつけの役割を持ってしまいました。

クルマのドライバーは、前慣習的な感情(3)、渋滞はイラつく、とか、飛ばすのは爽快だ、とか感じているわけで、渋滞を解消することを話し合ってみたいなぁ、とか、安全運転してもらう方が歩行者としての自分はうれしいなぁ、とか、脱慣習的な感情(5) があることを、指摘できれば、内面というものがないということは、反証されます

実際、内面を消し去るのは不可能なので、簡単に、交通戦争という〝怪物〟が、生まれ続けます。

それは、明らかすぎることです。


運転免許が、リベラルなモラル(5)のためのペースメーカーだとしたら、自転車の運転免許〝=リスク〟こそが、その包括系であり、スーパー歩行者が、運転免許という車両の欠陥自体を 否定して包括することができる、本当の、リベラルなモラル(5)のためのぺースメーカーになるべきなんだな、と、感じている、今日この頃です
posted by インテグラルとど at 14:36| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする