2022年02月01日

アニメで〝世界を平和にする〟☀


やさしい作画で包んで、しっかりした起承転結のストーリーを描くことです。


去年(の去年)だったか、それを分かっていないものが、賞をもらったことも あったようですが。いわば、主人公に火をつけて、交通戦争のような〝社会の現状〟を否定すると、作品の外側の経済・会社・スポンサー、などを 丸ごと爆撃するということなので、(トランプ氏の、新大統領就任のあれのやつで、お家に帰ろうのような、●●信者系のやつで解釈できますので、) 作品そのものの文脈・受賞を与える者の判断・制作者の現状など、元から狂っている地盤を嘆いて投げた、となります。

これを13分見ると、自転車に乗る気がしなくなりました。

(起の部分で判断できず、結まで見ないとわからないという観賞方法では、やさしさが狂います。 冒頭部分で どんな内容か判断してください。 やばいものは、中盤 そして、最後まで 見るべきではありません。 とてもいい作品も あるのだから、この観賞方法、直観を磨くのは、重要です。 逆に、子どものやさしい潜在性も考慮して、しっかした 起承転結のストーリー を書けないものは、論外と言えます。)

別に、1作品に限ったことではないですが、●●信者系のウイルスは、ストーリーの外側のスポンサーなどの遂行矛盾に テロを起こす行為で、結果、作品や作者の意図そのものは、芸術ホロン内の起承転結の中で 責任をおえない構図となり、芸術ではないものになるので、芸術として賞をもらっているなら なおさらですが、その皮をかぶっているだけで、現状を丸投げしている意図しか伝わらず、当の批判(例えば交通戦争に対する過激な描写)を、余計にひどくします。

安全運転したい人は、見るようなものではありません。


芸術は、解釈が命ですが、解釈不可能なテロは、絶対に、解釈過程に害があります。

芸術を崩壊させてしまうものです。

こういったものは、風変わりで今までにないという理由で、よく、賞を取るようですが、どれだけ、テロを起こすポイントを変えても、テロにすぎません。

そして、日本の●●信者ウイルスが、海外に感染した結果、私のメッセージは、容易に伝わらないものとなりましょう。

なんせ、我が国の、賞を与える権力者たちの 芸術の見る目は、舐め切っていますから。

理由は、一度、彼らが、●●信者ウイルスを肯定して、賞を与えていたのなら、それをすべて否定する、自分たちの権力を放棄する、ことなくして、矛盾は解決できません。

それが不可能、それらのテロ作品の存在を〝なかったことに〟することが、絶対に不可能なために、死に物狂いで、お墨付きを与えようと、内容と評価を〝みせかけ〟ているのです。

繰り返すと、もともと、第1層は〝第2層(ティール組織)を否定する〟ので、市民を騙すのは、容易です。


いわば、戦争、そして、紛争や難民・交通戦争などの社会の矛盾を失くすためには、このような洞察を、こういったコーナーに〝記述する〟ことが、最善と感じます。

権力者は、この仕事を怠っており、それが、世界の善き均衡を、崩すのです。
posted by インテグラルとど at 09:38| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2022年02月06日

横断歩道 (信号) のない主要道の横断 ~ 交差点とサンデードライバー ~

十字路があるとして、主要道が片側1車線、交通量は、混んでいない程度の国道並みだとします。

一方、自転車は、脇道を直進し、主要道に阻まれます。


このシチュエーションで、脇道の自転車側から見て、左側から来る自動車が、やや遠くで、店に入るために右折しようと停車、後ろに渋滞ができます。

当然、対向車である、右側から、自動車がたくさん来ているわけです。

(脇道には 自転車1台のみ、主要道にクルマが多数走っています。)


この時、右側で、自動車が、脇道先端で停車している自転車に気づいて、停車するとします。

(もし、その自動車が、こちらの脇道に左折して来るのであれば、要注意なので、指示器の有無にかかわらず、この視点を頭に入れておくべきですが、めったに曲がってこない脇道だとして…)


私ならば、この場合、渡ることが難しいのです。

オレンジ色のセンターラインの道であっても、停車している自動車を追い越して、後続自動車が来ないとも限りません。

しかも、両方の車線は、見通しが悪く、塞がっています。

バイクや自転車のすり抜けも、あり得ないとは言い切れません。


仮に、お先にどうぞという合図を送っても、私のその合図が、適切に伝わるか、確信できかねます。


このシチュエーションのポイントは、脇道の自転車から見て、左側から来る自動車が、やや遠くで店に入ろうと右折しようと停車して、後ろに渋滞を作っている状態が理由で、右側の自動車が止まりました。

右側の自動車は、〝左側の自動車を店に右折させる ついでに〟自転車を行かせるように止まった、〝自動車の渋滞を作らないように自動車(クルマ)中心のルール優先で、対応した〟という 空気が、強く出ます。

もし、脇道から見て左側の車両しか 見ていなかったら、1手でアウトです。


この場合、横断歩道さえあれば、安全に渡れるのです。


横断歩道には、押しボタン含む、信号ほどの強制力はありませんが、自動車側の、停止線で片側の自動車が止まった時点で、黄色信号、両側から自動車が停車する等で安全確認できたら、赤信号となり、歩行者自転車側の横断(青信号扱い)が可能です。

横断歩道には 信号がなくても、あるシチュエーションを経ると(何手かの手順を踏むと)、そこは 信号と同じ働きをするのです。

(赤信号でも無視したり、ギリギリで通過、フライング発車、など、信号があっても、自動車は平気で信号を無視していますので、信号があろうが、安全確認は必須です。 横断者は、横断歩道で信号がないからと言って、信号を絶対化して 存在を空気化するのは、結論として、早すぎます。)

信号のない横断歩道は、自動車が必ず止まるように機能していなくても、法的に広義の信号扱いなので、踏切と同じく〝必ず止まれるように証拠を持って走らなければならない〟という 〝理解〟によって、意味はあります。


つまり、クルマが、横断歩道の前の停止線であまり止まらなくても、それにムカつくよりも、まず、横断歩道があることを、アドバンテージにしましょう

横断歩道が無いと、飛び出さない限り 横断不可能、となり得ますからね。


ということは、交通量が多く 横断歩道がない場所を横断するときは、上記を考慮して、渡るのをためらう道ならば、迂回する方がいいのかもしれません。

一番いいのは、横断歩道も信号もない、主要道と裏道の十字路で、〝対向車が居ない時に もう一方の自動車が停車する〟ことです。

このとき、停車したクルマの後続車もいないと、なお良いです。

自動車は無理に止まらなくてもいいわけなので、ふつうは、横断者は途切れ目を狙うわけですが、あなたが来なければ横断できる、という場合にのみ、停車してくれると、横断側への配慮だとわかるので、確実です。

あるいは、なぜ、交差点付近で駐停車してはいけないのかという答えの一つです。

乗降するために止まっているのならば、ルール違反ですが、横断側から見て、人が乗り降りしていなければ、横断者のために止まったのだと、判断できます。

自転車歩行者側は、判断をミスすると、1手で終わりますから、安易に自動車を信頼できないのです。

ドライバーの顔が見えれば、もちろん、一瞬は、見るべきです。


自動車側は、こういった微妙なシチュエーションは、歩行者として あまたの道を横断した経験がないと、身につかないでしょう。

歩行者としての横断は、自転車でたくさんのエリアの道を走る場合、一番経験できると思います。

クルマ側は、自転車で、裏道中心に、たくさん走ることで、このような判断力を身に着けられると思います。

自転車と歩行者は違う、というのは、ここでは、論点として持ち出す必要はなく、自動車ドライバーが歩行者として経験している道は、大概、横断歩道があり、人があまり横断しないような道まで 歩行者状態で横断しておらず、結果、自転車で経由しているときの横断、でしか、出会わないシチュエーションも数あることを、意外と知らない、という点が、今回の題目の課題、現実のギャップです。


一見 自動車側が あってもなくても同じだと思っていそうな横断歩道、ほとんどの自動車ドライバーはそう思っているだろうと確信できる運転をする現代、にもかかわらず、むしろ、信号のない横断歩道で自動車が止まらないからこそ、横断歩道には、安全に横断するための、とても助かる実践的な機能があった、と再確認できます。

横断歩道の前の停止線付近で止まっている車両があれば、横断者のために止まっていると、解釈でき、信号を予算削減で減らす現代において、さらに、その役割は、重要になるでしょう。

夜の場合、位置を覚えておかないと、見逃す可能性がある 欠点がありますが、夜に無茶な横断をするかどうか、今回の議論は、クルマが、横断者のために停車したか、横断者は どうやって判断するのか ですから、夜の場合は、道を走る間は、徐行が望ましく、あくまで、横断時の判断のお話です。


横断は、一見 単純そうに思えますが、高度で複雑です。

車両が通っていないのならば、そもそも、議論と認識の必要がないからです。

車両が通っているからである以上、横断者がいる時に、自転車が停止線で止まっても、後続のクルマは、ふつうに停止線を越えて走り去っていくので、自転車側に、歩行者を渡らせてしまう強制力を持たせるくらいなら、停止線で止まるのは、良いこととは言えません。

つまり、自転車側は、車両が止まったからと言って、安全であるとは限らない、と、知っているのです。

クルマたちのせいで。


自動車ドライバーは、あらゆる ほかのドライバー、それらすべての複合的な道路交通を考慮に入れて、走る必要があります。

ほとんどのドライバーは、ルールと自分の運転のみを考慮し、他のドライバーが、所与の神話で、同じように行っていること、その関係が、複雑に絡み合って、横断者に襲い掛かって来ること の難易度を、軽視するか認識すらしていないと、感じます。

自転車でロングライドをして、裏道をつないでいる場合に、もっとも、強く、確信できると思うのですが、これは、自動車教習所では、まず、認識されていないのでしょうね。

近い将来、バーチャル空間でもいいですが、自転車でロングライドできる者しか、完全自動運転を除いて、免許が取れない時代になるでしょう。

自動車のみの運転の、その (実践的観点から見たところの) 死角の多さに、ほとんどのドライバーは驚くと思います。

自転車側は、クルマの超高速(スピード)絶対主義に、何の責任も負えないので、自爆含めて、クルマは走っていない方がよい、と、本気で思います。

自動車社会は、見かけ以上に、相当なリスクを負って、その崩壊を、歩行者自転車側にまで、押し付けてきます。

こういったことをすべて考えて、それでも、横断者側が悪い と言えるドライバーが居ない以上、自動車社会は、遂行矛盾の塊であり、もし、すべて考えているならば、横断者側のせいには 絶対にできないので、相当安全に、時間と道を選んで運転するでしょう。


このコーナーの結論は、横断者は、その信じられないほどの自動車社会の遂行矛盾を〝自分で判断して攻略しなければならない〟ということです。

そこが、一番、カオスで、現実的に複雑です。

posted by インテグラルとど at 12:40| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

ロードレースと日帰りロングライド ~自転車(サイクル)ライド~

ロードレース(自転車競技)では、1日100キロ以上走ることもあるようです。

これは、一つの究極体験ですが、スポーツとして解釈するなら、〝1日で100キロ走る〟というのが、共通の〝ものさし〟にする〝一番明快なモジュール〟です。

速度でも、過程でもなく、1日の距離、であり、ママチャリの場合は、用途を考えて、距離を縮めるべきですが、走行のスタートとゴール(=任意) を共通の目標にする、という方法が、もっとも、メリットが大きいと考えます。


ロードレースを やってみたい人は、自転車が好きな人だと 思いますので、その場合、1日100キロ走る〝サイクリング〟が、あなたなりに〝ロードレース〟をやることだ と言えると、私は思います。

その特殊な形態が、〝ロードレースのためにあらゆることをして大会に臨む〟人生で、自転車が好きな人の多くは、究極体験を、ロードレースの中に求める必要はない のです。


ロードレース扱い (の 通常のロングライド) で、月に何度か、1日100キロ、行きたいところに、経由と距離のゴールを設定すると、競技用自転車でロングライドするのは、極めて理にかなっていると思います。


日帰りが重要なのは、コストが最強だからです。

機会さえ得られれば、繰り返し、新しいライドができます。

ロードレースは、限界まで自分を追い込んで究極体験しますが、ロングライドは、行きたいところに行くという移動手段のコストとして、究極体験をします

安全に走る方法から、道の開発、グルメスポットの拡張に 秘境の冒険、これらを、すべて試行錯誤して極めるという、究極です

コストも含めて、究極体験できるということは、金に糸目をつけない究極体験よりも、1段上の、節約をサポートする究極の上の究極体験 となります。


ここまで来ると、ロードレースの上位互換、自動車を自転車にして環境問題根絶も見えてきて、ロードレースをする本当の意味、が分かるかもしれません。


あらゆるスポーツは、ロードレースのように〝競技〟というルールで行っていますが、自転車をやらないスポーツ選手でも、自転車のロングライドのような、環境とコストに革命を起こすスポーツ、を、新しく生み出すことができるかもしれません。 その、可能性の枠が広がる〝競技を越えた〟興味の広がり、自転車のロングライドとスポーツ選手との関係に、潜在的に期待できるのではないか、と私は思います。


そして、距離は、10キロでも、150キロでも、いいわけです。


自転車は乗り物で サッカーボールが乗り物となることはないので、このコーナーの主張は 部分的には極端な例えですが、競技用のスポーツ界は ロングライドの 環境やコストにやさしい視点、とあまり関係ないところをモットーにしているなら、世界が広がるのではないかな、と思う点でも、この題目で書いています。


たぶん、スポーツをやると 自動車がなくても 移動に困りにくい というメリットです。

ビンディングペダルと言えば、スキー。

スキーやスケートで、移動できるエリアを設けるといいのかもしれません。

雪の斜面は、自転車移動に適さないので、自動車の代わりにスキーで。

凍った川は、スケートで。

バスケットボールを背負うこともできます。

自転車だけが 移動手段であるわけでは なかったのです。

未来の乗り物 ハイパー制御の飛行機ならば、サッカーをしながら飛ぶことでエネルギーを供給できるようになるかもしれません(笑)

現在にはない視点が、未来には在ります。

実践とは、まったく関連の無かった次元を、とてつもなく素晴らしい相性で、要約、昇華していく! その無限の可能性こそが広がるのです

posted by インテグラルとど at 13:12| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

交通戦争と小動物の潜在価値 ~野生と家族のポテンシャル~

犬は、しゃべりません。

つまり、交通戦争において、横たわる、ああいった 小動物は、野生です。


家族の犬は、あなたのあかちゃんと同様、あなたの考えうる最大の潜在価値 を付与できます。

潜在価値とは、〝解釈〟です。

子どもの解釈、大人の原理主義の解釈、合理主義者の解釈、ポストモダニストの解釈、ホワイトの解釈、などがあります。

解釈は、主観に依存しており、所与の解釈というのは、ありません。

ゆえに、あなたの付与する、最大のポテンシャルというのも、あなたの主観に依存します。

さらに、その主観は、あなたをとりまく、ネットワーク(心圏のコミュニオン)によって、共創造されています。


家族としての犬は、(所与の犬はないわけですが、) あなたの把握できる中での、最大の潜在価値を持ちます。

それを、ハイパー普遍的、地球市民社会にまで推し進めると、すべての人が、すべての動物の家族に対して、人と同じ潜在価値を持っていると解釈できる、というところに行きつくでしょう。

あくまで、潜在価値です。

内在価値 (成長によって増大する価値)、外在価値 (原子>分子>細胞・・・それに存在を依存するホロンが大切にしなければならないものの価値)、この両方の価値は、家族としての小動物(あるいは、その動物全般) において、明らかです。

内在価値は、家族としての動物は、しゃべらない以上、心圏のさわりの内在価値を持ち、外在価値は、家族としての小動物は、生物圏で、人と同じような構成です。

また、基底価値 (空と、色・形、としての、悟りで理解されている、すべてに遍在する価値) は、岩も、地球も、ネズミも、何でも、平等に、すべてに、同等に、数えられないものとして、在ります。


潜在価値、とは、健全な子どもが、大人になる方向に成長する〝勢い〟が、そのまま、大人になってからも続くと、すごいので、その〝勢い〟の価値 と言えます。

見方を変えると、動物でも、遺伝子操作並みの技術と、人の中で訓練されるような場合に、子どもと同じ〝勢い〟が解釈されることから、家族としての小動物の潜在価値は、高く付与できる、と考えられるのです。

例えば、タイムマシンのタイムトラベラーに、あなたの犬を、預けてみましょう


ここで、増え続ける自動車などの乗り物と、野生動物の関係です。

まず、野生のクマが、電車に乗っていることは、無いでしょう。

電車で見られるのは、カフェを営んでいる しろくまさんです。

電車に乗れる動物が、おおむね、最大の潜在価値を持っている、あるいは 持っていた、と言えます。

これを、魔術的に混同して、野生動物の解釈学を悪用し、捨てられた、あなたの(内なる)子どものような、シャドーを なすり付けると、文明の利器など すべて 滅びてしまうしかないでしょう。

しかし、そうではなく、交通戦争のカオスは、〝心圏における合意〟の無さ、にあり、一言で言うと、どいつもこいつも、運転がド下手だ、ということです。

完全自動運転が世界を救うと思われているのも、そういうことでしょう。

信号のない横断歩道の停止線で止まらないクルマどもを、いかにして縛るのか、そういった車に有利なカオスが実はドライバーの存在の危機に直結するのだということを、いかにして分からせるのか、その知恵、心圏の叡智、その合意、その対話の大切さを 理解できないことが、問題です。

知恵の合意が実践されれば、それでも飛び出してくる 野生動物は、仕方ないのです。

交通戦争のカオスは、その、肝心の〝潜在価値〟が 大人になってから失われ、ゆがみ、テロを起こす原理主義的な信者(交通戦争信奉者)となっている事実です。

逆に、最大の潜在性を付与できる、家族としての小動物は、この〝交通戦争のカオスを否定〟します。

そのこころは、家族としての小動物を、愛する、ということです。

そういうストーリーが、答えです。

ドライバーは、家族としての犬に、負けているのです。


そして、その、潜在性は、成長の創発的勢いの可能性は、魔術的なシャドーの読み込みにおいては、全く無意味です。

なぜならば、あなたのシャドーは あなたの偽の感情を司っており、実際は、別の衝動・欲求が、真の感情だからです。

真の感情こそが、あなたの潜在性を回復させる〝忘れていた資産〟であり、そこから焦点を外すことは、傷んでいる個所を傷んでいないことにして 気付かぬふりを不自然にし続けることです。

これは、最も滑稽で、説得力がありません。

交通戦争は、まさにそれで、自分の首を絞め続けていることが、分かっていない状態です。

その混乱から、いまだに、正しい運転を 成り立たせられない 嘆きを、そのまま、その シャドーを 読み込んで、自分は責任を取っている、これですべて解決した、などと、逃げているにすぎません。

こういったことを繰り返し、家族としての小動物の大切さを 忘れていくのは、遂行矛盾なのです。


野生動物における 生と死のサバイバルを否定することは、ライオンを絶滅させねばならないことを意味しますが、野生動物の世界に そういう嘆きの似非理論はありません。

人のルーツも、全くそれとは関係なく、潜在性の〝創発的勢い〟によって、生物圏から 心圏に飛び出したのが、人間です。

すべての生物は、その可能性を持っています。

そして、野生動物の秩序、弱肉強食のバランス、世界の均衡(生物圏内の均衡)を保とうとする運動、これを破壊することが 潜在性を破壊することであり、人のダークな営み、理性からの逃走、人の健全な創発的勢いすら破壊する行為です。

ライオン絶滅プロジェクトは、人間ゼロ計画です。

分からずにやっているんでしょうが。


しかし、私たちの家族としての動物は、人間社会に溶け込んでいるので、この、野生の家族と環境から切り離され、まったく、生物圏での日常ではありえない 生活世界という次元に、創発しているのです

この視点によって、捨てられた小動物としての家族は〝交通戦争を否定する題材には使えない〟という、決定的に重要なことが分かります。

そして、交通戦争を悲しめる 私たちは、簡単に説明できる責任も負います。

なぜならば、小動物としての家族を捨てたのは、私たち人間だからです。

人間が、自ら、家族に付与した潜在価値 を、ゴミ箱に投げ捨てているわけで、これは、交通にも社会的に付与できる潜在価値 を捨てている今の現状と、同じなのです。

したがって、カオスの否定にカオスを使うという、あほらしい遂行矛盾により、この命題は、はぐらかすための、ブラフ、という解釈しか、あり得なくなります。

どのように考えようが、行きつく先は、そこです。


家族としての小動物、あなたのワンちゃん(=心圏)は、あなた、わたしたち、人間そのもの(=心圏)です。

心圏のルールの部分として、家族と認めた小動物という視点 は、生物圏を越えて、心圏に、全く新しい創発を、解釈しました。

もはや、野生生物の世界では説明不可能なそれは、人間とその社会そのものに等しく、ゆえに、人間のアクセスしている〝心圏〟とみなすべきで、その時の犬の心境、小動物の気持ちは、小動物である彼らが生物圏にて感じていることではなく、人間が人間として考えて、小動物に共有させている〝心圏〟の法則です。

捨てられた犬は、生物圏に戻るだけですが、犬の代わりに責任を感じるのが人間の義務であり、その時は、魔術的な自分のシャドーを内なる不健全な子供として読み込むのではなく(それは嘘なので)、最も深き潜在性によって、一番大切な家族として、その〝夢の世界〟〝空の世界〟を、実践しなくてはなりません!

人間世界に適応しなくなって放り出された犬でも、野生とは違った側面を持ちますが、内在価値としては生物圏に根差しており、人と共生することを覚えた野生生物と同じで、そうではなく 潜在価値が、私たちと同じである家族であったことが、ポイントです。

内在価値の深度ではなく、潜在価値の家族として、一人ぼっちになった犬の潜在性を、描いていかなくてはなりません。

そうなれば、子どもに分かりやすい心圏のキャラクターが、一番、潜在価値を見ています。

そのアーキタイプが、ピカチュウですよね。

(夢の世界では、動物も、心圏にアクセスできるように描かれることで、この創発は、確固たる法則になって、全く新しく、この地球上に生まれるのです。それは構造なので、健全にある限り、二度と、失われることはありません。)


理性の文明の利器としての責任(=心圏)である〝乗り物〟において、〝弱肉強食(=生物圏) を語る〟というのは、高慢すぎるも甚だしい勘違いであり、それは、野生生物の方ではなく、心圏の内省の方に 気持ちを向けねばならないことを意味し、逆に、野生生物の方は、その生死の法則は、世界の均衡を保つものであり、世界の均衡を破壊する人間の交通戦争ごときで 左右されるような 脆弱な外在価値には支えられていない峡谷であり、私たちが敬うべき基礎(ルーツ)です。

犠牲になっている小動物を見る私たちが まず気づかねばならないことは、生物圏の生死における、外在価値の畏敬です。

さらに、心圏で、動物と触れ合いたいという気持ち、心圏は、ここで、家族としての小動物を創発しました。

初めて、外在価値のルーツを越えて、潜在価値が、動物と私たちの間に、取り消せない構造として生まれたのです。

それを付与して解釈するのは、どんな時でも 心圏 (人間) です。

犬側は、それを 付与も認識もしません。

しかし、潜在価値として、どちらも平等に、その〝家族の法則〟を持っています。


真剣な叡智によって模索され、解釈を吟味して、この日常に生起させることができた、ふしぎな共時性による、創造活動への開花。

基底としての野生動物との出会い。

そんな一瞬が、あなたの創造活動の〝飛躍〟となって、創発するかもしれません。


動物には、基底価値と、潜在価値

そのどちらも、最大限に付与できます。

重要なのは、その2つの価値が 人間と変わらぬ 強いものである、ゆえに 動物は偉大だ ということなのです。

内在価値と外在価値しか見ない人間社会に、動物たちが教えてくれる、叡智です。


完全自動運転とは、あなたの愛犬のことかもしれませんよ!

ラベル:AQAL
posted by インテグラルとど at 14:03| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2022年02月14日

ワクチン(スカラ) VS 敵モンスター(オミクロン) ~パーティーバトルとして~

いつ収束するのか?

ワクチンをどれだけ重ね掛けしても、永久に、それはやってくるのか?



そういう疑問ないし、心内に際して、個人的に、思ったことを、書きます。


(スカラ=ドラクエで味方1人の守備力をうんと上げる呪文)


この2年で、最悪の状況 (医療崩壊≒全滅イベント) は、防げたと思います。

奴ら (2年前を含めて、現時点では、すべて〝オミクロン〟と表記) は、〝毒攻撃〟を行ってきます。


ワクチン(毒消し草・スカラ戦術)を持っての、この2年間の戦いは、まさに、〝パーティーバトル〟といってよいでしょう。

地球が、ひとつの馬車で、そこに、70億の仲間がいるのです。

(70億=世界の人口のこと。 最近は約78億:世界人口。)


奴ら (敵モンスター:オミクロン) は、そこそこ 攻撃力が高く、毒攻撃で、パーティーを毒に冒すこと(=自分に復活の呪文をかけること!)を 最大のモチベーションに 集団で襲ってきます

ドラクエ5では特に、敵も味方も、集団で、大パーティーの乱戦になることがあるのですが、こういう時は、戦術が、決定的に有効になります。


先頭(社会に出る人)には、防御(マスク=ダメージを半分[切り捨て]にする)をしてもらい、さらに、スカラ(ワクチン対策)を掛けます。

防御力が足らなければ、さらに、スカラ(ワクチンの予防部分)を重ね掛けします。



奴らは、とにかく、目標に達するために、毒攻撃の精度を上げてきます。

最初は、猛毒にする攻撃を開発していたとしても、毒消し草(ワクチンの重症化予防部分)によって、普通の状態に戻るので、とにかく、相手にダメージを与えて毒をつけること(自分を保存すること)を徹底する方向に、戦略を強化してくる、と見れます。

それで、防御力の低いカモ(免疫力の下がった者や ワクチン未接種の子ども) を見つけるレーダーを広範囲に張って、エンカウント範囲と密度を広げてくるのです。

オミクロンが、良い主人公(勇者の設定など)の場合に、それをパクった的な アニメ制作 に例えていうと、あだぁるとなターゲットを見つけるためだけに、クオリティーを極限までそいで、子どもをバカにした描写を詰め込みまくるだけの、売れれば何をしてもいい思想の、有毒な粗悪品、を量産している状態です。


こうなると、オミクロン(最初の定義の 敵モンスターとしての 悪い方)は、ダメージさえ与えて、何でもよいから、ターゲットを毒に冒せばよいと考え、毒攻撃を安易に連発発狂するでしょう。

そして、最初は、1割の確率で毒にする攻撃だったのが、10割(100%)毒状態にできる攻撃に変化し、そのパターンに特化した強さになる、と思えます。

これで、とにかく、奴らの目論見は成功し続け、世界はまだまだ、劣勢を続けるのですが…。


ダメージを受けないとなると、それはいわば、エンカウントしない=ステルス (トヘロス)状態なわけです

オミクロンは、それを認識できないので、トヘロス状態は、ターゲティング自体から外れ、戦術の対象にもなりません。


オミクロンが、悪いハッカーだとすれば、私たちは、それぞれ、電車のクロスシート 1ブロック2席分確保でき、座席ごとに電源を使える設定です。

私たちが座席をすべて確保すると、オミクロンたちは、立つしかなく、ハッキング行為をするための〝電源〟を取れません

すると、悪ハッカーたちは、うろうろと、車内を探し回り、やがては、別の電車を待ち、疲れて、最終的に、目論見を断念します。


パーティーバトルでいうなら、ここでの〝攻撃〟とは、〝予防〟であり、〝相手は毒攻撃を1エンカウントで1回しか行ってこない〟ような感じで、RPGに合った解釈をしていただければ、と思います。

あるいは、毒消し草をたくさん持っている、でもいいです。


当然、私のように、後列(街中に出ない者)は、馬車に引っ込む(インドアする)のがセオリーです。

防御対策は、馬車で十分なので、スカラと毒消し草は、先頭に回せます。 (馬車から出るタイミングは選びます。)


ラスボス撃破の勝利条件は、大体、皆さんの考えている通りです。


RPGも、今の近況も、私たちの経験値、という点では、同じです。

この例えが意味を持つかは、RPGで言う〝全滅〟あるいは〝クリアすること〟が、何を示しているかの解釈によります。


私たちが、奴ら (敵モンスター:オミクロン) から毒を受けるごとに、実験場を渡している、ということです。

数十億にわたり得る実験場のレンタル(あるいは侵略された)回数によって、オミクロンの毒攻撃の精度は進化していき、今や、100パーセントとなっているのかもしれません。

こうなると、防御力の壁(ステルス帯)が重要で、ノーダメージ(=で トヘロス状態) の冒険者 が、前列のすべてになった時、オミクロンのエンカウントは終わり、世界は平和になって(=ラスボスは倒されて)います

(ラスボスは大抵卑怯なので、最期にも、弱い者を狙います。)


世界が戦争状態の場合も、ラスボスを倒すのは、難しくなるでしょう。 (深刻に。)


昔、ドラクエをやって 怖いと思った経験を思い出すと、今の近況に似ているので、どこかに共通の経験値があるのでしょう。

奴らは、いったい、何が目的で、どんなことをしようとしているのでしょうか?
posted by インテグラルとど at 17:30| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

明石海峡大橋にサイクリングロードと鉄道を通す ~完全自動運転にプラス~

googleマップで見てみると、片側3車線くらいあるので、今のままでも、サイクリングロードと鉄道を通せる気がしますね。

一方、鳴門大橋の方は、片側2車線らしいので、ちょっと、狭いですかね。


(このコーナーの〝完全自動運転〟は、現在想定されているものよりも さらに未来のグレードになると思います。)


完全自動運転になると、自動車は、電車のように〝ダイヤを把握できる〟ので、橋を通行することが可能な時間帯を〝設定〟できます。

電車を、片側の2車線以内で、単線規格で走らせれば、残りの2~4車線は残り、サイクリングロードも通せます。

(鉄道は、まっすぐ走る前提での、単線・ミニ寄りの規格になると思います。)


完全自動運転の場合、そもそも、片側1車線あれば、高速道路として十分なので、残りを自転車などに回せますが、完全自動運転車が、自転車を感知できるなら、ダイヤで、片側1~2車線化することも可能でしょう。 (走行時間を分けるなど。)


自転車が走ることができる時間帯を、2時間おきに40分くらいに設定して、自動車はその間走らないか、片側同士を区切って、片側のみ自動車を走れるようにするか、やり方は色々あります。

原付も走るなら、原付と自転車を区切った車線で分けるか、最初に原付を行かせるか、そもそも、完全自動運転なので、原付は車列に入っても安全なので、橋を法改正含めて、時速40キロ(完全自動運転自動車は場合によっては時速60キロくらい)で運用して、時間別で自転車に譲るか。


明石海峡大橋の場合は、6車線中、片側の2車線を単線の鉄道、もう1車線を自転車道、残り片側の3車線を、片側1車線で端と端を高速道路通行。

真ん中の車線は、追い越し車線なので、原付が走っている場合に、追い越すのに使い、原付とオートバイ各種は、追い越し車線が進行方向用の時しか走らない、ようにすることで、原付とバイクが走っている車線のみ片側2車線化できます。

完全自動運転自動車は、残りの1車線(実質片側1車線・両側通行)を、走れます。

このとき、制限速度は、対向含めて、原付とオートバイがいれば、時速60キロ以下に落とすほうが良いかもしれません。

自転車は、鉄道側に構造分離しているので、バイクと別です。 風対策を施すことも可能でしょう。


鉄道を通して、片側1車線ずつしか残らない鳴門大橋の場合、原付優先時間帯を設けながら、適切に片側1車線運用し、2時間おきに40分くらいの間は、自転車専用道にするのが、よさそうです。


緊急車両は、自転車専用時間帯でも通れます。


鉄道を通すことで、自転車を回収可能にすることもでき、残り時間前に、バスを走らせて、自転車の回収に備えます。

バスや鉄道を、強風対策などで、自転車搭載用途で走らせると良いでしょうね。


完全自動運転車は、すでに、自動車本体を 期限レンタルないし 無期限レンタルして 〝ダイヤを予約する権利を買う〟というものになり、バスと同じく、橋を通過する時間帯はダイヤで決まるので、利用する人々は、バスと同じようにマイカー扱いで使い、そのために、橋がいつ自転車道になっているかを気にする必要は、ありません。 (完全自動運転自動車以外 オートバイ各種などは ダイヤによる時間帯に従う必要があります。)


完全自動運転になると、道路の多次元運用が可能となり、これまで、車線が足らずに不可能だった、様々な乗り物の走行が実現します。


場合によっては、自転車が走れる道として、線路以外の方法で鉄道を敷くことも、できるかもしれませんね。


線路の間を、自転車の車線にして、線路の区切りを歩道の段差のように覆って、さらに線路を下に埋めれば、自転車によって傷つかないです。 電車に、長い車輪が要りますかね。

というか、電線が上部にあるのが危険なので、この場合は、充電式に切り替える方式や、ディーゼル、あるいは、燃料電池なんかも期待されます。

こういった企画は、完全自動運転自動車後、自転車道を車道に開発するので、期間を経てからでもOKです。

電車は1~2時間に各1本くらいで、走る前に、自転車を前後に回収できる電車が来るのでしょうね。

横っちょのバスでもいいかも。

いずれにしても、人や自転車を感知する装置が進化します。


夢想の域ですが、完全自動運転化によって、踏切に自動車が立ち往生することがなくなり、そういった、各種進化には、歩行者や自転車などの位置をマッピングする必要が、不可欠なのです。

鉄道もさらに安全に走れます。


マイカーとしてのバスなので、自動車は減ります。

乗車する人が増える場合は、バスのように、乗車できる人を増やし、自動車の所持からの使用に税金をかけて、無期限レンタルとしての購入よりも、期限レンタルとしての購入、多人数乗車型をより安く優遇することで、渋滞も無くなるでしょう。


完全自動運転自動車は、一定間隔でたっぷり車間距離を取りますが、前後の動きも予測して走るので、渋滞になりにくく、信号も連動すれば、適切な速度を選べ、鉄道で行けない場所へも行けます。

鉄道のほうがコストが減るはずですので、その分安価になりますし、ダイヤ通りにたくさん来ますから、都市部では、通勤するにも電車が確実なのは 変わりません。

バス形式でない完全自動運転自動車は、ダイヤの予約が必要で、マイカーとして保有している場合は この限りではありませんが、バス+鉄道の方が、便利なところなら、気が楽です。

正確には、自動車保有よりも、個人所有の自動車でダイヤを購入する(車道に出て走ること)に、コストがかかる、ということです。

あるいは、渋滞が予想される前に、ダイヤ購入が不可で、近場までマイカーで移動して、あとはバスや鉄道を使ってください、となります。

(キャンプしたいなど、用途次第では、工夫してダイヤを購入することになりますね。 荷物だけ別に運んでもらうことも可能でしょう。)


以前書いたことを また繰り返していますが、完全自動運転自動車は、これまでの常識を、完全に変えてしまうでしょうね

posted by インテグラルとど at 18:04| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする