犬は、しゃべりません。
つまり、交通戦争において、横たわる、ああいった 小動物は、野生です。
家族の犬は、あなたのあかちゃんと同様、
あなたの考えうる最大の潜在価値 を付与できます。
潜在価値とは、〝解釈〟です。
子どもの解釈、大人の原理主義の解釈、合理主義者の解釈、ポストモダニストの解釈、ホワイトの解釈、などがあります。
解釈は、主観に依存しており、所与の解釈というのは、ありません。
ゆえに、あなたの付与する、最大のポテンシャルというのも、あなたの主観に依存します。
さらに、その主観は、あなたをとりまく、ネットワーク(心圏のコミュニオン)によって、共創造されています。
家族としての犬は、(所与の犬はないわけですが、) あなたの把握できる中での、最大の潜在価値を持ちます。
それを、ハイパー普遍的、地球市民社会にまで推し進めると、
すべての人が、すべての動物の家族に対して、人と同じ潜在価値を持っていると解釈できる、というところに行きつくでしょう。
あくまで、潜在価値です。
内在価値 (成長によって増大する価値)、外在価値 (原子>分子>細胞・・・それに存在を依存するホロンが大切にしなければならないものの価値)、この両方の価値は、家族としての小動物(あるいは、その動物全般) において、明らかです。
内在価値は、家族としての動物は、しゃべらない以上、心圏のさわりの内在価値を持ち、外在価値は、家族としての小動物は、生物圏で、人と同じような構成です。
また、基底価値 (空と、色・形、としての、悟りで理解されている、すべてに遍在する価値) は、岩も、地球も、ネズミも、何でも、平等に、すべてに、同等に、数えられないものとして、在ります。
潜在価値、とは、健全な子どもが、大人になる方向に成長する〝勢い〟が、そのまま、大人になってからも続くと、すごいので、その
〝勢い〟の価値 と言えます。
見方を変えると、動物でも、遺伝子操作並みの技術と、人の中で訓練されるような場合に、子どもと同じ〝勢い〟が解釈されることから、家族としての小動物の潜在価値は、高く付与できる、と考えられるのです。
例えば、
タイムマシンのタイムトラベラーに、あなたの犬を、預けてみましょう。
ここで、増え続ける自動車などの乗り物と、野生動物の関係です。
まず、野生のクマが、電車に乗っていることは、無いでしょう。
電車で見られるのは、カフェを営んでいる しろくまさんです。
電車に乗れる動物が、おおむね、最大の潜在価値を持っている、あるいは 持っていた、と言えます。
これを、魔術的に混同して、野生動物の解釈学を悪用し、捨てられた、あなたの(内なる)子どものような、シャドーを なすり付けると、文明の利器など すべて 滅びてしまうしかないでしょう。
しかし、そうではなく、
交通戦争のカオスは、〝心圏における合意〟の無さ、にあり、一言で言うと、どいつもこいつも、運転がド下手だ、ということです。
完全自動運転が世界を救うと思われているのも、そういうことでしょう。
信号のない横断歩道の停止線で止まらないクルマどもを、いかにして縛るのか、そういった車に有利なカオスが実はドライバーの存在の危機に直結するのだということを、いかにして分からせるのか、その知恵、心圏の叡智、その合意、その対話の大切さを 理解できないことが、問題です。
知恵の合意が実践されれば、それでも飛び出してくる
野生動物は、仕方ないのです。
交通戦争のカオスは、その、
肝心の〝潜在価値〟が 大人になってから失われ、ゆがみ、テロを起こす原理主義的な信者(交通戦争信奉者)となっている事実です。
逆に、最大の潜在性を付与できる、
家族としての小動物は、この〝交通戦争のカオスを否定〟します。
そのこころは、家族としての小動物を、愛する、ということです。
そういうストーリーが、答えです。
ドライバーは、家族としての犬に、負けているのです。
そして、その、潜在性は、成長の創発的勢いの可能性は、魔術的なシャドーの読み込みにおいては、全く無意味です。
なぜならば、あなたのシャドーは あなたの偽の感情を司っており、実際は、別の衝動・欲求が、真の感情だからです。
真の感情こそが、あなたの潜在性を回復させる〝忘れていた資産〟であり、そこから焦点を外すことは、傷んでいる個所を傷んでいないことにして 気付かぬふりを不自然にし続けることです。
これは、最も滑稽で、説得力がありません。
交通戦争は、まさにそれで、自分の首を絞め続けていることが、分かっていない状態です。
その混乱から、いまだに、正しい運転を 成り立たせられない 嘆きを、そのまま、その シャドーを 読み込んで、自分は責任を取っている、これですべて解決した、などと、逃げているにすぎません。
こういったことを繰り返し、家族としての小動物の大切さを 忘れていくのは、遂行矛盾なのです。
野生動物における 生と死のサバイバルを否定することは、ライオンを絶滅させねばならないことを意味しますが、野生動物の世界に そういう嘆きの似非理論はありません。
人のルーツも、全くそれとは関係なく、潜在性の〝創発的勢い〟によって、生物圏から 心圏に飛び出したのが、人間です。
すべての生物は、その可能性を持っています。
そして、野生動物の秩序、弱肉強食のバランス、世界の均衡(生物圏内の均衡)を保とうとする運動、これを破壊することが 潜在性を破壊することであり、人のダークな営み、理性からの逃走、人の健全な創発的勢いすら破壊する行為です。
ライオン絶滅プロジェクトは、人間ゼロ計画です。
分からずにやっているんでしょうが。
しかし、
私たちの家族としての動物は、人間社会に溶け込んでいるので、この、野生の家族と環境から切り離され、まったく、生物圏での日常ではありえない 生活世界という次元に、創発しているのです。
この視点によって、捨てられた小動物としての家族は〝交通戦争を否定する題材には使えない〟という、決定的に重要なことが分かります。
そして、交通戦争を悲しめる 私たちは、簡単に説明できる責任も負います。
なぜならば、小動物としての家族を捨てたのは、私たち人間だからです。
人間が、自ら、家族に付与した潜在価値 を、ゴミ箱に投げ捨てているわけで、これは、
交通にも社会的に付与できる潜在価値 を捨てている今の現状と、同じなのです。
したがって、カオスの否定にカオスを使うという、あほらしい遂行矛盾により、この命題は、はぐらかすための、ブラフ、という解釈しか、あり得なくなります。
どのように考えようが、行きつく先は、そこです。
家族としての小動物、あなたのワンちゃん(=心圏)は、あなた、わたしたち、人間そのもの(=心圏)です。
心圏のルールの部分として、家族と認めた小動物
という視点 は、生物圏を越えて、心圏に、
全く新しい創発を、解釈しました。
もはや、
野生生物の世界では説明不可能なそれは、人間とその社会そのものに等しく、ゆえに、人間のアクセスしている〝心圏〟とみなすべきで、その時の犬の心境、小動物の気持ちは、
小動物である彼らが生物圏にて感じていることではなく、人間が人間として考えて、小動物に共有させている〝心圏〟の法則です。
捨てられた犬は、生物圏に戻るだけですが、犬の代わりに責任を感じるのが人間の義務であり、その時は、魔術的な自分のシャドーを内なる不健全な子供として読み込むのではなく(それは嘘なので)、最も深き潜在性によって、一番大切な家族として、その〝夢の世界〟〝空の世界〟を、実践しなくてはなりません!
人間世界に適応しなくなって放り出された犬でも、野生とは違った側面を持ちますが、内在価値としては生物圏に根差しており、人と共生することを覚えた野生生物と同じで、そうではなく
潜在価値が、私たちと同じである家族であったことが、ポイントです。
内在価値の深度ではなく、潜在価値の家族として、一人ぼっちになった犬の潜在性を、描いていかなくてはなりません。
そうなれば、子どもに分かりやすい心圏のキャラクターが、一番、潜在価値を見ています。
そのアーキタイプが、ピカチュウですよね。
(夢の世界では、動物も、心圏にアクセスできるように描かれることで、この創発は、確固たる法則になって、全く新しく、この地球上に生まれるのです。それは構造なので、健全にある限り、二度と、失われることはありません。)
理性の文明の利器としての責任(=心圏)である〝乗り物〟において、〝弱肉強食(=生物圏) を語る〟というのは、高慢すぎるも甚だしい勘違いであり、それは、野生生物の方ではなく、心圏の内省の方に 気持ちを向けねばならないことを意味し、逆に、野生生物の方は、その生死の法則は、世界の均衡を保つものであり、世界の均衡を破壊する人間の交通戦争ごときで 左右されるような 脆弱な外在価値には支えられていない峡谷であり、私たちが敬うべき基礎(ルーツ)です。
犠牲になっている小動物を見る私たちが まず気づかねばならないことは、生物圏の生死における、外在価値の畏敬です。
さらに、心圏で、動物と触れ合いたいという気持ち、
心圏は、ここで、家族としての小動物を創発しました。
初めて、外在価値のルーツを越えて、
潜在価値が、動物と私たちの間に、取り消せない構造として生まれたのです。
それを付与して解釈するのは、どんな時でも 心圏 (人間) です。
犬側は、それを 付与も認識もしません。
しかし、潜在価値として、
どちらも平等に、その〝家族の法則〟を持っています。
真剣な叡智によって模索され、解釈を吟味して、この日常に生起させることができた、ふしぎな共時性による、創造活動への開花。
基底としての野生動物との出会い。
そんな一瞬が、あなたの創造活動の〝飛躍〟となって、創発するかもしれません。
動物には、
基底価値と、潜在価値。
そのどちらも、最大限に付与できます。
重要なのは、その2つの価値が 人間と変わらぬ 強いものである、ゆえに 動物は偉大だ ということなのです。
内在価値と外在価値しか見ない人間社会に、動物たちが教えてくれる、叡智です。
完全自動運転とは、あなたの愛犬のことかもしれませんよ!