2021年05月06日

〝みらいのことば〟と〝ポケモンショック〟 ~ラフテルとクイーン~

もし、未来予知が存在するとしたら、あらゆる厄災は、未然に防げるはずです。

例えば、子どもが、安全に自転車に乗って旅ができる、ポケモンのアニメ[ここでは初代や2期が基点]のような世界では、大人たちは、予知によって、健全な協力関係を築くことができるでしょう。

また、おそらく、この視点は、最近大規模に生まれつつある〝みらいのことば〟の解釈に関係する視点のために、また、別の理由から、誰も手を付けていないと思われる仕事だと思います。

とは言え、気になっている人は多いと思いますので、書けるところまでは、書きましょう。


ヤドキングは、しゃべることがあり得ます。

このように、ポケモンは、心圏にアクセス可能な、いわば〝人間〟的な存在であり、また、振興芸術の出力地点である、3人称のソフトウェアに基点を置いた文化的システムである、と言うこともできました。

こころのかのうせい、と、近未来システム、の2つを、メインのテーマとしてアニメ化しているフシがあります。


近況から入るとしますと・・・。

ウイルスショックに関しては、該当の研究対象が、某国・某所にて、保管されていたようです。

起こることのすべてのシステムは、あらかじめ、どこかで、研究・プログラムされており、まさに、なつかしき初代の、ミュウツーの逆襲 (――20年以上前の映画をさしています――) の通り、人間が世界の均衡(ないし時間)を操作しようとして起こった、と、解せます。

映像技術システムもまた、詳しい者たちが、研究を重ねていたと思われます。


もし、Dの意志 (仮に〝みかん〟) に敵がいて、〝みらいのことば〟をジャマしようとしたら、一番有効なのは、その活動を 終わらせるように仕向ける ことでしょう。

なぜならば、その〝Dの意志〟と関係の深い〝ジュエルペット てぃんくる☆〟は、(当時の)〝あにてれ〟で リンクされているように、ポケモンアニメ初代(2期まで)を 大きな基点(土台)としている からです。

つまり、初代や2期までの、無印のポケモンアニメを 終了させれば、その後の、ジュエルペットシリーズはおろか、あらゆるキャラクターものの アニメ化が、疎外されかねなかった ということです。

ゴースは、一期一会なのですω


ここで、重要な点は、〝みらいのことば〟の悪用は、遠隔でこそ可能、という点です。

〝光と闇は、決して交わることはない〟賢者の主張の通りです。


現代社会の大混乱の中で、遂行矛盾ではない存在を 子どもに示す必要 があり、それを手探りで始めるには、〝未来予知〟が不可欠だったのです。

もちろん、世に、それは、知られていません。

なぜならば、仕事にも、世界にも、運命にも、意味などないと、標準的・一般的には、言われていたからです。

予知があれば、これらは、いとも簡単に 覆されてしまうでしょう。

また、厄介な問題も、多数 生まれてきます。

それらを 乗り越えれば、あらゆる戦争を 終わらせることも、可能ですが。


遂行矛盾は、真実とは関係の無いところで、強い活力、依存(イズム)を持っており、全てを壊すことで〝快感〟を伴うような営みとして、知られつつあります。

子どもを取ると、どうなるでしょう?

人間も、ポケモンも、命です。 ロボットも、関連技術としては、そうでしょう。

主に、空気が、命の源であり、子どもを取り除くと、世界崩壊という厄災が、起きるのです。

(勇気も同時に失われるわけです。 光は闇と かかわりを持たないから。)


ここで言っておきますが、〝みらいのことば〟とは、ことば (某、笑い話) ではなく、〝ダイアローグ的な 直接体験〟です。

よって、裏口入学で、言葉だけを悪用して紡ぐと、それだけで、たった その程度のことで、とても重い罪に なり得ます。

そのスイッチを押すことで、世界が崩壊することを知っていて、たった一動作 行う、その責任が。


また、第2層で、〝権力・権威〟のことを〝責任〟と呼びます

これまでの権力(と呼ばれうる行為)は、みな、《虚偽・虚構・遂行矛盾・イミテーション》であると、言えます。


話は戻って、もし、映像技術の悪用として、ことが起こってしまう場合、メインの芸術制作者たち(ここでは無印のポケモンアニメのホロン)と、関係がない、遂行矛盾の死角から、逆の運命を ねじ込む必要があるのです。

てぃんくる☆を見て分かる通り、一流の制作アーティストが一丸となっている2人称の振興芸術(優れたアニメ)に関しては、そこに、悪用が入り込む余地は、ほぼありません

遠隔で、やさしいこころを〝騙し〟て、ニュースになって世間を騒がせる歴史を生み出し さえすれば、もくろみ成功だと、某陣営は考えるのです。


当てつけとも言える 《パカパカ》 というネームで誰かが呼んでいたそれは、私が子ども時代に見ても何ともありませんでしたが、確かに、色々とらえていくと、運命めいたものが ある気もします。

《それ》 は、結局、当時の様々なアニメで、使われていたものであり、今でも、時折使われているようで、結局は、《ごくありふれた し好的表現方法》 にすぎなかったのです。

つまり、振興芸術を差別している陣営は、映像技術に還元して、〝商業〟として、成り立たせようと、《基本的には隠れて》圧力をかけていたのではないか と、私たちには、察し得るのです。

現在のポケモンアニメは、映像技術に内容が支配されているように感じて 見ていませんが (※私見) 、そういうことでしょう。


芸術家が差別されていることは、もはや明白で、もし、売れ線至上主義に乗せるなら、他の  非芸術的な 《儲けられるジャンル》 と、どちらが 《売上を出せるか》 そのデータが 《みもふたもないもの》 だからです。

ウイルスにおける自粛において、2020年春にアニメが 一時ストップした時期がありましたが、国・政府は、《芸術家に対する助成金》 に、《収入のある人》 しか、認めていなかったのです。

わたしは、国の見方では、芸術家ではありません。

つまり、売れ線至上主義、企業の言いなりにならなければ、国は、(職業)芸術家とは認めない、と、明言しているのです。

それは、わたしにとって、かなりひどい宣言です。

職業選択の自由という、憲法の、否定でしょう。

こんなことが まかり通るのは、国もまた、大混乱した 《遂行矛盾》 の上に、ぐらぐらしながら、成り立っているからです。

そして、映像技術の中で仕掛けられた 《それ》 が、アニメに押し付けられた 《支配》 とすれば、国・政府もまた、加担していることになりますね。


それもふまえて、〝未来予知〟があれば、悪用もあることになり、絶対に気付かれるはずの無かった そういったもくろみが、明るみになることが 有り得ます。

とすると、遂行矛盾の権力を持った そういった陣営は、それを、20年越えのスパンで 《隠そうと》 するでしょう。

どうするかと言いますと、未来を見ながら、どうすれば、隠蔽できるか、を、ひたすら、続けていくのです。

現代の広告主義の企みにおいても、このことを、第3層では 《生活世界の植民地化》 と呼びたいわけです。

そして、隠蔽の果てに、《遂行矛盾のための担保》 が必要です。 それは、部分的に正直に言うことです。 それを元手にして、全て嘘に変える わけです。

(これは、詐欺師の、責任逃れの方法です。 芸術家として主張しておきながら、それを放棄し、その結果、さらに広い遂行矛盾に対して、実は 責任を 背負わなければ ならなくなっていた、という…)

それが、遂行矛盾と言われる ゆえんです。

この結果、敵として滅ぼそうとしたものに、表面的に加担する、という、奇怪な結果が生まれております。

それは、社会と文化を混乱させるだけでなく、結果的に、生活世界の侵略、遂行矛盾を暴露 しているのです。


こういった、企みが、どのように起こってきたのかは、まだ、私には分かりませんが、どんどん、地下へと、入っていくような気がします。

アニメ制作陣営として 名前を挙げられている アーティスト・キャスト を言うならば、よっぽど ひどいことをしていない限り、悪意を持っていない限り、責められるべきではないでしょう。 (私は、ほぼ、名前を見ませんが。)

ポケモン関連では、そこのところは、(自己責任で) お願いしたいです。


話は、少し変わりますが、「伝統芸能」の世界を源流に、現代活躍している有名な人々が、「芸能人」だと思われます。

その意味で、振興芸術の、ミュージシャンやアニメーターや(ゲームの)ソフトクリエーターは、この流れに、反対している、という視点も得られます。

「芸能人」とは、TV局によって 《つくられた人》 とも言えます。

ある意味で、社会の群衆が、《逆らえない者》 です。

スピリチュアリティが抑圧されて数百年、代わりに、源流の芸能を 現代に牛耳るシステムこそが、テレビ番組です。

アニメも、そこに当てはめられて、今回のような議論を せざるを得ないところに、来たと言えます。

無印のポケモンアニメも、ジュエルペットてぃんくる☆も、確かに、「TVアニメ」ですからね。

TV局全部に逆らえない「芸能人」は、芸術家では ありえないでしょう。

アーティスト精神とは、何か、時間を越えて意味のあるものを、見いだすために、権力を越えていく運動であると言えます。

そうでなければ、芸術家に ならない(目指さない)でしょう。

今後、(いうなれば 芸術なのか 見解が分かれる分野かつ TV局が 選んだアニメと関わらせようとするので 出しますが―――) お笑い界が、「芸能人」として保守的になるのか、「一流のギャグアニメ」と強い親和性を持つようになるのか、見ものです。 (振興芸術は、色々な芸術的分野の中に、存在しているはずです。)


ドガースも、本来はピュアです。

ポケモンは、お金を稼ぎません。

ポケモンと人間は、〝トモダチ〟でしょう。

なら、人間もまた、ポケモンのように、あらねばならないのではないでしょうか?

ポケモンが、人間のように生きているという意味で。


ポケモンを〝平和な世界〟に置き換えると、かなり、真実味が増します

そうでないポケモンは、《嘘》 でしょう。


今回のコーナーは、本来、私が、書くつもりは なかったのですが、子どもの頃の私が思っていたこと も、たぶん入っていますので、提示してもいいでしょう。


もし、予知が使える陣営が、無印のポケモンアニメに 存在していたのならば、彼らは、ポケモンショックを、防ぐことができた と思われます。

ということは、皆、騙された、ということでしょうか?

脅されて、子どもを人質に取られていたりとか。

それも、マネマネの実の能力だったとか。。


真実を未来に託して、それを〝越えていく〟誰かが現れるまで、待っていたのだと。


そして、その全貌は、わたしにも、わかりません。


仮に、これらの出来事が、偶然だったとしても、多くの人々は〝偶然なんてないんだよ〟と言います。

それすらも包括した上での〝偶然〟なので、それは、行き当たりばったりとは真逆の、すべてが一致した〝偶然〟です。


仮に、予知で、連続殺人犯の名前や居場所が分かっても、言えないでしょう。 書けないでしょう。

では、どうしますか???


未来に、託すしか、ないのでしょうか?


夢とは、子供じみた (子どもと無関係の稚拙な大人の) ものではなく、歪んだものでもなく、時間を越えた何かです。

それはまだ、ほとんど、私たちに開示されてこなかった しんぴ です。


もうひとつ、私の見解を述べておきますと、ポケモンアニメは、あくまで、無印が基点であり、互換性を失わなかった4期までが、初代の視聴者目線では、正当なシリーズでしょう。 (延長で考えても。)

つまり、以前の世代から受け継いだアニメが、初代のポケモンへと移り、それが、ジュエルペットを含む 次世代のアニメへと継承されていく、無印のポケモンは、それを見られる作品 なのです。

よって、私の立場では、アニメのコアな部分では、昔のポケモンアニメが偉大であるがゆえに、そう、偉大であるがゆえに、最近のタイトルは、抜け殻のようなものだと 言ってよいのかと 思ったり思わなかったり。

(アニメから離れているつもりなので、先ほども言ったように、単純に、最近のポケモンは見ておりません。)


ポケモンのゲームソフトの方は、ドラクエと対話しつつも、アニメ化まで計算に入れていた、ということでしょうか?

しかし、やはり、ポップライブ(音楽)的な入り口で見るならば、2人称のアニメが一番、思想としては、分かりやすい (POPなリンキング的な出力となる) ので、そこからが、得られるものが大きいと思います。


ここまで来ると、ポリゴンとは、ドラクエも含んだ、健全的な振興芸術のソフトウェア全般を差し得る指示対象であり、芸術の3人称のシステムこそ、真に生活世界の侵略のもくろみの対象であった、とも、見ることができるのです。

ダイ君に、聞いてみる・・・?


また、〝みらいのことば〟その流れは、転んでも ただでは起きない ので、確かに、すべてが一致した現在を語っている気もしますね。


共時性から見る、私の分析は、ひとまず、ここまでです。

が、たぶん、当たらずも 遠からず だと思います。


灯台下暗し、とか、言いますし。


いや、むしろ、アニメや芸術は、これから、今という瞬間において、まばゆき あかり であってほしいと思います。

それを支えると解せるアニメ もまた、共時性を伴いながら、生まれてくるのです。


~ 子どもの灯の明日へ ~ [また その〝覚え描き〟]

posted by インテグラルとど at 11:26| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2021年05月11日

自転車(サイクル)は〝セルフ保護〟して〝みんなにセーフティ〟

見通しの悪い道、例えば、高架鉄道沿いの側道へ、交差点から、2回曲がって チェンジする、ような道では、当然、徐行します。

しかし、ここで、突然、どこからともなく、後続自転車が沸いてきて、真後ろ付近から、速度を下げずに、抜かして来たら。――― 私は とてつもなく、怒り(を覚え)ます。

その自転車、というか、平均的な自転車は、何も考えずに、速度を落とさず、遅い車両を、いかなる場合でも、追い越す傾向にあります。 無理やりに。

これは、(平均的な) 自動車でも、同じなので、質が悪すぎます。

前方車両と車間距離を たっぷり とりながら、速度を合わせることが (その判断が) できないならば、乗り物を運転するのは、やめましょう! (向いていません。)

(余談ですが、私は、あまり、文句を言ったり書いたりしない方が、良いようですね。)


該当の、2重交差点クランク(?)等では、当然、徐行します。

そうすれば、自転車は、時速10キロを下回り、ある程度、フラフラ(ダンス の...シッティング{笑) しながら、重心を保ちます。

角から、歩行者が来たら、危ないので、歩行者程度の速度で曲がるのは、当然です。

スポーツ自転車 (競技用に特化しているものは、分かりません―― 汎用的なもの基点で――) なら、およそ時速3キロ台でも、重心を保つ練習をするべきです。 (条件が整うなら、実践でもいいです。)

歩行者の後ろを、乗って付いていくのなら、この位の速度になります。

(つまり、横のマージンを多めに取って、縦の距離を保つということです。)

徐行自転車の後ろに、(曲がる時に) 急に、後続自転車が速度を下げずに現れたら・・・。 (テロだ。)

低速時は不安定であるため、後ろをNOリスクで振り返ることが出来ず、止まるか、焦るか、いずれにしても、まず、どちら側から抜かしてくるのか すらわからないし、下手すると、抜かされるまで気配がない (気付かない) 時もあります。

ミラーを見ながら、止まろうとして、把握できなかったら、どちらかから追い越されてしまい、そこで、低速を保ちながら、或いは止まって、ぶつからなくてよかった、何てことしてくれとんねん、と思い、平静を保つために集中して、先を行きます。


つまり、交差点などで、なぜ、自転車が徐行したり、降りて押したり、わざわざ時間をかけてする者がいるのか?――ということすら、分からない自動車がいるなら、免許を返上すべきです。

360度見渡せる、歩行者状態でないと、死角からの後続や対向の右左折車両に、気付かない交差点もあるからです。

ゆえに、ごちゃごちゃ広い、駐車場や店舗の多い都市部の幹線道路は、自転車にとって、最悪の道です。


今回、言いたかったことは、自転車は、自分自身を大切にしていない、ということです。

一見、速度を下げずに 危ない箇所で 追い越すような行為は、自分のことしか考えていない ように思えます。

実際、自分のことしか考えられない状態こそ、自分のことを最も大切にできない状況、知性の無いことを意味します。

つまり、自分が やらかしたミスは、すべて自分が責められる、よって、こんな冷たい世の中に対して、防衛しなければならない (交通関連の保険含む)。 そのためには、余計なことは考えず、ためらいなく、他の者を置き去りにしなくてはならない、目を向けてはいけない、という風なことを、重苦しく、感じていると、思われます。 (或いは、安心したいと 無意識下に。)

まぁ、周りのすべてが、敵に見えて、恐い、ということです。 (どのように言おうとも、基本的に。)

もし、自転車が、自動車がいっぱいの、この交通社会の公道の中で、〝自転車は 車道にて真っ先に保護すべき対象の車両である〟〝他の車両や脅威から自転車を保護するのは 安全運転としての 公道を行く一員としての責務である〟 と捉えるなら、〝自分もその範疇である〟ことが、わかります。

これ、盲点なのでしょう。

歩道感覚でしか、走っていないから。

自動車しかいない、郊外の道などでは、特に、自転車保護は、そのまま、〝自分を全力で守る知恵と実践が、強力に道徳的なこと〟であると、マジで言えるのです。

実際、自動車全員が、基本的に、そうしてほしいとは、思うでしょう。

自分のことしか考えられない自転車は、或いは、利他的な行為を偽善だと思っている人は、〝自分のことを 理性を持って守るのは 利他的で道徳的だ とは思っていない〟のです。

逆に、自分を守ることも道徳的である場合がある、ことを分かると、自分のことしか考えられない病気は、解消されると思います。

そして。


自転車が、知恵を持って、自分を守るならば、他の自転車も、同様に守るでしょう

すると、1人称で自分を保護しているにもかかわらず、2人称、3人称で、他者も保護することができています。

おいしい話ですが、リベラル社会の、実は、基礎です。

ほとんどの人が、説明できるくらいに理解していないのは、内面や道徳を排除しているからです。

正しく自分を守れば、あらゆる対象を、優先することができるのです。


また、自転車は、歩行者にもなるので、その時の自分は、道路交通で、最も保護されるべき対象となります

すると、他の歩行者も同様に、保護することになります

さらに、だからこそ、自転車走行に回帰しても、周りの歩行者に 同様の配慮を向け続けることになります

ゆえに、自動車は、自転車に乗るのが、免許取得の上で、本来必須なのです。


自動車の場合は、自分を守るという視点を、どう活用すればいいでしょうか?


自動車は、最も、保護すべき対象が多い乗り物なので、自分を守るとは、〝どれだけ、他の対象に配慮できるか〟その 進化の度合いであると言えますね。

それができないならば、最低でも、免許返上は当然となり、自分を守ることが、出来ません。

自分のことしか、或いは、自動車のことしか考えていない運転は、自分を守れておらず、とても高いリスクが生じ続けていることに気付けない、というリスクが生じ続けているのですω

(例えば、制限速度以上で常に飛ばすような自動車などですね。)

つまり、自分を守る自動車とは、最大数の他者に どれだけ 理にかなった配慮が出来ているか、で、決まると言えます。

これができれば、他の自動車も 同様のことができるべきであるので、周りを敵と考えて運転することが、少なくなるでしょう

すると、交通戦争を終わらせる〝何らかの行為〟が、起きやすくなります。


自転車に話を戻して、結論にしますが、自転車が走る時は、電車の駅間のように、速度を適切に上げる方が早くなる区間、というのがあるわけです。

その区間に入る時に、適速で走ると、早くなるわけです。

なぜならば、安全に走行することができるシチュエーションでのみ、性能を発揮できるようにする方法が、一番、シンプルで、神経を使わないからです

電車が駅に着く時点で、速度を上げていないのと同じです。

どんな時でも速度を上げていれば早くなる、という思い込みでは、知恵があるとは言えないし、自分を守る運転もできないでしょう。

危険な車道ばかり走る場合も、同様と言えます。


自転車を長く活用していくなら、こういった視点を、取れるようにしておくと、いざという時にも、役に立つのではないでしょうか。

posted by インテグラルとど at 17:23| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

都市部とローカルの自粛の捉え方の違い ~噂の印象より事実~

都市部でこそ、問題のコアがあり、繁華街から駅から電車から、人口密集地で、マスク必須というシチュエーションが、誰でも読み取れるエリアがあります。

そういった場所では、公園も広くないことが多く、スペースは、貴重です。


一方、郊外では、スペースは とてもあり、学校も 基本的に 授業をしているので、都市部と比べると、マスクさえしていれば、いや、マスクの必要すらない場合が、あると思います。

しかし、大都市の中心部に行かない (そして その現状を知らない)、農作業をする人などが、義務的にマスクを着用するのも、都市部の視点では、やりすぎに感じるのも、ある意味確かです。

郊外で、自粛を脅威に思っている人々は、都市部よりも、うわさが独り歩きしているような、見えない怖れとなって、拡大解釈されているような・・・。

都市部では、出かけることすら、億劫なのです。

郊外は、公園などに出かけても、大丈夫でしょう。

都市部は、街に出かけることすら、難しい現状があります。

都市部は、店などに入ることが多く、不特定多数の人々が出入りするからです。

郊外では、運動場や、自然に囲まれた公園が多いです。

そういった場所に行くくらいしか、やることがないかもしれません。


ということで。

都市部からすれば、そんな、うらやましい、おいしい、公園などを、怖れの社交辞令で閉鎖する、という方向に行きがちなのは、正しく恐れていない と、思えます。

たぶん、〝人口密集地で気を付ける〟という 感覚が、郊外では、身に付きにくいのでしょう。

ニュースなどは、都市部中心に 常識を上塗りするので、郊外の人々にとっては、脅威が過剰に伝わるのは、嘘で有害になるとも言えるでしょう。


これらの点を踏まえて、それでも、やれることは、全部やった方がいい、とは言えますが、郊外の、のんびりした、いい点が、ここ1年で、都市部からは認識すらされずに、情報的に見捨てられたような状況で、どんどん、ダメになっていっている、とも 思える気がするのは、私だけでしょうか。

老人もまた、都会に密集しているので、過疎化=人口自体が少ない 場所より、医療崩壊の危険は少ないでしょう。


郊外のふんだんな土地の利のあるエリアで、大都市圏のストレス的叫びに、付き合う必要までは無いのです。 (特に、周りに伝えがちな、役所の人も。)

長い時間、繰り返し、こういったことをやっていると、自分で考えなくなるので、当時の独裁国家みたいに 落ちぶれないように、郊外の人こそ、中心となって、これからのイベントを企画し、先頭に立つべき 絶好の機会となるのではないかな… と思ったので、書きました(⋈◍ω・∀・ω◍)。✧♡


ローカルには、まだ知られていない、ご当地キャラが、存在していたり。

posted by インテグラルとど at 17:49| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2021年05月26日

自転車で車道を安全に走る視点 ~地元例~

私の地域には、一般道でありながら、自転車が車道を通ることがままあり、自動車がほぼ全員 危ない運転をしている〝実質自動車専用道路〟のような道があります。

その道は、自転車で平坦を西に向かうためには、避けることのできない〝(基本的に)唯一の経路〟であり、〝自転車が車道を走ると とても危ない目に合う〟ように(ミス)設計されており、数ある道の中でも、自動車の自転車への追い越しが、総合的に、最悪の部類だと思うので、実例として、考えようと思います。


この道は、海側と山側が狭い場所にある、須磨駅~塩屋駅の間の、国道2号線 (もしくはさらに西側までの区間) です。

(危険度をランクにすると、 A: あらゆる対策を取っていても通じないことがある 理不尽さを抱えたエリアで 自転車歩行者も多い [例:阪神など]、 B: 対策を取っていれば {危ないことはあるが}対応可能と思われるエリア [都市部のサブエリア]、 C: ある程度気を付けていれば十分に対応可能な 結ぶに適したエリア [都市近郊の郊外エリア]、 D: サイクリングに最適な とても快適で楽しい メインのエリア [郊外の田舎と山間部などの色々なエリア]、と私は分けていまして、上記は、エリアはBですが、車道の交通状態は Aをもしのぐ、最悪の現状だと思います。 しいて言うならば、路上駐車が 駅までの道中に 基本無いことが、Bのランクの特徴というところでしょうか。 ちなみに、サイクリングでは、Bの道からCの道へ通い、Dの道へと つなげていくのが、基本です。 Aの道ばかり走ると、悪い癖が付きます。)

この区間、道自体は、ふつうによくある、高速道路のようでは無い道ですが、見かけより難が多く、自転車で抜けるには、かなり注意しなければならない区間です。

そもそも、国道2号線、の時点で、阪神ならば、確実にスルーしなければならないレベルの〝通り名〟ですが・・・。


まず、歩道の一部が、嫌がらせのように狭い場所があり、初見で自転車で歩道を走ると、抜けられるか不安になるほどです。 悪いタイミングで対向自転車が来たら、そのまま 後ずさりして自転車を戻さなくてはならないでしょう。

また、歩道からだと、海側と山側、つまり、反対車線の歩道へ行くことが、ほとんどできません。

海側の歩道が、ガードレールでガチガチに固められており、西行きの途中で自転車が歩道に乗り入れることもできません。

つまり、ガードレールで歩道を強化している、それだけ自動車が危ない運転をしている、ということです。

しかし、この道の車道を走っている自転車が、割といます。 理由の一つは、歩道に難があるからです。

次に、1車線の道幅が、狭く、西行きは途中まで、東行きは全区間が片側2車線です。 要は 自動車の渋滞対策に そうせざるを得なかった区間です。 (余談ですが、休日の夜などの西行きは 塩屋の辺り以降で渋滞しています。)

片側2車線で 自動車が自転車に どのようなふるまいをするのかは、見ての通りです。 自動車が右車線へ行けないような道を 自転車で走ってはいけません。 (外側線等へ逃げられる場合は別。)

なぜかというと、もし、自転車が無理やり、そうした道を日常的に走っていると、自動車が、スレスレで自転車を抜かすことに、慣れます。 すると、自動車をブロックして安全に走行を意図する自転車に 急な待避を強制するような運転を、自動車は その道で行うようになります。 つまり、その道で、自動車は 自転車をゴミのように見る、ということです。 意識しなくなる、と言った方がいいでしょう。 具体的には、自転車が前方の左端に寄っていると、自動車は むしろ速度を上げます。 ここ、信じられない話なのですが、本当です。 理由は、その方が早く厄介な追い越しを完了できるからです。 当然、その区間の車道を走っている自転車から、覚えた危険マージン、極限まで安全性をそいだ幅寄せで、制限速度を越えて突き抜けてきます。 全く減速しようとはしません。 自動車なんて、そんなものです。 自転車から見た視点ですが、自動車が速度を時速40キロ位まで上げると、周りの景色が、一体となって流れていきます。 注意して見れるのは、同じ速度で走っている前方車両と 大きさ以外 見える位置があまり変わらない対向車 だけです。 わき道から来る自動車にも 注意を払うのだとすると 自転車なんて ほぼ見ません。 少なくとも配慮しません。 自動車ドライバーたちが安全上 衝突警戒する車両は、非力な自転車 以外です。

電車に乗っていると 景色が 映画のように変わっていき、遠くの山など以外は 止まって見えません。 自転車もガードレールの一部のように自動車には見えて、速度を上げるほど、道幅の一部になります。 つまり、ガードレールに ぎりぎり当たらないような走行を 自転車に行っても、接触しなければ問題はないだろう と考えているのです。 よって、今まで問題にならなかった自動車達は、自転車乗りの恐怖を全く考えられずに、その愚行を繰り返し続けることになります。 そのような速度で走っているとき、減速の必要性は まったく感じず、前方車両が信号にかかって速度を落とす時だけ、反射的に減速します。 自転車が自動車の車列に入って走行することなんて、とんでもありません。

そこで、次の難点が導かれます。 この区間は、自動車の数が決定的に多いということです。 どうせ信号に引っかかったりして滞るのなら、車道の自転車を危険にさらしてまで、2車線化するのは、やりすぎでしょう。 まず、 自動車は 車間距離を極限まで詰める危険な走行を 常識化しました。 さらに 自転車に対してこれを行い、どんな時でも追い越そうとする 問題があります。 つまり、車間距離を詰めることを覚えて その癖からしか運転ができないのです。 これは、自動車間では やや危険な運転、自転車に対しては とてつもなく危険な運転です。 自転車が増えている今、さらに言いますが、この運転は、絶対に変えていってください。 自動車に乗らない選択以外で、どうするのかは分かりませんが。 とにかく、自動車が多いことで、車間距離が詰まりに詰まって、その状態で ずっと2車線並走状態のまま 信号に引っかかる構造となっている この区間と その手前では、2車線並走状態のまま その道の とばせる限界まで 加速してくるわけです。 これは、高速道路状態であり、自転車は この状態の時に車道を走ってはいけません。 もし走るのならば、歩道上などに待避して、この並走状態が解除される 自動車が一台ずつ以下しか来ない状態まで待って、走らなければなりません。 これは、自動車がルールを破っているために、起こることです。 自動車がルールを守れていれば、自転車はどんな一般道の車道でも、激坂と進入禁止路以外は走れます。 自動車のこの、車間距離を詰める運転と 並走状態は、自転車を無視することで、交通量の多さから わずかにでも開放されるべく、でっち上げた権利です。 片側2車線化は、もし、このことが意図されていたならば、自転車が走れない道として設計しています。 片側2車線が、自動車にとって必要な場合は、自転車が走るには、もう1車線要ります。 つまり、歩道等に待避してから車道に回帰する方法は、この1車線をつくる視点が基本です。 しかし、この区間は、歩道に待避できがたいために、車道上を走ること そのものが危険です。

・さらに、トラックなど大型車が多いです。 これが、高速道路状態となる もう一つの理由です。 そして、2車線並走状態等において、自転車のマージンが さらに狂います。 忘れてはなりませんが、自動車は、自転車のいる左側とは反対の右側に運転席があります。 そんなシチュエーションで、人間がランニングでは到底出せないような速度に 慣れきっているわけです。 それでも高速道路の半分程度の速度しか出していないわけですから、自動車ドライバーの感覚の逆で、一般道を自動車が走るのは 危なすぎるのです。 トラックですらも、この区間は、速度を さらに上げて走っていることが多いです。 午前4時の明け方前でも、2車線並走状態や1車線後の道で、結局は危険です。 平日は特にです。 ふつうは、高速道路を走っているはずのトラックが なぜかそういった時間にも抜けているということは、高速道路扱いなのでしょう。 どこまでも、どんな時間帯までも、難のある区間です。

この区間より やや西側もですが、西行きが片側1車線となった後、自転車を追い越す後続車は、対向車が来ていないときに、センターラインをはみ出して 1m以上開ける追い越し方に 切り替わるはずですが、対向の東行きは片側2車線のままです。 ピンと来た人も多いと思いますが、対向車が前方に見えはじめていても、お互いに飛ばしていれば、すぐにハチ会います。 もし対向車が、中央の右車線へと車線変更してきたら、という、恐ろしい構造をしているのが この区間周辺です。 対向車が左車線を走っていても、もし 右へと変更する動作を見せたり 右に指示器を出したりすれば、追い越される自転車のマージンや ドライバーの判断は、目も当てられないわけです。 東行きの対向車側は、片側2車線のために、余裕を感じて高速で走れる実感を 得ているでしょう。 西行きの対向自転車なんて 無視するのではないでしょうか。 これが普通の片側1車線ならば、大概の自動車は、自転車にも注意を払うでしょう。

もう一度言いますが、このシチュエーションで、車道を走っている自転車は、すり抜けをしない運転に興味を持った時など、自分の押し付けられた安全マージンを 見直すべきです。 それが そのまま 歩行者への追い越しマージンに転写されます。 歩行者に脅威を与える追い越し(通過)は、行ってはなりません。 人は、危険を感じた時に じたばたすると まずいので、危険感覚のスイッチを切って 運転すると思います。 が、それに慣れて自動車に追い越され続けると、自転車乗りの自分が行っているマージン状況を 満足に把握できなくなります。 これは、自動車と対等だという間違った意識を 自動車に言いくるめられて 納得してしまっているということです。 無事なら勝ち、です。 この区間の車道を やみくもに通るのは、その鉄則を曲げることになると思います。

ちなみに、2号線のさらに東側(特に多車線の車道)は、ほぼ通りません。 兵庫―神戸駅間は、自動車の少ない高架沿い等を通れます。 題目の区間(須磨―塩屋間の2号線)は、その付近で選べるルートが無いのです。

おさらいですが、自動車の2車線同時並走状態は、一瞬であっても、自動車専用道状態で、自転車が走行してはいけないシチュエーションです。 自動車は、たった2台で、これをやらかしてきます。 自転車のことなど一切考えていません。 この状態の時、一度 何らかの退避を行わねばなりません。 これは、自動車がルールを無視しているからです。 そして、自動車がルールを守る 現在唯一確実な方法は、自動車に乗るのをやめること、です。 しかし、この区間の車道を自転車で走るのは、本末転倒と言えます。 自動車並走状態の時に 待避を基本にして走行することで 安全を確保でき、ゆえに自転車で車道を走行することができ、狭い歩道や歩行者にランナーや歩道の自転車を快適にパスすることができるのですが、この区間は、車道から待避が し難いために、最悪です。 なまじ片側2車線にしているだけに、ためらいなく自動車が加速してくる悪習が フルに発揮される 数少ない自転車ルート (自転車走行において道を選べない区間) だと言えましょう。 自動車は自転車の待避も、2車線同時並走状態と前方のことも、自動車に乗っている以上は、全く考えられないのですからね。 交通量が減るだけでなく、 横の自動車も 同一車線上にいると みなして たっぷりと車間距離を取って走行する ことができない限り、自転車に日の出はありません。

一般的に、自動車に追い越されるにあたって、自動車の速度が30キロ以下の時は、だいたい、それ以上の時と異なる振る舞いをします。 自動車は、時速30キロ以下だと、自転車を車両だとみなし、同一車線上を走行していると 捉える傾向にあります。 これは、自転車が景色の一部として見える 配慮が消える 概ね時速40キロ以上の状態が 解けたということです。 そうなれば、時速30キロ以下で走る自動車は、ブロックが可能となります。 見通しの悪い 狭めの裏道のカーブで、自動車が それ以上の速度で走ることは 殆ど無いでしょう。 他にも、かなり狭い片側1車線 (信号が多く 対向車がある都市近郊の破線の直線や、ゾーン30の裏道など) でも、自動車が 時速30キロ以下で走行して、ブロックが可能なことがあります。 自転車の速度が時速20キロくらいの時を前提にしていますが、狭めの車道の信号待ちの停止線の先頭に立っている時も、自動車は後ろに止まるので、ほぼ同じ状況です。 (その場合、発車した後、適宜 2段階右折待機ゾーンなどに待避します。)


と、このように、現状の例を交えて、ここまで話してきましたが、これは あくまで私の走行経験であり、自転車それぞれが 自分の走行方法をアップデートしていかねばなりません。

とはいえ、この理不尽な区間も、歩道があるので、無い主要国道よりは、方法次第で、はるかに安全です。

わたしが、この区間で 安全 (安心ではなく〝安全〟) だと思える、現時点での走行方法は、西行きにおいては、退避不可能なガードレール部分は すべて 海側の歩道を走る ということです。 狭いのは一部です。 明るいうちは、東行きも 海側の歩道を走るのが良いと思います。 対向自転車次第で、次の方法を取れます。 東行きで 夜の場合特にですが、海側の歩道は自動車の逆光で 満足に前が見えません。 なので、山側の歩道も使います。 私は、まず、塩屋駅付近の歩道の狭い坂を 歩行者自転車のいないときに登って、手前の信号がまだ見える ぎりぎりの位置まで歩道を進み、安全な場所に待機し、車道の信号が赤になって 自動車が来なくなるタイミングを確認してから、歩道を進んで車道に出、しばらく 下り基調の道を 時速20キロ越えで走行し、後方から自動車がやってくるタイミングを 余裕を持って見て、停車して、歩道に待避します。 ずっと歩道を進むのなら 確認は不要です。 暗いなどの理由で 狭い歩道を走りたくないときは、有効です。 スポーツ自転車は 持ち上げられるので良いですが、ママチャリ等の場合は、ずっと歩道を走る方が 安全を考えれば、良いでしょう。 車道を走っていくと、次の 車道で待避可能なゼブラゾーン の手前で自動車が追いついてきますので、ゼブラゾーンまで必死で走行するのは危険です。 その手前でも、歩道は ある程度広くなり、ガードレールもありません。 (早朝に西行きへ行くときの 車道を走ってしまっているときの緊急回避にも 山側の歩道は 使えるには使えます。) ここからは、或いはずっと、山側の歩道を走っていきます。 そして、下り基調の右カーブ須磨駅方面へ行くときに、信号が2つ (信号ひとつと 押しボタン信号 もうひとつ ある バス停付近) ある所で 余裕をもって 海側の歩道にわたり (山側の歩道は 歩行者が多くなるため)、海側の歩道を通って 須磨駅より さらに東の 分岐路のある交差点で、先に東側の歩道に行ってから、信号を待って、北側の歩道へ行きます。 そこから、2号線と別れて、山陽電鉄沿いの道を海側の歩道で東へ、途中の自転車横断帯等で山側の車道に出るのが、現状、一番走りやすかったです。

というわけで、私が恐怖を感じた、という意味で、やらかした、失敗例、いろいろ。

・まず、東行き、塩屋付近で、後方の信号を ろくに確認せずに 勘で走ってしまう場合。 歩道を進み過ぎると、信号が見えなくなります。 また、いつ赤になったか判らなければ、もう1回待つことになりますから。 車道を強行して走っているので、自動車がいつ来るか、かなりの恐怖で、走りにくい道と なってしまいました。

・次に、ゼブラゾーンまで走ってしまおうという時です。 手前で、スレスレで、速度を上げて 自動車がぶち抜いてきて、やさしさが 折られます。 ここで、自動車憎しみゲージがブレイクスルー。 冷静に走れなくなることも、まま? そうなれば、歩道で休みましょう。

・さらに、ゼブラゾーンまで 車道でうまく走行して 待機した後、さらに自動車が来ない 次のタイミングで、再び車道を走ろうとする時。 これは、自動車の爆走運転等も加わって、上記のゼブラゾーンまで 確実にたどり着けないので、そこが危険、さらに、その先も、ガードレール等が出てくるので、危険です。 さすがに 途中の信号の後は 殆ど歩道を走っていましたが、安全上、難が多すぎます。 どうしても、歩道を走るのが面倒で、危険にさらされてもいいと思っていれば、走ることがありましたが、数回行えば、何が起きるか分からないので、歩道を走る方法で統一するように、自分を先導するためにも、歩道走行の方へ統一しておいた方が、絶対にいいと思います。

・信号2つのバス停まで来た後、そのまま山側の歩道を走って、徐行したり 押し歩きをしたり する時です。 また、それが嫌で、タイミングを見て 車道に出て そのまま次の交差点まで走ってしまおう という時です。 こちらは、さらに後方からの 自動車の来るタイミングが つかめないので、車道を走ると 危険になることが多かったです。 しかも 待避困難で、カーブです。 さらに先に止まりがちな路上駐車で、多少 右車線へ行く自動車が多くなりますが、手前まで並走してくるので、危険でした。

この区間は、すり抜けをしない 時速30キロ自動車ブロック考慮の 自転車走行 を実践していても、車道を通るのが理不尽な区間です。 されど、歩道があるので、対策を取れば、走れることは走れます。 しかし、車道を走った回数から、歩道を走ろうと思わせてくれない、危険な構造となっておるようです。 冷静な接続・退避の判断がなかなか行えない 自転車と相性の悪い道(区間)のようです。


もうひとつ、言いたいことは、この区間で、自転車がいるのに 速度を上げて左車線を自転車に向かって突っ込んでくる自動車は、全員 免停にしていい、と思います。 言ってよいなら、免停に してください。

すると、自動車が減って、道が走りやすくなるでしょう。

何が言いたいのかというと、これを冗談だと受け止めるか 否かに関わらず、この区間で 実際に自転車で走ると、自動車が いかに いやらしい運転、非情な追い越しを 行っているかが、明確に分かるからです。

完全自動運転を実現するにあたって、まず、自動車全部が、かならず、右車線へ寄って、自転車を追い越せなければなりません。 自動車がルールを守って正しく走行する、というのであれば、この区間では、必ず、自動車全員が、自転車を右車線から追い越し、1車線なら 1.5mくらい空けて 徐行もできるように、走行しなければなりません。 それができないならば、自転車が走れません。 自転車は原則車道、は、この区間において、容易に崩壊しています。 それを探し出せる簡単な例 がこの区間です。

自転車は原則車道、は、ある程度の人々に 説得力を持ちましたが、ほとんどのママチャリなどの自転車は、歩道と裏道と 歩道の延長線上の逆走含む路側帯 しか、走っていません。 すり抜けしない・低速自動車ブロック考慮で 停止線停車の場合有りの自転車走行 は、全く知りません。 スポーツ自転車でも、やっている人を、見ません。 私の場合、速度だけ異なる、自動車と同じ運転をしています。 車両ですから。 道が広い場合は、左端を走りますが、安全運転上の理由などから、退避以外では 極端に左端には寄りません。 車道走行に慣れ過ぎて、歩道を走って後ろに自転車を付けるのが 不可能なくらいです。 それでも、この題目の区間は、車道を満足に走れた ためしがない です。 ちなみに、自動車の車列には、基本的に、入りません。 が、すり抜けもしません。 その他もろもろ、私の行った方法は、いろいろこのブログで報告してきましたので、割愛します。

(ラストでの補足となりますが、舞子の少し東~垂水の辺りまでは、2号線を外れて より海側の裏道を走ることができることはできます [※車道の坂道は通りません]。 気になる人は、日中に探索しましょう。)


自転車が歩行者を守れるような、あえてそう書きますが、守れるような、そんな運転が理想です。

その意味で、より適切で深いルールを守っている人々が得をして、特に現状の上記の自動車達を はじめとして、危険になっているという意味で ルールを破っている人々が、損をするような、そんな社会に、したいです♡
posted by インテグラルとど at 07:04| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

自転車歩行者に危険を与えない自動車のクラクションは?

自転車走行中に なにげなく思い付きましたが、自動車のあの、クソうるさい、至近距離で鳴らされたら こけそうになる、あの いかついクラクションを、自転車歩行者用に、もうひとつ付けることはできないのでしょうか。

例えば、自転車の場合、歩行者には、ラチェット音・砂の擦れる音などタイヤと道の接地音・ひとりごと・鼻唄・口笛・声掛け、など、法律上の自転車のベルに該当しない音で、接近を知らせることも、できることが多いのです。

それに加えて、スポーツ自転車等に簡単に取り付けられる、いい感じの音が鳴るベルもあります。 これも、強く鳴らせば、大きい音が出ます。

いわゆる警笛は、〝危険を回避する目的のとき〟に鳴らさねばならない、と解釈できます。

自動車の あの いかついクラクションは、自転車歩行者相手だと、やみくもに鳴らすと むしろ危険を増やすでしょう。

自転車の手信号もそうで、安易に手を右に伸ばすのは、オススメしません。 危険なので、ほとんどのママチャリが知らないように、基本的に、やらなくてもいいでしょう。


広くはない歩道上を走っていて、進行方向に走るランナーがいた場合、ランナーの速度は、時速10キロくらい、自転車は、(1m以上開けて安全に通過できない)歩道上に、守るべき対象が居た場合、徐行しなければならない(その必要性を感じるべき)、徐行の速度は時速10kmか それ以下なので・・・。

まず、私の場合ですが、停車して休むかどうかを決めます。 前方が女の子の場合は、休んだ方が良いのでしょうか。

走行する場合、広くない歩道では 大概 追い越せないので、ずっと後ろを付いていき、ランナーが走るのをやめてウォーキングになるまで待ちます。 徒歩になったら、再度走り出す可能性を考慮して、ベルを鳴らします。 なぜならば、もし再び走りだしたら、追い越しにおいて、速度が重なり、危険になり得るからです。 これが、ベルの活用方法で、あのいかつい自動車のクラクションには縁がない発想です。 (ただし、ベルは自分の責任と判断で活用することになるし、活用していかねばなりません。)

ランナーが、対向ならば、互いに見えているので、楽です。 進行方向のランナーが 走っているときは、広くない歩道で、やみくもに抜かしてはいけません。 ランナーの横の動きは速いので 安全に抜かせるかを確認する時間を取るべきで、1m空けられなければ、自転車は徐行するので、さらに前方に歩行者等が居たら、抜かしたランナーに追いつかれて危険だからです。 また、ランナーがUターンするのも、怖いです。 (どうしてもどうにもならないくらいに色々な対象に囲まれたら、自転車から降ります。あるいは、端に寄って止まります。 このとき怖いのは ほかの自転車です。)

ランナーが一度ウォーキング状態となるときは、疲れて休んでいるわけなので、横によれる動きをする場合が多くなります。 さらに、ダッシュのために 一度止まるランナーもいます。

こういったランナーを、ウォーキング状態で苦労して抜かしても、すぐにランニングを開始して 後ろに 付いてくることがしばしばです。 そういう時に、イラっとするのは、やめましょう。

ランナーに言いたいことは、自転車が歩道を走るしかないような 自動車の交通量の多い区間で、ランニングを するのは、危険だということです。 (公園が安全。そこまでは歩きで。)

それを伝える、何かいい方法は、無いでしょうか? ウォーキング状態での、ベルでしょうか?

自動車のクラクション・・・というのが、違うことは確かです。

自転車がもし、後続自動車に無頓着だったら。 自動車は危なくて自転車を追い越せないでしょう。 とすれば、自動車ドライバーが、自転車に文句を言うのも、ひとまず納得です。 それが自転車乗り本人の安全にかかわることだからです。

ところが、自動車達は、自転車に対しては、満足にルールを守れていません。 なので、本当は、自転車に対して、強く出ることは、できないのです。

しかし、ルールを守って 広くない歩道上を徐行している自転車は、上記のシチュエーションの、自転車と歩行者版ですが、歩行者、つまり、ランナーに対して、とやかく言う権利は、あると思います。

スポーツ自転車なら、同じスポーツをする人間として。 一方は公道を徐行して不安定ともなる走行を ランナーのために、一方は ただ 歩道を走ってる。

歩行者は法律で保護されています。 だから、歩行者も、ルールを守らねばなりません。 それが保護される基本的な条件、信頼の原則であり、自動車は自転車歩行者に対して 深いところでは ほぼ行っておりません。 歩行者のルールとは、歩道などの道路を占有しないこと、です。 予測不可能な動きをするランナーは、本来の目的である移動とは、異なった目的、スポーツにおいて、自身を危険にさらしてもいる、ということなので、これを分かっていないと思われるランナーに対しては、ルールを守っているとは言えないのではないでしょうか。

この場合の保護とは、何でも自動的に解決してくれるだろうということではありません。 もしふらついてきたら、ルールを守って走行している自転車に限り、自分の責任で文句を言う権利はありますし、言うべきです。

それがややこしいならば、ベルを活用しましょう。

しかし、現状、自動車が自転車歩行者に やっているように、自転車もまた、ランナー含めた、歩行者を ためらいなく 狭めたマージンで 抜かしまくっています。

結局は、自転車は、ランナーに喋ったとしても、自動車に文句を言っていると解釈するのが妥当です。

本当は車道を走ることが出来なければならないが、安全に自動車が自転車を追い越さない道、相応に交通量が多い道は、歩道を走るのが 鉄則でしょう。 無事が勝ちです。

だからこそ、自動車に文句を言うこと、歩行者の安全無事を主張すること、その両方が、ランナーへの注意喚起という一手で つながります。

自動車と紛争しても ろくなことがない間違った自動車社会 だし、ランナーは 健康を保とうとしているからです。

よって、ランナーのことを考えるならば、場合により文句を言った方が、より善き安全運転をすることになります。

恐いならば、ウォーキング状態の時に、自転車から降りて言います。 それなら立場も対等です。

実際は、徐行等で対応すれば、ほとんど問題は起きないので、注意せざるを得ないこともないでしょう。


と、これまでは、自転車と歩行者は、自動車にとって似たようなものである例を、ベルを交えて出したのです。

今回言いたかったことは、自動車の場合は、ほぼ 自動車相手にしか想定していない、法律上のクラクションしか普及していないし、付けてはいけないということにすら なっているのかもしれません。

相変わらず、自動車同士のことしか考えておらず、自動車全部が 自転車と歩行者をいじめております。

(自動車が [抑圧者] と言われていることが 被抑圧者かつ犠牲者 [押し付けられているもの] だと主張するなら、いかついクラクションが 歩行者自転車に嫌われる 大きの理由と捉えることも、きっとできます。 もちろん、クラクションを穏やかにしたからといって、自動車の自転車歩行者への追い越しマージンが 魔法のように増えるとは思いませんが。 効果がゼロとも限りません。)

あのいかついクラクションの緩和と選択可能な改良は、走行音が比較的穏やかな原付や、静止中のオートバイなどに対して鳴らす時にも有効です。

自動車のクラクションは、自転車等においては、音だけで敵意を持てます。

そのくらい、びっくりさせられるものです

ここに、自動車業界の工夫が全く見られないのも、気のせいではないでしょう。

自転車は車道、しかし、自転車に対しての ベルのようなものは自動車には?

(走行音の例のように) 必ず法律上有効 でなくてもいいわけですが、普及をすることができる流れが 無くてはなりません。

それがベルだと認識できなければ、意味がありません。

自動運転のフェイズ3が法体制に組み込まれたのなら、自動車ベルについても、後押ししたいものです。

ただし、ふつうに推進しても、混乱するかもしれませんが。

電車の警笛みたいにすれば、穏やかに鳴らせたら、おもしろいかもしれませんね。

ふつうのクラクションも もちろん使えるということで。

あるいは、あるのに、一度も聞いたことがないのでしょうか?


というわけで、このコーナーのシメ。


自動車の 自転車歩行者用ベルは、〝黄金の鐘の音〟にすればいいんだよ!


posted by インテグラルとど at 08:04| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする