2020年12月10日

自粛・交通・免疫・仕事・情報・収束・来年(2021年) ~自転車と生活世界のトーク~


♢ 自転車の禁止・歩行者の保護・自動車の危険運転 ~3者の関係~


近年、自転車が、車両であるという常識が広まり、自動車と歩行者双方との距離感が 崩壊していると思えます。

この、おもしろい・・・というか、非常におかしい、日本の風潮・近況を、実例も交えて、熟考、ないし、覚書したいと思います。

自転車の威力は、子どもでも乗る点から、使い方に左右されますが、自動車は、それと比較にならないくらい、とてつもない破壊力を持った、交通兵器でしょう。

以上から、自転車禁止を謳う なんらかの指示・運動は、隠れた権力〝自動車の危険運転は肯定する〟という主張が含まれているのではないか? という点に沿って、疑問に感じる点を、世界の今にまで広げて 見ていきましょう。

(2020 12 末 追記あり。 自動車の信号無視、GOTOEATキャンペーン、青少年問題、自転車の並進、など。)


サイクリングロードは、歩道の規格で造られているものが ほとんどであるため、日本は、歩行者と自転車をひとくくりにすることから逃れることが、基本的に無理です。

そんなことは、誰でも判っていて、都市部では、ママチャリのほとんどが、郊外でも、交通量のある道で、車道という選択肢すら意識できずに、歩道を走っています。

自動車と同じルールで走るために必要な〝努力・工夫・譲歩〟を、丸投げし、可能性のかなたに ほおり投げております。

要は、自転車が停止線で止まると、自動車はどうするか?――片側多車線で、自転車が左車線にいると、自動車はどうするか?

自転車が自動車と同じように走ることができないのは、自動車のせいです。

よって、自転車の車両としての運転は、丸投げです。


では、サイクリングロードのようで、そうでもない道があります。

ここ、最近まで、自転車でも通ることができたのに、突然、嫌がらせのように、あちこちに、禁止、という 看板が出来たら、どうでしょうか?

自転車は車両、車両は自動車、自動車は危ない、歩行者が優先なので 車両である自転車は バイクと共に排除。

まず、なぜか、自転車とバイクが同じカテゴリーにあること、自転車と自動車の危険度を混同していること・・・。

以上から、自動車社会を肯定する何者かが、自動車社会に有利なように、自動車を使うドライバーと同乗者たちのみが 歩行者の立場となる時に有利な目的に、真実が改ざんされて、イデオロギーで回っている、そんな、政治的操作のようなものが、郊外中心に出回り、自転車の潜在的可能性を、壊しているように感じるのです。


では、これを行って有利なのは、誰でしょうか?

自動車ドライバーは、流れに乗せられているだけなので、危険運転を自覚することができないだけです。

ほかならぬ、自動車こそが根本的原因である 交通戦争を起こすことで喜ぶのは?

世の中の問題から、その知恵と話し合いから、深さから、目をそらしたい権力者ではないでしょうか?

拝金主義者です。

交通戦争は、権力者にとって、金づるなのです。


自転車を 嘘の理由で悪者にしようとする権力者たちは、責任だけを放棄しようとするために、社会に圧力を掛けます。

これに対して、責任が取れるのか?

例えば、道の管理者は、自転車が歩行者にとって どれだけ脅威であるかを、力説・強要されます。

そして、自転車は、進入禁止となるのです。

以上、余計なことは もう起きません。 ああ、よかった。


そして、日々、自動車の交通被害は、トータル増え続けているのです。 自転車と歩行者の、比ではない 惨事・規模・レベルで。


これを考えられないようにするのが、狙いです。

自転車を侵入させて、責任が取れるのか?

サイクリングロードの管理者も、そもそも、歩道規格で作っているのに、権力者に脅されます。

そして、モラルが混乱するのです。

そうして、自動車の危険運転に対しての現状が、把握できなくなっていきます。


自転車進入禁止。

その看板だけが、無言で、全く違う警告を、発しています。


そんな中で、ウイルス禍が、起こりました。


これによって、身の回りの、日本の中での、自動車の交通被害は、爆発的に増加しています。

・・・そうとしか思えません。


自動車という、何をやりながらでも 運転できるような、パーソナルスペースな空間の中で、ウイルス禍から身を守り、好き勝手に動くことができるのは、自動車をおいてほかに無し・・・

そうして、自動車を 買いものくらいにしか使っていなかった人々が、相次いで、自分の想定用途を越えて活用し始めてやいませんか?

ウイルス禍が 長期間続くことで、人は、国も、他者も、信頼することができなくなります。

そして、自動車の運転は、頼れるものは己だけ、です。

まさに、交通戦争にぴったりです。

それも、ドライバーは、意識することができません。


ここで、あえて、自動車を極力使わないようにしよう、と気づいて実践している人々は、少数でしょうが、優れた人々です

こうなることに気付いて、冷静でいられる 安定的な重心を つくっているからです。


不安定な人々は、騙されやすくなります

詐欺こそが、権力者の回し者なのですが。

不道徳なことを行ってまで、株を上げたい。 そういう統計が出ているそうです。

嘘を言っている企業もいることを考えると、はっきり〝いいえ〟と言える会社は、ゼロかもしれません。

さびしい。


免許を取れない者は、経済的に劣っており、大人の証明を持たない不完全な生き物だ。

そんな風に思っているならば、重症であると、誰でも判ります。


話を軌道に戻しますと、サイクリングロードでも、歩道でも、自転車が、歩行者の前で、徐行・停止するのは、当たり前です

誰もやっていないだけです。


そして、自動車は、比較にならない破壊力で、やらかしています。


自転車進入禁止で ドライバーもとい歩行者が救われるなら、ドライバーは、安全運転をするでしょうか?

有り得るかもしれません。

しかし、悲しいかな…。 普通、こう思うはずです。

自転車進入禁止は、危険運転。 あたりまえ。 自動車くらい、べつにいい。

そして、ドライバーは、歩行者自転車を、至近距離で、猛スピードで突っ切ります。


自転車が危ない乗り物ならば、自動車も、現状のままでいいんだ、と思うのではないですか?

これが、権力者を通しての、国の平均的な見解ならば、底が終わっています。

問題を解決しようという深さの敵だからです。


まず、大切なのは、自転車が安全である、ということです。

すると、自動車も安全でなければ、恥ずかしい、割に合わない、となれます。

ともすると、自転車は、進入禁止であり続けるわけがなく、今解除になります。

そして、自動車は、安全に運転するのです。



こうならないのは、すでに、すべてが間違ってしまったからでしょう。


そこから目をそむけている権力者は、大人という言い訳をかぶった、戦争屋ですか?


私が、自動車ドライバーと、手軽な公園で出会った時に話したことが2つあります。

①、自動車が嫌いだ。 ②、自転車が信号を守っているのを見たことがない。

誇張だとしても、自動車は信号さえ守っていれば何をしてもいい、何をしてもいいということは、信号をも守らなくても良いこともある、となる勢いです。

自転車のヘルメットが、発泡スチロールであると理解しているドライバーも 多くないと思います。


私は、自転車と歩行者しかいない道では、自転車が嫌いです。

危ないからです。

しかし、そのほとんどは、自転車に乗っているときに思っています。


例えば、私が、1m空けて徐行すると、歩行者は後ろを 焦ってふり返ります。


自動車は、これの比ではないわけで、ルールを守って自動車が自転車に配慮する方が危ないなんて、とっくに崩壊しているのです。


この現状で、自転車進入禁止という、メディアの影響・入れ知恵なのか、自動車の末期を 自転車に転嫁する惰性動きがさらに、目も当てられないところに 来ております。

これを、ニュースで力説する人は、いないでしょう。

権力ですね。


自動車が勝つ社会。 誰が得しますか?


ドライバーではないでしょう。

歩行者にもなるのですから。


しかし、自動車は、自転車の立場ならば 徐行して相手に配慮できる ことすら、できません。

自転車より大きいから優れている、と威張っている人ばかりなのです。


そうでない、という自動車ドライバーの方は、もうとっくに されているかもしれませんが、さっさと、周りに知恵を発信しましょう。

しかれど、自転車や歩行者に配慮する自動車運転をするためのハードルは、とてつもなく高く、片側多車線の道では、必ず右車線へ行ける道しか走ってはいけないという意味 でしょう。

しかし、それを無理だと言い切るドライバーは、クルマに乗るな、と、怒り狂えます。

やれとも言いませんが、やるなとは 絶対に言いません。


この現状で、確かに、フェイズ3(俗にはレベル3)の自動運転を大急ぎで法体制に組み込んだ日本は、自動車を海外に売りつけた細い戦略が好きな実績だけに、なんとか 先進国をリードしてみせた、というところでしょうか。

しかし、現状はまだ、何も変わりません。

まだ。


青信号、みんなで渡れば怖くない!!


正しいことを言う、ということが恐ろしいなんて、一体どんな社会ですか?

権力者に、生活世界が侵略された世界?


赤信号なら、色々な意味で、全員渡っているでしょう。

それが、怖いのですがね。


私が思うのは、自転車進入禁止 (の裏側に書かれている成果の約束手形) なんて見て、それが、自動車ドライバーが 今このページに書いているようなことを考えて実践しました!という 証明に なってはいない

それが、言いたいのです。


私がそういうことが言いたいんだなぁ、って、誰も思ってくれていないのでしょうかね。


自転車は、歩行者への安全が確保できる場合で、ふらつかない最低速度、時速10キロ程度(練習含む)までならば、走行可。 そういう補助標識を付けた方が良いところも、あるのではないでしょうかな? (管理者の文字が出る 公共の道。)

自動車の駐車場が無かったり、静かで人がいない場所。 そんな、人の足では回り切れない舗装スポットでも、自転車を目の敵にしているんだなと思われるような、看板ばっかり、徹底する大義が、ありますのか?


ここまできて、ずっと言いたいのは、歩行者、ランナー、老人と子ども、自転車が入れない舗装路は、むしろ あった方が良いというより、あらねばならないのですが、その前に、自動車の交通戦争をなんとかしなさい、それができないと、意味ないですよ? ということが見えていないのが怖いのです。

こういう発想しか持たず、ウイルス禍を なんとかしようとしても、恐れと不信しか生まないと思います。

こういう議論は、どこで見れますの?


子どもがいない過疎地域の場合でも、それでも、子どもはいるわけです。

子どもが自転車の練習をする場合、どこですればよいのでしょうか?

自動車が猛威を振るう道で、安全な迂回路が自転車進入禁止に変わっていたら、わざわざ、危ない道へ行かなければならないのでしょうか?

世は、矛盾だらけでございます。

しかし。

私は、それを実践的に考えることが唯一、打破する方法だと主張します。

実践的に、ということの解釈が重要です。

この人は何が言いたいのぞな? と。


そういう意味で、直観を紡ぐと、いつもこうなるわけで、仕方が無いので、喜んで、載せときましょう。


結論は、『真剣に意図しないと、何も成せない!


そして、ソフトな言い方・・・とは??



♢ 自転車活用と ローカルエリアの町おこし ~知恵と公共整備の進化型~


都市部では、人口が多く、自動車がまともに乗れない・停められない中心街があり、鉄道やバスなどの公共交通機関と自転車と徒歩の利用が推奨されます。

つまり、自動車派は、どこか、自転車ユーザーを恨む傾向があるのです。

少なくとも一部は。


自転車は、当然、子どもでも乗りますが、まず、都市部で、子どもが車道を走るのは、無理です。

渋滞に近い状態で、自転車が自動車の車列に入って走るのは、対向車等への死角を増やすことにしかならないからで、もし、ロードバイク等が すり抜けをしていれば、そちらが正しい運転であるのだろうと、子どもには映ります。

また、自動車は、自転車を無視する運転をします。

自転車が車列に入り、自動車と同じように走るということが 不可能であるということは、子どもから見て、自転車は車両ではなく、自動車とは関係の無いルールで 走らなけれはならないものと 誤解されます。

自転車が自動車と同じルール、左側を走行するという基本、これすら、子どもやママチャリユーザーに浸透しないのは、単純に、自動車が、左端を走っているだけの自転車にすら、スレスレで抜かす等の危険運転をするからです。

左側を走る自転車は、間違っているんですね?

つまり、自転車は、車両では なかったんだ…。


まぁ、確かに、自動車と一緒に走るならば、軽車両という面が強調されますが、上記のように、自動車のように走る、という面が歪められる程であっては、ならないに決まっています。


2段階右折に関しては、道行く自転車達が車道を走らないため、たまに、右折ラインからルールを守って右折しようという、間違った運転を行っている自転車がいますし、T字路では、2段階右折をしない人がいるのも事実で、これを子どもが見たら、2段階右折についての正しい知識が身に付かないのも、納得です。

自動車は危険運転で狂っている。 自転車は、それゆえに排除され、まともなルールで車道を走っていない。

純真な子どもは、大人の方が偉いのだから、免許を持っているのであれば、国がきちっとした道徳的テストをクリアしているはずだから、と、先輩をまねようと思うでしょう

危ないので、くじかれることもありますが、もしまねると、自動車しか走っていない自転車が排除されている道の場合は、自転車は自動車の真似をするしかありませんので、右折ラインから右折するようになる みたいなことが起こります。

逆に、自転車が縦横無尽に信号無視や すり抜けをしている地域では、これが圧倒的に多いと思いますが、子どもは純粋に、そういった 感覚だけで適当に運転する癖が身に付きます。

危険なことを覚えることで、本当は何も身についていないですわね。


以上をきっちりと、行政が考えられていないことは明白で、自転車を単なる危ない車両としか見ない自動車中心社会の中におかれる、公共管理者に、自転車を排除して、ドライバーと同乗者の変形である歩行者だけを保護しよう、という、安易で無思慮な強制に、無理矢理凝り固まるのが堕ちです。


原因はとなれば、都市部とローカルの恐れ合い、訳の分からない自転車が向こうから大量にやってくる、ローカルドライバーの戸惑いの癒し方が分からない町の行政、ということでしょうか?

都市部は自動車社会(だけ)ではないので、自転車だけが、都市部で流行って、ローカルに向かう性質を持ち、結果的に、両方の現状を理解できることに、行政は理解のかけらも示さない、これであっていいのでしょうか?


公園の中にトイレをつくってしまったのなら、公共施設である以上、私たちは それを利用する権利を主張するのは当然です。

もし、我慢すれば、交通戦争に巻き込まれやすくなるから、対策は必須ですが、自転車の盗難という負の流れにわざわざ加担させてやるのは、あまりにおかしいのです。

自動車は小さくして持って行けませんが、自動車ドライバーには、知ったこっちゃないということでしょうか。

自転車は、ちょっとねじやレバーをいじられるだけでも、とんでもないことになり、スポーツタイプは、目を離すべきではない乗り物です。

よって、乗り入れできないタイプの公園のトイレまでは、押し歩いていけなければ、利用の選択肢に入らないのですが、たまに、どんな場合でも、押し歩きすら認めない、と言い張る公園があります。

これは、管理者が、権力者に脅されていて、正常な判断ができていないとしか言えない状態です。

ウイルス禍が流行った今、さらに、正常な判断ができない流れを呼び寄せました、ということです。

管理者に雇われた者に話しても、理解されないので、実質、使用不可能、ということです。


遠方へ走っても、内部にすら入れない公園は、あります。

自動車社会のドライバーと同乗者の憩いの場として絶対化されているという、非常に排除的なルールで構成されている地方の観光エリアは、自転車を押し歩いたら、誰かが乗るだろう? 下手すると、バイクも来かねない、という、まるで、ウイルス扱いです。

自転車は信頼できないどころか、厄災そのものなのです。

誰が、行政の会議で、それを主張しましたか?


別に、自転車で遠方に来て、入らなくても良い、興味の無いスポットはあります。

しかし、そこに、以前までは入れて走れた、人気のない静かな、サイクリングロードに近い活用ができる場所にまで、自転車徹底排除の宣言を 町と管理者の文字で出すのは、裏で圧力をかけている権力者の顔しか見えません。

それが間違っているのではなく、不当だと感じる自転車乗り達に、権力が働いていることを説明する義務があり、それが納得できないものならば、隠しているならば、当然、批判の対象になるからです。

これは、自転車乗り達に対する、生活世界の植民地化であり、行政が自転車を差別しているという証拠です。

自動車ドライバーは自転車をウイルスのように扱い、自動車ドライバーと同乗者が遊べるエリアの歩行者としての安全を確保します。

自転車の安全は、どんな時でも確保するなと 教えているのです。

そして、子どもは、差別されております。

誰も、気付いておりません。

多数の高齢者の中には、最も移動効率のいい自転車を、おさんぽにすら使えないという社会になりました。

自転車の町を宣言していく、ローカル街は、かなり未来を見ていると、私は思います。

ただ、そこに行くまでが、大変ですね。


もちろん、歩行者しか通れないところは あってしかるべきですが、自転車が一番立ち寄れそうなスポットに、長距離を押し歩きなさいとか、それもダメとか言われれば、整備した意味が半分以上ないでしょう。

一体誰が、どんな運転をしたから そうなったのでしょうかな?

自動車は、またしても、制限速度がどうですか??


交通戦争は、拝金主義になります。 金を生むのです。

行政は、自転車というウイルスを排除するために、拝金主義に魂を売っていくので、ウイルス禍に対しての解決も、多くの人に期待されません。

GOTOキャンペーンも、自粛の圧力を、感染をなめた遊技場系だけにしておき、個人商店や飲食店をずっと奨励し続けていれば、秋に騒がなくてもよかったし、続いた店も グッと増えたでしょう。

権力者が勝つ社会、生活世界の侵略により、自分で考えるモラル、を守らない交通戦争が正しい社会。

これなら、ウイルス禍に対する、正しい予防法を、すぐに理解してもらえないのは当然です。

強制的な取り締まりが、一番、前慣習的な、無法者的反抗動機を、強化するのです。

保険会社の過失割合という悪名制度もまた、それであり、生活世界を狩る、自由な主体による道徳的な感受性を 強制によって壊す権力者の拝金暴力です。

私が何が言いたいのか、考えましたか?


弱虫ペダルと関係の深い、子どもを差別しない あのチャンネルが映らない・・・というのも、関係があるのではと思うのですけどね。 (関西のローカル事情)

ローカルとメディアの伝統的圧力関連。


私は、ウイルス禍に対しては、まともな医師が言っている通り、くだらない偏ったウイルス情報であるニュースは見るな、と言います。

どんな出来事も、3人称化して、道徳的に自由なモラルの感受性の入る余地のない生活世界の魔女狩りにして提示する、因習です。

何かやらかしたら、ニュースでさらすぞ!

行政も行政で、これが、民放とか持ち上げられ、そのままにお住み着いていることで、前慣習的な動機の強化、ウイルス禍に対する まともな感受性判断の凍結、それに加担した結果、GOTOキャンペーンでは すでに救えない大量のショップが 支配の損害を受けたわけです。

進化の構造の〝損害の逆説〟という概念は、今回のウイルス禍において、特に理解されるべきです。

フラットランドの 地球問題への合意の欠如が、拝金的過失と判断放棄による怠慢が、問題を無限に肥大化させてゆく、という悪夢です。


ウイルス禍にとっての、正しい免疫活動とは、〝予防と許し〟です。

核兵器に対しての正しいそれは、〝核兵器を無くす正しさを理解すること〟つまり〝被爆しないこと〟であり、〝焼け果てることではありません〟!!

ウイルスメールのような詐欺著作の場合に対する免疫獲得とは、〝システムを含めて否定して理解して、観ないこと〟です。


郊外では特に、ウイルス禍による自粛発令の時、運動場が閉まるという、在りえない事態が発生しました。

行政が、交通戦争の現状を変えられないのと同じ判断の崩壊を、それに向けたのです。

結果、ストレスから、余計に交通戦争は助長されたと見て 間違いないでしょう。

原因は ウイルスではなく、行政 そして私たちの判断崩壊です。

それが一番の ウイルス禍です。

ようするに、今回のウイルス禍の 根本原因は、核兵器の保有を含む、自動車の交通戦争です。

あなたの周りに〝自動車と歩行者〟という 新参文字が発見できませんか?


今でも、ウイルス禍が継続しているように見えるのは、ひとえに、だれも、この交通戦争の現状にケンカを売らないから、青信号みんなで渡れば怖くない、と、赤信号みんなで渡れば怖くないの常識現状を打ち倒そう、そう主張しないからです。

悲しすぎますが。


歩行者保護を絶対化した結果、自転車が歩行者に近いという 当然の距離感が無視されました

ウイルス禍の正しい予防に、許しと信頼、健康な運動とその場所が必要であることを矮小化したのと、全く同じです。

権力者は、誰も気づいていないようにしか 思えませんが…。


このように、現状は深刻なので、何がそうなのか 分かっていないことが深刻なので、話は長くなるばかりですが、メディアは、赤信号みんなで渡れば怖くないとしか 言っていないように聞こえます。

単に、そういうニュースを見ろという風に主張しているからです。

それが不安を煽り、交通戦争と己だけの頼りを 増長するというのに。

この主張をニュースでやり続ければ、私は そうは言わないのですがね。

出来ないんでしょ?

権力者の回し者だから。


それを否定してはいません。

個人的に、ただ、小さな個人的に、何の影響力をも持たない私的に、そう思うということです。


芸能ニュースは、そのスポンサー含め、権力者ですからね。

情報の優遇とか、あまり考えたくないですが、前慣習的な脅しが 媒介しますよね。

スキャンダルとかに。


それが、日々のニュースで、交通戦争と結びつきます。

どう考えるかの視点が、完全決壊に崩壊しているのですわよね。


こういったことを言えば言うほど、周辺化される、という主張・気付きは、進化の構造・下巻の 訳者のあとがきだったでしょうか。

こどもの、健全な、未来予知予感包括的な、力の予感の否定による力の予感という的な、こころ良い成長という響きの、そんな、本来 大人が一番譲ってはならないことが、無視されています。

おかしいです。


今回のもう一つの結論は、すべては実践なので、ただ客観的に考える自転車や自動車というのがあるわけではないのです。

誰もいない静かなところで安全に走行すれば、思考は頭の中を流れます。感情は心身を駆け巡ります

そういうことです。

人は生きていくだけで、ウイルスとも出会い、免疫も生じ、どこかへ向かうのが必然な こころの生き物♡です。

例えば、人間の 海外から来た〝外来種(文脈用語)〟は、〝決して生態系を壊しません〟!

同じを持っているからです。 本能ではなく。


地球問題は、普遍性によってしか 解決できません

ウイルス禍を終わらせたいなら、もっと考えて生きましょう!


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(2020 12 末 追記)

・ ローカルの 片側1車線程度の右左折ラインの無い道路の信号のある交差点にて、自転車に乗っている私は、停止線で停車 (後続の自動車が横に来ない条件で。ちなみに、このシチュエーションにならないときは、自動車と一緒に停車しません。)。 後続自動車は後ろに停車 (2台程度)。 横側の信号が赤になり、私の前方の信号が青になり、直前に後ろを振り返りながら (すり抜け対策と 後方の自動車が動いていないかの確認)、 前方を見て発車しようとすると、横の右から 信号を無視して、こちら側に左折してくる自動車がいました。 もし私が4輪の自動車なら 普通に通れないと思うので、前方が自転車で身の危険が無いから、突っ込んできたのでしょう。 このことから、自動車が信号を守るのは、ルールを守ることが必要だと思っているからではなく、単に、自分が痛い思いをしたくないだけ、現交通戦争(車両走行の現状)とは、この程度の合意のみで回っている、内面無視の 生活世界の侵略にすぎない、そのことを反証できていない、ということです。

GOTOEATキャンペーンに関して、スマホを持っていないユーザーを前提とし、せっかく行ったキャッシュレス化を活かす、デビットカードに 上限1回500円~1000円で、20%位 マイナポイントの様に還元するという仕組みをつくれば、私は、大喜びしたでしょう。 予約ではなく、いつものように来店して、支払う。 このシチュエーションで 街の円滑化を行わない限り、単純にタダで食べたい人ばかりが 無駄に得をするという、税金の無駄遣いにしかなりませんよね。 しかも、押したと思ったら、また引いていくわけです(苦)。 これもまた、顧客の内面を見ない官僚の仕業だと言えるでしょう。 道路交通の現状と同じく、自分さえ宜しければいい、という モラルの崩壊を正確に捕捉することができていない 政府の政策である、ということです。 或いは、この国のね。

・青少年の犯罪とニートなどを同じカテゴリーに分類している風な主張が テレビ番組で成されていたように思います。 これは、内面を無視して、情報操作している何者かが バックにいるのではないか?と思わせ、人間のいわゆる インテグラルな取説 (モラルのレベルの理解など) を捻じ曲げて 蓋をしていることになります。

・公園に立ち寄る際、それほど広くはない (自転車走行可の) 歩道上を、(小学生中学年未満くらいの) 子ども達が、自転車に乗りながら、3列になって走行してきました (対向) 。 これが子どもだから、というわけではありませんが、私たちは、子ども或いは自分たちに、正しいルールを教えることも、出来ないようです。 確かに、一定の年齢の子どもや老人は、正規に歩道を走れますが、並進はダメ でしょう。 私は自転車にまたがって端に停車している (押すとさらにジャマになる) わけですが、走行自転車からは、目立たない脅威を感じない存在として見られて、無視されます。 自動車が自転車に常時していることと 同じです。 歩道で 歩行者へ徐行している自転車に乗る私を、死角から無理やり抜かす自覚なき自転車たち (後続・後方から)。 歩道では、自転車を追い越さず、車道で追い越すか、かなり広い幅、3m以上の歩道で 追い越しましょう。 これを分かっている人が皆無なのは、なぜなのですか?
ラベル:AQAL
posted by インテグラルとど at 09:39| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2020年12月30日

ホワイトの直観! ~世界を平和に!子どもが大好きになる♪予見と未来予知(≧▽≦)✧~

時間的な予知(予感・直観・予見)という、全貌を ほとんど知られていない ライン(知性) があります。

この、予知(t)に関して、〝占い〟というものの相性がどうだろう? と考えた人はいるでしょうか?

もし、そうなら―――ああ、なるほど。予知(t)は、占いという触媒でこそ、真の力を発揮するのか…。 とか、想像を巡らせて〝予感(n)〟すると思います。

しかし、悲しいかな。 この、〝予感(n)〟は、〝認知のライン(の所与のレベルn)〟からなされる 単なる〝空想―思いつき〟であり、予知(t)とは、何の関係もないんですよ。

ω

本当の、予知(t)とは、まずもって、合理的に証拠を集める、非常に科学的なタイプの予知 です。 

これを知らない人が多いのは、予知(s)の方が一般化している以上、当然でしょう。

この、予知(s)というのが曲者で、未来のビジョンを、夢を含む何らかの方法で直覚、導き出します。

予知(s)は、空間的な予知、シーンの予知 であって、通常言われるタイプの〝未来予知〟です。

もちろん、こちらも ラインなので、対応するレベル(n) があります。


時間の予知・・・。 予知(t)とは――、空間の予知、予知(s)との 相性で決まる のです。

この相性が抜群だと、レベル(n)に相関して、予知(t)は、大きな効力を発揮しますが、相性がかみ合わないと、面倒なことになります。


例えて言うと、予知(t)は、自転車走行であり、本人の直観という推進力で、かなり 微妙なバランスを保っている わけです。

この感じを分かる人が、まず超希少なのですが、ここに、下手な空間的予知(s)が加わることで、予知(t)という自転車【サイクル】は、バランスを保てなくなるのです。

そういった、予知(s)とは、自動車【クルマ】に例えられ、スレスレで、自転車=予知(t) を、追い越していくのです。


このように、予知(t)のペースが乱されることは、本人の日常世界にとって、実は非常に危険であり、予知(t)を身につけてきた人とは、通常の社会に単純に守られない存在だったりと、取り巻く状況が特殊です。

芸術家に多いのではないかと思いますが、詳細は 分かりかねます。

これも直観であり、それを、AQALと実践で紡いでいるわけですが、色々と証拠が集まってきているのも確かです。


わたしも、予知(t)と、予知(s)を、ラインとして主張する通り、予感等に 強力な興味を持つ人が多くなると思われますが、生兵法は大怪我の基。 そう、単純なものではないのです。

一説として、今回のウイルス禍も、予知(t)と、予知(s)、それぞれのバランスが失われたために、きれいな接続が取れなくなって、起こったのではないか、と、私は思っております。

もしそうなら、たしかに、小さなことでは、ないでしょう?


誰しも、気付かぬうちに、予知(t)か、予知(s)を、扱っている のは、確かだと思います。

そういった直観無くして、言葉を覚えるのも、不可能かもしれないからです。

形態形成、私たちの潜在能力を実現する、成長というメカニズムは、この、2つの予知のラインと 兼ね合わせてこそ、明快に説明できる と 思われるからでもあります。

そこに、サトルボディ、コーザルボディ、を加えて議論しても、良いでしょう。


まず、自動車に例えた、予知(s)の、下手なバージョンとは、そう、通俗的な占い ですね。

それも、権力を纏ったタイプです。 そういったものは、予知(t)に、影響を どうしても及ぼす わけです。


仮に、良かれと思って、こういった、中途半端な未来予知(s)を、直観する個人(t)に、接続しても、うまくいかずに、トラブるのが、自然な流れでしょう。

こういった、中途半端な予知形態(s)には、色々な特徴があります。


まず、その形態が、特定の警告のように働く メッセージであること

これこれは、このようなことになる、とかいうものです。

誰にとっても 普遍的な結果となるように、主張されていますから、その 合理的な根拠がない 以上、欺瞞ですよね。

あなたが あるタイプだと、必ず不幸が起こるのですか?


予知(t)は 繊細なバランスで成り立っており、そのベールは、〝未来の感受性〟にある、と思われます。

ここに、〝みらいのことば〟も含まれます。

その多くは、合理的世界と、下側からの生物圏的な感受 によって、判断されており、そこから、超意識的な領域に 強みを持たせていくのです。

まずもって、非常にかすかな内的変化によって、予知(t)の直観は、チューニングされるのです。

(後者の生物圏的な感受は、非常に微弱な受信であり、内面というよりは、何らかの エネルギーに近いと思われ、自我の弱い子どもが影響を受けやすく、非常に発達した大人が 後天的に 合理性の上に ケンタウロスを越えて 第3層で 意味を直覚していくもの、それは超意識ではなく 本来 下意識にあり、ケン・ウィルバー〝ワン・テイスト〟の 根拠が乏しい占星術への 議論・脱構築のエピソードあたりで 触れられている領域を、私流に再構成して主張したものです。)


ここに、余計な警告・判断が入ると、そのすべてが、狂います。

全てのコトバ、プロセスは、まずもって〝視点〟ですから、あることを、肯定的に感受しているのに、それを妨害されることは、生物圏的なリズムと、合理的な判断力の両方が、驚いて、すくみ上がります。

創作としてのメロディを引っ張ってくることができる人は、こういったメカニズムで、予知(t)を使っている可能性がありますし、そういった創作でこそ、予知(t)を伸ばすことが、理想だとも言えます。


最近、悪名高い、合理的な根拠が乏しく 対話的ではない形式の〝夢占いのようなもの〟は、元は、フロイトの 浅い意味での深層心理学が根拠の為、予知夢(s)とも、関係しません。

未来の出来事を(s)のようには 判断できない 未来予知(t) は、予知夢(s)を〝合理的に判断〟しなければならない ために、モノロジカルなオカルト主義が入るものは、拒絶しなければなりません。

それは、時間的予知の防衛機構、とも言えるかもしれませんが、いずれにしても、無根拠のものに騙されない直観こそが、本当の予見(t)です。


今回のウイルス禍の下では、上記のように、無根拠の占い(s)が、人がすがりつくように 蔓延しやすいでしょう。


無根拠の占い(s)でも、主に、レベル(n)を理解できない、何らかの予知(s)を経験した人々が、占い師として、人々への使命感で動いていることがあります。 あるいは、それで、お金を儲けられると考えるのかもしれません。

しかし、占い(s)で、はたして、自分は、幸せになれるのでしょうか?

まず、空間的な予知(s)を、自己実現、セカンド・ティアー(第2層) に向けて、熟達していかなければ、合理性を越える ことはできないのです。

そして、そのためには、たとえ、シーンの予知や予知夢(s)であっても、〝合理的なテストを自分で施す〟必要があるのです。

それを パスしてきた人々だけが、本当に実力のある 予知をも発揮する者(s) として、名を馳せたりするのです。

例えば、高度な才能と個性を持った タレントとして。


話は、少し戻りますが、所与の占い師(s)は、完全無根拠ではなく、かなりあいまいな経験から、予知が無いわけではないくらいの衝撃は受け、その混乱の内に、何らかの 自分を納得させるための〝理由〟を 世界から拾おうとします。

そして、その中途半端な見解(s)を、他の人々に伝搬させるのです。

しかし、時間的な予知(t)には、その見解(s)の中身など、モノロジカルであり、合理的に見えない(理解できない)ので、対話することは ほぼ不可能です。

ちょうど、この現代に、あなたは戦争に行けばいいんだよ(s)と言われた時、どうすることが合理的なのか?(t)、ということです。

まず、答えは決まっていますよね。

何のメリットもなく、何らかの抗争に巻き込まれるのは、その 自転車(t)のバランスを危ぶめることを意味し、生活世界がショックを受けます。

拒絶(t)する。 当然です。


この辺りに、感受性が高い個々人(t) と、レベルに開くことができない占い師(s) の 距離 があります。

レベルを見ない 占い師(s) のほとんどは、占星術、時に魔術、そういったものと変わらない原理に頼って、惰行・退行します。

本人(s)の中に見えているシーンを、一体どうすれば、他の人々にプラスになるように、伝搬することができるのでしょうか?

それには、最低限、予知のライン(s)(t)以外の、様々な知性と経験が、必要 なのではないでしょうか?


こういったことから、最近、ブームにしてしまったかもしれない〝予感(t)〟を、考えていくと・・・


① もし、子ども向けのアニメで これ(n)を取り入れる場合、大人向けの内容ではないこと、根拠の無いことを明示すべき、です。

しかし、占い師(s)が、これを そう簡単に認めないのは、予知の潜在性を 咎めることに つながるわけです。


② 上記の場合、肯定的な内容 のみ、例えて おみくじならば、メッセージとしての 末吉以上のコーナー にすべきです。 なぜなら、子どもとは、まずもって、魔術・神話的な世界観を持っているのであって、否定的な概念は、直接、子どもたちの心を不安にします。 この、魔術・神話的なレベルは、合理的な予知判断(t)などとは、何の関係もないものであって、占いコーナーを、誰のために紡いで提供しているかの明示は、必須 だと、私は主張していきます。

(切り離された占いのコーナーが、ストーリーと包括されて、第3層の主張からの翻訳となるには、対話を含めて、上記のような道を 辿る必要があることが、明らかでしょう。)


こうして、発展したポイントが導かれます。


2つの予知(s)(t)は、どのような組み合わせであっても、合理性から、さらには、それを越えた地平から、協力しての接続を行わなければならない。

現代社会において、そうしない限り、幼児以外に、社会文化的・実践的用途として〝実用に耐えうる〟高度 になることは、決してないからです。

特に、時間的な予知(t)は、セカンド・ティアー(第2層)を、さらに越えて、サード・ティアー(第3層)にまで到達して、初めて、その性質を自覚する ことが、基本だと思います。

その超意識の性質上、慎重に合理的なテストを施していくのちに、後天的に成熟しない限り、予知能力の話が 強い根拠を持つことはないのです。


したがって、以下


④ 私は、魔術・神話的な用途で提供される、水平的な予知占いもどき(s)、合理的な根拠を伴わない 内容・行為等に、一切加担しておらず、その根拠も 否定します

わたしが、どれだけ、予知能力全般について、強い主張をしようとも、こういった内容と勢力を、勝手に含めないでください。

小さな三輪車で、交通量の多い車道を走りなさい などと言うことを、当然 私は 主張していません。

予知の場合でも、ね。


スーパーマインド(サード・ティアー)では、確かに、子どもの潜在性の今現前について、はっきりと根拠を述べることになると、私は言いました。

ただし、ほとんどの大人は、子どもへ〝自分たちの稚拙な部分を投影〟して見ているだけで、〝子どもへの翻訳〟をする時に〝幼稚性への埋没〟の道連れを食らいます。

これは、現代社会に、徹底した合理的な基準、それも、色々な翻訳的レベルの神話をサポートした〝スピリチュアリティのラインに関する成熟した知性〟が 根付いていないからだと言え、そんなものがあることすら、ほとんどの大人は知りません。

私が思うのは、子ども向けに翻訳しようとしている 多くのアニメなどが、上記の道に分解しており、結果、予知などなかった、ということになっています。

しかし、これは、合理的とすらいえないでしょう。

本当の、スーパーマインドは、ただ、翻訳だけでは終わらずに、埋没をすることの無い〝本当の子どもたちへの実践的未来予知〟を 提供できなければならない からです。

そして、現実に、その高度で、予知(s)を紡いでいる人々を、私は知っているので、それに接続する(t)ことが、埋没なき翻訳になることを、体感してきました。

これは、やはり、構造―段階(ストラクチャー・ステージ)あるいはレベル、なので、絶対的に、基本的な段階としての流れを飛び越えることはできない のです。

ここで、私は、〝予感〟という、世間に知られすぎている用語を使うことを、控えるべきだった と 思い知らされるに至ります。

せめて、〝予見〟にするべきでした。

通常は、以前から、〝直観〟という言葉を使ってきたので、それでもいいです。

合理性を加えるならば、〝洞察〟でも良いでしょう。

いずれにしても、私にとって、中途半端な予知(s)は、邪魔(t)です。

最低、第2層に達していることが、必要だと思います。


ここで、ずっと、言ってよいのに言わなかった秘密があるのですが、法則的には、予測の出来るやつです。


空間的予知(s)が 第3層 インディゴ(9)にある人は、そのシーンの強力さにもかかわらず、正しい洞察的な予知(t)が 2段階基礎的な 第2層 ティール(7)に支えられる形で、燃え盛ります。

時間的予知(t)が 第3層 インディゴ(9)にある人も 同様で、正しく予感的な予見・直観・洞察に 閃きの明快さは 揺るがないのに、そこに 未来のシーンが現れる共時性(s)が 2段階基礎的な 第2層 ティール(7)に充満する形で、咲き誇ります。


私(t)の場合は、未来のことは分かっていないつもりで 直観を判断・観照 (t) して、マインドフルに紡ぎますが、結局は、後になってみて、共時性も根拠(s)となっています。

この場合、ハイパー・ライトに 第2層の共時性(s)という占い師 であるためには、第3層の予見(t)が使える賢者であることが必要 (前提) なのです。

よって、占い師(s)は、魔術・神話的なものを根拠にしている時点で、決定的に重大なポイントを見逃しているのです。


空間的な予知が第3層にある人(s)の場合は、自然な流れで 未来のシーンが揺るがずに安定している感じ、マインドフルな世界、その 非時間と超時間を、今に集約して安らいで 見て (s) いますが、にもかかわらず、ふと分析してみると、強い〝無空間的な〟閃き(t) を 纏っています。

そこに働いている、ハイパー・ライトな 第2層の知性(t)という賢人は、まずもって、第3層のスーパー予知(s)的 聖者 であらねばならない のです。

どういった場合でも、ハイパー・ライトに、つまり、とてつもなく自然な時空間の中で 予知ができるというバージョンは、必ず、得意なラインが、第3層の方に突き抜けている ということです。


もしあなたが、時間予知(t)のタイプなら、共時性によって自己実現的なレベルで合理性を成熟させる事象において、生活世界から 未来を見たい(s) と思うときは、第3層の予見力(t)まで、発達することが必要 です。

しかし、それができれば、第2層までの、あらゆる予知能力を体得した人、空間的な未来予知の聖者(s)とも、リンキング・接続をすることが、できる のです。


基本的には、強いバージョンが第3層にある人同士で、この、繋がりは、可能 です。

それでも、第3層の〝空間予知(s)〟が 少し前に適応していた 第2層の世界観(s) に、第3層の〝時間予知(t)〟は、アクセス・共感できる、という点がポイント です。

おそらく、移行構造なので、魔術・神話・合理的な〝予知の世界観〟は、否定されたうえで、包摂 されています。 (モラルのラインと同様に。)

あくまで、重心は第3層なのですが、それでも、第2層のセカンド予知が使える わけです。

(この場合、ファースト予知は、第3層 サード・ティアーにあります。)


確かに、どんなバージョンでも、健康に第3層にまで成長することには、多大な意義 がありそうですね。


今回の結論

子どもの潜在的な可能性が今現前しているという地平、とは、時空間的な どちらの予知でも、マジェンタやアンバー(魔術・神話的な段階)には無く、むしろ、ティールやインディゴ(スーパーマインド・第3層側)のチェス盤にある、それが、すべてのレベルの基礎的チェス盤を、移行構造重心で包摂している、ということです。

しかし、グリーン(6)の高度では、チェス盤の多次元性が見えきらず、どのように子どもに翻訳を意図しても、かならず、稚拙な大人のバージョンが にじみ出てくる、という結果が出ていると思います。

グリーン(6)の高度に達しない大人は、子どもに翻訳をすることの必要性すら、軽視するでしょうから、私が今書いていることは、必ず、近い未来に役立つでしょう。

そのためには、第2層を、人口の10%にする必要がある のです。



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(P.S. ひとりごと。 これだけは、ぼそっと書いときましょうか。 ※ 願い → カネ )

posted by インテグラルとど at 07:46| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする