その中でも、TVゲーム系の世界や業界の、直接、リンキング、ないし、批判を伴う〝議論―試み〟は、ほぼ行うことがありませんでした。
理由は、ホロンの性質と水平的順序により、この試みが、まだ準備不足であったこと、それを意味したにすぎません。
TVゲーム系、すなわち、スマホゲームからポータブルゲームを含む、よく知られたジャンル全般を意味します。 ボードゲームなどは、今回の論点には 直接含まれてきません。理由は、進むにつれて明らかになると思います。
以下、ゲーム 《ゲームのホロンを(G)と表す。――後にまた見ます。》 として表記します。
ゲームは、アートの一分野です。 「実践 インテグラル・ライフ」でも、創造活動にグラフィックデザインが挙げられているように、より包括的な象限視点では、ゲーム(G)も 内面のホロンです。
よって、フラットランドによる、生活世界の植民地化の影響を受ける側ですが、現在の近況は、それより厄介な問題を はらむようになっています。
・アートマンプロジェクトの脱構築
今回の主題は、「生活世界の侵略〝B‐サイド〟」ともいうような 芸術のホロンの中のシステム侵略要素を、芸術ホロンの関係を通じて、(有効なリンキング基点で) 具体的作品名も出して、見ていきたいと思います。
そのための前提ですが、後に別メニューで論じようと思います、〝アートマンプロジェクトは 病理のスペクトルである〟という仮説 (経験的意見) を 強くプッシュする必要があるように思います。
アートマンプロジェクトとは、人は、より退行的で稚拙な方向を〝深みと取り違えて進む〟という性質の要約で、私はまず、〝子どもと保守派の違い〟を挙げました。
これは、ゲーム業界の大人が 子どもを食い物にする、という視点は、〝保守派(以前の)側に属する〟という視点を含みます。 ゲームの表面が 子ども向けでも、〝アンチ―子ども〟的な潜在視点があることを、見ていくでしょう。
アートマンプロジェクトは、現在の大多数の大人が、フラットランドに溺愛して 助長する言い訳に使われていることは明白で、〝飛躍の前にまず 部分崩壊がなくてはいけない〟という極論に達しているようです。
子どもの潜在能力は、超時間的に、〝崩壊なく 飛躍成長し続ける〟ことが分かってきています。
アートマンプロジェクトの主張は、深いところで、時代遅れとなっているのです。
私は、〝健全性―潜在性〟という風なカテゴリー(視点)で呼びますが、多くの商業主義は、子どもの表面に仮装した 歪んだ大人の押し付けであり、それを、ピュアな子どもと 言っているのです。
私が自転車に乗っている時、小さな子どもが、蛇行運転をしながら、叫んで、追い越していきました。 少し狭い 歩道がないタイプの 裏路地系 田舎道です。
ある程度の安全運転による徐行を含む中で、後ろから こういった追い越しをされるのは 迷惑というか危ないので、ムッときたわけですが、そのとき、子どもではなく、それを植え付けた〝大人の稚拙さ〟が原因で、いらッとなったのだ と気付きました。
競走するレーシングゲームも、大人の〝競争社会〟の反映に成り得る点を 今 強調するかはさておいて、大人の深いところでの生活世界の歪み、感受性の無味乾燥化、自動車社会のルール無視の崩壊現象、スピード違反の自動車に 子どもを乗っける社会、それに追従する リアルなゲーム、――いま、(G)のホロンを出すのは尚早ですが、いずれにしても、システムの生活世界の侵略の 種々現実が、より健全に育てれば失われなかった 子どものポテンシャルに 影を落としているのです。
子どもが自己中心的だと言っても、植物の方が、心圏の議論上は、より、自己中心的なのです。 それは、大人の歪みとは、本来的には〝全く関係がありません〟!
〝健全性―潜在性〟を、〝レトロロマン的前後の混同(PPF)〟の補強にしか使わない人々が、誤読する人々が、まだまだいるみたいです。
わたしは、この視点を、〝指示言語(!)〟の形で 提示―実践してきたつもりですが、リベラルのテストをするだけでも、最低、プレモダン的な問題は、振り落とせるはずです。
〝健全性―潜在性〟を、あなたという〝大人〟が 解釈しているなら、イデオロギーに染まっていることを、大きく疑った方がいいのです。
それは、〝成長する子ども〟に〝内在する生〟です。
・音楽(M)・アニメ(A)・ゲーム(G) ― 芸術ホロンの〝手の取り合いから統合(I)への道〟!
ここでは、(M)・(A)・(G)のホロンの関係を、コミュニオン(下側象限・水平)的に、見てみたいと思います。
まず、音楽(M)とは、ここでは、路上ライブから 大きなライブ それに準ずる配信などの スケールのある経験を含んだ ポップ歌手の視点を 強く反映したホロンとして、解釈することを推奨します。 理由は後に見ると思いますが、アイドルではなく、ロックなどの ポップアーティストのことです。 そこにも、有名サイド、無名サイドが 双方向的に 文化を形成しているホロンです。 すなわち、メジャーなポピュラーミュージック、アートのジャンルの、有名無名双方が在るということです。
次に、 アニメ(A)とは、一般的に、TVアニメのことを指し、ある程度、大衆文化を含み、多くの人々が制作にかかわることから、(M)のホロンほど、アーティストを有名無名双方として定義する必要性が 薄くなるため、少し、アバウトな解釈が可能となってきます。 ここで、〝少年漫画〟のような、書籍の視点は、〝(A)と(M)、どちらに含むのか?〟という議論も誘発されますが、ひとまず、(A)の方である、と言います。 作者一人で、ブログ活動から メディアとの関係まで〝総合プロデュース業的〟なことができれば、無名有名問わずに、(M)のホロンに見なすことができますが、このコーナーの終了後に、そういった点は、反証・拡張できる点で、今は 緻密に見ません。
そして、ゲーム(G)のホロン。 ホロンとは、全体/部分 が無限に続く、ポストモダンの偉大な発見であり、やや専門的な用語です。 (G)のホロンは、ある程度のシステム、ハードシステムやスマートフォンの機能などをも含んで 拡大します。 基本的には、有名なゲームソフトと そのプレイを交換する社会、ゲーム会社やゲームの文化。最初に言った〝種々TVゲーム系〟の定義で、こういった象限からの多くの 領域を含みます。
(M)・(A)・(G)を、大まかに見て、明らかに、芸術領域(Q/1)が、システム領域(Q/3・Q/4)の方向にシフト・スライドしていくことが、お分かりいただけると思います。
別視点では、(G)の陣営が、真っ当な〝インテグラル理論〟を 実践すれば、このコーナーで言わんとしている問題は ほとんど解決すると思われるのですが、ソフトウェアではなく、ハードウェアに関わるゲーム業界は、そうすることが より困難であるという事実を見ることで、課題として補足できましょう。
(M)は1人称(Q/1)、(A)は2人称(Q/2)、(G)は3人称(Q/3・Q/4)に、重心・拡張した、芸術分野(Q/1)です。
すなわち、N人称が、さらにN人称を見ている、というような、視点の視点であることがお分かりいただけると思います。 (統合数学による ポスト形而上学)
ここで問題なのは、(M)は(A)の中の(M)を 包括的な文脈まで 押し上げて 統合する 文化的責任が生じる、ということで、(A)と(G)には、この〝(M)の(A)への責任が見えない〟という点です。
ちょっと、なるほど・・・と思ったのではないでしょうか?
あまり強調されてきた視点ではなく、おそらく、インテグラル理論によって説明する場合は、〝認識されたばかりの視野〟となるのではないでしょうか?
昔は、TVゲームと言えば、今より劣遇されてもいたわけですが、標準的には、目が悪くなるとか、イライラして引きこもりがちになるとか、その辺は、20年以上、変わらない欠点領域の性質として、社会的には見られているはずです。
再び問題に戻りますが、(A)もまた(G)のなかの(A)を 統合的な形で 包み込む責任が生じてきます。
これも、(G)は、上記(A)の視点が見えない、と気づくのではないでしょうか?
アニメーターの多くが、(G)の分野について 好意的にも見えるのは、そういう理由です。
(M)は、隣接する(A)に対しては やや 分かりやすく身近ですが、(G)に対しては、直通しないことが多く、(M)とリンキング(対話)した(A)に (G)を任せている 流れでしょう。
ミュージシャンがゲーマーであるという視点は、あまり押し出せないように思います。
しかし、私がそうなように、無名サイドのミュージシャンならば、ゲームの影響を 受けていることは無視できないと 大概 言えるわけです。
ここで、(M)は(A)に好意的、(A)は(G)に好意的、好意的=助けるべきだ、と読み替えれば、(M)は(A)と(G)を、(A)は(G)を、包みこんで 土台から手を差し伸べるべきだ、ということです。
これは、非包括的な(G)を、極端に勘違いさせる結果を生みます。
例えば、自動車道路交通の矛盾は、損害保険業界と 影のウェイトを高めて結びつき、今や、そういったサービスは〝オンラインで完結し得る〟ので、(G)のホロンの影響は、非芸術的なシステム (通常の 生活世界の植民地化をするフラットランド) をも、意図せずに力づけてしまうのです。
そして、(A)と(M)に、より(G)への責任があるということは、生活世界の侵略の加担に対しても、責任が生じるということです。
少なくとも、〝健全―潜在〟的には。
これは、稚拙な歪みでは、解決不可能な難問です。
音楽(M)は、その深さを保ったまま、(A)と(M)に対する 指示言語(!)を伴った包括的なテスト、をする必要があるのです。 それにパスしたアニメ(A)だけが、次に、ゲーム(G)に対して 同様のテストをすることが可能です。
これはまだ、水平的なコミュニオンについて述べているのであって、深度と上側象限のエイジェンシーについての序列(入れ子)を述べているわけではないことに 注意してください。
例えば、科学、ガリレオの望遠鏡などは、同様の科学者のコミュニオンによって、テストされ、ドグマ的な教会権力は、このテストに落ちました。
上記自体は入れ子的な序列ですが、同時に、水平的なコミュニオンでもあります。
つまり、(A)と(M)のテストが うまく機能しなければ、(G)が、ガリレオにとっての教会ドグマと同じように 腐敗していくということです。
また、〝健全性―潜在性〟の見地から、今や、(G)が、健康なドグマを持った司祭という風には擁護できない、〝子どもと大人の違い〟〝子どもと保守派の違い〟にならって、歪んでいると言える、と捉えるべきです。
こういった〝普遍的なテスト〟が必要であることは、〝2度の世界大戦〟と〝ポストモダンの発明〟からも明らかで、水平的な世界においては、まず、〝指示言語(!)〟と〝普遍性〟を 練り上げることが必須なのです。
これらが〝必要だ〟と思っている、企業側の人間は、まだ少数であり、アニメを見る中で、それが反映されている作品は、どのくらいあるでしょうか?
ともすると、それらがゲームに与える、包括的影響も、まだまだ無視されている、ということに他なりませんね。
図形を思い浮かべてほしいのですが、(M)・(A)・(G)、それぞれの柱があります。 円柱でも四角柱でも結構です。
(M)・(A)・(G)は、それぞれ、同じ高さです。 即ち、同じ深さ、同じ包括度、同じグレードの入れ子、同じレベルです。
しかし、より水平的な関係においては、(A)は(M)を含み、(G)は(A)を含みます。
もう少し言うと、(G)は(A)と(M)を含み、(A)が(M)を含んでいるので
(M)⊂(A)⊂(G)、となります。
これは、保険会社には当てはまらないことが お判りでしょう。
あくまで、(M)・(A)・(G)は、すべて、芸術のホロンなのです。
よって、(M)・(A)・(G)それぞれの柱の関係は、独立して立っているというより
(M)は(A)に対して必要であるが十分ではない、(A)は(G)に対して必要であるが十分ではない、という〝水平関係〟が導かれるのです。
これは、ラインに近く、ラインではないと考えても良いですし、下側の象限に伸びるラインであると考えても、理論上 機能できると思います。
例えば、コンピューターは、意識の深さが反映された技術的産物です。 第2層の意識に対応したシステムも文化も有り得ます。
(M)・(A)・(G)のそれぞれの柱は、↑ の高さ・レベルを 等身大で維持しながら、↑ と90°に交わっている ↗ の 方向にて (M)を含んで(A)は奥側へ、(M)と(A)を含んで(G)はさらに奥側へ、それぞれを 水平的に包み込んでいるという 図式が完成します。
再度言いますが、垂直的に同じレベルを保っている上で、水平的な包括が進められる、という点に注意です。
(M)・(A)・(G)それぞれの柱は、まず、(M)がもっとも、素早く包括的なレベルに達しやすいのです。 少数精鋭だからです。 次に、(M)が、垂直的な深さのテストを、(A)に施します。 すると、大多数の人々が関わる(A)の中のリーダー的な コアの領域が底上げされて、(M)と同じレベルを主張します。 今度は同様に、包括的な(A)が、より 煩雑で汎用的なシステムを伴う(G)へのテストを行い、上記のような、水平的な包み込みの図式となります。
(M)の深度が(A)に反映されて初めて、(G)に反映され始める条件の 入り口が整います。
しかし、(A)は(M)の包括度と意図を、(G)は(A)と(M)の包括度と意図を 無視できますから、そうなったとき、深度は反映されずに、フラットにへしゃげます。
(M)から(A)から(G)への深度の反映は、1人称→2人称→3人称 への、深度の 象限への芸術ホロンの拡張、という運動なのです。
もし、それが破たんすれば、(M)の柱の底の影が泥け落ちて、溶けたろうそくのように(A)に姿を変えて 闇を地面に吐き出し、さらに溶けて原型をとどめなくなった ろうそくのように(G)へと姿を変えて、全面的なシャドーへと、倒壊していきます。
上記は、RPGの大魔王の変身のような、現代社会の風刺のような、或いはブラックホールのような、現象形です。
音楽は、アニメの中に水平的に包括され、アニメは、ゲームの中に水平的に包括・移植されます。
つまり、水平的に、なので、逆に、音楽を本当にアニメの中に包括するためには、実際の深度を同期するための、指示言語(!)を伴う(A)と(M)の対話、が必須 なのであって、それが行われないと、ブラックホール化するわけです。 (A)の深度は 顧みられていきません。 例えば、(M)をアーティスト、(A)をアイドル、と見れば、重心としては、この傾向があることが分かるでしょう。 アイドルは、(M)のホロンを名乗るのならば、ある意味での ポップアーティストでも あるべきなのです。 混合物ではなく、包括的に。
(A)と(G)の対話も同様で、それにはまず、(M)の努力にかかってきます。 アニメのゲームへの移植は、アニメ制作会社(A)ではなく、ゲーム会社(G)が 創作しているので、近年までの移植作品の評価を見れば、深度の反映と対話が、議論上、重要な意味を持ってくる点に、合意できるはずです。
ともすると、ゲームがポップソングを 張り付けるだけか、それすら縁遠いことになってしまうことも、かなり明白です。
(M)から(A)への正しいタイアップ無くして、(M)から(A)から(G)の正しいタイアップは、なおさら、難関となります。
貼っ付けるだけではなく、芸術ホロンとしての同一性(エイジェンシー)を保ったまま、深度が反映されねばならないのです。
なお、(M)・(A)・(G)すべては、ホロンであり、ホロンは、全体/部分 である他に、〝4象限 (1人称・2人称・3人称) を持つ〟ので、会社などは、1人称の芸術ホロンから見た〝2人称や3人称の象限の、あるタイプ〟です。
(M)より(A)、(A)より(G)が、システム的に、より強い影響力を、大衆、或いは株式にも、与えることに成り得ます。
このとき、1人称しか、深さに対する 根源的責任が取れない以上、まず、ミュージシャン(M)から、声明は始まります。 それが、テレビアニメ(A)の放映倫理、TVゲームの非依存性(G) を 左右する 重要なカギになるのです。
つまり、ミュージシャン(M)と対話した アニメーター(A)は、ここまでの定義では、ミュージシャン(M)でもあり、その アニメーター(A)と対話した ゲームデザイナー(G)は、ミュージシャン(M)や アニメーター(A) でもある、と 包括的には言えるわけです。 (例の正しい柱の水平的包括)
こういった視点から、現在のゲーム業界は、音楽家、特に、私レベルの無名サイドを〝無視しかねない〟状況なので、危惧しています。
アニメ業界(A)ですら、給料の問題があり、すでに、生活世界の侵略を受けています。 特に無名サイド側は。―― ゲームデザイナー(G) が、こういった(A)や(M)の 無名陣営と対話するのは、なかなか難関です。 ましてや、ハードを制作している会社は、芸術ホロンですら ないところに重点を置いているので、ソフトウェアの意図を支配することにつながり、中小規模のソフトウェアは、ハード会社のソフトとキャラの海賊団の傘下という位置づけにされかねません。(生活世界の侵略 B‐サイド)
以上が、エイジェンシーとコミュニオンからの、ホロンの (M)・(A)・(G)の現状の議論の序論です。
このコーナーでは、次に具体例を見て 発展は時間に任せますが、私は無名サイドのミュージシャンとして、2010年辺り以降のゲームには、関わることを控えています。 どうも、気が進まないのです。 よって、優秀なアニメの陣営に、ゲーム業界の土台は、ひとまず任せることになります。
それでも、中心的な運動と威力が 変わることはありません。
・(M)・(A)・(G)――芸術ホロンと統合的リンキングと批判の〝ゾーン3〟
ここからは、ゾーン3である、私たちの内面の内部、文化を中心とした、(M)・(A)・(G)を見ていくこととなります。
文化は、具体的な作品と結び合わせることで、一層、説得力が増すというものです。
このパートでは、ゲームであっても、保険商品ではなく、音楽やコミックと同じ〝芸術〟領域であることの説得を ゲーム界に対して 試みる と共に、最終的には、その独善性・欺瞞性の積み木は解体されねばならないこと も、見るでしょう。
ゲーム(G)が、18なんちゃらの、大人という意味でない方の横文字 と (以下、AD化) している点は、誰もが 危惧しているところでしょう。
個人情報と企業とデジタル化とハッキングについても、子どもとゲームの視点を拡張して、容易に問題点が推察できます。
欲望に任せて、AD化ウイルスを仕掛けられる デジタル世界において、子どもの世界に取り巻く危うさです。
ミュージシャン(M)と、アニメーター(A)を〝対話―統合〟しても、ゲーム業界(G)のカルマは残り続けています。
そして、明らかに、(A)と(M)の陣営の対話において〝宜しくない〟と見なされている アニメジャンルのタイトルが今、ゲーム業界(G)に 仕掛けられているようです。 (ひとまず、私見。)
これは、どういう言い回しをしても、(G)は、包括的な(A)と(M)を無視できる、という 原則(的に見た視点) に合致します。
そして、(G)界に、AD化の波が ひどく襲っていることから、売れ線至上主義による 生活世界侵略は、カルト的な神話として、(A)と(M)の統合に対する和解に 長期的に失敗した、と見るべきでしょう。
ともすると、(G)の多くは、保険会社のフラットランドの側面のような、いや、保険も立派な商品なら、もっと、ゲームの源流である〝カケゴト〟的な コスモスの倒壊に関わった 証拠の反映のような、〝し好物〟的な要素を しつこく備えた アンチ子ども的〝健全性―潜在性〟に真っ向から反対するような流れ、としての、闇が、その正体として、牛耳ってしまっている、と言えるのかもしれません。
つまり、(G)は今や、アーティストのホロンから堕落し、似非保険商品をバラまいている AD化の売れ線至上陣営と、成り果てつつあるのか…。
私たちがこのテストを〝行わなければならない〟とすると、これはあまりに大きな重荷でしょう(੭ु´・ω・`)੭ु⁾⁾
さて。 このまま、議論が 押し流れていかないために、ひとまず、話を変えましょう。
私が慣れ親しんだ、アニメ文化世界から、お話を練り上げていきます。
ゲームに、噂以上の最新の作品は出ませんが、アニメは、一応のところ、新しいタイトルも出ます。
✧
TVOが放映してくれた〝スラムダンク〟の録画を、見ていました。
90年代に制作されたアニメです。
長さは、2年くらいで、スパンの事情としては、ちょうどいいと思います。
これも、エイジェンシーとコミュニオンです。
スラムダンク(A)は、主題歌のWANDS(M)のテストを通過している と思います。
ここで、(A)には 不良漫画ならではの〝人をたたく〟シーンが盛り込まれますが、〝アニメの意図は変化する〟で述べたように、不健全と見なせる描写に 成り得ます。
[(A)以上に (G)のホロンは、女の子タイプの〝差別―矮小化〟を加速しうる、女性向けの深いゲームが定立しにくい、という視点は、今は強調しませんが、上部リンクの〝アニメの意図は変化する〟と共に この議論を発展でき、緊急的な重要性を持つ 視点であることが お分かりいただけると思います。――そして続き(↓)――]
比べて、WANDSの曲(M)には〝上記の〟ような 表現はなく、より健全度が高いホロンとして 生起しています。
これは、1人称として始まったホロンが、2人称へと広がる時に、どのような適応をするのか、というストーリーでもあるのです。
また、スラムダンク(A)を ピックアップしたからと言って、レコード会社のビーイング(M)を応援することになるわけではない、という点も、注目に値します。
そもそも、アニメのタイアップ曲を、ひとつのレコード会社の系列にするのは、アニメのホロン(A)の業界の 管理上の欠点であり、アニメ(A)の中の主題歌部分(M)が、アーティストの意図(M)と競合しうる、アーティストの意図より レコード会社のシステムの方を優遇してしまう、という風な権力関係が成り立ち、それが、(A)や(G)に、間違った方法を広めてしまう結果にもなるのです。
スラムダンクは、この点において ほぼ問題がないと思うのですが、他の作品はどうでしょうか?
(A)よりも(M)の健全度・包括度が高い状態で、アニメは(M)の意図とすべてを横に含んで、時間をかけて進化していくのです。
それが成された時、スラムダンク(A)は、WANDS(M)との共作、という 深い地平に統合されるわけです。
これは決して、適当にタイアップして傘下につけて 巻き込むような植民地化ではなく、それに根源的に反対するものです。
当時の音楽業界と同じで、今のゲーム業界(G)は、これを恐れているのではないでしょうか?
しかし、その前に、アニメーターのお給料の問題も、重要な課題 なのです。
さらに進んで、スラムダンクへのリンキングについて考えましょう。
元ネタの一番最初を発見するのは 至難なので、文化的な思想の継承で見ていきます。
無名サイドから始まったと見ても、これによって合意できるでしょう。
〝ちゅどーん〟は、スラムダンクに出てくるのですが、ジュエルペット(A)にリンキングされました。
ジュエルペットは、やさしい包括によって 練り上げられた作品なので、スラムダンクの良き解釈アートとして、繋がることができるでしょう。
なぜなのかは、以下に見ていきます。
〝怒りのボルテージ〟も、スラムダンクで聴きましたが、わたしは、GBのポケモン(G)を思い浮かべました。
前者のジュエルペットへは、アニメ同士で、後者は(A)から(G)への変化となります。
しかし、(A)から(G)へは、思想ではなく、言葉の上でしか、取り込まれてはいないかもしれません。 (G)は(A)の深い意図を無視できるからです。 (ここでは議論上、リンキングになり得る可能性を 見つけたにすぎないことを断っておきます。)
ポケモン(G)は、RPGとしては やさしい作風ですが、ゲーム業界の基準(G)としてであり、ポケモンバトルが〝戦闘描写〟でないとは 言い切れません。 それが子どもの〝健全性―潜在性〟に、どのような思想的影響を与えたか、(A)や(M)を包括的にリンキングしないことには、答えは出ないでしょう。
ポケモンは、アニメ(A)になりました。
そして時が経ち、〝ポケモンはAD化による二次創作を容認しない〟という 定説が付きましたよね。
これは、たぶん、ポケモン(A)が重心だったのではないか、と思われますが、ポイントは、(G)から(A)への変化は、(M)→(A)→(G)の順で進まなければなりません。 私には、ミュージシャンとの包括的対話(M)が十分だったとは思えず、結果、ポケモン(A)が、ポケモン(M)に縮小された、という感じが残ります。
アメリカでは、〝名探偵ピカチュウ〟の解釈から分かるように、〝ポケモン(A)は 一度は 第2世代で終わった?〟らしく、ポケモン(G)文化の方が強く、浸透しているようです。 (生粋の日本育ちだから、実は、よく知らない。)
また、一般的な映画やドラマも、(A)視点で包括していいのですが、今は、序論の段階なので、穴埋めは任せます。
問題は、ポケモン(A)と、ゲーム業界のAD化浸食化意図(M)の間に、大きな主張的な乖離がある、という点です。
今や、多くのアニメの主題歌を担当する (※関係の) 〝P〟・グラフィティ(M) 【注:文脈上の視点】 という名前は、こういった、(M)・(A)・(G)構図の関係の中から、責任のハードルを下げるために 業界が名乗らせたのではないか・・・と、無名サイドのミュージシャン(M)として、私には引っかかるのですけどね。 (言いにくい…。)
ポケモン(A)には、マギアナの映画もあるわけですが、AD化は、テレビ東京としても、容認できないはずです。
ジュエルペット(A)の話にちょっと戻るとすると、中継に 弱虫ペダル(A)を ご招待することとなります。
学校名の〝ショウホク〟と〝ソウホク〟から、すでに、スラムダンク(A)と 瓜二つなネーミングセンスですが、当然、リンキングとなっています。
スラムダンク(A)は、自転車で車道を走っているのですが、これが、弱虫ペダル(A)には、結構 斬新だったんじゃないかな…。
そして、ゲームより自転車を選んで〝生きてるって感じる〟って 心から言った 山岳君は、ジュエルペット てぃんくる☆(A)で、サラが言ったのと同じです。
〝生きてるって感じる〟TVゲーム(G)とは、(M)・(A)・(G)の 包括的な対話の中で 生まれるのであり、植民地化しては生まれません。
てぃんくる☆は、〝健全性―潜在性〟に対する 優れたアプローチであり、大人を脱構築した大人の主体でもあるわけです。 そして、ミュージシャン(M)に開いた、優秀なアニメ(A)なので、弱虫ペダル(A)が てぃんくる☆をも受けている以上、これらの作品は、ミュージシャン(M)との対話をしっかりやっています。
そこで、更なる スポーツマンガ(A)の登場です。
メジャーセカンド(A)で、大吾君は、野球に躓いて ゲームばっかし やっていたわけですが、姉などに怒られて取り上げられました。
つまりですね、弱虫ペダル(A)と似た展開 に なってくるわけです。
メジャーセカンド(A)の原作は、ポケモン(A)にも関係のある、小学館ですから、(A)が やみくもに(G)を信奉してはいない ことは明白です。
よって、TVゲームと、スポーツ――ってテーマが、しっくりきます。
スポーツゲーム(G)をつりました!―では、解決にならないことは 分かりますよね。
深夜枠のアニメは 最近疎くなりましたが、ソードアート・オンライン(A)の 明快な主張は、〝ゲームでの行いは、現実の世界の行いに反映される〟ということです。
やはり、(A)は、やみくもに(G)を信奉しません。
しかし、ゲーム業界(G)出の 意図が、深夜アニメに逆移植された場合は どうでしょうか?
AD化の矛盾に疎いまま、(A)と(M)の対話を無視して、(A)を(G)以下に還元しやしないですかね?
もっとマシな例では、ゲーム制作にかかわった レベルファイブ(G)のアニメ(A)で、バーチャルパラレルワールドが展開されたのは、偶然ではないでしょう。
ドラゴンボール(A)との適切な包括的リンキングが成されていれば、パラレルワールドに無理な理屈をつける意味がないことに気付きます。 (無効なパラダイムと、指示言語化の不可避性。)
また、鳥山さんのテスト(A)を期待できる、ドラクエ(G)は、ダイの大冒険(A)もあり、かなり、他のゲーム業界と異なる立場にいます。
(A)と(M)の水平的テストの例で、ファイナルファンタジー(G)の映画(A)も、見事に失敗したと言います。
上記のつながりの経験(A)から、ドラクエのエニックス(G)が、FFのスクエア(G)を救った、というのは、納得できる話です。
マガジンの講談社(A)と、ジャンプの集英社(A)も、今や、どこか似た構図でしょう。
そして、スクエアエニックスとなった、FF12で、ワンピース(A)へのリンキングを試みているので、ここまでの文脈から、その軌跡が分かってきます。
単なる〝売れるため〟の意図(G)では ないのでしょう。
ちなみに、FF12の〝オキューリア〟(G) は、〝お給料〟の 〝おかしな現状〟のことを、直截的に言っているのですよ!!
(個人的に 参照として、ミスチルの〝さよなら2001年〟(M) をおススメしちゃっておきます♪)
いいんかな…。
本当は、まだまだ、多数の作品名を出して、詳細なリンキングを 追うべきなのですが、今は、この一手が、急を要す意味でも、重要です。
もう少しだけ、いくつかの視点を 拡張しましょう。
子ども向けゲーム(G)を遊んだ、たとえば私の世代が、大人になって、ゲーマーになり、ADの波にかっさらわれたら、子ども向けにターゲティングしたゲーム業界(G)は、AD化の現状に、巨大な責任があるのでは ないでしょうか?
ゲームの行いは、リアルに反映されるんです。
さらに、それは、次世代の子どもに、〝健全性―潜在性〟に、大きな負の影響を与えます。
てぃんくる☆(A)で分かる通り、セクシュアリティのデリケートさと その翻訳って、並みではないですからね。
例えば、JOJO(A)のゲームを発売する企業(G)は、(M)・(A)・(G)の対話を、特に ミュージシャン(M)の部分を、ブッ飛ばしてやいませんか?
桃鉄(G)のカードじゃないけど、(M)と(A)のリンキングが、フラットにへしゃげて、本当に(M)&(A)になったら・・・、最悪だよね(´◉◞౪◟◉) ―――― 代表取締役(G)が偉い、とかいう構図は、これからの時代には、不適切だと思うよ。 ――海馬コーポレーションと ビッグ5の関係(A)――みたいにね。
アイドルは、複合的には(A)の陣営に属していると考えて正解。 その場合、ミュージシャンとの対話(M)を成していない点で、〝読者―反応理論主義〟多数決の閲覧数が価値を持つ、非視点的な狂気の世界、が少なからず反映された、売れ線商法などが、還元主義的に、跳ね返ってくるのです。
アニメ(A)の主題に、ミュージシャン(M)がほとんど居ずに、アイドル(A)ばかりがいるのは、そもそも、(M)と(A)の対話が、成されていないからです。
アニメ(A)に、ミュージシャンの経験と魂(M)が〝存在しない〟決定的な事実が、例えば、ラブライブ(A)を〝アイドルの大衆崇拝〟に 併合せざるを得ない 不可避の理由で、AD化(G)が ハードルを下げているように思わせるという罠が、アニメの意図(A)を ミュージシャン(M)から切り離し、ホロンの中で迷わせるに足る、厄介な壁なのです。
そして、AD化(G)の闇の意図は、アイドル(A)(M)を 引きずり込んで、ディープアンダーグラウンドなデジタルシステムAD化の〝し好物〟に、恐ろしくも見事に還元することで、元々、カケゴト的な〝地下性〟のあるジャンルが ゲーム業界(G)の文化と 関係せざるを得なかったハードルが、ミュージシャン(M)の今を圧迫している原因の一つであることは、議論から明白でしょう。
最後に。
有名サイドには〝制約〟がある ようです。
有名サイドのミュジシャン(M)は、無名サイドの(A)(G)に対して、〝ほとんど何も言うことができません〟!
大衆のアニメ批評家や、ゲーマーに対しては、ほぼ無力なので、無名サイドのミュージシャン(M)と くっつく必要があって、無名サイド(M)ならば、有名無名問わず、(A)と(G)に対して、こうした批判をすることは、出来ます。
また、有名サイドのアニメーターや声優など(A)もまた、無名サイドのゲーマーなど(G)への批判には、無力でしょう。
こちらも、無名サイドのミュージシャン(M)や、無名サイドのアニメーター等(A)と結びついて初めて、成されることだと思うのです。
これらの厄介な構図が、30年以上、ずるずると ひきずられて、曖昧にされながら、ついに私を悩ませるまでになり、そこに、株式会社を含む、大きな権力闘争の〝生活支配の植民地化の2つのバージョン〟がうごめき ひしめいて、有名サイドは、部分的に現状を知るも、活動休止くらいしか〝抵抗手段〟もとい〝メッセージを伝える手段〟を持ちえず、しかし、核兵器が無くなっていない以上、いつ、バカに地球を滅ぼされても おかしくないわけだから、このまま ほおっておくのは、すでに とてつもなく危険で、人の不安で株価が下がるのならば、何が経済と政治を崩壊させるのかなんて、深いところでは、かなり入り組んでいるわけで、つまりは、どうも、この、大人が牛耳る世界は 気に入らない。 そして、子どもが牛耳る世界とは、大人が牛耳る世界を 大人が子どもに植え付けた結果 生じる社会なので、屁理屈でしかなく、そういうことではなく、もっと、なんとかならないのかよ・・・ と思っているわけです。
これで分かることは、アニメが最も、ややこしい位置にいることで、一方では、内面の視点をインテグラルに紡ぎ高める情熱、もう一方では、地下からのシステム的侵略の声に乗って 売れるものを造らされる矛盾 と戦う 無理ゲー的な労力。
音楽家もまた、親しいアニメ家を持てないことで、さらに、アニメの現状が不明瞭で手におえないものに映り、ゲーム業界に対しては、もはや、事情と顔が全く見えずに、どのように、協力すればよいのかすら、糸口も見つけられず、このような、無名サイドからの 切り出し方しかできないというところです。
これ以上書いても、要約できずに、ズルズルいくので、ある程度明快な今、ここでお開きにしましょう。
ポイントは、芸術ホロンの深いレベルでの相互関係であり、実践に基づいて、今から洗練させなければ、芸術業界すべてが、手におえない責任(カルマとフラットランド)に押しつぶされるのは目に見えており、何を言おうが、グリッドの差異化は、統合のために必要だから、指示言語(!)として、提示しておかねばならないと分かる、ということです。
以上。
なんか、いくつか、失礼なこと言ってたね。
ラベル:AQAL 統合的リンキング (著作権)