2019年10月20日

自動車の逆走は絶望です! ~対向・突然・自転車視点・片側1車線等・説明有~

私が実践している自転車走行を まとめていたりする筆者(とどさん♢)ですが、自転車は自動車に配慮される立場であり、自動車は 自転車がどれだけ気を付けていても 生命の危機的状況の意味で 回避できない、運転?が可能です。

逆に、自動車は、同様の意味で、ほぼ100%できます。 つまり、安全運転義務は、自転車の場合、ルールを守ることであり、自動車に対してのそれ以上の安全運転義務はありません。

ここを勘違いして、自転車は端に寄らなければいけない、が、すり抜けをしてはならない(筆者の主張でもある)という、矛盾だらけの強制に成り下がるのです。

自転車は、特に歩行者に対して強力な安全運転義務があり、端を走りすぎると、歩行者に配慮できないので、そういった癖をつけてはいけません。

また、自転車は、自動車の追い越しマージンを1.5m以上制限速度以内で安全なシチュエーションで取ってもらう権利があり、そのために、端に回避できるマージンを1mくらい取る安全策を取らなければ、とてつもなく危ない状況におかれると言えます。

自動車は、こういった点を殆ど意識しておらず、片側1車線より狭い道では、対向車は、自転車から見て右側(対向自動車から見て左側)を空け過ぎながら、自転車をすれすれマージンで減速せずに平気で離合する、自動車ならば一旦停止するのに、といった、安全運転義務の本質を欠片も分かっていないのではないか?という運転をしている場合が はたから見て多すぎます。

自転車と極限まで縮小したマージンに共通分母化して それだけを覚えてスルーするドライバーが大量におり、もっと端に寄れる場合でも 平気でまん中を通過します。

その最縮小マージンを 自動車の所要時間短縮のために とんでもない あるとあらゆる 状況に強引に適用させるのです。

自転車は車道、といっても、これらを考慮に入れない場合、うまくいかないに決まっています。

私がこういったコーナーをまとめておくのは、自動車の危険運転を勝手に呑み込んで、仕方なかったんだで済ますと、必ず歩行者に〝同じ〟暴力を与えるからです。

そうならないために、筆者は、自動車の病理的な愚行!? を、うのみにせず、まとめていきます。


私が数年走っている中で、一番回避と予測不可能である自動車の運転?は、主に片側1車線の破線の道の直線区間で ちょうど後続車がいないときに、対向車の真後ろにぴたりと異常に車間距離を詰めている自動車が、前方の対向車がわずかに制限速度以下になったなどの理由で、突然 何の前触れもなく飛び出してくる運転?です。

――運転?、です。――

この、運転?は、恐らく、前方の自動車は、自転車が来ていることで速度を下げるのでしょうが、制限速度が50キロの時にせいぜい40キロとかでしょうから、それを突如追い越す問題の後続自動車の速度は+20キロとして、時速60キロ位でしょう。

何の前触れもなく、自転車の前方に、いきなり時速60キロで突っ込んでくる自動車が現れます。


その時の状況ですが、まず、死んだと思いました。

同時に、体がぴくつき、一瞬言うことをきかず、頭が真っ白になり、なぜ当たらなかったかふしぎで、どういった状況だったかふり返ることができないくらいのタイミングだったわけです。

左にガードレールもあったので、左に寄りすぎる方法も 一瞬で使うことはできません。


自転車のみが片側を、自動車2台がもう片側を走っているとします。

その後方自動車は、そもそも、対向車の有無に気付いていたのでしょうか?

もし不明ならば、対向車と正面衝突する危険が高く、わざわざ反対車線をいきなり走行しないでしょう。

ということは、自転車は、車両とも対向車とも見られていないことになります。

では、対向車・・・もとい、対向自転車の存在には気づいていたのでしょうか?

自動車は見えるのに、自転車は見えない、もしこのシチュエーションが対向で起こり得るのならば、とても危険です。

自動車は要するに、反対車線からやってくる〝車両〟の存在に気付かずに、反対車線に突如飛び出すことになるからです。

このときの自転車の速度が時速15キロ程度だとすれば、原付やオートバイの速度には及ばないので同じ話にはならないのでしょうが、2輪各種でも 自転車側のシチュエーションで 同じ突然の自動車出現はあり得るわけです。

おそらく、真後ろに張り付いている自動車は、前方自動車の死角で、前方のいくらかの部分が見えず、ある速度以上でやってくる車両を時間で読んで、何もいないと判断したのでしょう。

これは、郊外つまり田舎に多く、自転車が車道を走っていることを想定できていないことが原因です。

自転車は車道、というメッセージは、都会中心の発想であり、郊外の状況には さらに対応しきれていない、と考えるのが妥当でしょう。


しかし疑問が残ります。

もし、自動車が、時速15キロ程度で走ってきていたらどうしていたのでしょうか?

自転車だから見えなかったのだとすれば、原付やオートバイが時速15キロで景色を見ている場合でも有り得ます。

その後、オートバイが突如加速する場合もあるわけです。

いずれにしても、時速15キロで走行してくる自転車や自動二輪との正面衝突は、避けられないような運転をしていたことになります。

これは、どう考えても、安全運転義務違反でしょう。


さらに別の視点もあります。

本当にわざとではなかったのか?


自転車に特に言えますが、運転には盲点があります。

それをなるべく克服していくために、安全に数走るのです。

しかし、自動車が一般道を安全に走るのは、上記の出来事含め、基本無理です。

今回の場合、前方の車両にも責任が発生しかねない状況でした。 (実際はそうでもないはずですけどね。)

これは、前方がサンデードライバー(暫定)、後方が安全運転義務違反者、というわけですが、自動車が制限速度オーバーで流れる状況と、自動車社会が自転車走行に及ぼし続けている破滅的な現状を理解するには十分です。

つまり、前方の自動車は、後方の自動車に、自転車が死ぬぞ!とあおり、自転車が死ぬわけです。

何も対向車線から来ていないことを確信していないのに反対車線をいきなり走行した場合、安全運転義務違反ですが、何か来ていた場合は、4輪自動車でないから弾いても構わない、と考えていたのなら、もはや、殺人未遂です。

しかし、それが誰にでも自動車ドライバーにできてしまうのが、自動車社会の狂った現在です。

つまり、自転車ならば、当たっても自分は無傷で済むから、自転車が来ていることが分かっていてあえて最悪のタイミングで飛び出した、可能性が浮上します。

自転車が来ているかわからない場合、自動二輪各種も 稀ではあるが そうなので、少なくとも100キログラム程度の物体が人と共にやってきているか わからないのに 強気で飛び出せるものでしょうか?

自転車がやってきていることが分かっていれば、自転車しか来ていないことが分かっているわけで、つまりはそれを無視、恐怖を与えるためだけに、突っ込んだのです。


世には、運命というものが存在します。

パラレルワールドをマッピングし、この世界の過去の真実を、歴史を改変することなく 記憶として取り出すことができるライブラリーが出来たならば、もう嘘は付けません。

先の出来事を既に分かっている人から、実際に起こったことを感じ取れる人だっています。



種々未遂的行為を、わざとやっている人に言います。

あなたの行ったことは、絶対にバレます。

というより、すでに把握されています。

そして、それは、あなたに必ずしも報告されるとは限りません。

そんなばかな・・・うそやろ、と思うかもしれませんが、権力者の中枢のヒミツ的な内容の深い部分を 全てあなた一人で網羅していますか?

つまりあなたが〝これからどうするか〟です。

近いうちに、まとめて過去の行為の〝代償〟がやってきます。

免停どころでは済まされません。

きっと、家族にも迷惑が掛かるでしょう。

あなたは、見える人をすでに苦しめている、ということです。


自転車は、明らかに、自動車との走行で安全上不利です。

それでも、現状のまま続いているのは、自転車が唯一 自動車から自分を守ることのできる〝天下の宝刀〟である〝法律〟を盾にすることができるからです。

それしかできません。

そのために、自転車はルールをちゃんと守りましょう。

自転車がルールを破っていれば、自動車との事故で、自動車側の思う壺です。

自動車側は、ありとあらゆる手を使い、自転車にルールを無視するように画策します。

私は、先頭の時に停止線で止まりますが、直後の自動車ドライバーが何を考えているか知りたいです。

もし、邪魔だと言ったとしたら、もう何も言いません


自転車がしっかりルール、つまり安全運転義務を全うしていれば、それ以上落ち度が無いので、自動車の制限速度以上で流れる現状、1.5m以上開けない追い越し、(片側2車線以上にて)同一車線上での追い越し、信号の無い横断歩道での歩行者無視&横道からの停止線で止まらない、赤になった直後の信号無視の自動車まで見られる、ありとあらゆる事実を いくらでも突きつけることができます。

これらはすべて、自動車の自転車への安全運転義務違反にあたり、歩行者へも同様です。

自転車がルールを守ることで歩行者に配慮しているのだから、比較も容易です。

もし自動車が全て守っているというのならば、いくらでもドライブレコーダーを開示し、どのような運転でこれらをクリアしているか情熱的に話してくれるでしょう。

というより、そういう自動車とは事故にはなりません。


もちろん、これまで述べたことは、合理的に理解するための簡略に過ぎず、やや誇張表現もあるとして、それでも、安全運転義務違反のドライバーが考えているほど オーバーで的外れではありません。


自転車の最大のメリットは、歩行者にのみ、最大限の安全運転をすればよいということです。

道路を走る上で、最もリスクが低い乗り物なのです。

つまりは、より気軽に、自由に走れる癒しを秘めています。

ただし、自動車に対しては、命を懸けることで、このリスクの軽量化を行う点は、要注目です。

この、命をかけるとは、安全運転義務違反の自動車ドライバーが勘違いしているような、命を落とすことを覚悟して それでも車道に出ている、というわけではありません。

冒険に、自分の命を落とすことを想定する馬鹿はいません(笑)

弾かれる気は毛頭ありません。

そうではなくて、安全運転義務違反の自動車が少なからずというか大量にいる現状を見て、或いはそうでなかったとしても、先ほどのことを繰り返しますが、自動車より自動車に対して安全上不利なだけです。

自転車のせいにして、自動車自らの安全運転義務違反を正当化するのは、誰がどう見ても 堂々明白に〝犯罪〟です。


リベラル社会では、証拠として 膨大な裏付けがない限り、強い償いを科すのは不可能で、それが寛容で良いわけですが、自らの手を汚せば汚すほど、証拠が膨大になっていきます。

つまりは、本当にわざとやっている自動車は、いつでも検挙できるということです。

ただ、今日までそうでなかったとしても、明日は。

なので、明日に不平を言うのはやめましょう。


ここで思うのは、ケン・ウィルバー「ワン・テイスト」などで読み解かれている〝奴隷〟の社会・文化的真実です。

アメリカとアフリカの場合で、〝保守派など〟は〝残酷な白人が親切な黒人に対して〟行ったと読み解く傾向が強いらしいのですが、ウィルバーによると、実際は、〝ふつうの人々がふつうの人々に対して行った〟という、言いたいことが分かれば かなりぞっとする結論です。

自動車社会は、フラットランドという、病理的なリベラリズムから来ているのが定説ですが、そういった、金銭至上主義的傾向は、人種至上主義的なナチズムのような病的上昇志向とも関係していき、つまり、病理的なリベラル社会によって媒介された、歪んだ保守的ナルシシズム人間たちが、上記の奴隷制度を展開し続けている、と読むのが妥当です。

残酷な自動車社会の安全運転義務違反と種々未遂と思われる行為は、頭のおかしい残酷な自動車ドライバーによって侵されているのではなく、ごくごく普通の人間が、ごくごく普通に自動車に乗っている結果、異常な事態が起きている、と捉えた方が、あらゆる点で核心をつきます。

つまりは、かつての奴隷制度と同じく、全くの無自覚であるわけです。


これは、奴隷制の廃止はあくまで、産業[外面]に対しての平等だったのであり、モラル[内面]の深さに対しての平等はまだ未発達のまま、これが病理的なリベラル、即ち、自動車ドライバーのモラルは未発達・未分化の奴隷制度に埋め込まれたまま、であることを意味します。

以前の私の自転車走行も、その影響を受けていたふつうのドライバーにすぎなかった、というだけです。

これは、インテグラル理論を勉強するだけでは全く分からず、構造主義を使って、外側から内面のデータを取って初めて分かるものでしょう。

少なくとも、モラル、自転車の運動スキル、車道のルールと危険予測の理解、の3つの発達ラインが伸びていないと、私のここで書いていることを まともに理解するのは無理でしょう。

そうでない人 (要解釈!) は、いずれにしても、内面の次元で、奴隷制度を展開している、異常な現代の、ふつうの人々( ;∀;)です。

なんか、変わった普通ですね。


後ろの対向車に突然飛び出される例に戻れば、いきなり 一般道の限界速度以上で突っ込んでこられる身になれ、と思いますが、ふつうの人なので、無理なのでしょう。

こういったシチュエーションは何回か体験しました。

このコーナーではその中で一番ひどかった経験を書いています。

その日のライド中、気がずっと変になりそうになりながら、経験と勘で何とか安全運転していくことになり、飛び出した自動車ドライバーは、正直 何の意図があって、こんなことができるのかと思いました。

ロボットで言うなら、私の中の頭の導線が過半数焼き切れてしまった感じです。

自動車の車間距離の詰め方は異常ですが、それに気づかないふつうの人々こそ、さらにそうだと私は強く言います。

自動運転に私の経験はきっと役に立つでしょうが、まず、こんな在りえない現状が事実であることを 道徳の尺度で判断しない限り、実体を変えるのは無理でしょう。 自転車を車道に上げるのも。

もし自動車ドライバーがわたしを歩道に上げるためにわざと危険行為をやったのなら、全くの見当違いです。

まず、私がこういった記事をブログにして載せているなどと考えもしないでしょう?

次に、そもそも、自転車は、高級なロードバイク以外、誰も車道に出たがっていません。 つまり目論見は成功どころか、まだ スタート地点にすら立っていないのです。 この程度の自転車の量で、音をあげてどうするんだ!!

そして、自動車のメーカーが、内面のモラルでリベラルの尺度を持っているのなら、こんな運転の現状を知ってショックでしょう。 自分たちの開発した自動車が殺人の道具に使われているなんて許しがたいことでしょう。 きっと、全力で自動運転を開発し、メーカー側が責任を引き受けます。

具体的に、どこがどういう特許を取得して、どう引っ張っていくのでしょうね?

生存戦略では生き残れないのは、まず間違いありません。

例の危険運転は、私がびくつき、右に寄れていたら、死んでましたよ。

特に、ダンシングは 走行に便利な能力なので、急ブレーキと突発的な進路変更が シッティングと比較にならないくらい不安定となる点も理解していない自動車ドライバーに対して、後続車はもちろん、対向車が来た場合に 使用を 少し中断する、といった さらなる防衛策を講じるのが妥当です。

ただし、ここまでくると、対向車が来るだけで、まともに走れなくなるので、自動車がやらなければならない当たり前のことをやってくれないことにまで こちらが神経をすり減らす コストを自ら負う必要はありません。


今回の議論の目的は、〝自動車社会と道路交通の、社会文化的背景を攻撃する〟ことで、どうにもならずに変えることもできないような停滞した現状を、変えられるかもしれないという希望を持ってもらうために 書き下ろした次第であり、単に特定の個人なる ふつうのドライバーに罰則を追わせても、集団倫理やシステムには影響が乏しく、全く新しい捉え方が必要、そのために、自動車に乗り慣れた者は 自転車で安全運転をする根源的な意味と意義を忘れて もはや再獲得不可能な状況に引き裂かれている故に、代わりに筆者の視点を提供しています。

自動車に乗り慣れている場合、基本、高速道路も走ることになるので、自転車の速度域で高速進行しているという実感も壊れ、速度と自分の運動能力の関係感覚も機能しなくなり、人に適したペースで見る景色の素晴らしさもドライバーとして忘れ、その現実に慣れ、結果、なぜ自動車が今までと同じ扱いで悪いのかが分からなくなっている事実を、社会文化的な条件により説明することで、説得力を持たせるに至る、という知恵を持っていただきたかったからです。


才能のある人々の多くは、自転車に乗って危険な現状に身を置くことが望ましくないため、こういった事実を発信することができません。

私は現在、不幸、或いは幸福にも、この手の経験が豊富にあるため、書けるうちに書いておきます。

自動車社会、そして、道路交通の未来が、きっと良い方向に変わりますように!


――――――――――願いを込めて❀

ラベル:AQAL
posted by インテグラルとど at 23:44| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする