自動車の代名詞は〝運転免許〟――運転免許の代名詞は〝道路交通法〟――道交法の代名詞は〝自動車が一番エラい〟
これ、本当ですか?
詳細はどうあれ、通行帯などの項は 自動車中心に書かれているように思われ、運転免許は経済力や大人の象徴として見られているように思われ、道路は自動車の為にあるように思われ・・・
この〝思われ〟は、思い込みにすぎない、限りなく〝意味を成さない〟相対的な〝意味〟にしかなっていないのではないでしょうか?
誰もがそうだと思い込むことで、ビッグなことだということになっているだけで。
どういうことでしょう?
現代社会は、深さの欠いた〝不道徳な〟乖離した営みだと、言われます。
これは、ニヒリスティックなことでもなんでもなく、ただ、限りなく〝蜃気楼〟な依存性に おかしな程〝リアル〟を見てしまっている〝もったいない事実〟を意味するにすぎません。
自転車は、〝歩行者や自転車に対して安全に運転することが〟できます!
殆どの自転車は、自動車によって歩道に上げられることにより、そうする機会が持てないだけです。 車道を安全に走れれば、安全運転は身に付きます。
一方、現在の自動車社会は、免許制に深さがない意味で、リベラル憲法の〝道徳段階5=普遍的に他者を思いやる寛容〟を深くは無視します。
自動車社会は、今や普通に知られた〝信号の無い停止線で止まらない(×)〟〝自転車を別の通行帯から抜かさない(×)〟にとどまらず、-対向ですら- わざと自転車にぶつかるスレスレで抜かす(×××××)など、自転車が邪魔ならば〝何をやってもいい、なぜなら車は社会の中心で 例えば 社会を成り立たせる神だからという理由付けをしよう〟というところ (そんな輩の主張と行為が肯定すらされかねない実状に) まで来ているのです。
これは、自転車は車道という声明(事実)が、上記のニヒリズム(相対的にほぼ無意味の蜃気楼)を脅かすので 暴力をもって排除しようという暴力(安全運転義務違反以上の犯罪)です。
そして、そういった輩のために、全員が〝危ないから停止線で止まれない=止まらなくていい〟〝制限速度をオーバーしてよい〟ということになっているので、〝免許保持者の現在に運転するドライバーは、上記に加担〟します。
私が言いたいのは、〝自転車は車道〟以降、まだ 上記の〝おかしい〟が〝糸口すら解決されない〟ように見える点です。
これは、考えたくない、即ち 自動車のおかしな社会に とてつもなく依存しているということです。
自動車社会は、道路交通法を守れない(信号さえなんとか守っていれば何をやっても許されるという風潮と現状である)ので、道交法は 自動車の為にあるのではないことが分かります。 (少なくとも、自動車が道路交通の中心だという主張の反例になります。)
自転車は、証明の必要はありますが、すでに道路交通法(安全運転義務)を守っているという方であれば、〝道路交通法は 自転車の為にある〟と堂々言えます。
自動車社会は、道路交通法を含むことができず、自転車は道路交通法(安全運転義務=リベラルの権利)を含むことができるので、自動車社会は、リベラルな深さの権利から 剥離しています。 現状は真実によって追放される運命だということです。
交通戦争を肯定する運転、結局は、制限速度を守らずに自転車がいることも想定する気も起きない運転の現状、即ち、自転車等の弱者を犠牲にしても 仕方がない=自分たちは悪くない=他者のことを一切考えない蜃気楼の寛容 であるということです。
道路交通法は、自転車、そして、京都の人力ぐるま、喜多方の馬車、そういった車両を中心にある! ということです。 (ここでの地名は代表例です。)
自動車は、片側二車線以上の道や片側一車線の狭い道、片側0.8車線程度の道などの中で、〝自動車中心の道=安全運転義務違反を行う道〟を 勝手に決める 因習があります。
対向車が居なければ〝1m以上幅を取って抜かす〟位はできても、そんなものはおまけで、対向車さえ来れば、速度も落とさずスレスレでパスします。
これはおかしいどころか、〝免許を持っている(自動車を運転する)場合、安全に追い越せる場所まで自転車の後ろを驚異の与えない縦の距離を取って 付いていかなければならない (あくまで私の主観的な文章で述べた解釈です)〟あまりにも基本的なことです。
理由はどうあれ、それができない免許制・自動車社会・ドライバーは、リベラルな深さを伴う憲法社会から見て〝恥ずかしいだけの汚点〟です。
無くなる無くならない、必要である必要でない、ではなく、事実として相対的に よりそうであるということを意味するにすぎないのです。
しかし私としては、この〝おかしな営み〟は きれいさっぱり無くなってほしいです。
自転車への恨みから、これを見てぞっとするような運転をしている方ならば、そういう行為がこういった声明(文章)を生み、明日の自分のカルマを突き付けられることになるので、今すぐ やめましょう♪
これに気付いてほしいのに、あまりにも無頓着な方ばかりらしいので、書いておきます。
今回の声明をそもそも定立するには、最大限の種々計算・マージンによって、自転車は車道をなるべく走る、ということに尽きます。
さっき挙げました、自動車の勝手な因習は、自転車が車道を走ってはならない道を勝手に決めるという意味で、リベラル憲法に反します。
自動車が、自転車が走行していることを〝考慮したくない=安全運転義務を放棄する〟根拠を、勝手に付与しています。
よって、一定の犠牲はありうる=自動車ドライバーは仕方がなく保険と経済力で救われなければならない=その道を走っている自転車が危ないと知っているだろうから悪い という 〝自動車中心の欠陥道主張〟に陥って弱者に押し付けるわけです。
これらは、あやふやでもニヒリスティックでもなく、はだかの王様で、客観的にも内面的にも、簡単に見れる今や痛い常識です。
赦されはしないことなのですが、真に寛容な内面的なリベラリズムは、〝あなたがたが気付くまで〟じっと辛抱強く慈悲深く、寛容に、待っているのです。
まだこの状況でも〝自転車は邪魔だ〟とか平気で言っている運転免許保持者の現時点でドライバーの方は、状況をよく考えて、取り返しのつかない主張・行為をしていないか、とても よく考えてください。
自転車の歩道や裏道走行は あくまで、本来配慮してもらうはずの自動車に対しての〝安全運転サービス(配慮)〟です。 長い目で見て相対的にて厳密には、義務であるわけではありません。 ここも、自動車社会は勘違いしていませんか?
確かに、自動車の保持・運転は大変だと思いますが、それでも、これまで指摘させていただいた視点から、〝自動車側が任意の公道を欠陥道呼ばわりする〟言い訳は、通用しません!
蜃気楼的には仕方がなくても、別に あなたの方が痛い思いをするのではなく、弱者の方なので、責任は根源的にあります。
たぶん、真に、リベラルな、本当の健全で深くスピリチュアルな〝成長〟を望むときに、とてつもない〝責任の理解=強い罪の意識を発見することでの本当の後悔〟がやってくる、ということになります。
その深みを、知らなかったでは、生まれてきた意味が、とても〝もったいない〟です。
そして、車道をしっかりした美学・理由を持って走る自転車乗りは〝アホでも馬鹿でも間抜けでもありません!〟 (かなり未来を読んでいる賢い人々です。――その苦労も知っています。)
今回のこの視点・報告は、相対的に限りなく無意味の、蜃気楼にすぎないような〝きょ偽を真実と取り違える乖離=ニヒリズム〟を 本気で信じて〝弱者の犠牲によって成り立つ絶叫にそそる無常に仕方のないクソみたいな真実〟だと勝手に思い込んでしまっている〝現状の自動車社会〟を、全く新しい視点(ポスト形而上学的)で見てほしいと思い、書いています。
きょ偽を真実と取り違えた《真実》?――そんなものはありません!
すぐには目に見えては変わらないかもしれない。でも、僕は、あんな おかしな自動車社会の〝いいなり〟にはならない!
――はい、今回の結論・・・にて おひらき♡
ここまで読んでいただいた方は、次回の記事 『 【自動車】 完全自動運転を実現する方法 ~歩行者自転車中心の超発想~』が とても おもしろいです☆彡
2019年07月05日
道路交通と法は自転車主役! ~狂った自動車依存社会からの自立声明!~
posted by インテグラルとど at 23:33| 実用的生活実践
|
2019年07月09日
【自動車】 完全自動運転を実現する方法 ~歩行者自転車中心の超発想~
前回の記事 では 半端だと思いますので、〝別視点〟から、〝完全自動運転の実現〟について考えてみます。
ポイントですが、通勤には自動車が最適です。
これは、〝自動車を通勤に使っている〟という事実において 彼らが全員合意していることです。 (志向的一般化)
忘れているかもしれませんが、一般道において、最強の自動車は、〝原付〟です。
コスパ、荷物が入れられる(よね?)、燃費良い、狭い道でも走れる、免許のハードルが低い、維持費、他メリット多数。
唯一の欠点は、〝交通の流れに乗れない=狂った自動車社会からのみ排除される (もちろん歩道も走れない)〟ということです。
ここが、今回言いたかった最大のポイントです。
自動車社会は、自動車において最強である原付を〝活用しきれないどころか完全に排除してしまった〟点において、遂行矛盾を期しているのです。
原付に乗っても、上記理由により、歩道もやむを得ない時にも走れないので、すぐに自動車一般に乗り換えることになり、自動車が増えすぎて、通勤の効率が大幅に下がるわけです。
通勤に関する平日の自動車は、平均的に見て自転車に対して とても危ない運転をしているのが、自転車に乗っている私の相対的体感(つまり感覚的な相対的紛れもない事実)で、自動車達にその自覚はありますか?
これから述べるビジョンは、すぐに実現可能ではないですが、〝完全自動運転に反対しているドライバーは意外に居ない〟と ネットを見る限りでは思われ、〝オートバイは手動要素を残してほしい〟という意見・要望の元に〝完全自動運転の実現を心待ちにしている人〟が大多数である点で、述べるに値するでしょう。
ポイントはそれでも、自動車の一般道での進化形を〝原付〟に集約する、という点に変わりありません。
(今回の議論でも、原付は、時速30kmが法定速度の規格である一種を指します。 アシストが時速27キロ【限界30キロ】まで拡張された 速度メーターの付いた車道走行のみ可能の電動自転車【法律上原付】だと思っていただいて差し支えありません。)
誤解無き様に付記しますが、普通の電動自転車は原付ではなく普通自転車で、大概の歩道(自転車通行可の歩道)を走行できます。
・自動車を高速道路 (高規格道路) 専門にする!
この考え方自体は、ふつうは〝免許を持っている人全員が一度は発想〟していないと、私は変だと思います。
それだけ、自動車の一般道においての走行は、矛盾だらけで困難だからです。
ここでは、自転車の話は脇に置き、自転車の歩道走行も似たようなものである点は、種々記事で詳しく述べていますので、割愛します。
私は、自動運転について述べたこともあって、結論は〝自動車が一般道基点において 道徳的な深さから強く反省しない限り 完全自動運転は実現しない (本当のドライバーの優しさから メーカー責任と信頼の自動運転は実現する)〟となりました。
この根拠を、拡張して述べます。
自動車を、高速道路専門にすると、高速道路内で、より早く〝完全自動運転が実現〟します。
そもそも、一般道からではなく、逆の発想が有効でしょう。
これは、鉄道に似ています。
自動運転は、高速道路の方が易しいのです。
自動車は、速く移動したいというニーズの元で使っていますから、一般道では早く移動するニーズに応えることはできない、速く移動する目的である=原付ではない自動車を使っている ドライバーと車両は、高速道路を走る一択である、という視点は、あたりまえです。
ちょうど、鉄道が線路内しか走れないのと同じで、自動車にとって、線路内が高速道路なわけです。
自動車は歩行者優先ですが、鉄道内に歩行者が侵入した場合は事情が違うでしょう。 これは、鉄道の線路内に歩行者がいないこと前提で安全な運行を実現しているということで、自動車の高速道路の完全自動運転にて、同様のシチュエーションとなります。
この状況ならば、高速道路にて歩行者が侵入しても、鉄道と同じ条件となり、〝歩行者優先〟の 苦労も免除されるでしょう。
つまり、自動車が完全自動運転でもないのに 安全に走れない仕様の仕様段階に過ぎない形で〝一般道を走る〟のは、列車が 線路外に出てきて 縦横無尽に我が物顔で一般道を走るのと同じです。 (たぶん自動車サイズで・タイヤとハンドルを付けて――比喩的。)
自動車が、一般道を走らざるを得ないのは、高速道路まで移動する必要があるからで、本来は原付が最強なのです。
(筆者は原付も乗りませんが、車道専門の電動自転車の発想で出てきたのが最初の原付なので、自転車乗りの視点でも 体感的には議論可能なはずです。)
つまり、高速道路まで原付で走り、高速道路で自動車に乗り換えれば究極です。
リベラルの発想ならば、本来、核兵器無き世界 と同じで、上記発想にならねばなりません。
(ここでは原付の絶対的脅威度についてはひとまず考えません。 自動車の中で相対的に安全な乗り物であるという点で捕捉します。)
とすると、高速道路しか移動できないのは さすがに無理が出てくるので、歩行者はもとより車道内に自転車と原付が走行〝不可能〟な道を〝自動車専門の高規格道路〟にすればよいのですが、ここで注意しないと現在と変わらなくなりますので、制限速度が時速40キロ程度までで騒音に配慮した〝信号がほとんど無く 元々国道中心の自動車専門のバイパスだった区間〟を流用し、一般道とのアクセスを切る形で運用すれば、自動車のアーバン・ネットワーク(と呼べるもの)が まだまだ発展できるのです。
通学する児童に対して最も脅威な対象の一つは、民家からの通勤自動車です。
自動車を、自動車専門の高規格道路・高速道路の直アクセス可能な 高度なセキュリティで区画分けした〝車庫〟に 一括管理できれば、ディーラーも置けますし、ガソリンスタンドの無人化・節約にもなります。
繰り返しますが、自動車が多すぎるというリベラル上の矛盾は、このような〝自動車が減る構想・営み〟を前提にすること(解決)が、本来の常識です。
・一般道での自動運転 その他の議論 オートバイ・配送・自転車・現在の制限速度 etc.
これまでの議論の補足も兼ねて、まだ触れていなかったシチュエーションに触れます。
オートバイは、自動車専門の高規格道路・高速道路に乗れないようにすることで、自動車の完全自動運転の実現を早めます。
それだけ、完全自動運転を開発したければ、歩行者自転車そして二輪に対しての対処が とてつもなく難関であることを 繰り返し 心に留め続けることが必要なのです。
すると、オートバイは、一般道を原付と同じように 制限速度・法定速度を守って走ることになります。
オートバイがツーリングを楽しむために走ることのできる道を、時速60kmを上限として基準に、厳選して設定すればよいと思います。
オートバイ専用の高速道路・高規格道路も、ニーズがあれば、実現可能です。 この場合、一般道と切られた区間で ルートは厳選します。
原付のサイクリングロードは基本的にないわけですが、自転車のサイクリングロードの楽しさは自転車しか知らないわけで、一般道を自動車では原付規格のみ走行可能にすることで、自転車のサイクリングロードの発想・実質・楽しさを 提供・享受できると考えます。
そして、通勤は原付で十分なので、オートバイを持っていても原付等と2台持ちすることになるはずですが、オートバイ単体でも 原付規格での一般道の走行となります。
そして、一般道の制限速度は、時速30km制限ではなく、時速20㎞以下の制限を基準にすべきです。
ツーリングの場合でも、速く移動することが目的ではなく、景色を楽しみ 所定の区間を高速移動できれば良いわけなので、一般道の市街地区間では 時速20㎞以下の規格を基準にすべきです。
取り締まりの基準も 注意を中心とする 自転車中心の緩やかなものと成り、税金的なコストも下がると思います。
片側二車線以上の道も、車線をそのまま流用すればよいので、左車線を自転車専用通行帯に、右車線を 原付・オートバイ優先通行帯にすることで、今まで通りの交通が可能です。
この場合、制限速度を時速30~40km程に抑えるのが 絶対条件だと思います。
自転車も第二通行帯を使うので、当然です。
このように、各自が詳細を想像していただければと思います。
自転車についても、自転車走行可の歩道は今まで通り残しますが、基本は車道走行を徹底推奨させます。
様々な理由とコスト面から、自転車を免許制に〝せず〟に、車道走行にて、ちょうどサイクリングロードのような交通をしてもらえばよいのです。 それができるということは、道路が安全であるということなので、原付・オートバイの制限速度にも 大きな意味があります。
自転車の場合は、街エリアにて 時速30kmを上限にして、安定する時速24kmくらいの走行は、今まで通りの運転で認めるべきで、移動効率が上がり、原付よりも自転車に乗る人の増加を狙えます。
二輪各種は、市街地区間において、時速20km走行を徹底させる方が良いでしょう。
自転車は、二輪各種を追い越さないようにします。 これで、速度の目安が掴めるわけです。
さらに、サイクルコンピューターを安価に量産して、未来には、軽い安全装置に進化させることもできます。
歩行者には、信号を守ることをさらに徹底させる必要があり、自転車の音がほとんどしないことも理由ですが、市街地区間では 相対的に現在より安全なることは間違いありません。
というのも、自転車最強の天敵である路上駐車とその死角が皆無になり、自転車専用通行帯にて路上駐車で埋め尽くされているということもありません。
信号の無い停止線にて、このシチュエーションならば、自転車と二輪は、きちんと止まれます。
止まれると、楽しいです。
配送に関しては、自動車専用の高規格道路・高速道路内より、ターミナルを介して 運べる小包は、自転車と原付にて 積みかえて配送します。
大きな荷物は、配送専門の小さな自動車に積み替えて、明け方などの時間帯に 時速10km制限を基準に、配送自動車走行可能の厳選された広めの一般道(片側二車線以上ある道ならば原付・オートバイ規格の走行)にて近場の郵便ポストのような配送預り所(郵便局など)に移し、後は、リヤカーを使うか、荷台付きの自転車で持ち主が取りに行くことで、配送は継続できます。
1週間に1日程度ならば、一定の時間帯に 重い荷物を小さめの自動車で配送してよいでしょう。 その日の時間帯には、歩行者自転車は、注意するようにするだけです。
ここで、完全自動運転を、一般道に〝仕様運転〟する条件が整います。
自動車が多すぎたのです。
自動車が皆無、かつ、配送のように どうしても必要になる〝自動車〟を厳選して走行させるためには、完全自動運転の実現が課題であり、しかも、そこが、そのまま 自動運転の試験導入の機会となります。
一旦は無くなるでしょうが、バスやタクシーも同様です。
緊急車両だけは当然 走り続けるはずですが、やはり同様です。
ある種のお年寄りさん方などを移動させるときは、車いすを押していくなど、自動車がいないので 安全に駅か 自動車のターミナルまで 移動できます。
都市部の市街地を中心の発想で このコーナーを書いています。
地方では、自動車中心の高規格道路の自由度が高く、一般道をそのままオートバイOKで 継続させることが、少なくとも段階的には必要でしょう。 自転車・原付は別の道を走行できることが条件です。
自動車が必要な地方の中で、多くのエリアはやはり〝自動車が密集〟しており、都市部と同じ解決で可能です。
それ以外の地方郊外は、そもそも自動車が少ないので、自動車走行のルールを、制限速度中心に厳しくするだけで、安全になります。 ある程度は自動車走行可能の道を広く取れます。
つまり、ある程度までは、地方ごとの対応にもなり得るのです。
農業用車は、当然、農道を走行できます。 原付のように扱えるでしょう。 ただし、一般道に乗り入れるためには、配送車やバスなどと同様に、指定の道とルールで厳選して行う必要がありますが、地方では緩い条件で可能と思います。
つまり、一般道に自動車がまだ多く、どうしても 1ステップで これまでのような構想の現実に移行できない場合は、自動車の制限速度を〝半分〟にすることから始めると思います。
それができるということは、自動車ドライバーが未来のメリットに合意している、完全自動運転を望んでいる、ということです。
自動運転はただのシステムではなく、実現には、モラル、間主観的な話し合いも、大変重要で、不可欠なのです。
その根拠が、今回書いている 種々ステップです。
実は、単純に見えて、自動車メーカーがシステムしか見ていなかったとすると、内面を見ていないので、意図せずも自動車を量産してビジネスにしてしまった〝本当のリベラルの〟責任を取る、いい機会ではありませんか。
核なき世界と、論点は同じです。
核兵器を無くすことと 肥大した交通戦争を無くして完全自動運転を実現することは、ほぼ同じ次元です。
世界が焼き尽くされて滅びるという、誰もが行っている心配が現実になると考えてしまうならば、今回の完全自動運転への動きは、楽勝です!
この意味で、前回 わたしは、〝相対的に限りなく蜃気楼〟だと言いました。
核兵器や交通戦争が〝脅威だから〟なおさら〝簡単に無くせる〟〝合意できる〟と言ったのです。
騙されないで! ということです。
そしていつの世も、自分が必要なことなのだから、自分から始めるしかないのです。
技術者だけの仕事ではありません。
このような視点・領域を 例えば、フィクション・エンターテイメントにする場合でも 〝より正しく健全な解釈〟〝深いモラル〟は 絶対に必要不可欠だということです。 特に万人に影響を与える〝有名サイド〟の声ならば。
あともう少しだけ言いたかったことが残っていますので、書いて終了です。
完全自動運転は、種々情報より明らかなように、〝ドライバーが自分ではない・不要である〟最大のメリットがあり、つまり、実現する区間では、自動車を個々人が所有している必要はないのです。
電車やバス・タクシーと形式的に同じで、公共の乗り物・鉄道・路線です。
つまり、自動車自体は減り、おもしろい自動車が作られ、電気自動車が増えます。
水素燃料電池は扱いが難しいですが、無人が実現できれば、人のいない場所にて、一括管理して燃料補給も可能です。 もちろん、走行にて、水しか出ません。
レンタサイクルが促進されると、地域が盛り上がります。
さらに、外国人が観光するのに、自動車がいないのは 絶大なメリットです。
二輪各種は、原付規格で 市街地を走行するわけですが、観光地の主要通りは皆、歩行者用通路か歩行者自転車用通路でしょう。 よって、オートバイ用の駐輪場も必要かもしれませんが、路上駐車の無い観光地を想像してください!!
オートバイそして原付の〝自動運転〟もまた、緩やかにですが、機会としてやってきます。
自動車の完全自動運転のテストを兼ねて、二輪各種で行う方法もあるのです。
配送は、鉄道と自動車道路をターミナルを介して 行うルートもあります。
自転車など大きな荷物を自動車に乗せて運びたい場合を考えると、やはり、公共交通機関の完全自動運転の実現が急務で、少なくとも、とてつもなく安全に運転ができる公共交通機関としての自動車が必要です。
つまり厳密には、完全自動運転を一般道で実現する前段階で、許可車両以外、通常の一般の自動車は〝自動車専用道路を走行〟になると言えるかもしれません。
交通戦争という言葉は 私が生まれる前からあったらしく、私たちにとって 自動車が一般道を我が物顔で走っている光景が当たり前であると言えそうでも、やはり〝交通戦争〟であり、実際はまったく正しくはないわけです。
争いが正しいこと(ニヒリズムの構造的正当性)を根源的に証明できた人は誰もいません。
ですが、真の平和が正しい流れであることを 根源的に証明した人は たくさんいます。
啓蒙主義より前ならば、キリストや仏陀ですよね(^_-)-☆
今回は、突拍子もないアイデアから始まったようにも思われたかもしれませんが、なかなか面白かったのではないでしょうか?
というわけで、これにて御開きです。
実は、私も、どうやって完全自動運転が実現するかよくわからなかったのですが、この視点で議論してみると、糸口が見えたので、似たルートで そのうち実現しそうですね!
その意味では、たぶんこのコーナーも〝創発(エマージェンス)〟なのです―――――☆彡
ポイントですが、通勤には自動車が最適です。
これは、〝自動車を通勤に使っている〟という事実において 彼らが全員合意していることです。 (志向的一般化)
忘れているかもしれませんが、一般道において、最強の自動車は、〝原付〟です。
コスパ、荷物が入れられる(よね?)、燃費良い、狭い道でも走れる、免許のハードルが低い、維持費、他メリット多数。
唯一の欠点は、〝交通の流れに乗れない=狂った自動車社会からのみ排除される (もちろん歩道も走れない)〟ということです。
ここが、今回言いたかった最大のポイントです。
自動車社会は、自動車において最強である原付を〝活用しきれないどころか完全に排除してしまった〟点において、遂行矛盾を期しているのです。
原付に乗っても、上記理由により、歩道もやむを得ない時にも走れないので、すぐに自動車一般に乗り換えることになり、自動車が増えすぎて、通勤の効率が大幅に下がるわけです。
通勤に関する平日の自動車は、平均的に見て自転車に対して とても危ない運転をしているのが、自転車に乗っている私の相対的体感(つまり感覚的な相対的紛れもない事実)で、自動車達にその自覚はありますか?
これから述べるビジョンは、すぐに実現可能ではないですが、〝完全自動運転に反対しているドライバーは意外に居ない〟と ネットを見る限りでは思われ、〝オートバイは手動要素を残してほしい〟という意見・要望の元に〝完全自動運転の実現を心待ちにしている人〟が大多数である点で、述べるに値するでしょう。
ポイントはそれでも、自動車の一般道での進化形を〝原付〟に集約する、という点に変わりありません。
(今回の議論でも、原付は、時速30kmが法定速度の規格である一種を指します。 アシストが時速27キロ【限界30キロ】まで拡張された 速度メーターの付いた車道走行のみ可能の電動自転車【法律上原付】だと思っていただいて差し支えありません。)
誤解無き様に付記しますが、普通の電動自転車は原付ではなく普通自転車で、大概の歩道(自転車通行可の歩道)を走行できます。
・自動車を高速道路 (高規格道路) 専門にする!
この考え方自体は、ふつうは〝免許を持っている人全員が一度は発想〟していないと、私は変だと思います。
それだけ、自動車の一般道においての走行は、矛盾だらけで困難だからです。
ここでは、自転車の話は脇に置き、自転車の歩道走行も似たようなものである点は、種々記事で詳しく述べていますので、割愛します。
私は、自動運転について述べたこともあって、結論は〝自動車が一般道基点において 道徳的な深さから強く反省しない限り 完全自動運転は実現しない (本当のドライバーの優しさから メーカー責任と信頼の自動運転は実現する)〟となりました。
この根拠を、拡張して述べます。
自動車を、高速道路専門にすると、高速道路内で、より早く〝完全自動運転が実現〟します。
そもそも、一般道からではなく、逆の発想が有効でしょう。
これは、鉄道に似ています。
自動運転は、高速道路の方が易しいのです。
自動車は、速く移動したいというニーズの元で使っていますから、一般道では早く移動するニーズに応えることはできない、速く移動する目的である=原付ではない自動車を使っている ドライバーと車両は、高速道路を走る一択である、という視点は、あたりまえです。
ちょうど、鉄道が線路内しか走れないのと同じで、自動車にとって、線路内が高速道路なわけです。
自動車は歩行者優先ですが、鉄道内に歩行者が侵入した場合は事情が違うでしょう。 これは、鉄道の線路内に歩行者がいないこと前提で安全な運行を実現しているということで、自動車の高速道路の完全自動運転にて、同様のシチュエーションとなります。
この状況ならば、高速道路にて歩行者が侵入しても、鉄道と同じ条件となり、〝歩行者優先〟の 苦労も免除されるでしょう。
つまり、自動車が完全自動運転でもないのに 安全に走れない仕様の仕様段階に過ぎない形で〝一般道を走る〟のは、列車が 線路外に出てきて 縦横無尽に我が物顔で一般道を走るのと同じです。 (たぶん自動車サイズで・タイヤとハンドルを付けて――比喩的。)
自動車が、一般道を走らざるを得ないのは、高速道路まで移動する必要があるからで、本来は原付が最強なのです。
(筆者は原付も乗りませんが、車道専門の電動自転車の発想で出てきたのが最初の原付なので、自転車乗りの視点でも 体感的には議論可能なはずです。)
つまり、高速道路まで原付で走り、高速道路で自動車に乗り換えれば究極です。
リベラルの発想ならば、本来、核兵器無き世界 と同じで、上記発想にならねばなりません。
(ここでは原付の絶対的脅威度についてはひとまず考えません。 自動車の中で相対的に安全な乗り物であるという点で捕捉します。)
とすると、高速道路しか移動できないのは さすがに無理が出てくるので、歩行者はもとより車道内に自転車と原付が走行〝不可能〟な道を〝自動車専門の高規格道路〟にすればよいのですが、ここで注意しないと現在と変わらなくなりますので、制限速度が時速40キロ程度までで騒音に配慮した〝信号がほとんど無く 元々国道中心の自動車専門のバイパスだった区間〟を流用し、一般道とのアクセスを切る形で運用すれば、自動車のアーバン・ネットワーク(と呼べるもの)が まだまだ発展できるのです。
通学する児童に対して最も脅威な対象の一つは、民家からの通勤自動車です。
自動車を、自動車専門の高規格道路・高速道路の直アクセス可能な 高度なセキュリティで区画分けした〝車庫〟に 一括管理できれば、ディーラーも置けますし、ガソリンスタンドの無人化・節約にもなります。
繰り返しますが、自動車が多すぎるというリベラル上の矛盾は、このような〝自動車が減る構想・営み〟を前提にすること(解決)が、本来の常識です。
・一般道での自動運転 その他の議論 オートバイ・配送・自転車・現在の制限速度 etc.
これまでの議論の補足も兼ねて、まだ触れていなかったシチュエーションに触れます。
オートバイは、自動車専門の高規格道路・高速道路に乗れないようにすることで、自動車の完全自動運転の実現を早めます。
それだけ、完全自動運転を開発したければ、歩行者自転車そして二輪に対しての対処が とてつもなく難関であることを 繰り返し 心に留め続けることが必要なのです。
すると、オートバイは、一般道を原付と同じように 制限速度・法定速度を守って走ることになります。
オートバイがツーリングを楽しむために走ることのできる道を、時速60kmを上限として基準に、厳選して設定すればよいと思います。
オートバイ専用の高速道路・高規格道路も、ニーズがあれば、実現可能です。 この場合、一般道と切られた区間で ルートは厳選します。
原付のサイクリングロードは基本的にないわけですが、自転車のサイクリングロードの楽しさは自転車しか知らないわけで、一般道を自動車では原付規格のみ走行可能にすることで、自転車のサイクリングロードの発想・実質・楽しさを 提供・享受できると考えます。
そして、通勤は原付で十分なので、オートバイを持っていても原付等と2台持ちすることになるはずですが、オートバイ単体でも 原付規格での一般道の走行となります。
そして、一般道の制限速度は、時速30km制限ではなく、時速20㎞以下の制限を基準にすべきです。
ツーリングの場合でも、速く移動することが目的ではなく、景色を楽しみ 所定の区間を高速移動できれば良いわけなので、一般道の市街地区間では 時速20㎞以下の規格を基準にすべきです。
取り締まりの基準も 注意を中心とする 自転車中心の緩やかなものと成り、税金的なコストも下がると思います。
片側二車線以上の道も、車線をそのまま流用すればよいので、左車線を自転車専用通行帯に、右車線を 原付・オートバイ優先通行帯にすることで、今まで通りの交通が可能です。
この場合、制限速度を時速30~40km程に抑えるのが 絶対条件だと思います。
自転車も第二通行帯を使うので、当然です。
このように、各自が詳細を想像していただければと思います。
自転車についても、自転車走行可の歩道は今まで通り残しますが、基本は車道走行を徹底推奨させます。
様々な理由とコスト面から、自転車を免許制に〝せず〟に、車道走行にて、ちょうどサイクリングロードのような交通をしてもらえばよいのです。 それができるということは、道路が安全であるということなので、原付・オートバイの制限速度にも 大きな意味があります。
自転車の場合は、街エリアにて 時速30kmを上限にして、安定する時速24kmくらいの走行は、今まで通りの運転で認めるべきで、移動効率が上がり、原付よりも自転車に乗る人の増加を狙えます。
二輪各種は、市街地区間において、時速20km走行を徹底させる方が良いでしょう。
自転車は、二輪各種を追い越さないようにします。 これで、速度の目安が掴めるわけです。
さらに、サイクルコンピューターを安価に量産して、未来には、軽い安全装置に進化させることもできます。
歩行者には、信号を守ることをさらに徹底させる必要があり、自転車の音がほとんどしないことも理由ですが、市街地区間では 相対的に現在より安全なることは間違いありません。
というのも、自転車最強の天敵である路上駐車とその死角が皆無になり、自転車専用通行帯にて路上駐車で埋め尽くされているということもありません。
信号の無い停止線にて、このシチュエーションならば、自転車と二輪は、きちんと止まれます。
止まれると、楽しいです。
配送に関しては、自動車専用の高規格道路・高速道路内より、ターミナルを介して 運べる小包は、自転車と原付にて 積みかえて配送します。
大きな荷物は、配送専門の小さな自動車に積み替えて、明け方などの時間帯に 時速10km制限を基準に、配送自動車走行可能の厳選された広めの一般道(片側二車線以上ある道ならば原付・オートバイ規格の走行)にて近場の郵便ポストのような配送預り所(郵便局など)に移し、後は、リヤカーを使うか、荷台付きの自転車で持ち主が取りに行くことで、配送は継続できます。
1週間に1日程度ならば、一定の時間帯に 重い荷物を小さめの自動車で配送してよいでしょう。 その日の時間帯には、歩行者自転車は、注意するようにするだけです。
ここで、完全自動運転を、一般道に〝仕様運転〟する条件が整います。
自動車が多すぎたのです。
自動車が皆無、かつ、配送のように どうしても必要になる〝自動車〟を厳選して走行させるためには、完全自動運転の実現が課題であり、しかも、そこが、そのまま 自動運転の試験導入の機会となります。
一旦は無くなるでしょうが、バスやタクシーも同様です。
緊急車両だけは当然 走り続けるはずですが、やはり同様です。
ある種のお年寄りさん方などを移動させるときは、車いすを押していくなど、自動車がいないので 安全に駅か 自動車のターミナルまで 移動できます。
都市部の市街地を中心の発想で このコーナーを書いています。
地方では、自動車中心の高規格道路の自由度が高く、一般道をそのままオートバイOKで 継続させることが、少なくとも段階的には必要でしょう。 自転車・原付は別の道を走行できることが条件です。
自動車が必要な地方の中で、多くのエリアはやはり〝自動車が密集〟しており、都市部と同じ解決で可能です。
それ以外の地方郊外は、そもそも自動車が少ないので、自動車走行のルールを、制限速度中心に厳しくするだけで、安全になります。 ある程度は自動車走行可能の道を広く取れます。
つまり、ある程度までは、地方ごとの対応にもなり得るのです。
農業用車は、当然、農道を走行できます。 原付のように扱えるでしょう。 ただし、一般道に乗り入れるためには、配送車やバスなどと同様に、指定の道とルールで厳選して行う必要がありますが、地方では緩い条件で可能と思います。
つまり、一般道に自動車がまだ多く、どうしても 1ステップで これまでのような構想の現実に移行できない場合は、自動車の制限速度を〝半分〟にすることから始めると思います。
それができるということは、自動車ドライバーが未来のメリットに合意している、完全自動運転を望んでいる、ということです。
自動運転はただのシステムではなく、実現には、モラル、間主観的な話し合いも、大変重要で、不可欠なのです。
その根拠が、今回書いている 種々ステップです。
実は、単純に見えて、自動車メーカーがシステムしか見ていなかったとすると、内面を見ていないので、意図せずも自動車を量産してビジネスにしてしまった〝本当のリベラルの〟責任を取る、いい機会ではありませんか。
核なき世界と、論点は同じです。
核兵器を無くすことと 肥大した交通戦争を無くして完全自動運転を実現することは、ほぼ同じ次元です。
世界が焼き尽くされて滅びるという、誰もが行っている心配が現実になると考えてしまうならば、今回の完全自動運転への動きは、楽勝です!
この意味で、前回 わたしは、〝相対的に限りなく蜃気楼〟だと言いました。
核兵器や交通戦争が〝脅威だから〟なおさら〝簡単に無くせる〟〝合意できる〟と言ったのです。
騙されないで! ということです。
そしていつの世も、自分が必要なことなのだから、自分から始めるしかないのです。
技術者だけの仕事ではありません。
このような視点・領域を 例えば、フィクション・エンターテイメントにする場合でも 〝より正しく健全な解釈〟〝深いモラル〟は 絶対に必要不可欠だということです。 特に万人に影響を与える〝有名サイド〟の声ならば。
あともう少しだけ言いたかったことが残っていますので、書いて終了です。
完全自動運転は、種々情報より明らかなように、〝ドライバーが自分ではない・不要である〟最大のメリットがあり、つまり、実現する区間では、自動車を個々人が所有している必要はないのです。
電車やバス・タクシーと形式的に同じで、公共の乗り物・鉄道・路線です。
つまり、自動車自体は減り、おもしろい自動車が作られ、電気自動車が増えます。
水素燃料電池は扱いが難しいですが、無人が実現できれば、人のいない場所にて、一括管理して燃料補給も可能です。 もちろん、走行にて、水しか出ません。
レンタサイクルが促進されると、地域が盛り上がります。
さらに、外国人が観光するのに、自動車がいないのは 絶大なメリットです。
二輪各種は、原付規格で 市街地を走行するわけですが、観光地の主要通りは皆、歩行者用通路か歩行者自転車用通路でしょう。 よって、オートバイ用の駐輪場も必要かもしれませんが、路上駐車の無い観光地を想像してください!!
オートバイそして原付の〝自動運転〟もまた、緩やかにですが、機会としてやってきます。
自動車の完全自動運転のテストを兼ねて、二輪各種で行う方法もあるのです。
配送は、鉄道と自動車道路をターミナルを介して 行うルートもあります。
自転車など大きな荷物を自動車に乗せて運びたい場合を考えると、やはり、公共交通機関の完全自動運転の実現が急務で、少なくとも、とてつもなく安全に運転ができる公共交通機関としての自動車が必要です。
つまり厳密には、完全自動運転を一般道で実現する前段階で、許可車両以外、通常の一般の自動車は〝自動車専用道路を走行〟になると言えるかもしれません。
交通戦争という言葉は 私が生まれる前からあったらしく、私たちにとって 自動車が一般道を我が物顔で走っている光景が当たり前であると言えそうでも、やはり〝交通戦争〟であり、実際はまったく正しくはないわけです。
争いが正しいこと(ニヒリズムの構造的正当性)を根源的に証明できた人は誰もいません。
ですが、真の平和が正しい流れであることを 根源的に証明した人は たくさんいます。
啓蒙主義より前ならば、キリストや仏陀ですよね(^_-)-☆
今回は、突拍子もないアイデアから始まったようにも思われたかもしれませんが、なかなか面白かったのではないでしょうか?
というわけで、これにて御開きです。
実は、私も、どうやって完全自動運転が実現するかよくわからなかったのですが、この視点で議論してみると、糸口が見えたので、似たルートで そのうち実現しそうですね!
その意味では、たぶんこのコーナーも〝創発(エマージェンス)〟なのです―――――☆彡
ラベル:AQAL
posted by インテグラルとど at 11:08| 実用的生活実践
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