2019年05月31日

アニメーターの〝スピリット〟 〜感受・実践環境と アートの社会的扱い〜

アニメーターは、職業的な待遇が 良いとは言えないらしいです。 (かなり。)

アート(芸術)の中で、たぶん唯一、人間関係(Q/2)をプロフェッショナルに極めることができる〝アート(芸術)の分野〟なので、〝POP歌手などのよく知られた芸術家との 統合的対話に開かれた 深いアニメアートを世に描くアニメーター〟は、激レアでしょう。

私(POP歌手の立場)では、そう思います。

一流の立場の そういった皆さんは、皆同じ気持ち・意見だと思います。 (確認・提示済み。)


POP歌手は、90年代に〝レコーディング至上主義〟だと言われましたが、〝いいものをつくりたい=モノづくり工業=物質主義社会の言いなり(規定・影響)〟の構図になっていたと、ざっくりは言えます。

簡単に言いますと、〝リスナーに対して 音質のいいもの(機械的でしか無くても)に慣れさせるだけではない実践=内的な意図を伝えるために必要な工夫・努力〟をしてこなかった、そのツケが 21世紀になってやってきた、ということです。

〝マンネリで深くもない 最高音質デジタル音楽〟と、〝意図満載の 一流に合意を得る深さを持った パッとしない制作過程(限りなく制作費をフリー化したなど)を経た音楽〟――現在でも、どっちが勝ちをおさめるのかは、かなり明白なのではないかと思います。

浅い意図で、破滅的に流用される〝無意味化〟を 赦さないための 文脈上の主張(準備と対策)が、十分とは言えないわけです。 (本当に。)


こうやって、芸術家は、物質主義消費社会に〝ひっつく〟しかなくなる〝風習=権力しか残らない神話〟を蓄積させていき、そのことに無頓着なのか、誰も責任を取ろうとしないからなのか、もう手におえないところまで来ているということらしいのです。


POP歌手は〝一人称的実践〟の結果として、オリコンチャートに名を連ねたりしますが、あくまで〝自分の名で〟です。

ライブでも、2時間ぶっ通しで歌うパフォーマンスは、自分のスケジュールから大きく離れることはないのです。 それを守れなければ、今後歌えなくなりますからね。


それとは異なり、二人称的なコミュニティを扱うことのできるアニメーターのアートのスケジュールは、上記の営み(方法)を受けず、POP歌手がレコーディング至上主義として放置した〝ツケ=一人称的な脆弱性〟が、そのまま〝二人称のアートの制作方法・環境〟に なだれ込んでしまっている、と 私は気付きました。 (そう主張します。)

アニメーターの〝創作〟は、物質消費社会に対する〝業務〟に 還元され(押し付けられ)ているのです。


近年の POP歌手の〝先端の興味〟は、〝レコーディング至上主義のスパイラルからいかに脱却するか〟すなわち〝無名な人々のアートを主力の声にすること(強い興味を持ち作風とすること)〟〝他分野の特にアーティスト同士と 空気を読む阿吽の呼吸として(作品同士の対話で)コラボレーションする 統合的リンキングを行って洗練させること〟だと感じます。

前者は、私が〝無名サイド〟として説明したもので、〝国民主権〟とも関係します。

後者は、〝指示(レシピ)、啓発・感受(実践)、リンキング(共同体による確認)〟という、広義の科学の〝3つのステップ〟を踏むという捉え方にて、把握・説明ができます。

統合的リンキングとは、まずもって、この(ポスト形而上学的)パラダイムの別名です。


すなわち、一人称的なアートは、リンキング(社会的にパクリだとレッテルを張られがちな風潮の 防衛・反証に脆弱だという意味で) に弱い傾向があり、POP歌手たちがその風習に抵抗して 前に進もうとしている近況があります。

文学や作家などと言われる領域は、〝アートよりは人文学で、人文学は(狭い)ポストモダニズムで それは 文脈に意味などないことを意味する〟という〝支配的ムード(とても病理的)〟が蔓延し続けていたらしい意味で、アニメーターの二人称的インスピレーションを啓発・左右する肝心の〝シナリオ〟が、無意味化される可能性(傾向)があるのです。

どちらにせよ、無意味なアートなど、アートであってたまりますか\(◎o◎)/!


今回のこのコーナーの結論は、〝アニメーターは、物質消費中心主義(現代帝国主義勢力)の神話(権力衝動・ドグマ)により、そのクオリティ(内的な魂)は 量しか残らないお金儲けの為だけの作業(業務)に 書き換えられている〟ということです。

そのためにどうすればいいのか、は、〝芸術家たちの応援したい 強い課題でもある 統合的リンキング=二人称のアートの営み・広義の確認の共同体〟にもっと強くコミットすること、その理解と実践と成熟発展にあるでしょう。


そこで、ケン・ウィルバーの「科学と宗教の統合」 が登場 するわけです。


・「科学と宗教の統合」と アニメーターのスピリット・モジュールと「3つのステップ」 - 【第2ラウンド♡】


当時 私が読んだときは、科学者寄りの読者に向けている感じがして 内容の多くを 抽象的に理解してしまった気がしますが、最近のアニメーターの声や やさしく深いアニメが好きな私の 鑑賞(リンキング)経験より言いたいことが、見事に表現され、反対勢力の構図も含めて、とても正確にぴたりと当たっていると感じました

アニメーターには時間がない近況ですが、きっと こういった本を読む時間も湧いてこないということですよ。


科学と宗教の統合」には、とても大切な〝主題・意図〟があって、〝感覚の眼や理知の眼ではなく 黙想の眼でしか見ることのできないスピリットの領域(の 科学・芸術・道徳)〟がある (観念論は、理知の眼でスピリットの領域を見て、黙想の眼の指示・実践・確認を 鍛えるための〝スピリット・モジュールの変容的ヨーガ〟を持たなかった) と、主張しています。

アニメーターのお仕事は、理知の眼数論・幾何学的 なところがありますから、この〝観念論と 黙想の眼によるヨーガ・その3つのステップ の違い〟を詳しく意識することは、とてもためになる(重要なことだと分かる)と思うのです。


私が強く言いたいのは、スピリットモジュール(黙想の眼による変容的ヨーガ)は、アートにとって とても必要不可欠な目標(意味・方向)のひとつであり、POP歌手が 芸術のタイプによってその訓練方法を〝3つのステップ化(パラダイム化)〟してきた〝成果をリンキング〟して、より多様な指示、そして実践と 共同体による確認ができる〝二人称の芸術家のコミュニティの代表〟が、アニメーター(そして 広義のアニメアーティスト・POP歌手や漫画家などを含む統合的リンキングの総体)だということです。

禅の公案のような、空の悟りのような〝瞑想実践の芸術創作のタイプ(啓蒙主義-現代 に創発した瞑想のタイプ)=黙想の眼による3つのステップを踏む実践〟が、より洗練された〝統合的リンキング〟として 安定的に アーティスト活動(アニメーターの活躍)に現れ、〝社会的に大きな勢力として影響を与えて一目置かれていけば〟社会は〝物質消費主義にて芸術を無意味化する業務という過剰労働(としての権力衝動である神話=啓蒙主義の主張 -の無視のごり押し)を 単純に押し付けることはできなくなる〟のです!! (*^▽^*)


これが、音楽家(POP歌手サイド)と アニメーター(広義のアニメコミュニティ)との、切っても切れない絆の関係です。

同じアートの 同じ魂を社会文化的に表現している アーティスト(人間関係)なので。

(特に、一人称の芸術家-POP歌手は、アートの無意味化に 強く怒ります。)


長くなりましたが、芸術家(アートとその営み全般)は、スピリットの眼で〝インスピレーションとその総合を見る〟のが一番向いています

そして、そのために必要なのは、〝物質主義社会が 感覚の眼の絶対化で勝手に付与(権力衝動でコントロール)している 3つのステップを踏む【広義の科学】(などは内面領域に無いことにする 決めつけ、と 【それ】)による 統合的なリンキングは パクリにすぎないという神話〟を おことわり・反証するための〝アートを含めた関係・つながり〟を大切にして、深さ(営みの意味・価値)を洗練させていくことだけです。 (「スピリットの眼」の「3つのステップ」を活用して。)


科学と宗教の統合



☆参考:『科学と宗教の統合』ケン・ウィルバー (春秋社)☆

posted by インテグラルとど at 13:06| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

〝好き〟が 世界の正体 〜すてきな無限が生まれる ミニコラム〜

ポスト形而上学(ないし 非視点的-統合的 有効なポストモダンの大発見)では、〝文脈は相対的な順序で構成されている〟ということでした。

つまり、私たちの認識は〝絶対的に動かない決まったものではなく〟〝文脈である社会や文化 皆さんと時代に影響されていて (ひとりじゃない)〟〝より意味のある納得できるものが より創発的で より真実〟である と言えます。

健全な主張〟の場合に 上記は納得できますが、理性は自分をわざと騙すことができて〝歪んでいる主張〟の場合は 上記を無理やり納得しても〝深いところで遂行矛盾し どんな視点も相対的でさえあれば確実に存在しているという神話(決めつけ)に退行〟します。

実は、すべての視点が、相対的に順序を持って〝存在している〟は〝肯定的な言葉で述べた健全な意味での主張〟で、上記のような ある遂行矛盾的条件下では〝限りなく相対的に存在の意味を成さない〟と 〝あれでもない的な言葉で述べた健全な意味での主張〟ができます。


本題です。


『好きが存在しない』世界というのは、実は〝存在しません〟

(理性が、好きの文脈上より その文脈を無視して 所与の世界を想定しているのに その〝好き〟は相変わらず本人の主張の前提になっているため。 所与の神話 ・ 好きを文字でのみ捉えているとも言える)


文脈上確かな意味での 『嫌い』な対象(変化・侵略)とは、『好き=存在・関係・深さ・文脈』を〝壊しにかかる〟ゆえに、『好き』の意味(文脈)が 崩壊するので、『好き』を根拠に存在している〝病理的な主張・支配〟です。

健全に相対的な〝多元相対的、非視点的-統合的〟な 根拠で見ると、『好き』のみが、相対的に順序を伴って『存在する』ことが分かり、その無意味化は 病理的には存在すると主張できるが 実際は 相対的に存在していないか 限りなく存在していない関係にある、ということです。 なんせ、無意味ですからね。

しかし、人はそういった〝無かったことの支配〟を恐れる傾向があるため、〝構造-意味の伴わない〟イミテーションに 支配される(と認識される)状態に スパイラルすることもあると。


この、『好き』というのは、本来 スピリットモジュール(黙想の眼の領域)による〝空〟〝悟り〟〝一者〟〝神〟〝ワン・テイスト〟という意味(コスモスのアドレス)です。

よって、『好き=基底・空・スピリット』の無い世界など、存在しません

するなら、文脈上〝根拠〟にできるものが無く、〝世界〟は 存在することを やめてしまうのです。
ラベル:AQAL
posted by インテグラルとど at 14:21| Comment(0) | 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする