2019年02月01日

自動車ドライバーのモラルの健全度を見る歴史 ~資本主義と経済力~ [今変わる!道路交通 ⑤]

自動車は経済力であり 運転免許は大人の証明書だというのは、高度経済成長の歴史ですが、当時の自動車開発者は 自転車をあおるために作ったわけではなく、その夢を否定する運転は健全性を貶める、ということです。

今や、時代は変わり 自己実現の世代が自転車と共にやってきました。

環境問題の解決が 人類を救うことになる点を含みます。


現在の仕事がおもしろくないと思っている場合、それは内面の根拠ですが、経済力を信奉するのは現在のバランスを欠いた宗教であり それが 自動車や運転免許の誇示に走らせて 仕事の深みはどうでもいい モラルも意義もどうでもいい 経済権力だけが正しい と主張すると、自己実現とその内面の直観を否定することになり、巨大なシャドーを生み出します。

そんな人々が自動車に乗りやすい社会です。

クラクションを法律で明確に規制しても 内面は騙せないでしょう。

あおり運転の入門儀式に叩き込まれてもう戻れないような気がしたら、いよいよ あなたの大人としての本当の真価が試される時です。

経済力至上主義は、安全運転を生み出すと思いますか?


もし、運転免許のシステムや自動車関連のシステムが経済力を絶対化するならば、完全な自動運転も実現しないし 自転車が車道にしっかり出られる道路交通も不可能です。

自動車に対してタイトなルールを打ち出していくのならば、自動運転のフェイズ3の進展と組み合わせて これからの運転免許にかかる費用を限りなくフリーにすることも考慮すべきです。

フェイズ4にもなると、メーカーの責任となり 運転免許が要らなくなると解せるわけですから。

鉄道の場合は接続と言って、必ず同一線路上の縦の車間距離を取ります。一般道で、自動車も自転車に同様の車間距離を取り、必ず 安全に追い越し=接続 をする必要があります。これを理解できる・考えてみた運転免許保持者は少ないと感じます。少なくとも自転車や原付と通行帯の運転方法について真剣に昼夜考えた人は希少でしょう。 安全な道路のために もっと発言すべきです。


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2019年02月10日

サイクリングの探険 ~自転車乗りの国境線~ [今変わる!道路交通 ⑥]

サイクリストは、信号(ルール)無視をする 歩行者・自転車・自動車全般に対して、声を上げるべきでしょうか?

自転車は、歩行者から声を掛けられることがあります。

自動車では通常皆無でしょう。

自転車だからこそ 声を掛けるという方法があるのです。

ただし。


自動車ドライバーとは、自転車乗りにとって所在のしれない者です。

価値観の違いがあり、経済力や保険の解釈の違いが 傾向としてあります。

もし 自動車ドライバーが降りているときに 場所が邪魔でという意味で声を掛けたとして、短く叫ぶ必要があり 命令口調になるとすると、怒って追いかけてくるかもしれません。

そうなると、非常に危険です。色んな意味で。

しかし、自動車とは、経済力至上主義を伴いやすく 暴力を与えることができるものに簡単になり得ます。

クラクションの使い方ひとつでも 命の脅威を与えることができるほどです。

ムーディーなクラクションが自動車についていない意味は、交通戦争と一緒に考えていただければ、ご想像がつくでしょう。

よって、自動車ドライバーと自転車乗りの間には 難しい壁があると言えましょう。

無言でスルーしがちです。

しかし、自転車にとって 安全運転義務は非常に重要な権利です。

他の車両の迷惑にならないために、狭い目の道の見通しの悪い区間にて路上駐車をやめてもらえないかということを 一言〝路上怖い!危ないわ!〟とか言っても よいはずです。 むしろ言うべきなのです。

その区間は自動車が来ると危ないので すぐに通過することになるわけですし 長ったらしく しゃべれません。

こういったことが言えず、自動車がいつまでも自転車に見向きもしない力関係が続いている以上、その穴は想像以上なのではないでしょうか。

気軽にコミュニケーションできない乗り物

自転車側からはそう感じるのです。


特に、自転車は見落とされやすく、後続車をブロックする時の危険度は車両トップでしょう。

アピールする工夫が危険な幅寄せによって潰されているような現状では、自動車に対して敵意を持たない方がおかしいのです。

よって、自転車は車道となった今、もはや 自動車ドライバーは 人間性を進化させることでしか 自動運転まで乗り切れません。

さらに、自動運転フェイズ4が実現するのは 10年そこそこでは難しいので、自動車が必要な人にとっては そのシステムこそ 初めての天敵 肥大したエゴに対するダイエットの神様となるのではないでしょうか?


というわけで、もし自動車が追いかけてきたら、人生で一度くらいはこう言いましょう♪

安全運転義務があるので、自転車から見て危険な駐停車だと思い お知らせしました。 運転免許をお持ちのようなので お分かりですよね?


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2019年02月17日

安全な道路交通の実現には 発言・交流が必要! ~未来を閃いて~ [今変わる!道路交通 ⑦] FIN

自動車に今、自転車に配慮する運転を示しても 誰もが すぐに実現するのは合理的に不可能だと理解できます。

つまり、システムを変える必要性を理解しているということなので、そのための権利という名の責任にてできることは、発言して交流することだと思います。

平たく言っても、読んで書けばいい

自転車歩行者側が、自動車に対して強引にルールを守らせようとしても 道路に急な変化を生じさせ 自分の命が まず危ういだけなので、慎重に実践していく必要があります。

自動車側も、いきなり急な停車をしないように、ちょっと徐行することで 周りの様子を見て、少しずつ徐行停車ができる環境を。 (お願いします。)

自転車側は、空いている直線の片側2車線の道に限って車道を試験的に走り、一台ずつ来る自動車の様子をバックミラーで見ながら ルールがどうなっているのかを 実践して知ることもできます。


想像するということならば、自転車 全日OKで、平日は仕事関連のドライバーのみ、土休日は一般的な(サンデー)ドライバーのみ、水曜日は自転車デーで自動車一切一般道の走行無し、となったら どうなるでしょうか。


締めに、最初に挙げました 追い越し(幅30cm以下・30km/h以上で免停)の着眼点は、基本 1.5m以上の距離を空けて 自転車が倒れても当たらないように走行し、1m以下になったら 制限速度より2/3は徐行する必要がある、30cm以上近づけば 動いている限りダメ、という風に 重さとグラデーションを適切に設定していきます (狭い道での行き来なども組み込みます)。 歩道と車道の横の距離が短い場合は、いくつかの策で対応します。交通量が多い場合は歩道を走ることがそれでも推奨されるということです。ここポイントです。たとえ上記の決まりを設けても 自転車がフェイズ3途上で車列に入るのは難しいのです。 ドライブレコーダーとカーナビにて対応し、自転車には無料で配ったセンサーを適切な場所に取り付けることを罰則無しで義務化すれば、適切な安全運転が実現して 初めて自動車も自転車も喜ぶことになる!・・・と こういったシステムが自動運転の一環として実現できるかも よく分かりません。行政の普及の方法よくわからないので、私が見そうなテレビ番組とかで特集してくれないのかなぁ(笑)―――

みたいな感じで、今回は終了です♡


レッツ、シンキング & プラクティス


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2019年02月27日

ポスト形而上学で見る〝私たちの意図〟

久しぶりに、軽いミニコラムを書いてみました。

意図は、私たちの中にあるわけですが、〝視点〟です。

所与の視点というものは無く、すべては コミュニケーションによって〝意味に成る〟わけです。

そこに、1人称的な〝内面=深さ〟が当然考慮されます。

意図ないし想いに対して 第三者が〝話す〟とき、それは〝誰の中にも均等に並べられているだけのものではない〟という〝責任〟が合意されています。

統合的リンキングで言うと、有名サイドの芸術家が無名サイドの芸術家に〝遠回しに話す理由〟は〝それぞれの立場に やや特異な共有されざる義務が発生しているから〟とも言えますが、〝互いに、共通の普遍的な深い責任に立って 一緒に芸術をやりたい〟という意図です。

これは、誰の中にも転がっているだけのものではないのです。

よって、想いや意図を語る場合は、たとえ 芸術的ないし商業的なプロモーション活動(CM広告など)であっても、〝包括的な責任が強く伴う〟と、私は主張します。

漠然と語っている場合は 特に、コスモスのアドレス(指示言語!)を開示しなさい、と ポスト形而上学は言います(爆)

このコラムは、基本的には〝芸術家が芸術家に対して発話する〟という おしゃべりです。

究極的には、皆 芸術家です。
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