2019年01月03日

世界の転機! ~アジアのみんなが仲良くできる時代の始まり~

この世界の歴史では、2度の世界大戦が起こっています。

それが、正しい歴史の流れに まずいものを残し続ける結果となったことは皆さんご存知だと思います。

例えば、ハリーポッターの続編「ファンタスティックビースト」を見ると、この世界では2度の世界大戦が起こったのだろうか?と一度は疑問に思うでしょう。そういう風に考えます。(別の世界を見るこういった視点を 私は 5次元ないし7次元的認識と言ったりしました。)

本来、アジア人(北朝鮮・日本・中国・韓国・そして様々なアジア諸国)は、同じ民族であり同じ文化です。子供でも明白なのですが、上記の歴史のために、当時のドイツのように分断されてしまいました。

日本との歴史の問題も、こういった戦争によって 訳も分からぬまま 混乱が混乱を呼び続けていった結果であることは、上層部の政府の方をはじめ、各国にて あなたも君も、いろいろ分かっていることでしょう。

アニメにしても、世界が手を繋がないなら、それをネタにして儲けようとすらするでしょう。それは 〝闇が無くならないなら それ を利用してやろうという目論見〟であり さらに混乱と闇を増やします。 世界が手を繋げば、そういうアニメもなくなります。 また、よいアニメを見れば世界が平和になる糸口はいくらでも勉強できます(既に分かっています) よね。


・池上さんの解説と若者の選挙の論点の続き


前回の記事より、少しだけ補足したいことがあったので書きます。

北朝鮮は、核を放棄すると確かに言っていて、日本ですら結局は核をつくろうと思えば造れます。

(結局は核融合発電を開発して豊かになりましょ!に帰結できなければなりません。退行特急はやめましょう。)

つまり、核爆弾を燃やせば暴発するかもしれないし、今は無理にすぐに根絶する必要もないのです。日本と協力して 確かな技術をもって ほのぼの 処理したらよいのではないですか?

しかし、日本にもまだ〝過激なポストモダニズム〟の癖 (裏ばかり脱構築して読む あまのじゃくの懐疑主義) は抜けきっていなくて、池上さんは 知識人(ポストモダニスト)の系譜(人文学中心ではなかったしれませんが――)ですから、そういった意見を言わされる空気になることもあるのです。

政治とメディアの深さを見るテーマの続きなので そのまま書きます。

テレビ朝日系の年末の番組(馴染みのある学校のようなリベラル番組)では、池上さんが〝北朝鮮は核を放棄する気が無い?〟と言い切っているように見えましたが、私たちの懐疑主義によって言わされている感がありました。核がまだ残っているだけの段階で、さすがにこれは言い過ぎでしょう。

トランプ氏と比べていましたが、彼の方(アメリカの共和党・保守ないし原理主義サイドの大統領)は 確かにそういった懐疑主義の衝動バージョンと結びついていて、敵も多く作っています。 北朝鮮のトップ(?)と比べるのは 国際的な(それぞれの立場を尊重するポストモダンの健全な)見方をするならば〝失礼〟です。 また、人種差別を擁護するのは〝健全なポストモダニズムではありません〟ね。(これもとっくに知っていますよね?)

共通するのは、トップのプレッシャーが人(本人)をつぶしてしまうこともあるということで、過激にまで裏を読み過ぎるのは 私たち全員に混乱となって返ってくるわけです。

テレビ東京系(もの申したが実は心配なさそう)の番組では、彼(池上さん)の高度で自由に発言・行動できるので、重要なことを〝言わされる〟ことは無いと感じます。 (万年番組不足らしいので 健全にやれているなら 非常に良いことですね。)

社会の接着剤から離れすぎると お偉い権力と 個人が衝突してしまうことになりかねないので、それも踏まえて、行きすぎた解釈をこちら側がしないようにする必要があります。

しかも、世界中がインターネットを持って他の国々の情報を調べることができますから、そして 池上さんの海外訪問とその報道も私たちが同じことをやっているということですから、これは国際的なコミュニケーションです。

つまり、日本国内だから、誰も世界は見ていないだろう、ということは無いです。

これが所与の神話ですよね。(国内の文化にて構成され埋め込まれている・日本の常識は世界の非常識)

日本が下手なのは そこです(苦笑)

疑いあうこと(Q/2)≒核の保有量(Q/4) です。

両方の社会文化的コミュニケーション(とその闇)には重なりもあるので、還元不可能で相関します。

裏切られた時のことは考えるべきですが、そんなやり取りがいつまでも続くようでは明日は無いでしょう。裏切られても例外だと考えねばなりません。2度の世界大戦がそうです。もう同じ過ち(世界大戦と種々抗争)を犯すのはやめましょう。

グリーン(ポストモダン)の話し合いではいつも論点が滑走していき リベラル国家にて いつかは保守派の実権が主流になります。 絶対踏み外してはいけない点くらいは合意しておきましょう。

日本とロシア、イギリスとEU も、かなり それです。

グリーンの〝良い部分=健全性〟だけを テンションMAXで すぽ~ん(・∀・)と発揮すれば、当時の奴隷制が根絶されたように、良い方向に行きます。 (無条件で平和条約的なやつですね。)

女性タイプの健全で深いアニメなどを例えば研究して〝女性が女性らしく生きられる社会〟を内包できるような革命ができれば、その方向が〝差別をなくす運動〟で〝ナチュラルに良い方向〟です。

犯罪者の家族が差別される問題も、虐待の(種々傷跡により生じる人間関係的)問題も同じです。 〝人間の本能だから〟では、所与の神話を認めているわけで〝ウソッパチ〟ですよね。 これが許されたのは (上層部は品質管理にて責任重大で偉い・フラットランドな資本主義絶対化だけれども そのためには差別も隠蔽もやむを得ない―という機能的驕りが黙認されたのは) 昔の世代までです。私たちが口と行動に出してはいけません

感情で理不尽だと感じている時点で、亀裂はとっくに生じていました。

政治や外交でも同じで、負の感情的本能論(ニヒリズムやペシミズムかな?)に陥る可能性があるのなら、その前に1000通りくらい、打てる手を用意しておかねばなりません。


以上、論点は〝大切なところだけは 即座に合意する (見失わないで離さないようにする)〟です。

高い金利でお金を貸すようなやりとりは〝植民地化〟と言えて、長い目では〝大切なところではない〟とわかります。

(そもそもグリーンのテストを通過していない国の成長段階[グリーンを押し付けての解体は不可]のためです。 ――以下 大切なところに回帰 )

ぐずぐずしていると、保守派(アメリカの共和党など)が 合意を拡大解釈し、さらに 人種差別主義者(ヒトラーなど)の手に堕ちて、どえらいことになりかねません。 (いいたくね(。-`ω-))cc...

私がこれを書いた意図は、〝載せておかないと まずいことになりそうだと 個人的に思ったから (インスピレーションの力学)〟です。
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2019年01月05日

優しく強いアニメの未来 ~表現の意図は変化する~

インテグラルな資本主義漫画・アニメ視点で書きました。 (2020 07 追記有り。)

こういった主張は、〝おもしろければ何でもエンターテイメントになる〟という 根強いブーメリティスを擁護するためには使えません。(既に矛盾をきたしていますね。)

ワンピース「ゴールド」で描かれたように、次世代 特に子どもたちに開かれなければ アニメの未来は無いということです。

なぜ、次世代はテレビを見ないのでしょうか?

それは、優しいからです。

―― 過激な描写ばかりを見て、正しく強くなれるわけが無いということです。

昔の世代は、自由の表現として、社会に出るための根性論の強化・暴力にとらわれないためのヒロイックな暴力的描写 (がまだ強い傾向) から エンターテイメントを定立していき 結果として 真善美がバラバラであったままと言えます。

私たち以降の世代(概ねミレニアム世代)は、暴力描写を容認しません。人を殴りたくなってなぐったらどうでしょうか? 犯罪者の家族ってどうなりますか?

(参考になる作品:東野圭吾「手紙」―テレビ東京制作のドラマ)

ミレニアム世代の漫画家の主張は〝過激なエンターテイメント化のレッド的容認が漫画の意図を狂わせる〟です。

(アニメ化にて特に。)

(実は、気になる漫画家[漫画の意図を込める人]を2人調べてみると、私と同じ年の生まれでした。――漫画とアニメの根元に似た見解を持っているなと思っていたら、ここまで生まれた時期が似るものなのですね。)


・テレビ東京と日本テレビ[それぞれの系列]のアニメ


若者の政治離れを無くす方法=メディア等の批判を含む理解・発話」 が私たちの世代の概ね合意できる主張です。

つまり、前ミレニアム世代 (ここではミニマムライフまでの次世代に理解が乏しい大人サイドで 概ね世代を問わない人々) が、放映やアニメ化のほとんどのモードをコントロールし、売れればよいとするフラットランドの神話(独白的なレッド要素)にとらわれていた時代の仕事を 次世代と十分に対話しない形で展開してしまうことが原因です。

(私と同世代は 過激な描写を根絶するための過激な描写[武器を持つ戦闘的要素と心圏的意図] さらに次世代は 性差別されないための性差別的発話[制服を着るアイドルと前言語的バイタリティの実践]に帰結する傾向があり、それも混乱しているので これまでの世代から曲解されがちです。)


お正月に色々と映像作品番組を見る機会がありましたので、当時の日本テレビ(系)制作アニメ 「シティーハンター 95年のスペシャル」 (最初の発話が道徳的な意図によってつくられていると私が解釈できるアニメ) を挙げます。

(「ザ・シークレット・サービス」の題で1996年初頭の初放送。)

ルパンにも言えますが 命に関する過激な描写(を演出し続けること)は 基本的に 悪いカルマ(バッデスト)を増長します。 ミレニアム世代は それに慣れさせられるか否かに関わらず 根元で拒絶しています。 (虐待の連鎖の理解と似ています。 ちなみに 銃規制の反対[保持]を擁護する傾向があるのは 二大政党制のアメリカでは「民主党」に対して「共和党」です。) ――(2019 01 06 追記 ;書き方を間違えていましたので訂正しました。太字部分。傾向であり 単純な構図ではないでしょう。)

シティーハンターの原作は「週刊少年ジャンプ」なのです。 (ここでは原作の意図は直接考慮できませんが) 上記主張を通すとすれば、雑誌ではなく「世代」で漫画とアニメを定立していかなければならないということです。

ここが私世代のイタイところで、「ONE PIECE」を見るかどうかの選択と大きくかかわってきます。 (ワンピース作者の尾田さんは 子どもに見てほしい として発話していますね。)

週刊少年ジャンプは世代間にて万能ではなく、前世代的(この場合はより前慣習のレッド的)要素を〝次世代が主張している〟とされると、私たちは困ったことになるのです。

週刊少年ジャンプの思想は キン肉マン・ドラゴンボールやワンピースにおいて「深くピュア」に洗練されていきましたが、描写のタイプが「暴力を容認してしまう」発話に成り得ます。

ジャンプコミックスやそのアニメをいくつか見ていくと 文化になる意味で そういったことは分かるでしょう。

(さらに、次世代の女の子タイプ となると、戦闘要素はほぼ要らないので さらにデリケートな発話を要します。 ここにおいても 今回の議論は重要です。――深い女性タイプを主体として通していない発話のアートが多すぎるということです。)

シティハンター(95年)は、宝石(ダイアモンド)に目がくらんだバカモノが 娘とその家族の人生を狂わせる 政治的要素満載のお話です。(ざっくりですが。独裁国家からの独立運動で良いですよね。)

1990年中ごろと言えば、ZARD・栗林誠一郎が第一線です。インターネット(※)も歌詞に出てきますが まだ携帯電話が(普及してい)ない時代です。――(※)「ボトス」なので1997年ですね。

このストーリーの次世代的な問題点は そもそも 設定です。

よって、無理に次世代に開かないようにするしかないと私は思います。それで「週刊少年ジャンプ」が恥じることもないですが 理解はしてください。

(例えば、自転車に乗りがちな次世代が、自動車がぶつかるシーンばかり見せられる点。 当時の自動車社会[車同士が車間距離を取らないから ぶつかっても ドライバーは無事だから]の批判 だとしても 自動車中心的な所与の神話が仕方なくも残っているわけです。――そしてこういった〝合意の抜け穴〟が アニメ制作会社などを どういった道へ誘ったかは 一向に値します。)

破壊的な描写を 何とかしていかない限り、ミレニアム世代の一般読者視聴者を(根源的に)獲得するのは難しいのです。


一方で、テレビ東京は、〝視点〟を より正しい方向に開きました

アニメをたくさん作るのが 〝ドラゴンボールZ以後〟であったことも幸いしたでしょう。

そして、私世代がワンピース(フジテレビ系)と共に数多くのメッセージ(文化的アイデンティティ)を受けることになるものが テレビ東京系の良作アニメです。

特に、将棋的な要素で見れば、相手の「歩」を取って「歩」を打つ という対局中(A)に 「兵士が殺されて生き返ってまた戦場に赴く」などという境界症例的発想(B)をいちいちする人はいないのです。

(A) そういった把握が多数走っているので 理解が高速化できるわけです。子育て・絵本の基礎でもあります。―― おもしろいこと?に、私が知っている頃の ネタの尽きたいくらかの量産型の深夜枠アニメの発話は、これら(B)を無駄に助長している(レッド的な脱構築もどきに滑走している)ように感じました。――意味が分からないのですがω)

このように、スポーツにも言えますが リベラルなルールから発話(合意)することで 暴力的な描写は設定から無くせる ということです。

(そこがテレビ東京系アニメの努力と成果です。努力を盗用[Q/2]して そこに余計なものを付けてはいけません。)

それで内容が落ちるものは、対応せずに作ったということです。

(フェアで言うならば、〝NARUTO〟の主張に対して〝BORUTO〟の行きたい方向を考えてみる余地はあります。)

深い意図は、一昔前までは(主にそれを解体して再構成するために) 種々暴力的描写もやむなしとされていましたが、最近は 意図が深くないか〝情報の在りかを示す石〟の役割主体のアニメが多くなって バトル漫画もデリケートになっています。

(この段階で既に ニヒリズム[=ペイン]を根絶できるような〝意図〟が反映されているのです。その目的に限って そういった描写もされていたということなので、ベクトル自体がおかしいものは 最初から在りえないわけです。)

(アニメは もしもの空間に構成されるものであっても〝ポスト形而上学で言う視点〟なので、めっちゃ精神と時の部屋空間[かつ 夢にできる出来事]であろうが 描写に内容が伴います。 ある種難解な「時をかける少女」(アニメ映画)は 確か 〝[モノワールド的な微視的]時間旅行は在りえない〟というグリーンの主張をした上で 行為の責任を戒めるために意図されていたはずで、そのように定立[解釈]できないと ドラえもん系のSFは大混乱するでしょう。)



日本テレビ系とテレビ東京系、いずれもブーメリティス(レッド的要素)が残存していますので インテグラルな方向に次世代へ開こうとするときに 誤ってか 時折退行します。 (そのように私は感じて来ました。)

神話を救うのと似ていますが、当時の深い意図を 現在に再構成すること その根元が想像以上にデリケートであること 放棄しなければならない形而上学的な設定(シナリオ)要素があること、を ポスト形而上学(ギガグロッサリー)にて行っていかねば 長い目では うまくいきようが無いということですね。

さらにおもしろいことに、最近では あらゆる一般企業が〝イメージアップ〟のためにプロモーションします。

CM制作は、他のアニメ作品などとのリンキング(深さの解釈と合意)が概ね必須となり、結局は 今回のような議論と切っても切り離せない戦略を要します。

(ハッピーをただ連呼すれば救われるわけじゃないよと言いたいんだろうと(笑)――イエス イエスω) ――言ってほしいけれどね。

そういった感性を企業に評価してもらえる道が これからのミレニアム世代のアーティストのとても強いチャームポイントです。

深い解釈のノウハウというのは、もはや とてもストロングでプロフェッショナルと成り得るキャリアです。

(これまで周辺化されていた芸術領域が創発的に生き残っていくためのインテグラル的アプローチを応援するために書いています。)

政治と選挙に関わる国民主権とは、ミレニアム世代の言葉で言えば〝こうやって発話しなさい〟ということです。 (ただし、なるだけ深く実践継続的に根拠を伴って対話的に。)


最後に、「名探偵コナン」について考えましょう。

コナンは 長く続けば続くほど〝事件が起こる設定〟で見られてしまいますが この場合の視聴者(読者)の対策は〝一定期間見ない〟ことに尽きます。

されど、問題解決能力に大きな変化を促す実践と成り得ることや 銃や醜いシーンなどが基本的に(無理に)出てこないところから 意外に見れることに 次世代は気付くでしょう。

私たちの世代の漫画なので、まだ ミレニアムなエンターテイメントへの過渡期に発話されたシナリオ(視点)です。

作者の青山剛昌さんが (何らかの形で)大のホームズファンであり 主人公のコナン君(新一)もそうであり 道徳的意図から問題を解決していく という点には 多面的な将棋的に〝合意〟できるはずです。

後は 「名探偵コナン」の内部で、優しい人が見れる深い実践になるか ということです。

旧式の破壊的描写がコナンを何らかの根拠にして 次世代向けに逆定立されてしまうと 全てはコンテキスト(文脈・関係)ですから コナンも見れたもんじゃなくなります。

ミスチル(ひびき)の例えならば〝僕らの花火も紛争地域では銃声〟に解釈されるということです。(聴覚的に。)

内面からの発話なので 五感がすべてではありませんが、五感のモードも 主流の文化的言説が統制します。 その座に 誰が座ろうとしているのでしょうか?


このように、政治や選挙や国民主権とアニメを対話させると、具体的な作品名を出してくることになり得て 非常に書きにくくなります。

会社に所属している殆どのアーティストは それが理由で〝情報の在りかを示すコンテキスト〟のリンキングを行う主張の選択肢が主流になるわけです。

また、アイデアに困った者が 勘違いしてか 対象元の芸術(家)サイドを 深刻に困らせるレベルで行うこともあり得ますし、抗争などより 書かせることもできます。 (大多数の人にとって 長い目で見て とても迷惑です。)

深い意図で 共-創造する(どちらも 情報を持つ強力なコンテキスト=芸術 になる)のが自然なコミュニオンですが、少なくとも リベラルな流れを見抜く能力は必要でしょう。


今回の議論は、私が「アニメから離れたい」という近況的意図と関係して 私から発話されています。

書いているということは、やはり アニメが大好き!ということです(笑)


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

P.S.2020.07.13

テレビ東京(系)の〝まずいところ (以下も含めて私見解)〟を見つけたので、書きます。

私が 年末の音楽番組中心にまとめたページ で〝ティール組織〟を 直観的に記載 (そうすべきだという理由があった――) してから半年経ちましたが、株式事情の伝統圧力も含めて、〝会社名を (どんなバージョンでも) 出す〟だけで、〝ティール組織の包括性を乗っ取るような権力の増長を助長してしまう〟という空気を感じました。 (リストは放置ではまずいということ。)

それを踏まえて 言いますが、テレビ東京は、〝TVゲーム の主張 (から 生活世界の侵略の B面)〟を〝無思慮に助長している〟ということです。

(ここでは、言わんとしていることは、長い目で見て、察していただけると思うので、詳細には立ち入りません。 ―― アーティストは差別されている、とだけ付記します。)

上記の〝システムと植民地化〟こそ、保守派の局 (そこ自体のカタを持つ気はない――) が、強硬に言いたかったこと(シャドー)なのではないのか? ―― と思いました。

(※ 子ども時代を中心に、私は、数多くの定番TVゲームにハマっています。)
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2019年01月17日

自動車と自転車のセーフティ・ネットワーク ~自動運転・交流~ [今変わる!道路交通 ①]

自転車は 車道を走れるのでしょうか?

自動車は 安全についての討論をネットで展開していますか?

自動運転のハードルって何だろう?



こういった、道路交通の論点に、気付いている人もいるかと思います。

今回、私の視点で そういったお話をしようと思います。


想像力の高い人にお任せしますが、こう捉えてください。


〝30cm以下の間隔 かつ 時速30km以上で 自転車を追い越した自動車は 一発免停〟


(上記は、現在の道路交通法[現状]では考えず、未来の自動運転の視点と 今必要な責任を しっかりと捉える目的で、ただし〝具体的に〟 記述表現しています。―― ※文字通りに理解するものではありません。)

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2019年01月18日

自動車ドライバー同士の討論をやろう ~自動車に天敵がいない?~ [今変わる!道路交通 ②]

インターネットを見ていると、自動車を運転していると宣言して 自転車や原付に対して どうすれば安全に運転できるのか、そもそも適切に運転できるのか、といった討論を 見かけることができませんでした。

これは、① 彼らが 自転車や原付1種を真剣に愛用したことがない、② 自動車ドライバーとして天敵がおらず 自動車同士意外に配慮する必要が無いと信じている、ということになるのではないでしょうか?


自動車は、バックミラーだけで流れで車線変更を 恐らく しますが、ハンドルに当たってしまうとまずいので 後ろを振り返って安全確認しながら行うものなのかが、自転車乗りの私からは 不明です。

流れ速度以下だと、割り込まれるなどの理由で 減速せず、後ろの自動車の位置関係だけ把握し続けることで車線変更をするとしますと、不用意に連発できるものではなさそうですが、そもそも 高速道路で できていることです。

自転車と一般道を走るにあたって、片側2車線の道にて 右車線が空いていても 右に車線変更をしない自動車が多いことから、一般道の車線変更すら相当難易度の高いものだと 私からは思えるのです。

それとも、する必要が無いと単に感じているからなのでしょうか?


流れで運転するということだけで 100%を超える難易度を要求され、高速道路でそれを適切に行うも、一般道で自転車と原付との追い越し配慮に難があるとしますと、一般道の自動車の速度は速すぎる、さらに 自転車と原付について 配慮する必要が無いと感じている、と言えるのではないでしょうか?

この点に関して、自動車乗りの間で討論を見かけないのは、そういう人たちは自動車に乗らなくなってしまったということ、かもしれません!


これらは、今や当たり前に感じる疑問で、全く解決されていないと思うのですが…ω


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2019年01月20日

自動車は高速道路を走る乗り物 ~ 一般道は特例・徐行 ~ [今変わる!道路交通 ③]

自転車にとって、車道が原則 歩道が例外、これは、自動車にとっては、高速道路が原則 一般道は例外、という関係に極めて近いのですが、同様に感じている自動車乗りの方は、どのくらいおりますでしょうか?


自転車がまともに走れる歩道は限られており、サイクリングロードになってようやく 気が楽になるものです。

それでも 歩行者がいる区間があります。

自動車にとってのサイクリングロードは高速道路の下位互換である有料道路でしょう。

しかし、そこには 原付が走れるという道もなぜかあり、原付の後ろに時速30km以下で追走する 追い越しブロックの車両を走らせないと 原付は走れない場合が 非常に多いのです。

こういったことを敢行している方もいました。 (※当然 満場一致で 非推奨!!) [動画リンク]

現状での自転車の都会での歩道走行は、歩行者の合間を縫ってのうねうね走行[非推奨!]ですが、一般道での自動車の自転車を障害物として避けるような通常の運転と同じ傾向のものです。

(流れ=速度超過 主張が 崩れている よく見る例です。) [動画リンク]

即ち、自転車は車道が原則ということは、自動車は 一般道は 自転車原付に対して徐行 高速道路が通常用途として原則、ということです。

現時点で、これを理解するには、自動車に天敵が必要で、システムによって 示されるかもしれません。


自動車を運転する方の中には、一般道は危ない、と思う方がいらっしゃいます。

とても正常です。

現在、なぜか 横断歩道の停止線で徐行停止せず 制限速度で走行する自動車をあおり 自転車を減速せずスレスレであっけらかんと抜かし 片側二車線で普通に並走し続け 自転車原付に対して縦の車間距離を取って減速することも稀である という おかしなルールが 一般道を支配しています。

これは、自転車の歩道走行を車道規格[歩道を車道]と見なしているのと同じで、非常に危ないですが 自動車を運転する人たちの間ではうまくいっているので [自動車の一般道での種々行為は]流されて黙認されます。

わたしは、危ない運転を構わないと思う人たちから免許を返上願えば、自転車に運転を合わせても安全に走行できると思います。

歩道の自転車の現状を見ると、自動車による交通戦争の慣れの果てに思えます。

自動車ドライバーさん。このポイントに気付いていますか?

自転車は車道が原則、は、一般道での[自動車の]運転が自転車の歩道走行のようだ、という点ですよ。


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2019年01月25日

自動運転フェイズ3の実現方法 ~ドライバーに適切な責任と権利を!~ [今変わる!道路交通 ④]

責任=権利 として、安全に適切な運転をしたいというドライバーの願い=権利に応えるのが、新しいシステムでしょう。

自動運転ですが、フェイズ4から ドライバーに責任が発生しない、とするなら、フェイズ3は 多くの方が言うように 今のシステムでは移行は不可能に近いです。

まず、適切な責任をドライバーに理解させ それを車道で実現する(フェイズ3)→その達成をシステムに組み込み メーカーが責任として引き受ける(フェイズ4)

責任=権利 です。

メーカーは、誰もが安全運転できる車道を私たちが実現したときに その権利をシステムに移植させる役割であり、モラルの反映はフェイズ3で変化しないと 包括的でないので うまくいきません。

フェイズ3で、自転車と原付が、安全に車道を走れるような〝システムの革命〟が絶対的に必要だと感じ、3年程度では 行政によりますが、不可能でしょう。

それを説得するにも、自動車ドライバー同士の熱心な討論が不可欠であり、自転車か原付に乗ることで そのシステムの発生と定着を手助けするのが効果的だと思います。

このまま、自動運転が実現してメーカーの責任になるから それまで適当な運転で良い と思って車道に出ている自動車がいる限り 完全自動運転が実現することはないでしょう。

自動運転のポイントは、システムは 自転車とも道路構造とも互換性を持たせるために モラルを含めてドライバーの意識から変えて より適切な道路交通システムを実現する必要がある、ということです。

これを飛ばして 完全自動運転には行けません。その場合は自転車に配慮できないでしょう。

この意味で、フェイズは システムのレベル(深さ)とも言え、フェイズ3への移行でレベルが深まると捉えることができます。

(一般的には、フェイズ3はレベル3と呼ばれていますが、水平のレベル=フェイズ の意味です。)


[次の記事]〝自動車ドライバーのモラルの健全度を見る歴史 ~資本主義と経済力~

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