2022年05月05日

スーパー歩行者になる方法 ☆彡 ~信号無視する歩行者は 運転免許の保持者?~


自動車の運転免許とは、何なのでしょうか?

なぜ、交通戦争が起こっているのでしょうか?



これらの疑問を簡単に〝見る〟ことができる、会心の事実を〝発見〟しました。


自転車に乗って 車道を運転しているとき、歩行者が、信号無視をして、横断してくるのです。

今まで、彼らを、歩行者として、扱ってきましたが、歩行者と言っても、ひとくくりにはできないのです。


信号無視をしている歩行者は、クルマの運転免許を持っているのでしょうか?


私の判断・モラルでは、信号無視をする歩行者が 運転免許を持っている場合、必ず、返上しなければならない と、根源的に、主張します。

信号無視をする歩行者、つまり〝人間〟である その人 は、〝道徳段階=モラル〟が著しく低い からです。

別の言い方では、道路交通についての〝理解がない=重大な過失を見せびらかしている〟ということです。

これは、〝AQALは ピアノの弾き方と違い、意識外に追いやることは、その影響を積極的に許容すること〟と同じ視点です。

(人間の道徳段階[AQAL]は 簡単に変えられません。 つまり、ドライバー[≒人間]の道徳段階は、簡単に変えられない からなのです。)


自動車は、最も、〝信号順守への強制力≒クルマの倫理〟が働きます。

理由は、クルマ同士の衝突が、交通事故の中で、一瞬にして起こり、一番、悲惨だからです。


道徳段階が、レッド(3)の、自己中心的な、人間(≒ドライバー) であっても、この〝倫理(3)〟は働きます。

自分が死にたくないからです。

そして、この〝クルマの倫理(3)〟こそ、最もモラルなものだ、クルマは移動能力の頂点だから 歩行者、自転車、バイク含めて、一番偉い、そして、道徳的だ、と感じたいのでしょう。

しかし、それは、簡単に、反証されます。


自転車の運転免許とは、〝リスク〟です。

自転車は、クルマのように、運転免許が必要ではないのではなく、 (すでにあるという意味で) 必要なのです

必要な運転免許とは、〝リスク〟です。

リスクが、運転免許なのです。


リスクは、〝躓くことに意味はない〟〝死ぬことを計画に組み込むバカはいない〟を、全面的に意味します


勇気と知恵がなければ、つまり、高いモラルが無ければ、自転車は、簡単に免停になります。

自転車の免許とは、リスクですから、リスクが崩壊する=リスクを負えない状態になる わけです。

これは、健全性=潜在性 として考えると、ピュアな小学生は、潜在的に高いモラルを持っているので、自転車の運転免許を持つことができる、と説明できます


自転車は、リスクを引き受けることができないと、乗ることができません

クルマは、このリスクを極限まで割いて、リスク≒手動 を回避した 結果、〝自動車〟と呼ばれることになったのです。

よって、リスクでは クルマの免許にはならず、別の運転免許が、発行という形式で、成り立つことになりました。

ここから、交通戦争が、指摘され、そして、始まります。


クルマは、リスクを引き受けなくても、乗ることができるように設計されている ので、田舎では歩行者感覚で乗れるのが当たり前となっていますね。 (完全自動運転は、その極地・最終形態です。)

〝速度落とせ〟の表記が 道路上に見られるのも、この直接の表れです。

スピードを出すことにリスクはなく、にもかかわらず、非常に危ないので、運転免許を発行させる以外に、制限をかける方法が、見当たりませんでした。


しかし、これは、正しい方法だったのでしょうか?


クルマのドライバーは、慎重に運転することが、ありません。

適切に運転しようとします。

ここでの適切とは、クルマの倫理(4)を守るということです。

制限速度以上で流れている場合、制限速度を決して守らない、それが〝クルマの適切(4)〟です

そこに、慎重さは、無いのです。


適切(4)とは、〝免停にならないように〟運転すること です。

それさえできてしまえば、安泰なのです。


そこに、慎重さ、リスクはありません。


一方、自転車は、これらのことをすべて理解しない限り、安全に道路を走れません

クルマが〝適切(4)〟に運転するという〝ルール〟を知っていなければ、クルマに追い越されるときに、右左折されるときに、問題が生じます

しかし、クルマ側は、自転車のルール、つまり、リスクについては、知ったこっちゃありません。

クルマは、〝適切(4)〟に運転していればよいのですから。


この事実から、ひとつの視点が導かれます。

自転車は、クルマよりも、適切に、交通ルールを守ることができる、繊細さを持つ、ということです。


自転車は、クルマの上位互換〟なのです。


もう少し言うと、原付はクルマの上位互換、自転車は原付の上位互換、です。

さらに、歩行者との関係は、後に見ます。


自転車の運転免許は〝リスク〟ですが、これは、クルマよりも 適切に交通ルールを学ばなければ、クルマやバイク・原付が どのように道を走っているのか、さらに、自転車との関係は、どのようになるのか、を、あらゆる視点から学び続けていかないと、非常に、危険な目に遭い続けるのは 明白です。

自転車乗りが、自転車の運転免許の存在について、〝リスク〟の存在について、気づいていないとき、それは、非常に強烈な、見えないストレスとなって、自転車乗りに跳ね返ってきます

リスク=AQAL ですから、意識外に追いやることは、その影響を積極的に許容することになるのです。


クルマは〝適切(4)〟に走るだけでよいので、自転車の〝リスク〟というものが、いかに、難易度の高い〝見えない大仕事〟であるかが、お判りいただけたと思います。

(特に、クルマのドライバーに向けて発言しています。)


もし、この、自転車の大仕事=リスク を、完遂できたとしたら・・・。

クルマでは、決して身につかなかった、包括的な、道路交通の配慮、考察力が、身につくでしょう。


これを以って、自転車は、クルマの上位互換であることが、明確に立証されます。


クルマにしか乗っていない人は、この事実に、永久に気づくことはありません


では、歩行者として生きている人は、この視点を、どう扱うべきでしょうか?

どのような関係が、成り立つのでしょうか?


歩行者は、一番緩い存在であり、車両でもありません。

道路交通において、一番、ラフに ルールを扱えてしまいます。


しかし、それが、歩行者のメリットでしょうか?


自転車は〝車両で最強〟です。

道路交通を、包括的に見なければ成り立たないので、すべての車両の立ち位置と難点を あらゆる角度から見ることができます。

クルマの〝リスクを無くした、運転面(4)〟以外では。


しかし、車両は皆、完全な歩行者にはなれないという欠点 があります。

歩行者が唯一、車両の立場を脱ぐことができる存在 です。


歩行者状態は、ずっと昔の時代から、存在していたのですから。

そして、近未来的に〝歩行者〟をとらえたとき、そのメリットは、計り知れないことに、気づきませんか?


自転車は〝道路交通を包括的に見る〟ことができる〝可能性〟を持っていますが、あくまで、車両です。

クルマ、バイク、原付、自転車、すべての車両の視点の代表として、〝自転車の包括的視点〟が 定立されますが、これは、車両としてのデメリット、そのものでもあります。

歩行者には、車両としてのデメリットは、ありません。

歩行者は、車両より、あらゆる意味で、ソフトに自由なのです。



歩行者は、電車やバスに乗れます。飛行機に乗れます。パスポートも提示できます。

自転車は、にわか歩行者になれるため、車両の壁を越えることが可能な、たぶん、唯一の車両です。

この意味で、自転車は、部分的に、歩行者とみなせます。

やはり、自転車は、クルマの上位互換です。


歩行者は、ルールをラフに扱えますが、実際は、車両のすべてを包括できる自転車を、さらに包括することができる、可能性を秘めています

歩行者が、自転車を含む、すべての車両の上位互換である、という現実性 です。


もし、あなたが、自転車を包括的に学びつくしたなら、歩行者になったとき、必ず行っていることがありますね?

それは、〝信号を守ること〟です。


自転車は、リスクによって、信号を守ることの重要性を、最も、包括的なモラルで、直観します。

(クルマには、知ったこっちゃないでしょうが。)

自転車での信号順守は、非常に繊細な仕事であり、万が一にも、フラっと 信号を誤ってしまい、クルマに突っ込まれたら、シャレにもなりません。

クルマのように〝適切に(4)〟運転していればよいわけでもありませんから。


自転車で信号を守るために、自転車乗りが行うことは、2点です。


① 歩行者を最優先で配慮するために 歩行者になって歩く経験を積むこと。

② 歩行者の状態で信号を守ること。



①は、にわかではなく、真の歩行者として、歩行します。 ラフなルールになりがちな歩行者であっても、きっちり ②歩行者として 信号を守れるならば、自転車で信号を無視してしまうことは、ほぼ防げます。

この修行によって、歩行者で ずっと過ごしても、信号は、必ず守ることができるようになります。

なぜなら、自転車そして車両すべての視点が、歩行者との関係で、把握されているからです。

自転車で信号を無視することが危ないならば、相対的に、歩行者で信号無視しても 危ないのです

そして、自転車は、車両のトップ、上位互換なので、基本的に、歩行者が自転車に包括的理解を示している状態が、クルマに最も強く対策できる状態です

最強の自転車乗りを八星(☆8)まで鍛えた者は、スーパー歩行者になれます!!


クルマ+歩行者 で、すべてをまかなえてしまえる、と思っている者が、あまりに多い、と、ここで、強く主張できるでしょう。

冒頭で、私は、〝自転車に対して信号無視をしてくる歩行者〟の視点を挙げました。

これは、〝自転車に対して包括的な理解がない歩行者〟です。

つまり、信号無視をしている歩行者は〝八星(☆8)自転車乗り=スーパー歩行者〟ではない ということです。

また、〝信号無視をしている歩行者は 運転免許を持っているのか?〟とも問いました。

クルマは、〝適切(4)〟に運転していればよいので、自転車に対しては その程度の理解です。

車両としての包括性がない〝下位互換〟の乗り物であり、移動能力のために、他の大切なすべてを捨てて、交通戦争に加担する兵器となっているわけです。

これを縛るのが運転免許というわけですが、なるほど・・・。 そういう理由なら、信号無視をしている歩行者の大部分は、運転免許を持っているのではないのですか?


もしそうなら、大変なことになります。

運転免許とは、いわば〝モラルの証明(5)〟であり、クルマとは、いわば〝核ミサイル〟なのです。

原子力発電所を正しく駆動させるためには、適切な技術と、それを悪用しないためのモラルが必要になることは明白です。

原爆なら なおさら、兵器は、絶対に悪用しないモラル...がない者、に渡ると、そやつは、喜んで、世界を滅ぼします。

交通戦争は、基本的に、同じメカニズムです。

兵器は存在してはいけませんが、防衛は必要で、前者は 車両として下位互換の〝クルマの欠陥〟― 後者は 〝公共的・生活的な 移動能力〟にあたり、〝原発事故〟と〝原子力発電〟の関係と、ほぼ同じです。

決定的に重要なのは、防衛任務も、クルマも、原子力発電も、〝強いモラル〟が必要である点です。


運転免許が〝適切(4)〟にしか機能していないのなら、モラル(5)は 顧みられておらず、交通戦争≒核ミサイル≒原発事故 が成り立つ、直接の原因となっているわけです。

実際、交通戦争を許容すれば、核汚染も仕方がない、と取れます。

そんなわけは、無いでしょう?

あれだけ、ニュースになっているのですから。


私が気付いてしまった点のひとつは、信号無視をする歩行者は 運転免許を持っていてもおかしくない、ということです。

自転車の運転免許=リスク は、紙の形のない免許ですから、その影響は、直接、見えない形で 欠損します。

信号無視をしている歩行者が、クルマ系の 運転免許を取得する、自転車に乗り始める、いずれにしても 非常に困ったことになるでしょう。

運転免許は大人の証→信号無視をしているのは基本大人で子どもはそれをまねるだけ→大人の証とは信号無視をして免許を取れること!

という、非常に、混とんとした、最低なことになります


これは、偉いことから、ほど遠いです。

クルマは、乗り物で、モラル最低、道路交通で一番 下位互換的存在としてしか、居場所を主張できない上に、正しく運用も理解もされていない、というのが、クルマから聞こえる主張 ですよ。


☆彡


私は、以前、あまり、信号について、真剣になっていませんでした。

自転車に乗っても、かなり狭い商店街の中まで走ってよいと思うくらい、自転車を歩行者感覚で走らせていたこともありました。


これらはすべて、自転車を道路交通車両上 最強の上位互換として、包括的に学んでいかなかったからです。

クルマの、すぐに難癖付けてお高い欠陥を賠償させようとする冷血非情さと態度を、直観的に感じ取って、私は嫌気がさすほど、現実にショックを受け続け、自転車を包括的に学んでいこうと決意しました

AQALを知っていたので、自転車に適用することは、そこまで難しくなく、邪魔だったのは、現実はこうだという圧力と、間違った方法を取っていたことを改められない自分のプライドです。

クルマは、クラクションを鳴らし放題、歩行者と自転車に悲しみを与えて、喜んでいる社会です。

わたしは、何かをして、それを変えようと思いました。


クルマは、とにかく、歩行者自転車を目の敵にして、走行空間から追い出そうとします。

それを受け入れるのではなく、拒絶し、その証明として、自転車は車両のトップ、上位互換、代表の車両であり、必ず歩行者に配慮できる普遍的ルールで、道路交通を活きよう、学ぼう、とすることで、私は、クルマのエゴを、ねじ伏せることに、人知れず成功したと思います。

クルマの高慢な主張は、1から100まで、間違っているのです。

紙の免許では、これを学ばせるのは、無理だったことに、クルマ社会は、気づかない(過失・間抜けな)のか、それとも、知っていて(わざと・嫌がらせ・故意に) 放置して 交通戦争を 暴力的に押し通しているのか


自転車ですり抜けしたり、信号を守らない者は、リスクという免許で、同じことに負けています。

歩行者をひどい目に合わせても、かまわない、しかたがない、クルマが変わらないなら それが正義だ、と。


クルマが、信号のない横断歩道の停止線に差し掛かるとき、歩行者が衝突を誘発すると見なせるから、停止線で止まらない、と主張したいから、彼らは、停止線で止まらないのでしょう

これは、歩行者が横断歩道の手前の歩道に立っているときに、停止した車同士で衝突したら、歩行者に責任が発生する、と主張しています。

そんな、バカげた話は、ありますか?

事実は、原因は、クルマが、車間距離を取らないから、です。

車間距離を取らない倫理、そんな〝適切(4)〟な運転によって、クルマは道路を回っています

ちょうど、社会が くだらないことで回っているのと 同じように、です。 (宇宙兄弟で主張されているように、です。)


交通戦争の助長として、軍隊と同じような問題を はらんでいる、クルマ系の保険会社は、クルマのドライバーたちが、何も考えないように〝適切(3)〟に運転するように、強制している、と、私は、言わねばならないのでしょうか?

これは、モラルと理解の問題で、交通戦争が無いならば、クルマ系の保険会社は正義、交通戦争があれば、クルマ系の保険会社は独裁者、と言えましょう。

これを遂行矛盾だというなら、国が非営利化するしかありません。

例えば、儲けた資金をすべて国が回収して完全自動運転の定立に充て、非営利の範囲でスタッフに生活費として給料を渡す、というような。

そうなれば、クルマ系の保険会社のスタッフは、公務員ですね(笑)

こういう事業は、独立した会社として成り立たないほうが、いいのでしょう。 ―― 現状を見るならば。


いうなれば、クルマは、維持費含む定立コストが、異常に高くつきます。

内面・モラルを壊していること、これが究極の欠陥ですよ。

戦争のムードを作る触媒としてすら機能して、戦車を正義にすることにもなりますわ。

戦車も、クルマ・・・ですからね。

モラルの崩壊は、道徳段階の低いドライバー(3)の維持と同じこと、です。

彼らを免停にできない社会の欠陥(3)です。

それは、戦争の原因を突き止められないこと(4)と、ほぼ同じでしょう。

過失のように見せていますが、わざとでしょ?


この遂行矛盾を学んで、そして〝変える〟には、2つの方法しかないと思います。


・自転車で包括的に道路交通を活き切って、歩行者としての生活にシフトする。

・歩行者として、公共交通機関も含めて、生きる。



自転車を極めるかどうか、リスクを運転免許にするかしないか? この点です。


こうやってとらえていくと、バスも、市バスなど、公務員化した方が、いいかもしれませんね。


クルマ+歩行者 のみ では、自転車の包括的な道路の学びが、ごっそり添削されて、両者の欠陥が合わさった形になります。

クルマ社会から見れば、歩行者は、移動能力で最弱、つまり、正義に対しての〝悪〟です。 (移動能力が正義と思っているのなら。 そして 判断は、そうでしょう。)

歩行者から見ても、クルマは、運転するにあたり、非情に、ストレスが避けられない乗り物です。

クルマ+歩行者、ではなく、クルマ〝対〟歩行者 の状態で、運用されている のが、関の山です。

子どもを送り迎えしたいのであれば、子ども=歩行者 とみなすのが自然ですから、クルマと歩行者を対立させるのは、バカげています。

クルマ+歩行者 が、真の意味で成り立つには、自転車を極めることが、現実的には、唯一の方法です

それができないならば、クルマに頼り切って、歩行者の自由で可能性にあふれた近未来的なメリット は、受け取れません。

自転車も乗らずに、歩行者の状態をメインにするなら、クルマは買わずに、鉄道やバスと組み合わせればいいのです

完全自動運転バスとしての、タクシー並みの利便性のある近未来の交通 は、自動車メーカーの〝望まれる仕事〟です。

何事も、可能性の洞察と、その実現の情熱(ビジョン)です


そして、歩行者は、自転車の上位互換、自転車は、クルマの上位互換、だと、さらに自信を持って言えますね。


☆彡


ローカルバスの旅Z は、旅のメリットを保存しながら、現代の歩行者の立場のみを維持することで、歩行者の上位互換性を、現代的に、証明してきたと思います。

歩行者が、移動能力の制限にも関わらず、道路交通上の上位互換を発揮できるのは、現代以後に、メリットが〝創発〟しているからです。

それには、説明も必要です。


ウォーキングが流行っているのは 分かります。

テレビ東京で、鉄道沿いをマップを見ないで歩き続けていく番組を、私は、初めて見ましたが、あのように、歩き続けることは、基本的に、健康上のデメリットが大きく、歩行者の 歩きの潜在性を主張するために、いくつか、見ておいた方がよいことを書きます。


とにかく、4日で50キロなど、歩く番組は、〝昔の人間は、かなり歩いて移動していた〟ことの〝体を張った実験・再体験〟であるととらえることで、ある程度の、強気な言い訳に、換装できます。

ここで重要なことは、テレビカメラは、自転車につけて、別の自転車で旅する出演者を、追いかけることが、非常に困難だろうという点です。

これだけでも、テレビは、歩行者が道路交通の上位互換だと主張できます。

また、都市部において、地図を見ないで自転車で旅をするには、リスクが前面に出てくるわけで、これも、徒歩が有利です。

民家に取材許可を あらかじめお願いするなど、車両を使えば、なにかと、問題もありますね。

このとき、騒音対策なら自転車で、取材は、歩行者や、にわか歩行者で、行えば、かなりスムーズでしょう。

徒歩企画は、番組に相性がいいという点で、歩行者は、車両の上位互換であると、言えます。

制作費も抑えられるので、配慮や繊細さに重点を置く番組が、できやすいでしょう。

歩行者は、内面的、感情的にも、よりメリットをつくります。




まとめ ☆彡


近未来社会は、歩行者の移動能力の制約を、いかに、サポートし、より包括的な視点として、創造するか、それが、ポイントです

クルマは、海を渡れないので、海外を渡るにも、基本的に、歩行者が優れています。

自家用の飛行機も、遠くまで行けないので、ジェット機に乗って地球の裏側まで行ける自由度のある 歩行者 が、最強です。

個人+乗り物 という運用から、歩行者を起点にしたカスタマイズへ、さらに、視点、内面=モラル を 最強の基本にしていくことで、少しずつ、こういった道の、方向性が、見えてくるのです。


自転車が、乗り物で一番優れているのは、ときに、歩行者になれるからで、コスト面でも、歩行者のみと大差ないところが、内面を重視できる余裕につながっています

また、高価な自転車、メンテナンスがデリケートな自転車、というように、歩行者のみに比べて、やはり、総合的なコストがかさみ、内面的な余裕をそいでいく場合があります。 (いわゆる〝ブームとしての自転車疲れ〟です。)

歩行者は、スーパー歩行者になって、自転車、そして、あらゆる車両の走行経験を、継いで行くのです

車いすも歩行者です。 近未来の足は、より多面的な可能性にも開かれております。

自転車をやめる勇気、というテーマで、長くページをつなげることが、できるかもしれませんね。

自転車の集合的な現状は、想定をはるかに超えて、把握できないくらいに、複雑です。

自転車に乗ることは、最大の〝学び=機会〟だととらえるのが、私は、最も適切だと思います。


自転車走行や、歩行者状態で、周りの自転車が怖く感じたのなら、自転車に乗ることは、何かが違うのかもしれません。

適切なことは、そう、明らかにならず、断定するのが時期尚早なことは、よくあります。

確かに、時代は、悩める現状を、創造したのかもしれません。


そして、次のそれは、また、私たちが前を向いていることを、期待してくれるのです!



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補足 ☆彡


クルマ+歩行者 で、歩行者が信号無視をするならば、歩行者のラフさの悪い部分が、モラルが浅いままに倒壊しているから、と言えます。

自転車で道路交通の視点を包括して、スーパー歩行者になってから、上記を見れば、モラルと繊細さの重要な理解から、自分がクルマを運転できるだけのモラルを主張―定立できるか? が、納得できます。

自転車に乗る必要はないかもしれないとしても、モラルを深い意味で定立できない者は、免許を持つ資格がないけれど持っている、と、主張していることにしかなりません。

それに気づいていないことは、脱線しかけていることに気づかないのと同じです。

とてつもなく、致命的なこと、です。


ここに、現代は、フラットランドである、かなり簡単にわかる、子どもでも一発で理解できる、という、発見がありました。

歩行者の信号無視という、ごくありふれた状況だけで、内面が消去されている〝生活世界の植民地化〟危機を、誰にでも触れられるように、お話できる!ということです


参考 ―― [リンク1リンク2リンク3]


クルマの免許を保持している者が、歩行者として信号無視すると どうなりますか?

という質問と、その関連の リンクです。


この回答が、残念なくらいに、興味深くて、一言でいえば 〝内面・モラルの深さについては、全く言及されていない=視界から消し去っているか 最初から前提にすらされていない〟という点です。

これは、傷つきます。


質疑応答をしているのは、クルマのドライバー側、クルマ社会のメンバーですよね。

彼らが、歩行者自転車視点で車両に矛盾を感じて改めてほしいと悟った=スーパー歩行者 ならば、歩行者の状態で信号無視をしないので、つまりは、免許の点数だけを心配している ようです。

さらに、歩行者として信号無視をしてもよいと読めますので、前提として、モラルについての禅問答を目的としてはいませんよね?

そのデメリットが、結局は、クルマのジャマをしたから 責任を取れ! ということならば、いかに、クルマが、道路交通において、勘違いな、上位互換ぶる地位に、自らを固定し ハマり続けているかが、よくわかります。


まず、質問者が、信号無視を迷惑に思う自転車視点で、あるいは、スーパー歩行者の視点で、意図を持っていたのなら、こんな質問はしないはずです。

行うべき質問は、〝信号無視をしている歩行者は、運転免許を持っていると思いますか?〟〝もしそうならば、モラルが低いので、免許は返上するべきですが、社会がそれを考慮に入れていないように思えるのは なぜですか? そのような質問が 見当たらないのはなぜですか?〟という着眼点だったはずです。

きっと、探せば、そのような質疑応答もあるでしょうけど、検索で探すのは、困難でした。


理由は、過失割合などの、前慣習的な恐怖(3)を助長させるように計算されて作られた、スーパー歩行者から見れば、有毒でしかないような、無駄な情報が、多くヒットするからです。

〝 - 〟をつければ、ある程度絞れますが、狙い始めると、きりがありません。

クルマ系の保険会社は、そうやって、クルマのドライバーを、偏った視点に誘導しているわけです。

(これは、ぜひ、反証して、交通戦争を無くしてほしいと思います。)


企業に、X理論や、Y理論 などが、当たり前になっていても、クルマに関しては、きわめてフラットランドであり、〝運転免許という目に見える点数がある〟だけで、他のことは、何も受け付けなくなるようです。

クルマ系の保険業界ではどうでしょうか。 クルマの販売業界では? クルマのメーカーは?


歩行者の時に信号を無視、クルマに乗っているときは信号順守、は、〝目に見える計算行動〟です。

クルマは、一瞬の判断ミスが、取り返しのつかないことになるのだから、歩行者の時に信号無視をする癖を、運転免許を取った後でも直せないというなら、自ら、危険なことを行っている〝(程度の)モラルを持っている〟と主張している、としか、解釈できないですが、道徳段階を消し去っているから、こんなおかしなことが起こるのです。

道徳段階の視点、あるいは、そういった、簡単なテストの話 (中絶はいけないことですか? 行うことを受け入れますか? ―― はい、いいえ、はい、はーい、の話) で、モラルの視点の証拠を、わかりやすく示せば、上記の歩行者としてのドライバーの道徳段階は、病んだレッド(3)でしょう。

世界中心的な道徳(5)を持っていなければ、運転免許を持っていてはいけません。

なぜなら、クルマは、オレンジ(5)の技術の産物であって、それを扱うに値する、対応する内面が、オレンジ(5)だからです


この矛盾は、戦争兵器として使われる技術的視点、で、よく知られているわけです。

アンバー(4)のモラルを持っているなら、子どもでも乗れる、自転車(4)に乗ってください。

これは、自転車(n)は、クルマ(5)の上位互換だと、言える強みの一つです。


自転車で、スーパー歩行者を発揮する方法は…。


・自転車でも歩行者でも問題のない状況→自転車で移動

・歩行者のみ問題のない状況→(にわか)歩行者で移動



と、このように、歩行者は、自転車を含みます

自転車専用道の場合でも、降りることを想定していない道は ないため、どこかで、歩行者は自転車移動を含みます。


ラストに。

[運転免許 歩行者 信号無視] で検索 して、もう少し、内面寄りの質疑応答を見つけました。

参考 ―― [リンク4リンク5]


このように、運転免許というシステムは、内面・モラルを消し去るのに、うってつけの役割を持ってしまいました。

クルマのドライバーは、前慣習的な感情(3)、渋滞はイラつく、とか、飛ばすのは爽快だ、とか感じているわけで、渋滞を解消することを話し合ってみたいなぁ、とか、安全運転してもらう方が歩行者としての自分はうれしいなぁ、とか、脱慣習的な感情(5) があることを、指摘できれば、内面というものがないということは、反証されます

実際、内面を消し去るのは不可能なので、簡単に、交通戦争という〝怪物〟が、生まれ続けます。

それは、明らかすぎることです。


運転免許が、リベラルなモラル(5)のためのペースメーカーだとしたら、自転車の運転免許〝=リスク〟こそが、その包括系であり、スーパー歩行者が、運転免許という車両の欠陥自体を 否定して包括することができる、本当の、リベラルなモラル(5)のためのぺースメーカーになるべきなんだな、と、感じている、今日この頃です
posted by インテグラルとど at 14:36| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2022年04月28日

〝希望の話(トーク)〟と〝世界の夢(ドリーム)〟 ~人知れず世界を変えること💝~


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✧ もくじ ✧
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〝希望の話(トーク)〟と〝世界の夢(ドリーム)〟 ~人知れず世界を変えること💝~

(原爆が落ちないようにするにはどうすればよいのか ―― 憲法第9条 ―― 日本人のモラルは、ある種、世界最低レベル ―― 〝世界情勢と緊急特番〟追記の批判 ―― 私たちが社会であること ―― リベラルも保守も、自分が広い意味で〝無力〟だと思っていますね? ―― 無行為的な勇気! ―― なんとかするしかありません! ―― 交通戦争を核兵器に置き換えると・・・。 ―― クリシュナムルティは〝深度〟について語っている ―― 〝子どもの潜在性〟で説明するモデル)


・ミュークルドリーミー みっくす! ~ホワイトな包容~

(子どもが夢中になっている姿を見て、大人側が〝おもしろい!〟と明るくなれる。―― ミュークルドリーミー みっくす! は、第2層の〝作風〟を使いません。―― 独裁者が地球を支配するという矛盾が いかに〝おかしな〟ことか〝子どもが理解する〟ことができる。―― 第3層は、子どもとの距離を〝深度ではなく 共通の潜在性〟という次元で〝保ち〟ます。―― 原爆のような兵器は〝何の意味もない遂行矛盾だ(9)〟―― この世のあらゆる問題は〝心理的時間が作り出している混乱〟―― クリシュナムルティの著作は、ミュークルドリーミー みっくす! と組み合わせて見る。)


・ リベラル[外面] と 保守[内面] の統合と 憲法第9条

(〝善良性への回復[リベラル]〟と〝善良性への成長[保守]〟―― 人は、純粋無垢な者として 生まれるのだろうか?―― ポスト形而上学。 ―― 子どもは、リベラル[外面・社会制度]視点では〝純粋な天国〟――保守[内面・モラル]視点では〝単純な地獄〟―― 本当の〝地獄〟を生きているのは〝独裁者〟など、潜在性が崩壊して純粋ではなくなった大人。 ―― 子どもは単純ですが、純真です。)


・核なき世界! 兵器製造のない世界!

(兵器所持が すでに間違った打ち合わせ。―― 防衛だと言えば 世界は すぐに兵器を作れる。 ―― 真理の種子は 花開いておかねば。―― 本当にやりたいことをやるための、伝統の圧力につぶされない英知と感受性 ―― 戦争を止める〝一瞥〟―― どうすれば、戦争を終わらせることができるだろうか? その話し合いができるだろうか?)


・世界のシナリオ ~ 私のシミュレーション ~

(人知れず世界を救うには、時間を越えた、基底の一瞥が必要。―― 北朝鮮は、ロシアと目的が違う、突如、最悪のかみ合わせで、日本を襲撃してきたら? ―― あらゆる話し合いを 社会は行い 可能性を想定し 混乱が想定されることを理解し 虚偽を虚偽として見ることで、直観的に! ――― 想定が難しいなら 戦争自体をやめればいい。 ――― 第3次世界大戦は 永久回避しなければならない! ―― 世界が最初から 平和だったら、ウイルスも 流行らなかったでしょう。―― ウイルスショックの嫌な点は、皆 気づかず 人が変わってしまうこと。 ―― 大戦も、意外に 信じられないような 生活の中での出来事が 歪みに歪んで 起きた!? ―― 私の役割とは、何なのでしょう? ―― 誰もが、自分の直観を信じられない・・・! ―― 正しく ひきこもる方法。)


・戦争を無くす方法!

(祈りのパワーとは、クリシュナムルティ流には、書くこと! ―― 歌手たちに問われている、芸術と基底の在り方。)


・世界の夢 ☆彡

(地球上に急速に枯渇したのは、化石燃料でも、お金でもなく、夢です。―― 2022年は、夢自体が、在庫切れ ―― 2019年の時点で、中国が アメリカにウイルス研究所を立ち上げて中国本土には持たないくらい、皆 仲良く平和に暮らせていたのなら 今のウイルスの流行は、無かった。―― 夢、それは、世界が仲良くしていることが、わかること。―― たぶん、希望の夢を見る人が多いほど、その70億の深みが みんなに 降りそそぐのです。 1人しか夢を見なければ、70億人全員が、1人分の夢しか 見つけることができず、70億人が夢を見れば、地球上の1人1人すべての人が、70億人の夢を 受け取れるのです。―― みんなが 仲良く居られれば、少なくとも それを実体験で 確信できれば、地球に 強力な夢があふれます。―― 形態形成と、夢のエネルギーの関係も、第3層で説明。 ―― 正しい未来は、皆が仲良くなることで 直観的に 得られるのです。―― 希望は、ウイルス終息 世界の回復 ―― 人間は意外と強いので、困難にぶち当たると その壁を越えます。 ただ、本気で 壁を越えたい と思わねば越えられません。―― たぶん、簡単な一手で、戦争は止まるんですよ。 方向性を見失っている、それだけです。―― 人間らしい〝こころ=夢〟の視点で、話し合う必然性 ! ――― 楽しく、生きてみましょうよ。 ―― 未来へつなぐ、現代人の、意地(≧▽≦)!!)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




〝希望の話(トーク)〟と〝世界の夢(ドリーム)〟

~人知れず世界を変えること💝~


私たちは、歴史を知っています。


私は、神戸から、小学校の時、新幹線に乗って、広島に修学旅行して、もみじ饅頭を買って帰りました。

そう。原爆ドームを見ました。

中学生の時、図書館で、バクマン。でも触れられている 漫画の〝はだしのゲン〟を読みました。

高校の頃は、県立高校で、化学を学んで、原爆が落ちないようにするにはどうすればよいのか、考えました。

その後、芸術家を目指して、今に至ります。


原爆が落ちた原因は、日のいづる国 日本が、軍国主義に走り、大量の兵器を作ったからです。

兵器に興味を持ち、それを世界に向けて放ち、大量の人々を、殺したからです。


その報復で、広島と長崎には、原爆が投下され、発狂しても意味など持てない、おぞましい大量殺戮が起きました。


そして、憲法第9条 が生まれたのです。


私たちの国は、アメリカを恨んでいません。

そういう世代だからです。

しかし、世界には、まだ古くない戦争を経験しているところが多数あり、色々な国の人々が、いろいろな別の国を恨んでいるのです。

または、民族闘争すら。

つまり、仕返しを望んでいる国々は、多いのです。


1945年から、もう、70年以上。

当時大人だった人々は、日本で生きていないので、軍国主義に加担した世代は、いません。

もし世界が、皆こうだったら、平和条約は、難しくないのに、と思いますが、残念ながら、憎しみは、生き残っています。

それどころか、日本人のモラルは、ネットの誹謗中傷で分かる通り、ある種、世界最低レベル です。


今、ウクライナが被害に遭っていることで NATOが兵器を提供しています。

その戦争兵器をも 解説し始めた番組が、日本で放映されました。


〝世界情勢と緊急特番 ~国際的平和とインテグラルマインドフルネス論~〟
 (2022 04追記の批判) も参照。


これは、反戦とは言えません。

このような番組により、日本の子どもたちが、兵器に興味を持ち、憲法第9条を改正して、戦争をし始めたら、すべては、終わります。

たぶん、あるいは、六日で、世界は、焼き尽くされるでしょう。


わたしは、〝人知れず世界を救う〟ことの重要性を、主張します。

クリシュナムルティは、私たちが社会であることを、常に強調してきました。

リベラルも保守も、自分が広い意味で〝無力〟だと思っていますね?

私は、違うと考えています。

現実的に考えて、〝一瞥して〟戦争が終わるような〝無行為的な勇気〟がなければ、世界は、あっという間に滅びると考えるのが、状況を見るならば、合理的と言えます。

今の状況で、合理性を使ったなら、核戦争の可能性を考えない人は、いないのです。

つまり、なんとかするしかありません

今それをやっておかないと、後悔する暇もないと、歴史は答えを出しているのです。


兵器の解説くらいしてもよいと考えているスポンサーは、儲けたいだけで、上記の危険性を、舐め切っています。

交通戦争を核兵器に置き換えると、営利に何の意味もないことは、誰でも分かります。


クリシュナムルティは、ケン・ウィルバーのインテグラル理論で言えば、〝第3層〟の高度で語っており、〝基底〟〝感受性〟〝自己認識〟〝無選択の意識〟などは、上側の個人の象限と 深くかかわっていることを指摘していますから、クリシュナムルティは、〝深度〟について語っている のです。

その高度では、〝社会はあなた〟であると、直接体験されています。

第3層は、第2層のようには、合理的に体験できないのです。

クリシュナムルティは、あらゆる人々に対して、時間を越えた解決策(自我の終焉)を説明するだけの〝ありとあらゆる問答に対応できる知恵=無選択的な体験〟を持っている人でした。

このような、証拠があります。

そして、その、真理の種子は、大人になるにしたがって、伝統でつぶされていく、と言い、学校も作ったくらいです。


この、第3層の高度は〝子どもの潜在性〟で説明するモデルが可能で、AQALに〝潜在価値〟を付与します。

第2層で主張されているように 深度のより高い存在が一番良い(より良い)のですが、それに加えて、第3層ではさらに、未生の子どもが一番偉い、と考えます。

これは、クリシュナムルティが主張していた、伝統の圧力と子どもの視点に、ぴったり重なりますね。

伝統の圧力でダメになった、独裁者の大人は、潜在性がズタズタであり、正しく深度を体現していないので、ホロンのスパイラルを損なっている、いわばガンです。

その独裁者が、インフラレッド(1)やマジェンタ(2)を信奉していたとしても、子どもとは何の関係もないのです。

これは、第2層の、スパイラルダイナミクスなどのモデルを、平等主義の グリーン(6) に説明するときに、役立つモデルです。

グリーンは感情を大切にして、子どもに退行しようとします(例:ブーメリティス) が、それは間違いで、感情を大切にするために退行は不要です。 潜在性を考慮して、理性的に、感情的に、子どもを大切にすればよいのです。

(※ この第3層の〝子どもの潜在性〟視点は、第2層の〝深度〟への理解がなければ、直接体験できません。 未生の子どもの後、中絶されうるプレ胎児、無防備に生まれた赤ん坊、わがまま幼児、やんちゃな児童、思春期の学生、と、深度に応じた 理解と 危機、潜在性のバランス、そして、未来により包括的な自己実現を果たすように導くこと、など、第2層の基本的な視点を含まなければ、子どもの潜在性は 深度の羅針盤を見失うので、定義・体験する意味を持ちえません。)



・ミュークルドリーミー みっくす! ~ホワイトな包容~


第3層の潜在性を納得できる、目に見える主張に、ミュークルドリーミーがあります。

このアニメは、2年ちょっと前には、まだ 公に 存在していませんでした。

この作品の視点が、今までにないものであること を見るには、少し、説明が必要ですね。


特に、2年目の、ミュークルドリーミー みっくす! に、その主張が、色濃く 実現されています。

みっくす! は、大人が見ても、おもしろくないはずの内容です。

つまり、第2層で言う、より良い、という主張に、頼っていないのです。

しかし、子どもがこのアニメを見ると、イラストを描きたくなるほど、真剣になるようです。

何が起こっているのでしょうか?


みっくす! は、子どもの、時間を越えていく〝非時間から見た潜在性〟〝伝統につぶされてはいけない可能性の価値〟を〝直接表現〟します。

それを、子どもが感じ取って体験し、対話し、おもしろい!と感じるのです。

この〝直接表現〟というのがミソで、子どもが夢中になっている姿を見て、あるいは、イラストから想像して、大人側が〝おもしろい!〟と明るくなれる。 ――― ここです。


第2層は、第1層に比べて、子育てがうまい、と言われます。

すべての波を知り、健全なスパイラルに 興味を持つからです。

皮肉にも?子どもの感情を大切にする グリーンよりも、より理性的に子育てができる ので、グリーンより 第2層の方が〝子どもの感情を大切に〟しています。

子どもの立場や視点が、見えるからです。


しかし、第2層は、より深いものが良い、という考え方です。

(その構造―段階は、無意識的です。)

なのに、ミュークルドリーミー みっくす! は、第2層の〝作風〟を使いません

子育ての領域で、第2層の〝すべてのスパイラルを健全にする子育て(8)〟が理解・実践できている のに、なぜか、深度主義を使わないのです。

こんなアニメは、今まで、生まれたことが ないでしょう。


ケン・ウィルバーは、〝新たな視点で 世界のあらゆる 未解決な問題が解決される 現実的な可能性〟を指摘しますが、まさに、第3層のことです。

この視点によって、独裁者が地球を支配するという矛盾が いかに〝おかしな〟ことか〝子どもが理解する〟ことができる のです。

ミュークルドリーミー みっくす! は、子どもが見ると、子どもは、独裁者の行っていることが、非常に酷いことだと言うでしょう。

(夢が無いからですね。)


ミュークルドリーミー みっくす! は、第2層以下のように見えて、第2層以上、の〝内的表現〟です。

クリシュナムルティも、その説明がくどいので、第2層だと思われがちですが、子どもの潜在価値を包括的に見抜く〝非時間的な基底〟を体験するので、第3層です。

何より、クリシュナムルティに、同じ目線で共感できる人物が いなかったことが、証拠です。


第3層は、子どもとの距離を〝深度ではなく 共通の潜在性〟という次元で〝保ち〟ます

〝深い方がより良くて偉い〟ではなく、〝深い方がより良いけれど、同時に、未生の子どもは より偉い〟のです。

未来に、第3層の より深い深度に到達して、誰も解決できなかった問題を、みなと力を合わせて解決する〝潜在力の非時間的基底〟を、見せてくれるから、です。

この〝子どもの潜在的基底〟を、第3層は 直接体験する のです。

第2層でこれは、合理的に説明できるけれど、合理的に体験はできない、のです。

ゆえに、スパイラルダイナミクスのようなモデルでは、深度の次元はあれど、潜在性の次元は おまけです。

第2層において、潜在価値は、〝非時間的には〟意味を持たなかったからです。


クリシュナムルティは、〝心理的な時間に関係しない 非時間的な基底がある〟と言います。

時間を越えたもの、それは、世界中にいる 予知能力を使える者たちが見ている〝最高の未来の世界〟は、クリシュナムルティに言わせれば、〝時間のないこの瞬間に 実現することができる〟現実 です。

いかにして、こんなことが、できるのでしょうか?

私は、原爆のような兵器は〝何の意味もない遂行矛盾だ(9)〟と主張します。

存在することは、ひたすら有害で、必ず自分が望まない形で牙をむくものだからです。

そのとき、自分の意図は、最初から無いことになって、兵器をどうこうするという判断も、無いことになるのです。


ドラえもんの世界で、悪の人物Aが、タイムマシンを悪用したとします。

すると、過去の世界では、Aが自分自身を、混乱させないと、復讐のために兵器を持たせることができません。

しかし、過去でAがすでに混乱していないのなら、時間が経った後の、未来のAは、過去のAに何もしませんよね?

では、Aの混乱と復讐心は、どこから来たのですか?


クリシュナムルティは、〝生と覚醒のコメンタリー〟シリーズで、あらゆる問題を 〝自我の終焉〟という 第3層の切り出し方として、解決して見せます。

これは、子どもでも 大人でも、潜在的には〝伝統からの圧力への 理解の チャンス〟が 平等にあるから で、必要なのは、深度ではなく〝基底としての、時を越えた自己認識〟なのです。

それができない者を、クリシュナムルティは、〝混乱している〟と言います。

ちょうど、上記の人物Aのようにです。

この世のあらゆる問題は〝心理的時間が作り出している混乱〟なのです。

それは、心理的な恐怖や抵抗、とも言えます。

これは、今の戦争に、そっくり当てはまります。

クリシュナムルティの著作は、ミュークルドリーミー みっくす! と組み合わせて見ることで、今までどうやっても理解できなかった〝自我の終焉〟という〝指示・実践・確認―パラダイム〟つまり、実践方法が、驚くように分かるかもしれません。

混乱とは、間違った時間を 自分で作りだした結果 だと、いうことです。


子どもでも理解・実践できるのなら、誰もが、独裁者を、否定できるはずです。

同様に、戦争と兵器についてもです。

復讐心が生じないなら、それら(兵器)は皆、存在する意味は、ありません


この、決定的だが、非常に簡単なこと に、もし気づくのが 間に合わなかったら、世界は 六日くらいで、滅びてしまうと思います。



・ リベラル[外面] と 保守[内面] の統合と 憲法第9条


ケン・ウィルバーは、〝ワン・テイスト〟で、〝善良性への回復[リベラル]〟と〝善良性への成長[保守]〟という視点を 日記に書いています。

人は、純粋無垢な者として 生まれるのだろうか? ということです。


すでに、読者の皆さんは、〝これ、形而上学だよね?〟と、気づいてくれたのではないでしょうか(笑)

ポスト形而上学(視点の視点)で考えれば、上記を問う必要が、まずなくなります。

潜在的には、未生の赤ん坊に、純粋性で敵うものは、ありません。

というか、競うことも、ありません。

そして、大人が子どもの可能性を 決めつけるというのも、リベラルではありません。


つまり、子どもは、リベラル[外面・社会制度]視点では〝純粋な天国〟――保守[内面・モラル]視点では〝単純な地獄〟にいる と言えます。

ケン・ウィルバーの上記の捉え方は、〝リベラル(5)までの外面+保守(4)までの内面〟の赤ん坊と子どもの視点 です。

無意識的な天国とか、意識的な地獄とか、そういった視点は、第3層から見れば、形而上学です。

より正しくは、赤ん坊(9)、子ども(9)など、内面と外面すべて、4象限やAQALと潜在価値から見た〝視点〟があり、本当の〝地獄〟を生きているのは、〝独裁者〟など、潜在性が崩壊して純粋ではなくなった大人です

子どもは単純ですが、純真です

――― そして、AQALです。

私は、幼いころ、絵本を見て、戦争はダメだな、と思いました。



・核なき世界! 兵器製造のない世界!


自転車のルールがカオスなのは、社会(クルマ)が 交通戦争状態だからです。

同様に、世界が戦争だらけだと、子どもは、兵器に興味を示すでしょう。

すべては、〝虚偽の混乱〟が〝基底と切り離されて〟蔓延してしまう状態が、潜在性・スパイラルの健全性を〝壊して〟しまうのです。

金儲け主義も、こういった戦争全般に加担します。


アイスバーグさんもハウルも、忘れたかもしれませんが、同じことを言っていて、聞き飽きていたはずです。

セリフではなく、事実として、理解しましょう。

誰が兵器を持っても、世界中が、広島と長崎に起きたようになります。

これは、断固とした事実です。

私は、原爆ドームに行きましたから。


世界の危機

その始まりは、ほんの些細なことでしょう。

脅しの核を使ってみれば、次の局面では、世界中が、核を打ち合っています。

兵器所持が、すでに、間違った打ち合わせなのです

防衛とか、報復とか、どんな理由であっても、どこかの国が 核を使った瞬間、世界は、反動的に核を使い続け、まるで自動的に、世界は、生きることを、あきらめそうです。

これが起こることを前提にして、これを、止めてください


遊戯王に出てくる海馬剛三郎のように、メディアを煽って?兵器をバラまくような会社は、現代では、簡単に、上記を到来させます。

企業のモラルが、尽きていれば、特に。

多くの企業が、売れれば 多少の兵器の話は仕方ない、などと思っていると、すぐに、地球は、兵器まみれになります。

防衛だと言えば、世界は、すぐに兵器を作れるので、子どもが兵器に平気で興味を持ってしまうほど、戦争状態が世界で悪化する頃には、何もかも、手遅れです。

真理の種子は、その前に、花開いておかねばなりません

もっと、聞く耳を持ってほしい、と言います。


生活のために仕事をしなければならない、というのは、矛盾でもあり、当然でもあります

それを言い訳に、兵器やダークな情報をバラまく企業は、最低です。

クリシュナムルティは、言いますが、〝本当にやりたいことをやるための、伝統の圧力につぶされない英知と感受性〟を発揮できるなら、矛盾はありません

あなたが社会だからです。

もし、矛盾や苦しみ、憎しみがあるなら、何かを間違えたのです。

時間という恐怖に囚われて、そのすべてを意識の外に押し出した、あきらめの自分が、いるのです。

それを当然だと思っても、つらさは変わりません。

そして、戦争を止める〝一瞥〟が、できずに、世界の滅びを 招いてしまいます。


つまり、企業にも言いますが、足りないのは〝根源的な危機感〟です。

不合理で嘘の混乱に、絡み取られて、事実を見るエネルギーが、ないという、危険な現状です。


繰り返しますが、常に問うてください。


〝どうすれば、戦争を終わらせることができるだろうか? その話し合いができるだろうか?〟




・世界のシナリオ ~ 私のシミュレーション ~


人知れず世界を救うには、時間を越えた、基底の一瞥が必要です

逆に、戦争をするには、計画的な悪しき意図 が かなりの原因で 付きまとってきます。


財閥は、兵器を作る資金を提供できるので 危険です。

アニメを悪用できる企業も、子どもや思想を操れるので スパイラルを大きく壊します。


北朝鮮は、ロシアと目的が違う ので、忘れられがちですが、この2国は、それぞれ、相手は知ったこっちゃないでしょう。

この2国が、全く、世界のことを顧みずに、突如、最悪のかみ合わせで、日本を襲撃してきたら、どうするのでしょうか?

あらゆる話し合いを、社会は行い、可能性を想定し、混乱が想定されることを理解し、虚偽を虚偽として見ることで、直観的に、どうすれば〝決定的な一瞥〟をすることができるのか、そこは、前進しておくしかありません。


たぶん、この話し合いだけでも、社会は余計に混乱し、それが、わかると思います。

想定が難しいなら、戦争自体をやめればいいのです。

私たちは絶対に戦争はしないので、考えなくてもいいように、解決しましょう。

それが、憲法第9条です。

前提として、戦争放棄が成り立たないから、戦争が起きるのです。


原爆は、軍国主義への報復です。

戦争放棄は、理論的にも、現実的にも、当然なのです。


それでも、戦争が起きたら、ブーイングするしかないでしょう。

形態形成の渦に、反戦運動します


予知があるとして、私的な近況から想像できたことを、直観的に話します


ウイルスが流行らなかったら、2020年の春には、世界は、核兵器で焼き尽くされ、30億人以上が この世を去っていたと思います。

(もはや、想像でしかありません。)

しかし、 どうにかして、第3次世界大戦は、永久回避しなければならない、 しかし、 ロシアや中国のような古代帝国国家、他にも 宗教的原理主義国など、多数ある現状で、核なき世界にならない現状は、とてつもなく深刻である と、誰でも分かっています。

それを、誰もが、平和になった、と思えるところまでに しなければならないのです。


予知によって、尚早に ウイルスを隔離成功した未来を 選び取ることは、不可能ではないと思います。

何らかのウイルスが発生することを 予防する類のものではありませんが、結局、丸2年を、軽く超えて、ウイルスは、流行し続けています。

これほど深刻な状況なら、回避する方法を、もっと 模索できたでしょう。

しかし、世界は、この歴史を選びました。


選ばざるを得なかった?


よって、ウイルスにでも 足を取られていなかったら、テロか、核実験か、何らかの理由で、世界は、大きな戦争に突入していた、と 思えるのです。


世界が最初から 平和だったら、ウイルスも 流行らなかったでしょう


人知れず、世界を救うにも、限界があるのです。

ウイルスショックが起きたのにも、文脈上の理由があると分析するのが、妥当です

誰かが流行らせたとすると、バカすぎるので。


これ(予知)は、もし本当だとしても、犠牲ではありません。

偶然です。

なぜなら、大きな戦争が起こる可能性は、深刻な状態のまま、だからです。


ここから、個人的な切り出しを、全面的に行います。

お付き合いください。


2年の時間。

2020年春から、2022年春まで。

この時間がどうしても必要だった理由は、アニメ・ミュークルドリーミーと、決定的に関係があります。


ワンピースには、ミュークルという登場人物が、以前に出てくるわけですが、この2年で、世界に、ミュークルドリーミーが届いていれば、皆、子ども含めて、独裁者の存在が〝遂行矛盾的である〟ことに、気づく可能性が、高いのです。

これは、まったく新しい人間用のOSを、インストールするようなもの です。

取説は、アニメの中に含まれています。


ウイルスショックの嫌な点は、子どもが危険にさらされることもですが、皆、気づかず、人が変わってしまうこと です。

おそらく 良い点は、テロが激減すること です。

これは、独裁者と言い換えれば、戦争の回避です。

プーチンも、実際、丸2年、引きこもっておりました。 (以前から独裁者では あったのですが。)

私も基本的に引きこもっていたので、人が変わるということは、理解できます。

脱線するかもしれませんが、豊臣秀吉も、変わってしまいました。 (理由は不明。)


これをさらに嫌な感じにしたのが、誰も気づかずに 混乱してしまったことによって起こる〝戦争〟です。

どんなことにも、原因があるので、世界大戦が起こったのなら、多大な混乱があった としか言えないのです。


リーマンショックは住居欲に類するものでしょうが、世界大戦も、意外に 信じられないような 生活の中での出来事が 歪みに歪んで 起きたんじゃないか、と思っています。


話を続けます。


2年の時間の中で、私の役割とは、何なのでしょう?

皆、自分の役割を問うことが 稀ですが、あなたが世界なのだから、問わねばならない ところです。



どうすれば、戦争を止めることが、できるのか?


やはり、私の場合は、これを書いていることで、と答えます。

何らかの、悪しき意図が、確実に、戦争をコントロールしているのだろう、と思いますから。

そのために、すみませんが、目に見えるものくらい、直観的に判断・批判します。


これを書いている私も、少し自信が無くなってきました。

つまり、誰もが、自分の直観を信じられない のです。

しかし、公にできる内容ならば、最低限の証拠も 提示する必要があるので、ある意味では、かなり信頼できると言えます。

直観は、基本的に、信頼してください。

独裁者は、結局のところ、自暴自棄になっているだけで、直観などないのです。



触れていなかったのですが、正しく ひきこもる方法 は、あります。

引きこもっている間を、回復のインターバルとして、何かのスポーツをするのです。

ロシアでは、残念ながら、自転車は難しそうですが、引きこもりたい=休みたい と思えるように!

決して、あの、セフィロスのようになってはいけません!!

(※本を読みふけって とんでもなく危ないやつになったwww)


独裁者って、話し相手、いるんですかね?


(わたしは、ほぼ、いませんが。)



・戦争を無くす方法!


祈りは重要ですが、祈りのパワーとは、クリシュナムルティ流には、書くこと!です。

基底と接した者は、必ず、書くそうです ♪



ウイルスによって、一番コントロールされているのは、歌手です。

ライブができませんから。


1人称×1人称、の芸術家は、ポピュラー歌手です。

文化的には、この勢いが押さえつけられるのは、世界のバランスが崩壊して、戦争が引き起こされるほどの、深刻な状況です。

ラプソーンが、喜びますわ。


これを、どう乗り越えるのか?

歌手たちに問われている、芸術と基底の在り方
、というわけです。

思いのたけを、光にして放出できない深刻さは、あらゆる人にまで、およびます。

あなたの上司が、ライブに行けなくなったことで、あなたの会社が大丈夫ではない状況になっていたり…しませんか??



・世界の夢 ☆彡


地球上に急速に枯渇したのは、化石燃料でも、お金でもなく、夢です


一つは、現代は、状態―段階 の実践が、おろそかにされていること。

そして、常に、戦争が起こっても おかしくなかった状態を、今、逃げ場なく、突き付けられていること。


わたしも ある意味 限界を越えていて、今年は〝限界をはるかに超える休息で とにかく休め! 極限を越えて コスト削減!何もするな!〟 という状態です。

何かが、確実に、底を尽きているのです。


それが分からない人は、多いです。

原因は、〝夢(ドリーム)〟ですから。


本来、ポップ歌手がライブで行って、皆、花火大会などで 分かち合い、国際交流にて、広い世界は、楽しみを披露しあうのです。


しかし、そのドリームには、〝限り〟があります。


普通の生活では、ほとんど尽きなかった、この夢は、状態―段階の基礎 あるいは特殊な実践で、浪費を抑えることができるのですが、現在は、無酸素運動状態です。

これでは、誰でも持ちません。


今まで行っていた方法で、2年持ちこたえられますが、3年目になると、もう、ないです。


色々連鎖崩壊して、あっという間に 社会に 表れ、なすすべなく 次の接続を奪います。

2021年は、自転車のパーツでしたが、2022年は、夢自体が、在庫切れ です。

夢って、どこで、会えるんだっけ?


誰もが、あらゆる発達ラインを、独立して発達させていますから、枯渇するラインは、あるのです。

私の場合は、人との社会的ふれあいの深いバージョン です。

ライブ活動と 花火大会などのイベントが 2年以上奪われた結果 心が狂ってきました。

そのうち、それを 認識できなくなりそう です。

狂ってきたことは、なるべく早いうちに、皆さん、まとめておきましょう

いずれ、役に立ちます。


この、ラインのアンバランスは、地球規模のスパイラルの不健全化に、そのまま相関します。

自転車のパーツが品薄であるだけでなく、製造しようという気持ちが枯渇している という風なことです。


もともと、2019年の時点で、中国が アメリカにウイルス研究所を立ち上げて中国本土には持たない、くらい、皆、仲良く平和に暮らせていたのなら、今のウイルスの流行は、無かったと思います

少なくとも、原因の究明によって、もっと、良いワクチンができています。

しかし、世界の仲が良くなかったから、ウイルスが流行りに流行った挙句、現時点で戦争まで起き、世界中の心が、傷ついているのです。


この現状を正確に洞察する気力を失っていれば、あっという間に、防衛と称して、世界中が、ミサイルの打ち合いという混沌の渦に 呑まれます。

もう、何も、考えられませんから。

そして、六日で、地球は、誰も想像しなかったくらいに早く、未来少年コナンのように滅茶苦茶になります。

文脈の話ですが、実際、短い期間で、こうなります。

洞察と、決定的に重要なこと を やっておかねばならないこと、その理解、が、大切な ポイントです。


もう一度言いますが、夢が枯渇しているこの状況 で、誰かがミサイルを打ったら、正気を失って諦め状態で 抗戦します。

後のことなど考えられないので、気づく前に、世界は、終わりです。

というか、所持しているはずの核が全部暴発して 地球のすべてが 終わると思います。

暴発も、考えなければ。


だから、核兵器は、ゼロにしろって言ったのに…。

原子力発電所だって、暴発するなら、兵器になるじゃん。

兵器がなければ、発電所は あってもいいのに…。


そう。


夢、それは、世界が仲良くしていることが、わかること。

子どもでも、潜在性の次元で、直観できるもの。



世界の争いを見ることは、2019年の10倍は 心身を病んでしまうものとなります。

体感でも、そのくらい、夢が、飛んでしまったのです。


たぶん、希望の夢を見る人が多いほど、その70億の深みが、みんなに、降りそそぐのです。

1人しか夢を見なければ、70億人全員が、1人分の夢しか、見つけることができず、70億人が夢を見れば、地球上の1人1人すべての人が、70億人の夢を、受け取れるのです。



だから、今は、形態形成場に、夢が無いのです。


みんなが、仲良く居られれば、少なくとも、それを実体験で、確信できれば、地球に、強力な夢があふれます

活字に夢が詰まっているわけではないのです。

解釈するにも、夢のエネルギーを使いますから


この、あまり見向きされない、形態形成と、夢のエネルギーの関係も、第3層で説明できて、予知のエネルギーも、その夢を使います。

正しい未来は、皆が仲良くなることで 直観的に 得られるのです

これも、こうして、説明できるでしょ?


希望は、ウイルス終息、世界の回復、でした。

現在は、ウイルス持続、戦争勃発

2年の約束 は破られて、地球から消えた夢は、目に見える形 で、絶望を見せます。


もっとも、こうした絶望は、クリシュナムルティに言わせれば〝虚偽の混乱〟で あって、幻なのです。

基底に属性はないので、実際は、夢が枯渇したというのも、幻想です。



ただし、そんなことは、悟らなければ、堂々と言えません。

今言いたいのは、多くの人々に〝どうすれば戦争を止められるか? どう話し合えるのか?〟という点のみです。


人間は意外と強いので、困難にぶち当たると、その壁を越えます。

ただ、本気で、壁を越えたい、と思わねば 越えられません。


未来を信じる意味を、その簡単な方向を、見失うだけで、困難に足を取られます。


たぶん、簡単な一手で、戦争は止まるんですよ。

方向性を見失っている、それだけです。



私が言いたいことは、このページに書いているタイプの視点を、議論できる環境にある人の少なさです。

このような、人間らしい〝こころ=夢〟の視点で、話し合う必然性 が、私たちにまだ、かなり残っているのなら、独裁者をも説得するつもりで、うらやましがられるように? 楽しく、生きてみましょうよ


それが、未来へつなぐ、現代人の、意地(≧▽≦)!!!!!
ラベル:AQAL
posted by インテグラルとど at 23:59| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2022年04月18日

クルマ・バイクは 歩行者・自転車に配慮できない? ~神戸の欠陥道(α)~

以前、〝(自転車線) 塩屋~須磨 の走り方〟を書きましたが、神戸が、交通凶悪な 阪神と言われる理由は、クルマ中心の道路構造・交差点の設計です。


神戸に限った話ではありませんが、一般に、30キロ制限は、一手詰めです。 (大阪辺りの はみ禁オレンジラインの峠道は 凶悪さが+10キロです。)

40キロ制限は、凶悪さの次元を一つ飛び越えて、3手詰めです。 (一番厄介なのが、避けて通れない、有馬口~有馬温泉)

50キロ制限は、オレンジラインの場合、基本的に、自転車で通ってはいけません。 ―― 5手詰めです。

この意味が分かりますか?

50キロ制限は、自転車は、登りでは無視されるし、下りでは、30キロという公道高速域で下っても、クルマは、ランニング程度の相対速度(時速数キロ)の壁を、楽々超える速度で、ぶっ飛ばしてくるのです。

自転車がクルマに追い越されるのに適する速度は、40キロ制限までの余裕のある道での登りか、自転車が時速20~25キロのときです。

歩行者に対して、急停車可能な ぎりぎりの速度です。

まず、5手詰めの50キロ制限は、正しい1手を選択することで、3手詰めになりますが、正しい手が直感できないほど、危険にさらされる選択肢が、はびこります。

おおむね正しくは、自転車は、50キロ以上で ぶっ飛ばしてくるクルマに対して、下りで30キロ越えで走り、25キロの扱いにします。

カーブでは、あれば白線が端として、さらに、左端1m以上、直線でも左端60cmは、開けます。 (対向車が通る、オレンジの中央線が 右の一つの基準です。)

わずかでも、クルマが、追い越しの挙動を見せると、(自転車側は) 5キロ速度を落として、数十センチ左に寄ります。 あまり減速が極端だと、クルマに後ろから衝突される恐れがあり、あまりにも端に一挙に寄りすぎると、万が一のすり抜けバイクに ぶっとばされます。

基本は、短い場合もありますが、直線で、クルマは、50キロを超えた速度で、ぶっ飛ばして追い越してきます。

エンジン音が変わるので、ミラーで注意しながら前を見て、耳で聴いてください。

交通量が多すぎれば、アウトです。 車道は、走れません。 (裏道もなく、車道しかない前提で話してます。)

横道や施設のある場合は、歩道があるはずですが、なければ、走行は さらに危険です。

免許不要、つまり、基本、持っていない自転車に対して、50キロ制限の片側1車線のオレンジラインは、自転車原則車道の希望を、完膚なきまでに叩きのめしているのです。 (何とかしろよ、行政。)

おおむね正しく、1台目をさばくと、一定のシチュエーションで、2台目が後ろに来ます。

この2台目は、車間距離を取っていないやつだと、自転車は急に現れることになります。

1台目が、わずかでも減速すれば、大体、2台目は、自転車か原付が、前にいることは予測できますが、自転車は、追い越されると端に寄って減速するので、原付に比べて、急に現れる、最たる車両となり、クルマが、車間距離を取らない=自転車ぶっ飛ばす と言えかねません。 (これを普通にやるのが、現状。)

2台目は、1台目が わずかに減速することで、減速します。

あるいは、1台目自身が、後続車を恐れず、減速する場合もOKです。

こうなると、3手詰めの、40キロ制限のシチュエーションに持ち込めます。

40キロ制限でやっと、時速20キロちょっとで走って、クルマを、ある程度ブロックできるようになります。

対向車が来ない直線で、対向が50キロ制限のままとはいえ、タイミングを見て追い越させやすくなります。

追い越しでさらに速度が下がっても、後続の速度も下がるので、徐行するか停車するか、再加速するか、道の形状と、後続車の有無で、判断できます。

まったく退避場所のない道は、クルマをブロックし続けた方が、無難です。

最終的に、見通しの良い直線で、クルマの速度が30キロになったら、おおむね、一手詰め、ゾーン30同様、ブロックが可能になります。

さすがに、30キロまで落ちたクルマが、カーブ中に50キロまで加速して自転車を追い越すのは、稀です。

そうしたければ、速度を落とさないでしょうから。

このように、たった20キロで、自転車は、生か死か、その運命を分かつほど、これが お判りいただけたでしょうか?

片側2車線では、クルマが右車線へ行けないシチュエーションでは、自転車は、外側線が広くない限り、車道は走れません。

(危険でやむを得ないときは歩道を走っていい=危険でやむを得ないときは自分の判断で歩道を走らなければならない。)

(後で触れますが、長田の例の交差点は、自転車通行帯は、アスファルトの表示が消えていますが、信号の手前で歩道に上がらなければいけない表記です。 自転車にとって、歩道が部分車道扱いになる場合があるのは、県道のサイクリングロードなどでおなじみです。 車道であっても、狭い道等で、歩行者がいれば、ほぼ歩道状態になります。)

兵庫県のサイクリング(ロングライド)で、歩道のないオレンジラインの50キロ制限を走る機会は、あまりないかと思われます。

裏道か歩道があるからです。

該当の条件で、車道を走らざるを得ない場合があるのは、県道12号の歩道のないところ、場合によっては走っている可能性があるのは、県道38号の神戸市側です。 (県道38号は、三木市側は40キロ制限です。こちらの方が交通量があって退避もやりにくい分、比べる意味はないですが、車道は危ないです。)

50キロの道でも、青野ダムから北へ延びる県道308号線(片側1車線区間・裏道のない部分)のように、交通量が少なくて見通しが良ければ 危険ではない道もあります。

あるいは、回避 (迂回) 必須の、県道37号狭路区間(40キロ制限・切詰峠)もあります。

北摂里山街道(40キロ制限・交通量多い)も、有馬口―有馬温泉以上に、危険な道でしょう。

また、丹波市から丹波篠山市に抜ける、(春日~栗柄~宮田川) のルートは、道路拡張によって貫通して、該当の50キロ制限で、歩道がありません。

(危なくて、自転車ナビラインも引けないでしょう。)


このように、一般的に、50キロ制限と自転車を取り巻く状況も含めて、阪神エリアとして道路設計されている、神戸市の身近な交差点において、欠陥だと思われる個所を、歩道側の、歩行者・自転車視点で、報告します。


交差点の箇所の説明は、いきなりざっくり、になります。 ご了承ください。

(2022 04 時点の現状です。)


〝友愛のまち北須磨団地〟と書かれた側の歩道から、青信号になったときに渡ると、白川台側から走っている右折車線の車やバイクが、突っ込んできます。 (※交差点自体は嫌いじゃないけど・・・。)

これは、青になってから片側2車線で 白川台側へ行く対向自動車が走行してくるタイミングに ラグがあるからで、白川台側からきた右折車両は、対向車の途切れるタイミングを待たずに、青になった瞬間に、反射的に右折するのです。 歩行者自転車がこれを食い止めるのは、対向車がこぞってやってくることもあって、該当車両も本気で右折してくるので、死ぬほど危ないです。

奴らは、歩道のことなど全く見ていません。交差点に突き出た右折ライン構造になっているので、なおさら、歩道は、死角にあります。

この交差点の対策は、青になる瞬間に渡り始める場合は、白川台側から来た右折ラインにいる車両を観察し、突っ込んでこないか見極めた後、歩行者を先に行かせつつ、徐行します。

正面側から左折してくるクルマ等も来るので、できるだけ(横断歩道の)車道側を通らないようにします。

歩道に乗り入れるときも、歩行者が通っていないか気を付けます。

押してもよいです。

(この交差点だけではなく、次に紹介する交差点ですが、確実に、危険でやむを得ない道、に当たります。 ママチャリが車道を通るなんてありえないと思います。)


〝離宮道〟〝65・21・65〟と書かれた看板のある横断歩道を、西から東へ渡るときです。 (※交差点自体は嫌いじゃないけど・・・。)

この横断歩道は、青になった直後に渡ろうとすると、正面から片側2車線でクルマ等が発車する直前に、歩道から見て左側の死角から、クルマ等が、最悪のタイミングで突っ込んでくることがあります。

おそらく、信号無視をしているのだと思いますが、そうであってもなくても、とても危険な構造です。

グーグルマップを見てみると、高速道路出口側から坂を下ってきた片側2車線のクルマ等は、2車線目の右車線から、直進1と、直進2が、できるようです。

そしておそらく、クルマが多いので、前方のクルマが死角になって、信号が見にくいのでしょう。 (確実に見えているのか そうでもないのかは 断言できかねます。)

直進1は、そのまま直進・右折。 (ここでは直進のみを指します。)

直進2は、さらに左(東)にある道を、直進。

直進1の先の道路と、直進2の先の道路は、南の海側へ向かって、並行している、と言ったらいいでしょうか。

直進2が問題で、一度左折して勢いをつけてから、さらに、右折する構造です。

信号ぎりぎりで、対向車に注意しながら、東側へ向かう歩道の対象が 見えるわけがありません。

歩行者自転車が車道側を理解できないような 構造になっているわけです。

直進2は、歩道で青になったら、赤なはずですが、まるで、後ろから来た車両が右折するような状況です。

しかし、先の例と違って、まだクルマ等が来ていないときに右折するのではなく、クルマ等が発車するタイミングで、停止線ぎりぎりを右折する動きをするのです。

最近、運転がさらにおかしくなったのか、歩道側青信号で突っ込んでくるクルマをよく見ます。

冗談じゃないんですけど。


こちらの対策も、左側に注意を払い、また、正面から左折してくるクルマ等にも対応できるように、徐行するのがベストでしょう。


通常の道では、青信号時に、自転車が歩道上を先行できる構造になっていて、右左折車より早く横断歩道を抜けられるので、そのタイミングを覚えがちですが、上記の例1・2は、これで正面のクルマに注意を払って行っても、左から突っ込んでくるクルマ等がいる以上、危険です。

しかし、歩道側から道の構造が分からないため、見落としがちです。

これは、車道側にも言えて、歩道を通ったことのないドライバーばかりでしょう。

クルマたちの危険運転が原因なのか、道路構造上の交差点の欠陥なのか?

郊外ではシンプルな交差点が多く、片側2車線でも恵まれている状況の中、阪神などの都市部で見られる、特殊な交差点は、自転車原則車道をあざ笑うかのように、歩道側の認識を裏切ります。

さらに、身近な交差点を挙げます。


神戸線高架沿いで、西側の兵庫駅側へ向かうときに、2ラインとも左折できる交差点があります。

ここは、右車線が直進しかできなければ、自転車は、車道を通れるのですが、そうなっていないことで、目も当てられない交差点です。

無理やり抜けると、右を走るクルマやバイクが、どのような動きをするのか、予測不可能になり、信号待ちにおいて、右に車両が来たタイミングで、車道を走るのを あきらめなければなりません。

一応の対策はあって、まず北へ、次に西へ、横断歩道を渡り、信号待ちで時間はかかりますが、さらに南へ、車道へ、というコースが、一番、ごちゃごちゃしません。

あるいは、後続車が途切れてから、対向車が右折してこないタイミングで、直進できれば、直進すればいいのかもしれませんが、後続車が左折するときに 横断歩道に引っかかっている、対向車が溜まっているという構造上、私は 基本的に、やりません。

付記しますが、南側の横断歩道は、待機すらまともにできないので、日中に渡ろうという気になれません。


他には、長田の例の交差点 (大開通りの西に位置する) は、歩道が青になったとき、車道は直進のみできる構造になっており、ゆえに、自転車は歩道に上がらねばならないようになっています。 (左折レーンを通って直進できないため。)

この交差点では、横断歩道を渡っているときに、右左折車が突っ込んでくる危険がありません。

先ほどの例1・2では、まったくそうなっておりません。

(できる構造でもないでしょう。 しいて言うなら、例1は該当の右折を、例2は該当の直進を、長田の矢印信号のように制限すれば、何も知らない歩道側の人々の安全が、守られる・・・のかもしれません。 しかし、例2は、直進2自体を不可能にしない限り、矢印では無理なのではないでしょうか。 あるいは、信号のタイミングに余裕を持たせるか。 また、直進2の道は、一方通行にされると、自転車がちょっと困るのですが、東側からくる車両が左折できる構造のままにすれば、直進2を無理やりやろうというクルマ等が出てきて、やばいことになるかもしれず、というより、北行きのみ片側2車線にすると 右左折できないだろうから、その発想もなさそうですね。)


そもそも、クルマ側が、これをやらかしている時点で、一般道を なんだと思っているんだ、と思います。

高速道路のカオスを、一般道に持ち込まないでほしい。


クルマは、カーブで前の状況が分からない高速道路を時速120キロくらい?で走れるのだから、確かに、片側1車線で60キロくらいなら、平気な顔をしよう、という発想になるのでしょうが、歩行者自転車側から見ると、ただの理不尽な暴力です。

自転車で、時速25キロは、かなりの高速域であることが、120キロ出せるクルマどもに 分かるわけないのは わかっていますが、ゆえに、高速慣れしたクルマが、一般道に はびこるのは、ジャマ以外の何物でもありません。

高速道路の制限速度を引き上げる前に、一般道に完全自動運転を普及させる方が先です。

結果、狭い歩道を、時速25キロで走る、アホな自転車の誕生です。

ロードやクロスで、車道を走れない区間、歩道を徐行しないのは、果てしなき迷惑。

自転車は、決して1列になって走らず、たとえ、時速が1キロでも違えば、追い越そうとします。

理解に苦しみます。

クルマは もっとひどい。

自転車がどういう状況でも、とにかく追い越す。

対向車がいないと右に膨らむくせに、いると、右に膨らまないのに、追い越しを優先する。

マージンは、学校の起立礼着席ですか?

いや、それすら、心を込めている子どもは、いるやろ。


今日は、ここまでにしますが、たしかに、この理不尽な道路交通は、直感を磨いて、研究するには、持ってこい…かも。

posted by インテグラルとど at 11:13| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2022年03月28日

誰も追いやられない社会 誰も見たことのない時代 ~本当のティール革命!~

紀元前の、帝国主義(アンバー)の時代、少数の、合理性(オレンジ)の波を、世界平和に役立てる人々がいました。

ソクラテスも、その一人でしょう。

キリストなどの聖典の芯の意図は、第3層(インディゴ・ホワイト) の波から書かれているようなので、これは、驚くにあたりません。


私が思うに、紀元前の帝国主義を成り立たせることが、当時、世界平和につながったと考えられるのです。

今でも起こっている、国としての部族間の紛争。 難民問題。

レッドの波によっては、まとまることができなかった、新たな問題、より大きな人口が、世界規模でまとまる 緊急の課題が、紀元前には、見えてきたということです。

映画の、テルマエ・ロマエが主張することでもありますが、基本的に、市民は、戦争のない世界を、平和を望んでいました

(平和じゃなきゃ、リピーターとして、温泉に入れないため。)


アンバーの波は、電池を信じません。

(紀元前に、電池はあったそうですね。)

隣の人、世間、移り変わる季節、話題の話は、信頼します。

ということは?


当時、紀元前、オレンジの波の人々は、世界平和を実現するため、アンバーの国民に対して、アンバーが、オレンジの説得力によって、怪しい波ではないことを、公ではなくても、形態形成に、元型に、証明する必要があったのです。

この道、夢の世界が、やがて、多くの市民を、安全に、レッドから、アンバーに、健全に歩ませる、社会の接着剤になったのです。


オレンジは、世界平和のために、人類が平等であることを、知っています。

しかし、アンバーの波は、世間のブームを信じるので、私たち隣人が平等であることを、その合理性を、ヒーローに、語らせます。

これは、現代社会のアンバーにも、わりと、そのまま、あてはまります。


ヒーロー(5)は、アンバーの波が正当で良いことを、レッドからアンバーへ成長する潜在性を持つ市民(3)に、説得力を持って、訴えます。

温泉に入り放題だとか、言うんですよ。


ここで、ヒーローの語ったメッセージは、現在の考古学では、〝神話(4)〟と呼ばれます。

実際には、意図(5)がありました。


アンバーが、神話―合理性、と言われるのには、ちょっとばかし、不可思議な理由が見えます。

まず、現代の子ども、例えば、のび太君は、ちーたん みたいな恐竜を育てて、豊かな感情を、成熟させるわけです。

アンバーの子どもは、基本的に、周りの友達に、感情的に思いやりを持ちます

そこは、合理性というよりは、感情です。

では、合理性は、どこから来たのでしょうか?


現代の子どもは、合理性を持たせるために、オレンジに成長すればよいので、潜在性が アンバーで 最先端だった 紀元前こそ、次にやることは、合理性を強化すること、であったと思われます。


紀元前、アンバーに目覚めた市民たちは、世界が平和である理由を、ヒーローのメッセージが 合理性を使っていたために、そのお墨付きを、世間のブームの範囲、自分たちが認識できる範囲で 合理性を使い、人々が平等であることを、納得できる理由を強化しました。

奴隷制には無意識ですが、合理的に、人間とみなせる存在は、平等である理由を、幾度にわたって、証明し続け、結果、神話―合理性、という意識が、形態形成から表層構造として、できたのです。


しかし、啓蒙主義が起こった、ルネサンス以後、ビッグスリーは、乖離しました。 スピリチュアリティのラインは、焼失します。


なぜなのか、今見たように、考えてみましょう。


ヒーローのメッセージ(5)は、健全的な神話(4)として、合理的に機能します。

神話は、表層構造こそアンバーですが、実際は、深層的に、啓蒙主義なのです。


紀元前の啓蒙主義 は、合理性を使って、人々を、世界を平和にすることでした。

これが、神話の、本当の意図です。


ルネサンス以後の理性の革命は、この、ヒーローの意図と仕事(5)を、破壊しました。

よって、アンバーまでの市民が、合理性(5)を、世界平和に使うすべが、なくなったのです。

当の理性そのものが、理性の最初の革命を、壊した のが、理性の革命です。

これが、ビッグスリーの分離の正体です。

クリシュナムルティが言うように、人類は、もっと前に、道を間違えているのです。


ここで、理性の革命、中世から、近代になった時代、先ほどと同じことが、起こっています。

ティール(7)、つまり、第2層の波が、オレンジ(5)の構造に、お墨付きを与えて、アンバー(4)の国民たちを、安全に リベラル化する、ティール革命が、起きたのです。

ティール革命は、近代に起きたのです!!


つまり、近代に起きたのがビッグスリーの分離なら、現代待っている、大規模なティール革命も、そのまま、失敗が、流用されるのです。

例えば、(ティール、グロス) を悪用する、大企業の代表取締役。


ケン・ウィルバーは、啓蒙主義の時代に〝しばしば、第2層の主張を使っていた〟と言っていたはずですが、ティールは〝内在価値・深度がすべてだ〟 という主張です。

つまり、〝深度絶対主義〟なのです。

〝統合的なマインドフルネス論〟では、〝第2層の成り立ちは、誰も抑圧しないこと、その社会は いまだ誰も目にしたことがない〟と言いますが、実際は、これは、第3層の主張を、根拠にしているのです。


話は戻りますが、ティールは、〝優れた深度を持つ者が偉い〟という主張をします。

(ある意味、グリーン(6)が、ティール(7)を、拒絶するのは、これに説得力がないからです。 インディゴ(9)によって、潜在性の主張で、これを補強する必要がありますが、後に見ます。)

※ ケン・ウィルバーは、〝良い理論とは、それより良いものが生まれるまでは持ちこたえられるもの〟という風に 定義したことがあるらしい (〝万物の理論〟参照) です。 つまり、本人も、このコーナーが書かれることは、肯定していますので、その点は、ご心配なく。




この、〝優れた深度(7)〟は、啓蒙主義の近代の翻訳の際に、〝優れた業績(5)〟というお墨付きであると、みなされました。

つまり、ビッグスリーの乖離は、〝どんな深度の人間であっても、業績の優れた者だけ、結果が出た実力のある者だけが、優先的に評価される〟 深度は それに関係ないに違いない、と合理化されるに至ります。

これに、多大なダメージを受けたのが、ルネサンスから、さらなる勢いをつけた、芸術たちです。

意図(n)が 消し去られていますから。

現代のアニメが、子どもを強調するのは、第3層の潜在性の主張で、このティール革命を救おうとして、もがいているからです。


実力と深度は、同じものではないので、悪用によって お金を稼いでも、企業は、実力があると みなされます。

深度が低いか、歪んでいるゆえにできることです。


神話が、合理性によって強化されたのと同じように、現代の企業は、(ティール・グロス)によって、資本を増やすことを、強化しております。

これが、近代に生まれた 株式会社の正体であり、近代のティール革命の、慣れの果てというわけです。

ティール革命が、既存のオレンジを ただ否定するだけなら、前回のアンバー否定の問題をも 抱えながら、さらに状況は悪化するでしょう

今、世界が滅亡の危機に瀕しているのも、間違ったティール革命が、原因かもしれないのです。


次のヒーローは、第3層(インディゴ・ホワイト)ですが、これは、予知(潜在性のおえかき) の基礎が、お墨付きを深層的に与えられたときに、形態形成として起こります。

第3層は、子ども、それも、まだ生まれていない潜在性を、4象限保存した上で、頂点とします。

これは、第2層の、深度の法則を理解しないと、絶対に たどり着けません。


マジェンタ(2)の家族主義、レッド(3)の個人保護、アンバー(4)の集団主義、は、いずれも、子どもの構造に似ている(同じ波に同一化している)ので、白人の子どもが周りの白人とばかり仲良くしているから、人種至上主義は正しい、とかいう、頭のおかしい聖戦に、使われます。

つまり、子どもは、病んだ大人たちに、聖なる存在として、悪用される触媒、根拠、その萌えとして、使われています。

これは、子どもというか、人類とその潜在性を、破壊する、許せない数々の行為であり、オレンジ、グリーン、ティール、ホワイト、いずれにも、説得できる、やめさせなければならない、闇の活動です。


こういった、まちがった、子ども崇拝主義、つまり、病んだ内なる子供、破壊されつくした灰色の潜在性の燃え跡地に、自他の内なる子供の燃えカスを、復讐に仕立て上げたもの ・・・・・・・・ とは違って、本当の、潜在主義(9) があります。

予知(9)があることを示して、ティール革命に、本当の説得力を! グリーン(6)たちが納得できるように、子どもや感情を第一に考える、第3層の説得力を詰め込んだ、ティール革命(7)に、バージョンアップ(9)するのです。

グリーンは、この、病んだバージョンを、普通のティール主義では、深度認識できないので、ティールを拒否します。

グリーンを、病んだ崇拝主義の解体エージェントにするには、第3層の、潜在性の主張で、ティール革命を主張する必要があります。

ミュークルドリーミーは、この、第3層のティール革命、第2層の啓蒙主義、理性のアンバー、といった、歴史的なホラーキーのバランスを表現した、今までに無かったアニメです。

これが、ケン・ウィルバーの言う、〝誰も抑圧されない、まだ誰も目にしたことのない、ティール革命後の社会〟です。


ここで、進化に対する、内化を考えます。


第3層、ホワイトは、第2層のティール革命を、バージョンアップし、それにより、ビッグスリーの分離を訂正して、差異化に作り変えます。

すると、第2層の啓蒙時代のヒーローの意図は、復活し、アンバーまでの波が、健全にオレンジに向かい、しかし、オレンジを押し付けないという、リベラル教育の課題が、世界規模で、復興します。

企業にも、政府にも、芸術にも医療にも難民にも、直接の影響があります。

これにより、紀元前の理性のヒーローが願った、世界平和のルートも、再び機能します。

レッドやアンバーなどが、神話によって、理性を理解する道です。

圧力なべのふたの除去、コンヴェアベルトの復活。

これらすべては、ホラーキー内で、世界線として、同時に生起し、瞬間的に起こり、内包されます。


再び、進化に戻ります。


いわゆる、大人の保守派は、自分たちの行っている行為が、世間から争いを無くすことに競合する、合理性に欠けた行為であることを、認めます。

それは、即、オレンジへの成長になります。

そして、どこの国の保守派も、同じ現状であることを、理解します。

オレンジが安全であることが、より証明されることは、オレンジが、スピリチュアリティを包み込む波 であることになります。

子ども時代の豊かな感情は、紀元前の理性のヒーローによって、合理性と つながるはずでしたが、近代によって、その道が絶たれたアンバーは、落としどころが無くなった感情を 復讐とテロに向かわせ、社会主義の主張もそうなっています。

これが緩和され、感情がオレンジに包まれて、啓蒙時代のティールなヒーローの、〝アンバーの感情よりオレンジの感情のほうが良い〟ことが、定立されます。

すると、その感情は、グリーンによって、赤ちゃんや子ども、動物に広げられ、現代の、第3層のヒーロー、〝潜在性と健全性のホラーキー〟の広がりは、容易となり、健全性に包まれた、ティール革命が 起こります。

そして、このティール革命は、(ティール・コーザル) や、(ティール、ノンデュアル) であり、潜在性と健全性に、みゅーちゃん(⋈◍>◡<◍)。✧♡ っぽいものに 支えられた、形態形成、社会の接着剤になります。

この、天国というか、空の夢の世界(アビス)を、地上に降ろして浸透させる、第3層(ホワイト)の実体験が、今の、厄介な戦争を終わらせる、直接のカギになります。


赤ちゃん、子ども、まだ生まれない存在、こういった、スピリチュアルな対象 に、私たち自身の身で、トンレンや、観想、座禅の棒などの、祈りと修業を 加えることもできます。

もし、あなたが、何かに身を溶かして働きたい、聖なる 馬車ウマのようになりたい、と思っているのなら、その思いを、説得力を持たせて、言える時代が 来たかもしれないです。


私見ですが、社会主義国などにも多い、保守派は、この、赤ちゃんなどの潜在性に対して、自分を明け渡す社会が来てほしくて、それができないから、テロを起こそうと 思うのではないでしょうか。

資本主義は、子どもより大人の方が偉い、という主張が、まだ、勝つようにできているので、そこが気に入らないのだと、言えなくはないのです。

というか、本当のティール革命によって、この 保守派の隠れた衝動に、保守派 自らが気付くのではないか、と思います。

理由は、アンバーの波が好きだから 固着(中毒)しているのであり、しかし、そのことに無意識なので、オレンジの理性と感情へ移行すれば、その理由が明らかになりそうな気がします。


もしくは、生物圏に近接した、母親的な無償の愛と、人間としての魂のバランスが、デリケートな問題であり、その方向性を、啓蒙主義が神話とともに壊した結果、上記の、潜在性への畏敬が働かなくなって、今に至るというのも、視点として 分かります。

神様は、潜在性の子どもは、わたしたちに、聖なる機能適合をしてほしいのです。

子どもたちは、裁判官で、神様で、優しいたましいで、社会の公の場で、自分を明け渡して、子どもに納得してもらえるように、役割を果たしているかが、見られます。

政府ではなく、子ども、です。

これは、小学生が、知恵をつけてきて、ああそうだ、赤ちゃんが偉いんだった、と言うに等しいです。

小学生が一番聖なる存在であるという、不合理な主張も、成り立ちません。

赤ちゃんは、中絶されることがありますが、生まれていない存在は、その潜在性が 一切深度に変わっていないので、失われることはありません。

それを、宇宙の、Kosmosの法則だというなら、こういった、非時間、無空間は、第3層の波が、コスモスの運動として直接体験するものであり、確かなお墨付きを、形態形成として与えることができます。




ちょっと、世間的な、砕けた話も入れます。


最近の、制服を着て制服を否定する、制服好きのアイドル、は、保守派の複雑性を言い当てていると思います。

セーラー服が軍服であり、現在、いわゆる戦争が起きている、という遂行矛盾も、関係するかもしれません。

潜在性と健全性、子どもや赤ちゃんが、一番聖なる存在なら、つまり、偉いのなら、それは、時間に対して、非時間的な何かを 基準にできるということです。

クリシュナムルティが、基底、と言っているものです。

ここでは、深度がある大人の方が偉い というルールではありません。

さらに、病んだ大人がよりダメ という相対的なルールもあります。

聖なる子どもは、制服が似合うか、その潜在性を持った若さがあります。

制服は、自分を、社会に表現する、トラウマを越えて 夢のように自由にふるまう、ことを意味し、いじめを否定せず、そこから自由でいる修行です。

学校時代が一番楽しかった、と ぼやく大人が あまりに多いのですが、その多くは、物言わぬ保守派として 生きており、本当は、何か重大な違和感 がありながら、それを抑圧しています。

日本のアニメに、制服姿の子どもが、聖なる存在として描かれているのも、何か、潜在性を活用しきれず賞味期限切れにしてしまったことの、直接の喪失感が、根拠でしょう。

どうせ いじめられるなら、かわいい制服の学校が良かった、と、保守派が考えがちなら、今の啓蒙主義は、豊かな感情を抑圧する リベラル教育を行っている、とも考えられるかもしれません。

そして、アニメオタクが、安易に、軍隊もののアニメ萌えに走るのも、この、薄っぺらい形式性が、ビッグスリーの乖離とともに、大失敗しているからです。

いじめを無くすには、いじめを体験して理解する必要 があります。

しかし、リベラルには、いじめをしてはいけないため、いじめをなくす方法もわかりません。

たぶん、もっと昔には、そういったルールがあったのですが、神話と一緒に、すべて捨てられたのでしょう。

保守派が作るアニメは、いじめの存在を前提として体験するものばかりなので、複雑な成長を必要とする私たちは、健全性をとらえて、もっと単純化できる 進化と関係の道を、探るべきです。

想像力が豊かな人は、子どもが聖なる存在で、社会的に偉い設定で、色々、構想体験できると思いますが、現代社会は、ビッグスリー自体が破砕しているので、肝心の、第2層をも超えた潜在価値、という、非時間的視点で、子どもを体験する空想は、困難です。

下手な勘違いの妄想にしかならず、それが、また、フラットで 意味のないアニメになるだけでしょう。

いじられキャラの視点も複雑ですが、ブルマは確かにジャコとうまく 意味のある コミュニケーションをしているので、リベラルの世界にも、感情が受け入れられないわけではないのです。

というより、多くの市民は、アンバーまでの感情しか、スピリチュアルには、受け止めることができない、と言えます。

いずれにしても、子どもが聖なる存在であるという視点は、直感的に正しいですが、ほとんどの解釈は、悪いです。

子どもを何らかのネタにして売る、そこから抜け出ていないからです。

ソックスのあかりちゃんのために、会社をやめるパパは、すごいです。

潜在性と健全性、非時間性を、うまく包括していくバランスが 回復して、創発が起こり続ければ、皆、何でこんなことに気づかなかったんだろう、と思うのでしょう。


ポケモンの〝ジ・オリジン〟では、サカキ (たぶん買収癖のある代表取締役のこと) が、レッド (子どもの主人公) に、大きく影響され、人生をやり直す決意をします。

これは、潜在性(9)の考え方、深度絶対主義(7)ではない、バージョンアップしたティール革命、を、感じているのです。

初期のポケモンのアニメも、第3層の意図で、ティールの〝誰も抑圧されない、まだ誰も目にしたことのない社会〟を、描きなおしている、と言えて、予知、予感、しゃべるニャースで 潜在性、など、いろいろな意図が、入っています。

このように、直感的に、ビッグスリーの乖離、感情の否定に、危機感を覚えている、グリーンやティール、ホワイトは、ポケモンを支持することで、何かを待ちたいのです。


ミュークルドリーミーは、シナリオに〝深度・心圏〟形式を使わず、大人が見て面白い内容、(例えば、ジュエルペットサンシャイン) ―― その技法を使用しない、という制約で、2年、続きました。

これは、直接、ホワイトのことを、言っています。

アニメに、多数の、おかしな定立がある中で、頼れそうなものすべてに頼らないようにしても、それでも、イラストが届き続けるようなアニメ は、優れているのです。

これは、深度が優れている(7)という判断によっては、理解できないことを 分かったうえで描いた(9)、という、複雑に入り組む世の中への メッセージ です。


今回報告することになった、これが、先端の、第3層の構造です。
posted by インテグラルとど at 12:22| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする