2019年04月05日

インスピレーションの神聖と〝消費者サイド〟 ~著作と社会交流と〝今〟~ ②

芸術家は インスピレーション(イン・スピリット)という〝決して売ることのできないもの〟を形にします。

それは、多次元的な〝未来の出会い〟を含む〝意図〟かもしれないし、〝本人のみに閉じられておらず、深くは運命につながっている程のもの〟です。

統合的実践の各バージョンでは〝強烈な実践〟となるものです。

一期一会です(・∀・)


一期一会は、僅かな期間の出会いにすぎないのではなく〝そのやや長めの一瞬を信じてコミュニケーションに移すことで 一生ものの運命の関係を築けるほどのイベント〟です。

芸術家は、活動と著作によって、この〝一期一会を引き寄せる〟のです。


政治と行政も ここを理解して、誰しも

じゃましてはなりません(・∀・)

もちろん、まがいのダメな方の芸術擬態(のナチスのような運動)は〝リベラルな芸術家同士の合意によって完全に拒絶〟されますから、大丈夫です。

(それ ―とても歪んだ主張― は、公共の福祉により じゃまされます♡ ―― それが真正の芸術家に対してウイルスなんだよと反転主張しても、絶対通りません! マジですよ☆彡 やめときなさい(^^♪ ―本当の広義ポストモダン・アートは すごいからね。)


話は進みます。


神聖なインスピレーションは、芸術家の〝権利/責任〟です。 後の世代にも継承されます。

その責任(芸術家と言う魂の普遍的ネタばれ)を〝あまり知らない人々=別の責任を引き受ける人々〟に対して開いていく活動が〝芸術作品という形にして売り物にする〟ということです。

別分野への対話とも言えます。

これは、芸術家同士の〝作品の広義の引用を含むコミュニケーション〟とも違います。

より一般の広域の人々に対して〝売り物にすることで市場のシステムをサポートし 作者を通した売れない神聖なインスピレーションに対する責任と分けることのできる 自由な鑑賞の領域・方法を提供するよ〟ということです。

鑑賞者(ファン・購入者)は、〝売れないインスピレーションを神聖に洗練させ守ること〟ではなく〝自分たちの公共の福祉に貢献する営みによって大切なものを守る〟という〝拡張した交流〟によって、よりバラエティに富んだエンターテイメントとしての恩恵を受けることができるのです。

過激な描写や売れればいいだけのものは芸術ではなく、〝神聖なインスピレーションからの拡張した交流〟にもなりません!

上記に含まず、良いものの場合では、戦争を批判して風刺した(要素ばかりで構成された)著作は、芸術と言うよりは社会運動です。 特殊な形態なので、インスピレーションの根源性は薄い気がします。 良いとは言えないもの・子どもに開けないものも つくりやすいです。

また、〝購入の形態をとらずに配布する芸術作品(パフォーマンス含む)の形態〟も〝範囲の規定によって 拡張した交流〟となり〝売り物と同じ形式〟で 扱えます。 (著作全般で言えば、このブログもそうです。)

〝芸術≒著作〟の文脈で、このコーナー(主張)が進行していることは 既にお分かりいただけたと思います。 (補足)


基本的には売り物の 有名サイドに対して、ある条件にて上記を〝無名サイド〟と表現したりもしています。

定義はぴったり重なりませんが、それぞれを 発達段階の領域【2つの並走するライン】で扱うこともできます。 芸術家同士の広義の交流において〝異なったルールと責任〟として見られます。


現時点でのこのブログは〝無名サイド〟としての責任とルールです。 そこも 社会のルールは考慮すべきです。

有名サイドとの交流の方法などは特殊に成り得ます。


〝多〟分野で、内面と意図(と深さ)を認め合おう ということです。

そう記述して、次回につなぎます。
posted by インテグラルとど at 09:00| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2019年04月01日

アーティストとインターネット ~著作と社会交流と〝今〟~ ①

このコーナーらしく、ナンバーシリーズ形式で始めます。


著作とインターネットの関連で、まとめておくには いい時期だと思いました。

左の題名を副題にして 別コーナーで論じてみたいですよね。 (今は ~〝右〟~ が主題です。)

各コーナー、ちょっと長めですよん(・∀・)ω


✧全5回✧



アーティストは、コミュニケーションを〝アートでします〟!!

この常識は、アーティストにしか わからないのかもしれません。

政治や行政などのグループにて〝社会のルールを決める〟とき、〝芸術家(アートでコミュニケーションする者)の代表者〟が 居ないか極稀なようです。

いつもそうですが、ポストモダンは本来、こういった〝内面のプロフェッショナルからの交流のメリットを周辺化しない〟という運動で花開くはずなのです。

現時点での政治や行政(社会の規範を形式的に決める我々の民主的代表組織)は まだ〝本当の健全なポストモダンに開いていない〟と言えるのかもしれません。

これは、重大な〝障壁〟です。 (もったいない。(。-∀-))ccc


勘違いされているのかもしれませんが、病理的なポストモダニズム(すべて均等に正しい主張にすぎないというバージョン)で擁護してしまった場合に限り 芸術と称する〝大人の意味を成さないアダルト〟な〝し好物化〟が 蔓延するというだけで、そういったものは〝芸術(の本来の深い意図)とは関係がありません

正しいポストモダン運動のベクトル(功績)を明らかにしておかないと 芸術が政界や行政などに誤解されたまま 悲惨なことになるのでは―――、と気にしている 芸術界に関係ある人々は、数知れず居ます。

ルールの決め方が、ある種の暴力(言葉わるくも――)になることもあり得るわけですね。


インターネットに掲載される〝著作(記事・論文・アートなど)は 出版物と同じ(データではなく紙の本のようなもの)〟という捉え方が、子どもに分かりやすく説く意味でも 健全的に これからの時代の〝基本〟です。

そして、紙の著作の形式よりも〝コミュニケーションにて絶大なメリットがある〟のです。 (資金/自由度・加筆/アップデート・速度/リアルタイム)

人に見せたくない〝秘密裏に偏った〟画像の収集・蓄積などが〝人とのコミュニケーションの貴重な時間と精力を無くしている〟と気づいたら こう捉えているでしょう。

インターネットは普通の公共の場所と一緒〟です。


本当の芸術家は、コミュニケーション(人間関係)の中で、〝情報の取捨選択〟をしています。

今回のテーマは、インターネットという公共の場を〝普遍的に〟見ることによって、正しい芸術とアーティストが〝周辺化されず 芸術家とその著作同士で交流する自由なルールに最大に花開く〟根源的な〝人間性(としての芸術家と著作の交流のメリット)〟を〝強く主張する〟ヴィジョンを (さわりでも) 提示するコーナーです。

偏った隠蔽は一般企業にも見られ、一般的なインターネットに話を戻すと――(メリットの無い故意のパクリ騒動・行為と半端に主張するも嫉妬からの嫌がらせにしかなっていない主張全般 etc.―) は〝正しい芸術家のインターネット上の交流などより 反証・拒絶される〟ことで ルールがより明快となり〝信頼のできる人々同士でのアート著作の広義での引用のやりとり(無断転載とは見なされない最大限自由で高パフォーマンスな〝今〟ルール)が どんどんアップデート(差異化/包含)される〟ことを、強く主張(予見)します。

(この方向に開かないと、人類の羅針盤は 情報化をナチスに渡すようなことになるでしょう。)

(芸術家まがいの歪んだ主張含む) 真正の(健全で深い)芸術家に対しての偏った嫌がらせは、なぜか〝芸術家を周辺化したい〟という 〝公共の福祉に反する悪しき目論見〟によって 構成されています。 こういった、拝金主義的な裏を想像させるテーマも含みます。

(著作者の権利を守るリベラルな法律とは、――歪みが行き過ぎている場合の――彼らを まず縛るということです。)


ここまでのデリケートなテーマを、次世代の子どもたちに開くにあたって、〝過激すぎる描写のエンターテイメント的擁護は 真の芸術家と それを表す 未来の子どもたちに対して 嫌がらせ(邪魔)になる〟方向で見れるという 筆者の発見したヒントを 添えて、次回へ繋ぎます。
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2019年03月28日

春にぽたぽた♡桜を見よう☀ ~ゆるゆるのススメ☆~

いよいよ、春です。

本格的な、春です ☀


晴れの日に、桜がいっぱい咲いている公園とか、行くことができたなら、そこで、ぽたぽたしましょう

ぬぼー(・∀・)っと、しずかに、ゆるゆるで


きっと、小鳥さんの鳴き声が、聞こえてきます♡

私は、すでに、早咲きの桜とか、うぐいすの鳴き声に、いっぱい出会っています。


インターネットばかりしていると、交感神経が強烈にはたらき、色々と意識を取られていると思います。

たまには、五感をフリーにして、しかも 騒がず〝なにもしない〟をしてみましょう。


花火大会の場合は、テンション上がりますが、桜は テンションが維持されます。

徒歩で、うっとりしましょう。

快適に、休憩して うとうと しましょう。


実は、この機会を持つのは〝貴重〟です。

想像でも良いですが、出来る機会があるならば、チャンスを生かしてください❀


きぃらぁぁん(・∀・)☆彡
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2019年03月24日

誰がトクをするの? ~著作にルール? 【引用(主張)=交流】~ ☆一般向け☆


芸術家は シンプルに明るい日々が良いので、今回の主張は〝アーティストと直接的な縁の無い〟人々向けとしています。 【アーティストも読めます。】


[今回のお話のポイント : 「解釈・判断には適切な深さが必要」 「嫌がらせのパクリ発言は拒絶・反証できる」 「法則・メタ要素は個人的な著作を越えている・先だって在る」 「引用は主張で コミュニケーションにとても重要な責任」 「深さを認めたい衝動の抑圧・責任の放棄が 著作的なルールと世界の 混乱となる」 「二人称の著作のルールと引用の交流を重要視し 個々人の断片化した利益に還元しないこと!」]


〝引用の主張〟とは〝主体(主観)が行う〟責任(権利・義務)です。

つまり、〝引用のネタ元(主体・主観)を理解できる(深さを持った)人〟が適切です。

〝引用の方法(慣行)〟は〝(主張が)多岐に渡り〟〝(主体・主観が) コミュニケーションとして なぜ行うのか〟を〝(解釈者が)主体・主観的に判断・理解〟する必要があります。 (その高度で〝あたりまえ〟です。)

仮に、そうでない者が〝これはパクリだ〟と言っても、〝そうやって引用(表記・描写・主張)しないと理解できないから〟〝この主張に興味のあるコミュニケーションを享受している主体の集まり(コミュニティ)は こういった関心・アート・運動・人間関係・明らかな領域での深さを持った人たちだから〟〝興味の持てる人が適切なバランス(批評や包含)によって理解できる主張の最大数を抱えているから 誰も理解したがらない単なる独裁的で歪んだ或いは稚拙な主張とも関係しないんだ〟〝だから 真に興味(責任)の持てる人たちだけが それを真剣に主張しているんだ〟〝証拠や実質も(一定の方法を内面などより 適切な者が一定期間以上試みることで)存在するんだ〟という反証・主張(深さを伴ったパラダイム)によって、実は〝(浅い パクリであるという主張を) 拒否〟できます。

それを知らない者が、その責任のすさまじさを〝知らなかった〟では きっと〝すまされない〟と思うのですが、表面上は逆に取られていて〝法律の方を(内面など無視して)独裁的に歪めて捉えた気になって、僅かでも似ているものがあれば 知らなかったでは済まされない〟とか〝パラダイム的に破滅的に崩壊〟している主張(にもならない主張)が 未だに横行して(いる気になって)います。

その深さの〝すさまじさ〟を知らないと〝社会や世界は大混乱〟し、〝表面上は それをした者が責任を取らなくてよいように 周りはふるまっているように見えるから(シャドー・投影)〟と感じても(主観)、〝真実(元の主張・パラダイム)が明らかになることで(主に内面的な)証拠が提示され 周りが納得し 責任を取らなくてよいなんてことはなかったんだ〟ということが どんどん明らかになってきます。 (それを皆が避ければ、やがて次の世界大戦 世界の崩壊が起こるからです。 外交政治にも影響を与えるからです。)

ゆえに、理由も反証できない〝虚無主義的・操り人形的・嫌がらせでナルシシズムを楽しむだけ的〟な〝これはパクリだ〟という根拠のない主張は、これからの時代〝絶対に おすすめしません〟!!

えらいことに、なりますよ。

なぜかと言いますと、〝どのような深さと規模でどのような経験(山)を越えてきた人々の主張であるか〟が見えないのに〝そんなものに価値は無い〟と断定しているからです。

価値は無いと思っても 明確に〝なぜそうなのかを長期的にでも〟〝主張〟できる熱意と実質が無いかぎり、〝知らなかったでは済まされない〟でしょう。

私が手厳しく言っている 一部のおかしな人たちとは 道路交通で例えるなら〝運転免許など機能していない(これは議論はできます)ので 自動車はルールを無視して好き勝手に運転しても良い(誰もそんなことは言っていない!)〟という主張を〝言えるから言っていいんだ〟として 自分も含め 騙している人たちのことです。 ( )内は 私のモラルに基づいた説明です。

〝パクリだという根拠のない(悪い方の)主張〟は〝上記の道路の例えで言えば 自動車のルール無視がまずいことだと私たち(社会)は既に反証している あたりまえの点を認識できない人々に騙してウソを植え付けている 本人が 嘘だからやってはいけないことだという自覚すらも崩壊している〟ということです。

これは・・・危ないでしょ?

芸術を〝売り物にしようとする〟制作の現場で〝過酷な労働〟が蔓延している実情は〝上記の無自覚的な虚無主義が 明らかな根拠と末路により いけないことである(知っていたら絶対にやらなかった)とすら認識されていないものが〟〝縛れていない〟からです。

おかしなルールで運転している自動車(売り物に特化した製品の領域 の崩壊)が多いと、自転車(売り物にするための条件がある著作各種)はまともに運転すらできません。 ―― ( ) は例えです。

これからの法律(基本的な規制)は アート関連においては〝ミラーサイトを取り締まる〟以上のところに行くべきではないのです。

解釈の深さと実質を伴う〝コミュニケーション〟によって〝引用(リンキング)は統制〟されているのであり、第三者(裁く権限を持っているとするもの)が〝間違った解釈をした〟結果〝公共の福祉に絶大な不利益を与えた (次の世界大戦が起きて地球が崩壊した)〟となると〝誰が責任を取るのですか?〟

もう一度言いますが、〝深い実質を伴った主張(とその綿密な引用のネットワーク)を(ルール上)間違って解釈する=パクリだと主張する〟は〝同じこと〟です。 法律が〝ニヒリズムに基づくと、公共の福祉を破壊します〟!

もう一度言いますが、つまり〝法律は公共の福祉を破壊します〟!??

はい??

ということです。

もっと穏やかに言いたいですが、これは、芸術家には言っていません。 その苦労を知らない人々に対して〝知らなかったでは済まされない〟部分を突いているのみです。

その気になれば、コミュニケーションをぶち壊すのは〝キャラ名やキャスト名をもじって作者や作品(主張)にあてつける〟だけで(短絡的には)事足りるのです。 法律でまずそこを縛るのは(現在当然そうなっていない点も含めて)無駄です。

なぜならこれは、引用の基礎〝コミュニケーション=私たちのアイデア・著作〟という あたりまえすぎる事実があるからです。

(私たちが受け入れられる〝私たちが適切に使えるキャラクターの(普遍的・形式的)名称〟などが コミュニケーションとして在るということです。)

著作的な〝法則〟〝深層構造としてのメタ要素〟と言えまして、〝自動車を健康に運転するための日常的なやりとり〟のようなものです。 こちらまで崩壊すると〝著作物はできません〟!!

つまり、本当に、法律がニヒリズムを支持したら〝否応なしに 破滅的な結果が出る・見て分かる・知っていたらこんな決まりにはしなかった〟ということです。

なので、〝一部のおかしな人以外は〟〝そもそも 著作に関するルールがおかしくなりようがない (そうでないと著作自体ができないから)〟となり、〝深いアーティストが著作自体の事実を主張する自由 (権利=責任・義務) が これまで同様 当たり前に存在することを 明らかにするのみ〟で成り立つことがわかります。

よって、騒いでいる人がいるなら、それは〝ニヒリズムに加担している〟ことにはなりませんか?

もちろん、公共の福祉にのっとった〝ルール〟を適切に〝話し合っている〟ならば、それに該当しませんよ。

確かに、現時点での〝企業内の隠蔽の発覚〟〝世界的な違和感だらけの政治近況〟など心配の〝著作に投影された〟形態を見ている、ブログなど誰でも書くものこそ〝著作〟の運動であるから、など、様々なことが言えますが、〝強い責任を引き受けた深い芸術家の引用の世界〟を〝殆どの一般の人々〟は〝知りえない〟点で、〝誰にでも言える程度のこと(間違った解釈) では 少なくともありません〟!

しかし、法律を具体的に運用しようとなれば、〝明らかに既におかしい部分=深い芸術家が引用の(明らかに必須な対話・リンキングの)責任を負う(自らの意志で繋がる)法則的構造をなかったことにする主張〟は〝最初から相手にすることすらできない〟のです。

よってこれは、ニヒリストが流行らせただけの〝混乱〟と言えます。

深い芸術家は まじめで仕事熱心であり、私のように〝じっくり〟論じる時間が無いだけです。

行政さん。自転車専用通行帯の路上駐停車(特に交差点直後と直前も)・車両通行帯での自動車の自転車への追い越し方。ちゃんと 正しい安全なルールの進展はありますか?――著作関連よりも 誰でも見て分かるのはまずこちらからですよ。これができれば、芸術家も よりイキイキとできるのです。(著作関連の法則・ルールを 明快に説明できるから・社会がそれを求めるから。)

記号論では 見て判別できるデータは〝シニフィアン〟です。 これだけで〝内面=著作・意図・感情や思想〟は〝網羅されますか?

明らかに〝こころの中の気持ち〟は〝データ=シニフィアン〟だけでは〝100%は理解不可能〟です。

データ(シニフィアン)を 質・量ともに〝膨大にすれば〟解釈はし易いのですが、それでも〝作者(とそのコミュニティ)が コミュニケーションによって 時間展開上で説明・アップデートする〟ことでしか〝100%の理解〟はできないのです。

一見、データ(シニフィアン)だけで 芸術は成り立っているように見えますが、芸術家がどのようにしてその意図を込めたのか・現在その作品内でも表れている内面的な〝何を見てほしいのか〟などは〝主体(主観)=シニフィエ〟であり、そのコミュニケーション(データ・シニフィアンと 内面・シニフィエの総合的・複雑なやり取り)にて、初めて〝本当の芸術と言う指示対象(レフェラン)〟が明らかになるのです。

AQAL(ポスト形而上学)では こういったメタ的な法則的流れを〝オペレーティング・システム〟と形容したりしますが〝深層的な法則は 深い芸術ほど 色濃く根拠を増し 引用とコミュニケーションとして複雑に反映され ルールで縛ることはできません! (さらに先だって存在する〝法則なので〟!)〟

データ(シニフィアン)を見ただけで(深さに関わらず)誰でも(そのシニフィアンの表面を把握できる感覚があるなら)〝パクリだと言える〟などということは、100%ありません! (内面的な経験を必ず通します。)

事実は逆で、上記のパクリと言う〝間違った解釈〟が〝公共の福祉を壊滅をもさせる 確固たる責任が存在することへの無視〟なのです。

時代の深さが発展するほど、稚拙な人々(未来ある健全な子どもではなく)の人生(生活)との緊張度(今まで起こらなかった現実的な問題)が倍増していきますが、こういった深さの無視こそが その倍増の〝正体〟だということです。

深さを認識したい (けど 責任を取りたくないから深さなんて なかったことにしよう)〟このシャドー化のプロセス(抑圧した衝動)がプレッシャーとなって、著作的な法律(ルール)に投影されます。

これを〝悪用する〟芸術もどき (とてつもなく不健全なもの) は 全力で〝規制する〟べきですが、〝深さを認識したい(原型を受け入れる)〟という〝シャドー・ワーク (セラピーのことです)〟こそ、ルールを考案する私たちは〝緊急で行う必要のある合意(実践)〟です。

私はいつも思うのですが、こういう風に〝カオスの逆 (光は闇と関わらない・愛は憎しみとは無関係・クリシュナムルティ的な法則的主張)〟を しっかりと行える運動(声)は、まだまだ稀有です。

私は、いますよ(・∀・)♡
posted by インテグラルとど at 09:00| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする