2019年03月12日

自転車(サイクル)と 自動車(二輪・四輪)が 〝同じ車道を共有して走るための〟推奨速度構想 (私見)

自転車で車道を走っていると、あまりに自動車の追いつきが早く、端に寄って停車しているときに対向車が来る場合 後続車も急停車することになりがちです。

もっと速度を落としていれば、スムーズに運転できるのになと、いつも 疑問に思います。

そこで、スピードを出しすぎない方が良い道路を優先して、制限速度の表記を変えてみたらいいのではないかと想像しました。

実際には法律も変えないといけないのかもしれません。

制限速度40キロの道路は60キロ以上で[おおよそ平均的に]取り締まられるそうです。

これを、制限速度50キロで取り締まると言えば、速度計ばかりを見て前を見ないドライバーが多くなるだろうと 行政は考えているのだろうと、私は思いますので、〝推奨速度30キロ〟にすればよいのではないですかね?

誰かが言ってそうですし、そういった補助的な表記(安全運転表記全般)は 至る所で見られはしますが、現時点での40キロ制限の道を〝推奨速度30キロ、50キロ以上で[同上に(〃)]取り締まる〟とすれば、+20キロは 変わりません。

多くの次世代のドライバーは、速度を落とすでしょう。

自動車が減って自転車が多くなったタイミングで〝制限速度の標識はそのままでも 推奨速度は10キロ落とす〟と改正すれば、新たに標識を設置する必要もありません。

制限速度を守る自動車をあおる自動車は 自転車と原付の天敵なので、一発免停にしてください、といつも思っています。 煽りの対策に 自動車は後方にドラレコを付けて 、後ろの煽りにより制限速度を一定以上超えてしまった時には〝煽った方の取り締まりを主張できる〟仕組みにできれば、自転車は平均的にかなり走りやすくなるでしょう。 交通量の少ない道の方が、煽る自動車は飛ばすのです[驚]

この発想の最大のメリットは〝自転車の平均的な走行速度 時速20キロ〟に近づくということです。

カーブと横断歩道の多い〝ゾーン30〟の〝推奨速度は20キロ〟(以下) です。 自転車位の速度です。

上記の道でも、未だに自動車は40キロ以上出しているのではないですか?

自転車[この例では私]が横断歩道前の車道外側線エリアの停止線で停止、時間が経って横断歩道通過自動車が来なくなってから 渡ろうとしていた歩行者が横断開始、まだ歩行者が渡り切っていないときに 大して減速せずに新たな自動車が突っ切ってきて 通過

が私が見る現状で、もっと速度を落とさないと 安全運転義務を制御できないと、自動車達は いつも シチュエーションとして結果的に主張をしています (はたから見ると)。

自転車は自動車が来なくなってから発車するのが 安全上 より正しいので、自動車は わざわざ 前方に車両がいないとき 無駄に速度を出してこなくてよいです。 自動車の為の加速スペースだということは無いです。 むしろ、縦の 自転車の安全マージンです。

〝自転車は車道〟と 公に声を大にして言われた今、〝大概の道は やむを得ない歩道走行が知恵〟と主張する私(ルールにのっとった個人的な運転)でさえも、なるべく車道を走った方がいいのではないか? と (歩行者皆無の歩道でも) 時々思います。

全ての道が律義に 自転車通行可とは書いていないし そういう道の中でも、路側帯や車道外側線が狭くて交通量のある道は〝元々自転車は歩道を走行するべき乗り物という世間的立場だった〟から 〝自転車は歩道を走行する設計で作った〟ようにしか見えないので、通過方法に苦労しがちになることもあります。

歩道が狭くて仕切られていて 歩道に人が一定数いる〝ゾーン30〟の道などは〝推奨速度20〟に今すぐにでもして〝自転車は車道走行を徹底推奨〟すべきです。 ここを 時速40キロで走ってくる自動車は ルール違反うんぬん以前に〝交通のジャマ〟です。 自転車を歩道に追いやってはいけない道は、存在します。

自動車は多分、フローチャートのような運転をしているのでしょう。 自転車ならば 加速もブレーキも 力に比例して伝わりますので 自転車より自動車は 安全の細かい部分に対して対応が粗くなり そのことにドライバーは 大概気付いていません。 自転車が前方にいる場合は、もう少し自転車の感覚になって 余裕を持って速度を落とす方が 長い目で見て早くなる気がします。 急がない方が 燃費がいい上に 安全で快適です。

自動車は、車間距離が狭くなる現状などの理由により〝安全で快適な運転を忘れて 目的地に早く着く運転をしがち〟なのだと思います。 自転車と違って、余裕のある運転ができにくいし そういう運転の選択肢が本来は存在することを 認識できなくなっているのでしょう。

このことが分かっている自動車ドライバーならば 今回の〝推奨速度〟のメリットは十二分に うなづけるはずですので、積極的に声を上げていけば 実現するかもしれません

その場合は、車間距離をさらに取るように ルールを変えた方が良いのかもしれませんね。

到達時間と運転方法を総合的に考えていけば、〝平日休日・全時間帯〟で 適用は可能だと分かるはずです。 運転とは、大部分が ルールを含んだ上での 個々人の創意工夫なのです。


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2019年03月08日

核ミサイルを〝平和利用〟に! ~世界のエネルギー問題解決~

経済的な事柄ならば、核兵器をつくらなければ良いのです。

また、今存在する 核ミサイル等の 内部にあるエネルギー的なシステムは、お金をかけて ただ廃棄するのではなく、そもそも 発電の燃料になるものなのだから、公共のエネルギーにすればよいのです。

( 仕組みは ひとまず考えず、以下を主張します。)

核保持は単なる〝大人の事情=狂った社交辞令〟で、もし 世界で核を全廃する合意の可能性が含有されているのなら、最初から〝原子力発電に転用〟できるように 開発されていないとおかしいのです

また、発電用の原子力は兵器にできないようになっているはずです。

誰もがこういったことが 自分のレベルで分かるはずであり、にもかかわらず、いままだ エネルギー問題と核の放棄の一進一退が続いているのは、理解にくるしみます。

ノースの韓国さん(中国と隣接している方)をはじめ、様々な新興国・途上国が〝アメリカのような物質的に豊かな暮らしを羨む〟フラットランドな国際的心持ちの中で、〝兵器開発ではなく、核なき エネルギーへの転用の方が 遥かに簡単に内面を含んで豊かになれる方法だ〟と、私は強く言っておきますね(・∀・)
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2019年03月04日

エンターテイメント・ブログと 一般ビジネス広告の 阿吽の関係(・∀・)ωωω

アニメやゲームなどの〝広義の芸術分野〟は、今なお〝周辺化〟されているように思います。

理由は、内面を〝ものづくり〟に 縮小・還元して見る傾向(商業的選択圧力)があるからです。

すなわち、健全で深い〝内面〟を よりインテグラル(4象限的)に理解(定立)しようとする〝アート〟が、公共の福祉・社会の発展(みんなの幸せ)に寄与するということです。

〝売れようとすること〟で やりすぎてしまい、上記の条件をクリアできないような作品(思想・意図)が 一定数存在することなどから、一般ビジネス(企業)からは、とっつきにくい存在(分野)と見なされがちなのでしょう。

まず、〝そうではない〟と 説得力を持って主張できるようにする必要があります。

私が思うに、そういった 統合的芸術分野の〝真の強さ〟は、〝ファンにある〟と思います。

ファン(文化)と アート(作者)が 同時生起的(左側の象限)にて しっかり根付いていれば、内面のプロフェショナルな勢力運動(主張)となり、周りに認められていくでしょう。

そのために必要だと感じるのが〝ファンのブログ活動〟で、私はさらに〝大多数を占めるであろう一般企業の利益を助ける広告も (可能なら) 掲載して運営するべきだ〟と主張します。

そのためには〝まともな広告〟である必要があるので、方法は限られてきますが、多くの企業が芸術分野に一目置いて感謝するようになれば、アーティスト側への投資も増えて、世界はさらに新しい豊かさを得るでしょう。

著作権上の時代の流れで、日本は (該当の) TPPに合意しましたが、世界の公共の福祉を考えるという意味ですので、職業選択の自由を最大限に取るのです。

つまり、健全で深く(意志を持って一生懸命)行っているのなら、一定数の人が言うほどは ブログ広告は 難しいわけではないのです。

〝長い目で見て、芸術と一般的な広告は 大きく関係する〟ということを、今回は言いたかったのでした。

結局、自分たちの利益のことしか考えない〝騙して儲ける〟という〝長期的に見て社会を混乱させる〟排他的な営みが問題なのであって、芸術家は〝統合的なリンキングとその理解〟が〝努力義務≒広義の仕事〟だと思います。

ファンのブログは、〝良い広告≒良い意図〟を 一致させていく〝核の営み〟だと 考えます。

これは、政治と世界平和にも言えますね。


(ちなみに ファンのブログの視点は 主体[経験・解釈]×対象[芸術家の意図・作品] が メインです。 これらが総合されて文化に成ります。)

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2019年02月27日

ポスト形而上学で見る〝私たちの意図〟

久しぶりに、軽いミニコラムを書いてみました。

意図は、私たちの中にあるわけですが、〝視点〟です。

所与の視点というものは無く、すべては コミュニケーションによって〝意味に成る〟わけです。

そこに、1人称的な〝内面=深さ〟が当然考慮されます。

意図ないし想いに対して 第三者が〝話す〟とき、それは〝誰の中にも均等に並べられているだけのものではない〟という〝責任〟が合意されています。

統合的リンキングで言うと、有名サイドの芸術家が無名サイドの芸術家に〝遠回しに話す理由〟は〝それぞれの立場に やや特異な共有されざる義務が発生しているから〟とも言えますが、〝互いに、共通の普遍的な深い責任に立って 一緒に芸術をやりたい〟という意図です。

これは、誰の中にも転がっているだけのものではないのです。

よって、想いや意図を語る場合は、たとえ 芸術的ないし商業的なプロモーション活動(CM広告など)であっても、〝包括的な責任が強く伴う〟と、私は主張します。

漠然と語っている場合は 特に、コスモスのアドレス(指示言語!)を開示しなさい、と ポスト形而上学は言います(爆)

このコラムは、基本的には〝芸術家が芸術家に対して発話する〟という おしゃべりです。

究極的には、皆 芸術家です。
posted by インテグラルとど at 12:13| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする