2019年03月21日

自転車追い越し―見通しの悪いカーブの手前で車はなぜ速度を上げるのか?

交通量がそれほどでもない片側一車線の破線の道(今回のコーナーにて議論する種類の道)ならば自転車でも走りやすいと思います。

例えば、下りの後に上りがある場合、自転車は速度を上げることが多いでしょう。


[このコーナーは私的な走行経験に基づいた普遍的な?おしゃべりで、交通安全が目的です。 また、走行は各自がしっかりと責任を持ってくださいね。]

(速度を下げない=高速走行のまま=速度を上げる[題名表現] の意味です。)



基本、自転車が高速になるほど 左側のマージンを取る方が安全だと 私は経験により思います。

自転車が高速で走行しているとき、私は後ろに自動車は付けないようにしていますが、制限速度をオーバーして突っ切ってくる自動車がいますよね?

自転車が時速30キロ、道の制限速度が時速50キロ(ただし山奥などのローカル規格)、自動車がすぐに追いついてきたら まず 時速50キロよりも かなり速度を上げています。

自動車は日常的に、それを危険運転だと認識せず、注意されないからと 当たり前のように繰り返しているようです。

なぜそうなのかと 私が言えるのは、その後、自転車を追い越すのに〝1.5メートル以上空けるタイミングは必ず1分以内に来る〟からです。 きっちり運転できるのなら 安全上、ロスなどほぼ無いです。 なのに カーブで無理やり抜かしてくる自動車が一定数いることから、そのドライバーたちは〝当たり前のように繰り返しているのではないか?〟と私は言います。

自動車は自動車に殆ど追い越されませんから〝あまり見られていない〟と思っているかもしれませんが〝コミュニケーションができるので発言力を持った=人間 が乗っている自転車に 追い越しなどのふるまいの体感はバッチリすぎるほど要チェックされて〟いるのですよ?

自転車では〝いかに自動車に安全に追い越させるか〟をイヤというほどやります。

自転車に乗らない自動車ドライバーには 優秀な人でない限り この体感はまったく無いのだと思います。

余談ですが、読みにくかったら、自動車ドライバー〝さん〟を付けてね。


自転車と自動車はブレーキの性能が違うので、自動車が自転車を〝自動車と同じ速度感覚で見て車間距離を詰めるのは自転車から見てとてつもなく危険〟なのです。 速度が出ている時はブレーキをかけて停車するまで時間がかかるため 停車する必要がある時は 早めに強くブレーキを掛ける必要があり、私の経験では この運転を自転車がなぜするのかを認識すらしていないドライバーばかりだと思います。

歩行者に対して、自動車が一瞬で止まれる場合でも、自転車は無理なのです。

自転車は、歩行者に対して安全運転義務は必要ないと 自動車ドライバーたちは思っているのでしょうか?

前方自転車の速度自体 掴みにくいのは分かります。

歩行者がほとんどいない道の場合で話していますが、自動車が真後ろにいる場合は 減速自体ができにくくなるということです。


私は、どうしても速度を上げたいときは 後方に自動車が来ていないときに上げますが 高速走行時の後続ブロックは危険なので 自動車がかなり後方にいる時の 減速の意思表示のために行うことがある程度です。

自動車に道を譲っていると思われない進路(左端走行のバリエーション)を 分かりやすく取るということです。

それでも後続車が迫ってきたら、見通しの悪い地点や対向車が来ている場合に 減速して端に寄って 徐行・停車するしかないでしょう。 (安全な地点に。)

どれだけ、自動車が来ていないときに発車して縦のマージンを取っても このシチュエーションは起こり得ます。


カーブの手前などで自転車を無理に追い越そうとする自動車は、対向車が来ないだろうとして追い越しに入り 来たら スレスレでも構わない と 大して何も考えていません。

体感です。


自転車が減速すると 自動車も減速することがあるため、信頼して速度を下げない方が良いこともありますが、危ないシチュエーションほど 期待を裏切られることが多い気がします。

下り坂では、自転車の減速は 時間がかかるため ややタイミングが不自然になりがちで、速度を下げない方が 後続車にとって 走りやすい流れになるのではないかと思いますが、その場合、自転車が時速30キロ出ていれば 自動車は 本来 10キロほど速度を早めに下げて 時速40キロくらいで 距離をかなり開けて カーブの後 対向車線の状態が確認できるようになってから 速度を上げて追い越すべきでしょう。

自転車走行中は 後続車の台数が殆ど見えないため、最悪のタイミングの2歩手前で追い越された時 たまたま後続車が複数いたら 最悪のタイミングで追い越しが発生するわけです。

全員が制限速度をオーバーしないと赦せないような走行をしていると 自動車は 時速40キロという (このシチュエーションでの) 高速走行状態でも 後続車をつける結果となるわけです。

最大速度が時速50キロ、カーブは時に(最)徐行して 最大でも50キロまでしか出すなよ! という意味です (私の書き方・視点です)。

50キロ以上出せではないです。

自動車って、免許制ですよね(・∀・)??


自転車の下りでは ゆっくりめ の走行が安全だと思いますが、(横断歩道のない場所で歩行者がいきなり横断し始めるなど) 急停車する可能性があり それが適切なシチュエーションである場合です。 車道でどんな時でも とてつもなく ゆっくり走行するのが 必ずしも良いわけではありませんね。


たとえ時速10キロの自転車でも 前方にいて 追い越しが安全にできない場合は、自動車は距離を空けて 時速10キロ位まで 速度を落とさなければいけません (自転車視点)。 後続車が怖い場合でも 前方が自転車ですよ? 適切な判断を任せます

自動車ドライバーに言いたいのですが、通勤で片道10km 自転車でって言うと、すごいって思いますよね?

時速10キロって、電車でも変わらないくらいの移動です。 (都市部で近距離換算)

たった1時間で10キロも進むのですから、特に信号が無い道ならば、全く遅くならないではないですか!

時速10キロは、自動車ドライバーにとって 停止も同じなのかもしれませんが、奥が深いですよ。 時速10キロは!


自転車と自動車、どちらの乗り手に話しているのか?と 思うような文章かもしれませんが、歩道からの視点も含み、ありとあらゆる着眼点を含んで走行するのが良いのではないでしょうか?という 発話(私の主張)を含みます。


[特集] 〝セーフティで優しい自転車走行への道〟☆2019要約加筆バージョン☆ は こちら
posted by インテグラルとど at 09:00| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2019年03月17日

ちっぽけな一輪は❀ちっぽけじゃない! ~有名無名の✧ステージ=ストリーム✧~


いつでも うきうきで たのしい日々が〝いい〟ですよね。


現状を打破できない環境が続いていると、そのバランスに慣れてしまって、〝夢を失う〟ような状態になることがあります。

無名サイドは〝現状の報告〟に強く、有名サイドは〝夢への勇気づけ〟に強く、別々の発達ラインとして 見ることができるものです。

(あらゆる領域に発達ラインを見ることができる ということです。)


つまり、両者の立場(慣性系)共に〝発達のレベル(深さ)がある〟重要な点があり、そこを見落とすと 〝無名より有名の方がましで、どんな手段を使って 夢を失っても お金を稼げる方が 勝ちだ〟などという〝狂った結論〟に達し得るわけです。


アニメの制作で言えば、〝意志の持てない〟作画をする人が求められているとしますと、私はそういったおもしろみのない文化の〝作品にはふれない〟でしょう。


このように、無名サイドの中に〝どうにもならない空気〟の蔓延の雰囲気が漂ってくると、誰かが〝王座に〟就こうとしますよね。 (おかしな意味で。)

私たちは、そういった〝二の舞〟を もう行く必要は無いのです。


で(・∀・)


明るい話題が〝無名サイドに浸透〟すればいいわけですよ。

例えば私たちが 作品の〝ワンピース〟に関する話題を〝ウキウキ〟と行えれば、無名サイドの私たちは〝ワクワク〟です(・∀・)

これを、アニメサイド(?)の私たちにできるのか? と言いますと、〝慣れ合い〟はせずに〝簡素な批評に開かれた堂々とした協力〟の人間関係に インターネットを通じて開ければよいわけです。

そのために ブログとか開いてきたんです♡


さっきの〝二の舞〟を行かないポイントですが、かつても似た へんてこ雰囲気だったので〝皆の増幅的心配事を利用させない〟意味で

〝著作権法のTPPあれこれに対する 日本の次の一歩に関して いちいち おかしな解釈で突かない!〟これに尽きます。

芸術家サイド、特に美術家さんは、〝絵を掲載する〟ので、そのまま あれこれ想像しがちですが、私も野外の簡易ライブで声を掛けられたこともあるので、もう、おまわりさんも信頼しましょう


私の主張した〝統合的リンキング〟は〝芸術的なセンスを持って他の芸術作品の視点と一緒に描く〟ということです。

これをなにやら〝よく思わない〟ところに〝矮小化〟された結果、コミックマーケットのファンアートかな?の関連にて〝ダメ〟だとか 逆に〝正義なんだ〟とか火が付いていたりしますが、元々の〝妬みの抗争〟に原因があるわけで、深いものは深いし、統合的リンキングを邪魔しているものはしています。

これを、著作権的なTPP関連の合意運動と法律で すぐに〝深さを見ることで 悲惨な矮小化だけを解体する〟所に行きつかないでしょうが、〝芸術家が深さを主張する〟運動をあきらめてはいけません。 それがカギです。

知識に飛びつくより、自分の根源的な〝アート魂〟により、持っているものを、描いてきたものを、ちゃんと見るのです♡♡


この〝深さを主張する〟は〝コミュニケーション〟です。

芸術家は 一般社会人サイドとは違った交流 即ち〝インターネットでの作品公表にて互いに主張を包含し合っていく〟ので、その深さを見抜いていくことで〝他のアーティストの作品の主張も自分の芸術的コミュニケーションにて引用する〟ことは 避けては通れません。 それをしないと、権利=責任 の通り、その世界空間から追放されます。

この〝あたりまえのこと〟は、深さによって〝芸術家自身が主張〟していく必要があり、ただそこに並べられているだけのものではありません。

この覚悟を持った芸術家は、TPP関連の合意に〝つつく〟よりも、より真剣に〝心配事にとらわれない〟必要性を強く分かっています

肝心の芸術家サイドは、著作的運動のプロフェッショナルであり、特にその〝無名サイド〟は インターネットにて大きな発言力を持っているため、他分野の無名サイドに

〝むしろキタ――(゚∀゚)――!!〟感を醸し出していた方が、明るいですよね。



というわけで、ありったけの きらっきら✧の話題を

いつも お空に✧描いて✧いきましょう(・∀・)♡


☀☀☀

posted by インテグラルとど at 12:37| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

京都のねこちゃんが✧とってもキュート(・∀・)♡

書こう書こうと思って、書く機会がありませんでしたので、こちらに書きます。


〝みゃーこ〟かわええ――(゚∀゚)――!!


P.S.

テレビをつけた時にたまたま、京都の市長さんが 出ていて、新しい駅ができるーってやっていました(・∀・)

そういえば、すでに 色々なお花が そこらへんに咲いておりますね。


にしても、〝丹波口〟駅って、すごいところにあるやん(・∀・)ω

いいね♡


地理的に 兵庫県の篠山口駅も検索でどうぞ♪

posted by インテグラルとど at 12:17| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2019年03月16日

なぜビジネススーツは魅力が無いのか? ~リベラルの真の目的~

唐突ですが、なぜこの題名(表現)になったかは 割愛します(爆)


ここで言うスーツは、就職活動の時に必要な?ものを指します。

粗いですか(・∀・)??


[ 【魅力≒芸術的なファッション性】 : 成り行きでこのニュアンスになりましたが、日本の制服文化的視点を重心にして〝なぜビジネススーツは魅力的なのか!〟という記事を 真剣に書いても良いのです♡ ]


社会が内面に何とかして開こうと手探りを始めているということで、次世代向けの社会システムに興味のある方向けですが、現状として アプローチの方法と領域が バラバラだと感じます。

つまり、スーツから見る なんとやら―――――(・∀・)


はっきり言って、〝強制されている〟と思うでしょう。

私はそう 強く思います。

これを〝仕方がない 言いなりになろう〟と言うと、〝すでに感受性が潰されており 内的に非常に貧困〟です。

〝着たいものを着ていきたい〟

これが正常でしょう。

ただし、何を着ていくのか、そもそも服があるのかという 面倒事もあります。


なぜ、こんなにも〝かたくな〟に スーツが指定されているかは さておいて、一般論では〝スーツは ファッションという名の私事(わたくしごと)ではない!〟と 誰かが〝言い切ります〟!

一方で、アパレル?――ファッション業界に関係する制服には〝販売用のファッション性が追求されている〟という視点もあるので、そもそも〝ファッション=私事=仕事には御法度 が成り立つ強い根拠はない(いくらでも反例や要点を挙げられる)〟と むっさω言えます。


結局は〝リベラルな合意〟が〝機能適合のみの狭い視野に拘束されている〟ということです。

内面のリベラルな合意を把握できずに ずるずる 来ているわけで、〝内面≒芸術〟が〝リベラルな合意の外側に投げ出されている=(前)慣習的なコミットに留まる〟という〝芸術の周辺化≒内面を物に縮小すること〟が 起きました。

本来、子どもでも内面を持っていますので、上記は〝子どもの意識とは関係が無い 不均衡な運動〟です。


〝働きたくない〟と言うと〝来るな〟が〝合理的〟と思われますが、これは〝リベラルな内面の視点が決定的に欠けています〟!

この視点は、リベラルな内面から見ると〝暗黙の不合理なルールの外側(土壌)から突いている〟と 理解(発話)できます。 そうとも取れないのは〝内面など ビジネスルールに存在していないから〟です。

一方で、マーケティングで、顧客の内面を理解しようとするアプローチは とうに一般的でしょう。 〝顧客(の好み)はビジネスでは無いから 上記ルールは適用しない〟とでも 言うのでしょうか。


志望動機は〝決定的な理由〟が求められますが、〝内面が無いなら 特性と学歴しか根拠にしようが無い〟としか言えません(驚)

リベラルな内面の合意から見ると、そんなもの 全く〝決定的な理由〟に なっていません

よって、厳選に選んだつもりで〝くじ引きで選んでいる(爆)〟わけです( ゚Д゚) ←その場合。

はい?――と思うかもしれませんが 一定数の〝社会に合わない〟と思わざるを得ない人が つぶやいているはずです。

道路交通を見て見ましょう。 歩行者が横断歩道上で分かりやすく待っていても 誰も停止線で止まれないのではないですか?――流れなどという〝いいわけ〟は そんな程度です。 社会は回っています。(混乱のドヤ顔で)


芸術家がなぜ〝周辺化されている〟のか ひを見るより明らかな理由です。

そもそも〝リベラルな合意の内面(≒独り立ちしているアーティストの熱意)は 存在さえ認識されていない〟のです。

本当の動機(熱意)は〝普遍的に 相手の本当に言いたいことを理解する〟ことで 成り立ちます。


リベラルな内面の合意が成されないまま 上記〝相手を理解〟しようとすると、通常〝本人の身体的な感覚や感情と快不快に特性〟のみが 議題として挙がり 内面(ハート)が そこにありません。

最初の方に言ったように、〝リベラルな内面が合意されなければ (前)慣習的なもの 他者の意味(熱意)に普遍的に立てないもの〟に ただ深そうな言葉を並べるだけのアプローチに 成り下がります。


教育は〝慈善事業ではない〟とか言うことを(不合理に)好む人がいますが、〝リベラルな内面の合意(リベラル教育の根源性)とは そのレベルにまで成長することを奨励する責任を持つこと〟なので、ないがしろにすることを以って〝私は自分勝手な独断で 社内の人間関係(普遍的意味による熱意)など どうなってもいい〟と言います。

私は、〝面接のスーツも 仕事に関わるすべてのコストは リベラル教育的責任を根拠に以って ビジネスに拠るものなのだから 会社が全て負担すべきだ〟と主張します。

リベラルな内面の合意が必要な意味です。

ん?――分からないって??

くじ引きで選ばなければ、魂(普遍的な熱意の関係)で選べれば、互いに相性が良く〝自然に責任と関係にコミットする〟ので〝長く続けられて コストも下がるし 提供に値することをも十二分に納得できる〟からですよ。

無慈悲な競争に勝手に流れ慣らされてきたことで 誰も分かっていないのかもしれませんが〝他の企業より一歩先の地平でやりたいという協力〟なのです。一歩先への手探りの閉ざされた競争だと 普遍的な内面が根付かないので 結局 宣言だけです。


どういうことかは、〝なぜ はっきりとした笑顔と態度で営んでいるのですか?〟――― 会社人間は〝答えられない(はっきり聞かれない)と思います〟

実は、会社から離れているのに〝だからこそ 笑顔と言葉遣いと細やかな作業〟を楽しんでいる強者がいます。

これはもはや、会社の外の〝営みに育てられた〟のです。

会社の外側の〝より普遍的に人々の目線の中で公開する〟営みが、真の前進です。

普遍的な内面を忘れることで 適当に業務を継ぎ立てていった成れの果てが〝過半数をも超える!?自社の隠蔽〟です。 結局、私の言っていることの基本が ばかげたようにしか見えなくても 根拠は示せているでしょ?


久々に、こういった内容の主張を書いてみました。

昔に おかしいおかしい と思ってきたことなので、現在の眺めから書いておいても 意味はあるだろうと感じ、書きました。

文字では 感情的近況(アーティスト的な何とやら)が伝わらないのは知っていますが、〝解釈する〟という運動は アート鑑賞と同じですので、大した目的の役割の違いはありません❉
posted by インテグラルとど at 09:00| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする