2019年08月12日

非核化を実現する自転車運転! ~ちょっとハードルを上げる 365days+α ☆彡~

いつもの一般論から切りだしますが、自動車中心社会は、難しい現実を はらんでいます。

現状のまま、当たらず触らずでいいのでしょうか?

それだと、自転車と歩行者は、肩身が狭いですね。

心理学的に、自動車規制と マスメディアが報道すれば、種々ニュースでの事件の加害者を一方的に叩くお決まりの〝一方だけ全否定する暴力〟となる類のあれのように、自動車は さらに制限速度をオーバーして、一般道での高速道路状態になるのは しょうがないで、終わるのでしょうか?

歩道から見ると、さらに、極端に怖い運転が 一般的になっているように見える気もします。


これまで、色々なことを書いてきた私ですが、自動車は高速進行の用途で開発されたゆえに 自転車が走れる一般道には乗り入れず 自動車専用道路のネットワークを作るべき、という意見を持っています。

自動車を普通に乗っている方は、なんでそんなに極端なことを言うん? と思うでしょ!

これは、自転車に車道メインで 年中 走ってみると、分かります。


これまでの議論もそうですが、田舎や郊外は、裏道メインで自転車の定番コースになることも含め、基本的に 主要道の片側1車線の道のみ かなり多い交通量で機能する 自動車必要社会で、基本的に テーマの中心を構成しません。

郊外ではなく、都市部を基準に述べていますが、片側2車線ある郊外の道は、自転車が走っている時に限り、都会の道として、限りなく安全運転してほしい意図も含みます。

郊外では、横断することが多いですが、こればかりは、自動車社会でも、自転車を無視しないでください、と言わなければ、危ないです。

都市部のことを議論していますが、郊外を走った経験も当然入ります。

自動車で一般道を乗り入れるべきではない、は、今のところ、あくまで都市部のことです。


本題として、自転車で車道メインの道路を走る時、どうしても、安全運転の感覚が狂います

自転車は、歩行者に対して、かなり安全な運転をすべきです。 そうしない限り、気分が悪くなってライドを楽しめないからです。

自動車は、制限速度をオーバーし、暴走車は なぜか野放しにされているように 周りの車に擁護されているような流れに見え、よっぽどの時以外 横断時に決して止まってはくれず 減速すらせず 時にクラクションまで鳴らしてきて 危なく、そもそも ストレスを ぶつけ合うような 走行をしており、自転車を 端と歩道に追いやるような 安全運転ができない運転を 流れで せざるを得ないようにしています。 とにかく、かなり 危機感を感じたとき以外 全く減速せず 追い越し時に加速するくらいです。 音もすごいです。

自動車は、ずっと 普通に走っていますから、全く 意識できない かもしれませんが、歩行者にかなり配慮する自転車から見て、あまりにも すさまじい 恐ろしく おかしな運転をしています。

もし、自転車が、自動車のことを無視し、何も考えないようにすれば、無意識に抑圧されたシャドーを作り、自動車の危ない運転を 当たり前のように意識下に当たり前だと慣れて蓄積します。

これは、子ども時代に歩道から見た自動車社会のシーンの刷り込みにも言えて、大人になって免許を取った後、自動車に乗る時にだけ、その無意識が活性化して 暴走運転につながるわけです。

一定のルールにて閉ざされた世界空間で、権力者と被権力者の役割に分かれる実験では、権力者側が被権力者に対して 征服するような光景が見られる実験は、今やよく知られているわけです。

その行きつく先が、核を無くせない資本世界ならば、原発反対派は皆、とっくに 脱自動車派でなければおかしいのです。

少し極端ですが、もし、脱原発派なのに 買い物等のために限ってというわけではなく 何も感じずに普通に自動車に乗っているというのなら、あなたは脱原発原理主義者かもしれません。


つまり、自転車で車道をメインに走ると、どんな場合でも、自動車からは 自転車の参考にならない そのうちは 堪忍袋の緒が切れかねないシチュエーションに感じるような運転で プレッシャーを突きつけられ続けます

これは紛れもない現実であり、自動車を単純に赦すことでは、クリア不可能な大問題です。

絶対に、何らかのゆがみが出て、どこかにしわ寄せが来ます。

そして、自動車は、自転車とのコミュニケーションを拒絶する あらゆる防衛的方法を駆使 してくるので、自動車に しわ寄せがいくのは、法律上の安全運転義務近辺のみだと思われます。

これは、皆、薄々感じていることと思いますが、ああ、おお、やっぱりか!―――でしょ?

避け得られないが、確実にあります。

つまり、歩行者にしわ寄せがいく場合が圧倒的に多く、それを回避する 新世代の自転車運転をする場合でも、自分の内部か 人間関係か、何かに 必ず来ます。

これを解決するために、少し、厄介な回り道が、今のところ必要なようです。


自動車達は、すでに運転を修正できず、それが適法だと主張します。

つまり、自転車側が、現状を変えられるわけがないのです。

それに本当に気付くのが、ある種のスタートラインです。

ですが、それに気づくには、本気で自動車社会を 変えようと決意する 必要があり、それでもだめだと分かることで、糸口が見えてきます。

自転車のルールは もはや、車両という形式のみ共通であり、全く自動車とは別のハイパースペースのルールです。

つまり、自動車を飛行機のように、全く別空間を別ルールで走っている乗り物だと捉える方が 明快です。 ただし、一例として、追い越しは発生するので、追い越しを少なくするような運転を自転車側がすることで、このハイパースペースを維持します。 自動車は普通 絶対にこういった運転になりません。

自動車運転のカルマを、自転車側が背負う必要性が、全くないというのが、本題です。

或いは、誰もが、たった一度だけ、自転車の立場から 態度が恐ろしかった自動車の路上駐車に 偶発的に腹の内をぶつけて、今後二度と 嫌な思いは せず 二の舞を踏まないとすることで、自転車総人口だけ、自動車総人口の非合理ドライバーに メッセージを突きつけることができます。

既に経験しましたか?


自動車のクラクションにより、自転車ドライバーが驚いてふらつき、或いは心が傷つくならば、この自動車は、自転車側に 心理学でいう〝フックをかけている〟といえます。

或いは、危険と自転車が感じる運転全部が、フックです。

(最近は、ルールを破る+フック という組み合わせで 手におえなくなったシャドーを 強引に主張している例が 多くなったのではと 複雑な社会情勢を感じます。)

フックは、不安から逃れるために、相手をコントロールしようとする行為の総称であり、あの手この手を使って行うわけですが、フックに掛けられないようにするには、一切相手にしないこと だそうですね。 (下部へ続く♪)


☆ 参考 ☆





ですが、自動車のプレッシャーは 必ず 自転車の安全運転の感性を煽り 揺さぶるので、これを抑圧して無視することは 安全運転の感性を捨てることになります。

つまり、手順が重要で、実際に年中自転車で車道をメインに走り、自動車交通の肥大した現状を正確に理解して危機感を感じ、本気で 道路交通を変えなければ危険だと気付いて決意し、実際に何らかの行動に移して 成功という意味で ある種に必ず失敗した後、自動車交通全てが巨大なフックであって これを相手にすることで 自転車はせっかくの自由の利点を 自動車のカルマによって滅ぼしてしまう もったいない と悟り、ようやく、抑圧せずに フックを冷静に見つめることができるようになります。

この時点で、自動車ドライバーがルールを無視していても、危険運転を してきても、根に持たずに赦す方法を 体得していく入り口ができます。

自転車に乗り続けるには、それしか選択肢が無いからです。

ですが、フックを理解しているということは、フックが不安を根拠にしている以上 不安では触れられないハイパースペースで 自動車の危険運転を吟味・メッセージを発信するということになり、受け身に戻ることとは真逆です。

私たちは、自動車の暴走を止められませんが、見ることはできます。

人間は社会動物なので、この、見るという行為は とてつもなく大きな構造的力を持つのですが、そのための落としどころは、自転車側が 見るだけで公道を救いうる根拠を、自分の力で見いだすときに有効だというところです。

いずれにしても、自転車は 自動車運転者の身に脅威を与えることが普通ないので 危険運転に対してブロックで諭すのは無意味で、自動車交通より さらに多様な地平に立った 知恵で、モラルの権利を捉えていくことになります。


資本主義と核兵器の視点は、道路交通とリンクします。

福島原発と それに類する出来事は、地元の方々へ共感することが第一歩ですが―――私はそっち方面の勘は鋭くなく、核融合発電という太陽は好きなので 未来的には原発賛成派です。

その視点で、核兵器と危険運転は 無くなるべきだという主張を、上記の共感を含む 根拠を持って述べます。


まず、現在までの肥大バージョンの資本主義は、植民地化によって 安い労働力を得るわけで、啓蒙主義の真善美の乖離という 疾患によって 数世紀前より定立されました。

そもそも、功利主義は、平等に豊かにならねば遂行矛盾するのに、それができていないので、結局、富の蓄積が核兵器の保有となり、強国が外交で資本的に支配する構図が、この 地球が滅ぶのではないかという瀬戸際ですら 古い因習のまま よりひどくなっています。

誰もが起業できるという平等は、誰もが核兵器生産と保持に加担できるという意味に読み替えられるなら、平等を根底から破滅させる平等ということになります。

現行の資本主義は、並行する社会主義も同じですが、要は、植民地化の富の肥大外交は、必ず安い労働力 言うなれば 奴隷を必要とするということで、ブラック企業が増え、従業員の日常が歪み、通勤に反映され、道路交通が肥大し、労働時間が運転業務に大半を占める 職業ドライバーが 行きすぎた権利を主張するに至り、次世代の自動車社会は これらのカルマを蓄積して さらに修正が効かないものとなり、その結果 原発問題の欠点側の元締めの厄災 核戦争が起こる懸念として 感受性とモラルの崩壊が見て取れる、ということです。

しかし、逆に言えば、とっくにこういった問題点は明らかになっており、これらすべてが巨大なフックなわけです。

筋道が重要であり、必ずうまくいかないに決まっていることが分かるので、自転車の先ほどの帰結と同じく、戦争反対を明確に定立している企業は 上記のカルマをまともに受け止める必要はありません

ただし、直接変えられなくとも、変えると決意する 筋道は必ず通っている必要があるのです。


ここまで来て、芸術・創作・文化・モラル・伝統 的な内面領域の イルミネーションと 抑圧されたダークサイド、道路交通から外交と通貨システム・社会と職業・生活習慣とスポーツ などの外面的領域の 健全性と その乖離的闇、全く違った2つのカテゴリーには、共通するテーマがあることが分かります。

ブラック企業が芸術業界にも浸透し、道路交通が音楽のメッセージと連動する。といったことです。

原発問題から、公共の福祉、生計の立て方と 生活実践に節約、企業のオープンな役割の明快性と利益の真実、生き方と 世界中の人々に共通する 言葉で言えないほどの 複雑な出来事から シンプルな結びつきに至るまでの 色々な方法での理解。 ありとあらゆることは、健全的にも過ちにも連動して見ることができる、ということです。


少なくとも、私は、自転車に乗りながら自然の中に入って、ここまでは気付きました。

自動車社会は、原発問題や資本中心利益に関連するプレッシャー・ムードに支配されていることが 何らかの意味で お分かりいただけたと思いますので、自動車に乗ることを中心として かなりのところまで気付くことができた人が もしいれば、さらに別の 興味深い議論ができるでしょうね。

たぶん、そういった人は、仕事では 鉄道か自転車か徒歩でしょう。


最近は、叩く系の記事を書いているような流れになるかもしれませんが、よりハイパー・ピクチャーで見れば、正常な、即ち遂行矛盾に気付くことができる視点で 自動車交通の領域を 他の領域と関連することで 何がどう明確なのかが 明らかになってくる、ということです。

ピンポイントで、経験と感情を交えて書き下ろすと、辛口になることがありますが、このページたちの趣旨は、多様な視点をとることと、それを 総合的な実践(健康・セラピー・イルミネーションとアート)に広げていくことを勧めるものです。

お望みならば、より 色々な視点と 関連付けることが可能です!!
posted by インテグラルとど at 17:49| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする