2019年07月05日

道路交通と法は自転車主役! ~狂った自動車依存社会からの自立声明!~

自動車の代名詞は〝運転免許〟――運転免許の代名詞は〝道路交通法〟――道交法の代名詞は〝自動車が一番エラい〟

これ、本当ですか?


詳細はどうあれ、通行帯などの項は 自動車中心に書かれているように思われ、運転免許は経済力や大人の象徴として見られているように思われ、道路は自動車の為にあるように思われ・・・

この〝思われ〟は、思い込みにすぎない、限りなく〝意味を成さない〟相対的な〝意味〟にしかなっていないのではないでしょうか?

誰もがそうだと思い込むことで、ビッグなことだということになっているだけで。


どういうことでしょう?


現代社会は、深さの欠いた〝不道徳な〟乖離した営みだと、言われます。

これは、ニヒリスティックなことでもなんでもなく、ただ、限りなく〝蜃気楼〟な依存性に おかしな程〝リアル〟を見てしまっている〝もったいない事実〟を意味するにすぎません。


自転車は、〝歩行者や自転車に対して安全に運転することが〟できます!

殆どの自転車は、自動車によって歩道に上げられることにより、そうする機会が持てないだけです。 車道を安全に走れれば、安全運転は身に付きます。

一方、現在の自動車社会は、免許制に深さがない意味で、リベラル憲法の〝道徳段階5=普遍的に他者を思いやる寛容〟を深くは無視します。

自動車社会は、今や普通に知られた〝信号の無い停止線で止まらない(×)〟〝自転車を別の通行帯から抜かさない(×)〟にとどまらず、-対向ですら- わざと自転車にぶつかるスレスレで抜かす(×××××)など、自転車が邪魔ならば〝何をやってもいい、なぜなら車は社会の中心で 例えば 社会を成り立たせる神だからという理由付けをしよう〟というところ (そんな輩の主張と行為が肯定すらされかねない実状に) まで来ているのです。

これは、自転車は車道という声明(事実)が、上記のニヒリズム(相対的にほぼ無意味の蜃気楼)を脅かすので 暴力をもって排除しようという暴力(安全運転義務違反以上の犯罪)です。

そして、そういった輩のために、全員が〝危ないから停止線で止まれない=止まらなくていい〟〝制限速度をオーバーしてよい〟ということになっているので、〝免許保持者の現在に運転するドライバーは、上記に加担〟します。

私が言いたいのは、〝自転車は車道〟以降、まだ 上記の〝おかしい〟が〝糸口すら解決されない〟ように見える点です。

これは、考えたくない、即ち 自動車のおかしな社会に とてつもなく依存しているということです。


自動車社会は、道路交通法を守れない(信号さえなんとか守っていれば何をやっても許されるという風潮と現状である)ので、道交法は 自動車の為にあるのではないことが分かります。 (少なくとも、自動車が道路交通の中心だという主張の反例になります。)

自転車は、証明の必要はありますが、すでに道路交通法(安全運転義務)を守っているという方であれば、〝道路交通法は 自転車の為にある〟と堂々言えます。

自動車社会は、道路交通法を含むことができず、自転車は道路交通法(安全運転義務=リベラルの権利)を含むことができるので、自動車社会は、リベラルな深さの権利から 剥離しています。 現状は真実によって追放される運命だということです。

交通戦争を肯定する運転、結局は、制限速度を守らずに自転車がいることも想定する気も起きない運転の現状、即ち、自転車等の弱者を犠牲にしても 仕方がない=自分たちは悪くない=他者のことを一切考えない蜃気楼の寛容 であるということです。


道路交通法は、自転車、そして、京都の人力ぐるま、喜多方の馬車、そういった車両を中心にある! ということです。 (ここでの地名は代表例です。)


自動車は、片側二車線以上の道や片側一車線の狭い道、片側0.8車線程度の道などの中で、〝自動車中心の道=安全運転義務違反を行う道〟を 勝手に決める 因習があります。

対向車が居なければ〝1m以上幅を取って抜かす〟位はできても、そんなものはおまけで、対向車さえ来れば、速度も落とさずスレスレでパスします。

これはおかしいどころか、〝免許を持っている(自動車を運転する)場合、安全に追い越せる場所まで自転車の後ろを驚異の与えない縦の距離を取って 付いていかなければならない (あくまで私の主観的な文章で述べた解釈です)〟あまりにも基本的なことです。

理由はどうあれ、それができない免許制・自動車社会・ドライバーは、リベラルな深さを伴う憲法社会から見て〝恥ずかしいだけの汚点〟です。

無くなる無くならない、必要である必要でない、ではなく、事実として相対的に よりそうであるということを意味するにすぎないのです。

しかし私としては、この〝おかしな営み〟は きれいさっぱり無くなってほしいです。


自転車への恨みから、これを見てぞっとするような運転をしている方ならば、そういう行為がこういった声明(文章)を生み、明日の自分のカルマを突き付けられることになるので、今すぐ やめましょう♪

これに気付いてほしいのに、あまりにも無頓着な方ばかりらしいので、書いておきます。


今回の声明をそもそも定立するには、最大限の種々計算・マージンによって、自転車は車道をなるべく走る、ということに尽きます。

さっき挙げました、自動車の勝手な因習は、自転車が車道を走ってはならない道を勝手に決めるという意味で、リベラル憲法に反します。

自動車が、自転車が走行していることを〝考慮したくない=安全運転義務を放棄する〟根拠を、勝手に付与しています。

よって、一定の犠牲はありうる=自動車ドライバーは仕方がなく保険と経済力で救われなければならない=その道を走っている自転車が危ないと知っているだろうから悪い という 〝自動車中心の欠陥道主張〟に陥って弱者に押し付けるわけです。

これらは、あやふやでもニヒリスティックでもなく、はだかの王様で、客観的にも内面的にも、簡単に見れる今や痛い常識です。

赦されはしないことなのですが、真に寛容な内面的なリベラリズムは、〝あなたがたが気付くまで〟じっと辛抱強く慈悲深く、寛容に、待っているのです。


まだこの状況でも〝自転車は邪魔だ〟とか平気で言っている運転免許保持者の現時点でドライバーの方は、状況をよく考えて、取り返しのつかない主張・行為をしていないか、とても よく考えてください。


自転車の歩道や裏道走行は あくまで、本来配慮してもらうはずの自動車に対しての〝安全運転サービス(配慮)〟です。 長い目で見て相対的にて厳密には、義務であるわけではありません。 ここも、自動車社会は勘違いしていませんか?

確かに、自動車の保持・運転は大変だと思いますが、それでも、これまで指摘させていただいた視点から、〝自動車側が任意の公道を欠陥道呼ばわりする〟言い訳は、通用しません!

蜃気楼的には仕方がなくても、別に あなたの方が痛い思いをするのではなく、弱者の方なので、責任は根源的にあります。

たぶん、真に、リベラルな、本当の健全で深くスピリチュアルな〝成長〟を望むときに、とてつもない〝責任の理解=強い罪の意識を発見することでの本当の後悔〟がやってくる、ということになります。

その深みを、知らなかったでは、生まれてきた意味が、とても〝もったいない〟です。

そして、車道をしっかりした美学・理由を持って走る自転車乗りは〝アホでも馬鹿でも間抜けでもありません!〟 (かなり未来を読んでいる賢い人々です。――その苦労も知っています。)


今回のこの視点・報告は、相対的に限りなく無意味の、蜃気楼にすぎないような〝きょ偽を真実と取り違える乖離=ニヒリズム〟を 本気で信じて〝弱者の犠牲によって成り立つ絶叫にそそる無常に仕方のないクソみたいな真実〟だと勝手に思い込んでしまっている〝現状の自動車社会〟を、全く新しい視点(ポスト形而上学的)で見てほしいと思い、書いています。

きょ偽を真実と取り違えた《真実》?――そんなものはありません!

すぐには目に見えては変わらないかもしれない。でも、僕は、あんな おかしな自動車社会の〝いいなり〟にはならない!


――はい、今回の結論・・・にて おひらき♡


ここまで読んでいただいた方は、次回の記事 『 【自動車】 完全自動運転を実現する方法 ~歩行者自転車中心の超発想~が とても おもしろいです☆彡
posted by インテグラルとど at 23:33| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする