2019年04月13日

子どもと女性が輝く よりすてきな自由の寄せ描き♡ ~著作と社会交流と〝今〟~ ④

自分の描いたもの、つまり 私の著作を持ちよって、公の場であるインターネットで交流する。

それが、さらにアルバムの寄せ描きのように いつのまにか アートの対話でみんなの作品にもなる。


こんな経験と実質は、子どもと女性の活動・学びでは、とっくに常識です。

なぜか、政治・行政など〝社会のルールを決める〟代表のはずの陣営は、こういった感性に無意識なようで、周辺化しがちとなります。


分かると思いますが、インターネットの無かった時代の(サークルの中で絵を描いたり演奏したりして問題なかった)ルールを、情報化の今 平等にどこでも繋がって友と交流できる時代の(インターネットという公の場が当時のサークルに当たるようなスペースとしての)ルールに ただ横からだけ流用しても〝合うわけがない〟のです。

かみ合わない。適合しない。構成要素と範囲が全く違う。

古いOSで、新しいソフトは〝動かない〟のです。

国際基準を飲む=おかしいルールを脱ぎ 全てよりリベラルな自由へ開き続ける

ということです。


著作的な国際基準。私たちは、国は、本当に合意できたの?


芸術家が、台風の目です。

公共の福祉に〝深く〟コミットする以外 道はないということを〝著作とアーティスト同士の健全で深い独自の交流〟によって〝示していく必要がある〟のみです。

そこに、次世代の子どもと 女性が 強い力を持つのです。

芸術家は〝インスピレーション=両性的な多次元的交流〟をモットーとするので、本来的な意味で言っているのです。

そのために、着目して成すべきことは多いです。


インターネットでのつながりは、部屋でのサークルのようなもので〝誰でも見れるので 嫌がらせができない〟ことが〝本来〟なのです。

不特定多数も〝傾向〟で規定でき、その代わり〝同レベルで深くつながった独自の慣性系ないしネットワークが内部に構築されるコミュニケーションの文脈としてのパーソナルスペース〟の成熟ができる社会です。

しかし、なぜか、誹謗中傷などが まかり通っています。

これは、すでにかなり社会のルールがおかしいのです。


インターネットは公の場です。

ただ、昔のサークルとは かなり違った構成なので、インターネットの交流が公共の場となるための〝確かなルール〟を 自らが声高らかに叫んでいかなくてはなりません。


その第一歩が、繋がりたい人と繋がるということです。

繋がった人と思いを共有・交換するために、実際に思っていることを何らかの方法で伝えて、〝公共の場で出会っている〟事実を主張 しなければ オープンであるとは言えません。

繋がったその人が分かるような〝文章・言葉〟などを〝リンキング・広義に引用〟することで〝自分のブログで表現する・描く〟こともできます。

プライバシーも、当時のサークルとインターネットの現在では違い、相手のパーソナルスペースを守るために〝様々な方法で行うことのできるリンキング・広義の引用〟を行うのが最善なのです。

つまり、プライバシーとインターネットとコミュニケーションを考えていくと、必然的に〝リンキング・引用の とてつもない 広く自由で 細分化された(多ニーズに合った) リベラル・ルール〟を構築することになります。

ここ、誰もが見落としていませんか?


芸術家同士であるならば、〝著作によるリンキング・広義の引用によるコミュニケーションでしか守れない相手のパーソナルスペース・プライバシーの配慮〟というものが、とても大きく存在しているのです。

保守派などが 大して思慮せず これを制限すれば、プライバシーに対しての大混乱が起きるのです!

これは、ルールを制限した者に近いほど 何らかの責任を必ず負うことになっています。

文脈上は。――実は権利と責任とはそういうものです。

これを信じられないとき、誰も主体的に責任を取らず、ルールも適当でよいと考えてしまうのです。


プライバシーとは、コミュニケーションと〝同じ内面の別の側面〟です。 (個人の内面 と 文化の内面)

インターネット上の記録や著作は〝コミュニケーションという公の場で堂々と見るもの〟です。

相手のプライバシーに配慮する〝リンキング=責任〟を取ればよく〝社会の文字通りのルールに対する心配は 公共の福祉に対して 目を背ける 時間のもったいない行為〟です。

著作に対する国際的なルールとは、〝より普遍的なルールを根拠でもって自分で解釈して 社会にコミュニケーションをつくる 約束〟です。

なぜか、日本は〝具体的にこれはこうだ〟とか 言いがちで、〝国際的=普遍的に主体のモラル〟が 責任の取れる〝すべて〟であることを、おかしく 忘れています。


つまり、次の一歩は、〝好意を寄せる・繋がりたいと思う〟インターネット上に記録報告されている広義の著作の〝内面・解釈〟を〝歪めて収拾する〟癖を 各自が主体的責任を知って 緩めていくべきだということです。

誹謗中傷の掲示板などは、この歪み切ったバージョンを 自ら止められないところまで悪化させた 習慣文脈上の〝キュレーション〟なのです。

〝出会いたい〟対象・コミュニティに対して〝適切なパーソナルスペースとプライバシーの配慮・リンキング・広義の引用としてのルール〟があるのです。

自分が (無意識でも本当の意図を伴って)繋がりたい人へのインターネットによる収集により〝プライベートに〟行っていると称する〝相手が公にしてほしいと思うはずの行動〟は、〝公の場に相手の報告・著作がある〟というモラルにより〝コミュニケーションとして主体的責任を感受する〟事が可能です。


これの歪んだヴァージョンは、大人の意味が事典的に成さない〝アダルト〟的意味での〝し好物〟としての〝コミュニケーションから無責任の収集〟です。

この文脈だけならば リベラル嫌いバージョンの保守派が喜びそうで ナルシシズムを擁護する自由派もどきが発狂しそうな気もしますが―――


女性の中には〝おんなのこ〟がいます。

成長して成人するのだから、あたりまえ ですよね♪



そんな女性、大人でもティーンエイジャーでも、対して 悪しき意図を伴った者が〝独特の服装になってもらって情報発信〟すれば、〝内なるおんなのこも一緒に〟大公開です。

粗い例えであって、描いたバージョンでも 何でも良いのですが、子どもと女性に〝おかしい〟差別の無意識的原因となっている こうした根強い文化は、〝公の場の子どもと女性との責任あるコミュニケーションしか道はない!〟という方向に持っていく〝主体的に徹底的な習慣〟が必要です。

もちろん、上記の例えは〝男性〟も 加えられます。


ファッションショーならば、公の場で見てほしいはずです。

それが〝コミュニケーション〟です。

その責任へのコミット方法は〝広義の引用=リンキングとしてのプライバシー配慮〟も含まれます。

真の芸術家同士の交流が、その大きなヒントとなります。

社会は、芸術家を抑圧するのを、そろそろ 根源的にやめましょう!!


このように、うまく言えたかは分かりませんが、逆に何でも言いすぎるのもダメで、〝洗いざらい自分本位な心配を吐くのではなく 公の場にコミットするルールに実践としてインターネットの(わたしたちの)公開報告はオープンに使う〟ということです。


難しいかもしれませんが、男性ならば 女性と子どもに受け入れてもらえる〝インターネットの活用〟になるように 試行錯誤しましょう。

著作の国際基準の〝レディ・ファースト〟〝おもいやり〟とは そういうことです。

きっと、そこがスタート地点なのです。


きっと―――――。
posted by インテグラルとど at 09:00| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする