2019年04月01日

アーティストとインターネット ~著作と社会交流と〝今〟~ ①

このコーナーらしく、ナンバーシリーズ形式で始めます。


著作とインターネットの関連で、まとめておくには いい時期だと思いました。

左の題名を副題にして 別コーナーで論じてみたいですよね。 (今は ~〝右〟~ が主題です。)

各コーナー、ちょっと長めですよん(・∀・)ω


✧全5回✧



アーティストは、コミュニケーションを〝アートでします〟!!

この常識は、アーティストにしか わからないのかもしれません。

政治や行政などのグループにて〝社会のルールを決める〟とき、〝芸術家(アートでコミュニケーションする者)の代表者〟が 居ないか極稀なようです。

いつもそうですが、ポストモダンは本来、こういった〝内面のプロフェッショナルからの交流のメリットを周辺化しない〟という運動で花開くはずなのです。

現時点での政治や行政(社会の規範を形式的に決める我々の民主的代表組織)は まだ〝本当の健全なポストモダンに開いていない〟と言えるのかもしれません。

これは、重大な〝障壁〟です。 (もったいない。(。-∀-))ccc


勘違いされているのかもしれませんが、病理的なポストモダニズム(すべて均等に正しい主張にすぎないというバージョン)で擁護してしまった場合に限り 芸術と称する〝大人の意味を成さないアダルト〟な〝し好物化〟が 蔓延するというだけで、そういったものは〝芸術(の本来の深い意図)とは関係がありません

正しいポストモダン運動のベクトル(功績)を明らかにしておかないと 芸術が政界や行政などに誤解されたまま 悲惨なことになるのでは―――、と気にしている 芸術界に関係ある人々は、数知れず居ます。

ルールの決め方が、ある種の暴力(言葉わるくも――)になることもあり得るわけですね。


インターネットに掲載される〝著作(記事・論文・アートなど)は 出版物と同じ(データではなく紙の本のようなもの)〟という捉え方が、子どもに分かりやすく説く意味でも 健全的に これからの時代の〝基本〟です。

そして、紙の著作の形式よりも〝コミュニケーションにて絶大なメリットがある〟のです。 (資金/自由度・加筆/アップデート・速度/リアルタイム)

人に見せたくない〝秘密裏に偏った〟画像の収集・蓄積などが〝人とのコミュニケーションの貴重な時間と精力を無くしている〟と気づいたら こう捉えているでしょう。

インターネットは普通の公共の場所と一緒〟です。


本当の芸術家は、コミュニケーション(人間関係)の中で、〝情報の取捨選択〟をしています。

今回のテーマは、インターネットという公共の場を〝普遍的に〟見ることによって、正しい芸術とアーティストが〝周辺化されず 芸術家とその著作同士で交流する自由なルールに最大に花開く〟根源的な〝人間性(としての芸術家と著作の交流のメリット)〟を〝強く主張する〟ヴィジョンを (さわりでも) 提示するコーナーです。

偏った隠蔽は一般企業にも見られ、一般的なインターネットに話を戻すと――(メリットの無い故意のパクリ騒動・行為と半端に主張するも嫉妬からの嫌がらせにしかなっていない主張全般 etc.―) は〝正しい芸術家のインターネット上の交流などより 反証・拒絶される〟ことで ルールがより明快となり〝信頼のできる人々同士でのアート著作の広義での引用のやりとり(無断転載とは見なされない最大限自由で高パフォーマンスな〝今〟ルール)が どんどんアップデート(差異化/包含)される〟ことを、強く主張(予見)します。

(この方向に開かないと、人類の羅針盤は 情報化をナチスに渡すようなことになるでしょう。)

(芸術家まがいの歪んだ主張含む) 真正の(健全で深い)芸術家に対しての偏った嫌がらせは、なぜか〝芸術家を周辺化したい〟という 〝公共の福祉に反する悪しき目論見〟によって 構成されています。 こういった、拝金主義的な裏を想像させるテーマも含みます。

(著作者の権利を守るリベラルな法律とは、――歪みが行き過ぎている場合の――彼らを まず縛るということです。)


ここまでのデリケートなテーマを、次世代の子どもたちに開くにあたって、〝過激すぎる描写のエンターテイメント的擁護は 真の芸術家と それを表す 未来の子どもたちに対して 嫌がらせ(邪魔)になる〟方向で見れるという 筆者の発見したヒントを 添えて、次回へ繋ぎます。
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2019年04月05日

インスピレーションの神聖と〝消費者サイド〟 ~著作と社会交流と〝今〟~ ②

芸術家は インスピレーション(イン・スピリット)という〝決して売ることのできないもの〟を形にします。

それは、多次元的な〝未来の出会い〟を含む〝意図〟かもしれないし、〝本人のみに閉じられておらず、深くは運命につながっている程のもの〟です。

統合的実践の各バージョンでは〝強烈な実践〟となるものです。

一期一会です(・∀・)


一期一会は、僅かな期間の出会いにすぎないのではなく〝そのやや長めの一瞬を信じてコミュニケーションに移すことで 一生ものの運命の関係を築けるほどのイベント〟です。

芸術家は、活動と著作によって、この〝一期一会を引き寄せる〟のです。


政治と行政も ここを理解して、誰しも

じゃましてはなりません(・∀・)

もちろん、まがいのダメな方の芸術擬態(のナチスのような運動)は〝リベラルな芸術家同士の合意によって完全に拒絶〟されますから、大丈夫です。

(それ ―とても歪んだ主張― は、公共の福祉により じゃまされます♡ ―― それが真正の芸術家に対してウイルスなんだよと反転主張しても、絶対通りません! マジですよ☆彡 やめときなさい(^^♪ ―本当の広義ポストモダン・アートは すごいからね。)


話は進みます。


神聖なインスピレーションは、芸術家の〝権利/責任〟です。 後の世代にも継承されます。

その責任(芸術家と言う魂の普遍的ネタばれ)を〝あまり知らない人々=別の責任を引き受ける人々〟に対して開いていく活動が〝芸術作品という形にして売り物にする〟ということです。

別分野への対話とも言えます。

これは、芸術家同士の〝作品の広義の引用を含むコミュニケーション〟とも違います。

より一般の広域の人々に対して〝売り物にすることで市場のシステムをサポートし 作者を通した売れない神聖なインスピレーションに対する責任と分けることのできる 自由な鑑賞の領域・方法を提供するよ〟ということです。

鑑賞者(ファン・購入者)は、〝売れないインスピレーションを神聖に洗練させ守ること〟ではなく〝自分たちの公共の福祉に貢献する営みによって大切なものを守る〟という〝拡張した交流〟によって、よりバラエティに富んだエンターテイメントとしての恩恵を受けることができるのです。

過激な描写や売れればいいだけのものは芸術ではなく、〝神聖なインスピレーションからの拡張した交流〟にもなりません!

上記に含まず、良いものの場合では、戦争を批判して風刺した(要素ばかりで構成された)著作は、芸術と言うよりは社会運動です。 特殊な形態なので、インスピレーションの根源性は薄い気がします。 良いとは言えないもの・子どもに開けないものも つくりやすいです。

また、〝購入の形態をとらずに配布する芸術作品(パフォーマンス含む)の形態〟も〝範囲の規定によって 拡張した交流〟となり〝売り物と同じ形式〟で 扱えます。 (著作全般で言えば、このブログもそうです。)

〝芸術≒著作〟の文脈で、このコーナー(主張)が進行していることは 既にお分かりいただけたと思います。 (補足)


基本的には売り物の 有名サイドに対して、ある条件にて上記を〝無名サイド〟と表現したりもしています。

定義はぴったり重なりませんが、それぞれを 発達段階の領域【2つの並走するライン】で扱うこともできます。 芸術家同士の広義の交流において〝異なったルールと責任〟として見られます。


現時点でのこのブログは〝無名サイド〟としての責任とルールです。 そこも 社会のルールは考慮すべきです。

有名サイドとの交流の方法などは特殊に成り得ます。


〝多〟分野で、内面と意図(と深さ)を認め合おう ということです。

そう記述して、次回につなぎます。
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2019年04月09日

道のルールとリベラル・スペース♪ ~著作と社会交流と〝今〟~ ③

リベラリズム(現代のリベラル教育など)には〝具体的な規範を押し付けてはならない〟という〝素晴らしいモラル〟が 体現されています。

これを、道路交通と内面に開いて、著作の交流と見ます。


グレーゾーンと言う言葉がよく飛び交っていますが、〝噂話・デマ〟と同じ性質のものだと感じます。

私は道路にて〝すり抜けを全般的に勧めない〟のですが、理由は〝認識されていないかもしれないけれどルール違反だから〟〝全てのシチュエーションを分かろうとしていないのだろうけれど とても危ないから〟です。

すり抜けることで自転車は〝車道デビューしやすくなる半面 自動車が自転車に安全な縦と横の車間距離を保たない自動車中心社会の現状〟に気付くので、そうやって走ることに行きつくかもしれないけれど すり抜けを覚えないでほしい、と言っています。

確かに、すり抜けることでしかわからない〝道路のルールの混乱の学び〟はあり、それはグレーゾーンと言うよりは〝ありえない・おかしな現状〟なのです。

自分がその現実に巻き込まれていることすら気付かずに〝無意識に認めてしまう=(文脈で言える)デマを真実だと取り違えてしまう〟点が、深刻です。


つまり、虎穴に入らずんば・・・的な要素はありますが、〝社会のルールが混乱している=深い内面により より正しいルールの深層的意図を把握して 公共の福祉に反する主張を拒絶する という営みが成功していない〟―― 危うさに気付いて〝皆で別の道を探索する〟べき 緊急の課題があるのです。

確かなことは、ルールを破ってでも〝気付かなければならない社会の歪みと危機的な混沌〟があり得て、さらに〝次世代を巻き込んではならない〟というビジョンで行動しなければなりません。

そうしなければ、さらに混乱(歪んだ慣習)は蓄積されてゆくからです。


話を進めましょう。


著作のコミュニケーションの芸術家同士の引用の〝より高パフォーマンスに自由な公共の福祉にのっとったルール〟は、そういった〝次世代に開かれた健全で深い〟ナチュラルな奮闘の中でしか 継いでいけないのです。

インターネットという公の場と〝記録の継続的な報告〟の〝兼ね合い〟は〝さらに真剣な情熱〟によって ルール(道)になるように〝自ら試して〟いかなければならないのです。

それが これからの公の交流の〝常識と勇気〟です。

良い意味で、さけられないもの なのです。


ヒルクライム、という言葉が、自転車視点でありますが、坂道を好んで上る〝クライマー〟の生きざまと似ている部分が〝芸術家〟にあります。

自分の出来る部分で〝深く洗練させながら他者と交流したい!〟そんな〝強い渇望(情熱)〟です。

〝ルールの混乱した自動車社会の中の道路の中の坂道の中のクライマーの交流のための熱意〟は なるべく交通量の少ない道が良いという近況の他〝インターネットで報告して気持ちを共有したい〟というところに行くでしょう。

車道に〝目的地に行くだけの用途〟しか付加できないわけではない点でお分かりのように、 著作が〝売るためだけの用途にしか開いてはいけないわけがない〟のです。

道具的歪んだバージョンの合理性のみの単一目的的絶対化は、深い意図と羅針盤を無視し、混乱したルールの蓄積に無力です。

芸術・著作は〝交流するため〟に〝混乱したルールを吟味して越えていく必要がある〟のです。


道の安全性が日本では〝ローカル〟です。 著作に関するルールは今や日本でも〝世界基準〟です。

前者が未だ 非国際的で混乱しているのに、どうやって 同じ〝ルールを決める感性〟で〝より内面的に普遍的に開ける〟のでしょうか?


自転車を追い越す自動車は〝1.5メートルほどの距離を空ける努力をしても良い〟ではありません。

〝1.5メートル近く 必ず空けなければならない〟のです。

つまり、カーブの手前では 自転車位まで早めに速度を落とす〝自動運転式の運転〟ができていないとおかしいのです。

それ(自動車の本来のルール)を知らない自転車も、ルール上確かにおかしいのです。

リベラルの 具体性を押し付けないという寛容性(大好き!)にて、〝ルールを守らずに乱用する者にだけ得をする〟混沌たる結果になっていることが、私は気に入らないのです。

保守派は〝著作も道も もっと厳格にルールを作って拘束するべきだ〟と言うかもしれませんが、そんなもの〝覚えきれないし、奴らは 縛られないところでいくらでもやらかしていき〟むしろ酷くなるくらいです。

リベラルの良いところをもし捨てれば、現在の国際情勢の〝退行特急的揺れ戻り〟と同じく 二度と〝誰もが得をする よりすてきで自由で とても危ない歪んだ者だけライセンス拒絶することができるような社会〟に 軽やかに変容する機会(一期一会)は〝与えられないかもしれません〟!


日本発祥の芸術は特にそうですが、国民的な〝文化的ルール〟によって〝成り立って〟きました。

世界基準にする場合、基本的な〝子どもも安心の 文化的な著作的 もっとより自由な交流を最大限生かす〟社会のルールを しっかりと成り立たせていかないと、国際的なグラウンドで〝日本の文化を納得してもらえる〟ことは無いのです。


もったいない(・∀・)ωωω


みんなのアイデアを検討して、一緒に芸術・著作を 作りましょうよ!

それを、著作同士のインターネット上の交流でも、深くならばできるのです!



✧今回の補足結論 : 「インターネット=公の場(安心感・メリット)自らが主張・定立しなければならない!!」 ✧
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2019年04月13日

子どもと女性が輝く よりすてきな自由の寄せ描き♡ ~著作と社会交流と〝今〟~ ④

自分の描いたもの、つまり 私の著作を持ちよって、公の場であるインターネットで交流する。

それが、さらにアルバムの寄せ描きのように いつのまにか アートの対話でみんなの作品にもなる。


こんな経験と実質は、子どもと女性の活動・学びでは、とっくに常識です。

なぜか、政治・行政など〝社会のルールを決める〟代表のはずの陣営は、こういった感性に無意識なようで、周辺化しがちとなります。


分かると思いますが、インターネットの無かった時代の(サークルの中で絵を描いたり演奏したりして問題なかった)ルールを、情報化の今 平等にどこでも繋がって友と交流できる時代の(インターネットという公の場が当時のサークルに当たるようなスペースとしての)ルールに ただ横からだけ流用しても〝合うわけがない〟のです。

かみ合わない。適合しない。構成要素と範囲が全く違う。

古いOSで、新しいソフトは〝動かない〟のです。

国際基準を飲む=おかしいルールを脱ぎ 全てよりリベラルな自由へ開き続ける

ということです。


著作的な国際基準。私たちは、国は、本当に合意できたの?


芸術家が、台風の目です。

公共の福祉に〝深く〟コミットする以外 道はないということを〝著作とアーティスト同士の健全で深い独自の交流〟によって〝示していく必要がある〟のみです。

そこに、次世代の子どもと 女性が 強い力を持つのです。

芸術家は〝インスピレーション=両性的な多次元的交流〟をモットーとするので、本来的な意味で言っているのです。

そのために、着目して成すべきことは多いです。


インターネットでのつながりは、部屋でのサークルのようなもので〝誰でも見れるので 嫌がらせができない〟ことが〝本来〟なのです。

不特定多数も〝傾向〟で規定でき、その代わり〝同レベルで深くつながった独自の慣性系ないしネットワークが内部に構築されるコミュニケーションの文脈としてのパーソナルスペース〟の成熟ができる社会です。

しかし、なぜか、誹謗中傷などが まかり通っています。

これは、すでにかなり社会のルールがおかしいのです。


インターネットは公の場です。

ただ、昔のサークルとは かなり違った構成なので、インターネットの交流が公共の場となるための〝確かなルール〟を 自らが声高らかに叫んでいかなくてはなりません。


その第一歩が、繋がりたい人と繋がるということです。

繋がった人と思いを共有・交換するために、実際に思っていることを何らかの方法で伝えて、〝公共の場で出会っている〟事実を主張 しなければ オープンであるとは言えません。

繋がったその人が分かるような〝文章・言葉〟などを〝リンキング・広義に引用〟することで〝自分のブログで表現する・描く〟こともできます。

プライバシーも、当時のサークルとインターネットの現在では違い、相手のパーソナルスペースを守るために〝様々な方法で行うことのできるリンキング・広義の引用〟を行うのが最善なのです。

つまり、プライバシーとインターネットとコミュニケーションを考えていくと、必然的に〝リンキング・引用の とてつもない 広く自由で 細分化された(多ニーズに合った) リベラル・ルール〟を構築することになります。

ここ、誰もが見落としていませんか?


芸術家同士であるならば、〝著作によるリンキング・広義の引用によるコミュニケーションでしか守れない相手のパーソナルスペース・プライバシーの配慮〟というものが、とても大きく存在しているのです。

保守派などが 大して思慮せず これを制限すれば、プライバシーに対しての大混乱が起きるのです!

これは、ルールを制限した者に近いほど 何らかの責任を必ず負うことになっています。

文脈上は。――実は権利と責任とはそういうものです。

これを信じられないとき、誰も主体的に責任を取らず、ルールも適当でよいと考えてしまうのです。


プライバシーとは、コミュニケーションと〝同じ内面の別の側面〟です。 (個人の内面 と 文化の内面)

インターネット上の記録や著作は〝コミュニケーションという公の場で堂々と見るもの〟です。

相手のプライバシーに配慮する〝リンキング=責任〟を取ればよく〝社会の文字通りのルールに対する心配は 公共の福祉に対して 目を背ける 時間のもったいない行為〟です。

著作に対する国際的なルールとは、〝より普遍的なルールを根拠でもって自分で解釈して 社会にコミュニケーションをつくる 約束〟です。

なぜか、日本は〝具体的にこれはこうだ〟とか 言いがちで、〝国際的=普遍的に主体のモラル〟が 責任の取れる〝すべて〟であることを、おかしく 忘れています。


つまり、次の一歩は、〝好意を寄せる・繋がりたいと思う〟インターネット上に記録報告されている広義の著作の〝内面・解釈〟を〝歪めて収拾する〟癖を 各自が主体的責任を知って 緩めていくべきだということです。

誹謗中傷の掲示板などは、この歪み切ったバージョンを 自ら止められないところまで悪化させた 習慣文脈上の〝キュレーション〟なのです。

〝出会いたい〟対象・コミュニティに対して〝適切なパーソナルスペースとプライバシーの配慮・リンキング・広義の引用としてのルール〟があるのです。

自分が (無意識でも本当の意図を伴って)繋がりたい人へのインターネットによる収集により〝プライベートに〟行っていると称する〝相手が公にしてほしいと思うはずの行動〟は、〝公の場に相手の報告・著作がある〟というモラルにより〝コミュニケーションとして主体的責任を感受する〟事が可能です。


これの歪んだヴァージョンは、大人の意味が事典的に成さない〝アダルト〟的意味での〝し好物〟としての〝コミュニケーションから無責任の収集〟です。

この文脈だけならば リベラル嫌いバージョンの保守派が喜びそうで ナルシシズムを擁護する自由派もどきが発狂しそうな気もしますが―――


女性の中には〝おんなのこ〟がいます。

成長して成人するのだから、あたりまえ ですよね♪



そんな女性、大人でもティーンエイジャーでも、対して 悪しき意図を伴った者が〝独特の服装になってもらって情報発信〟すれば、〝内なるおんなのこも一緒に〟大公開です。

粗い例えであって、描いたバージョンでも 何でも良いのですが、子どもと女性に〝おかしい〟差別の無意識的原因となっている こうした根強い文化は、〝公の場の子どもと女性との責任あるコミュニケーションしか道はない!〟という方向に持っていく〝主体的に徹底的な習慣〟が必要です。

もちろん、上記の例えは〝男性〟も 加えられます。


ファッションショーならば、公の場で見てほしいはずです。

それが〝コミュニケーション〟です。

その責任へのコミット方法は〝広義の引用=リンキングとしてのプライバシー配慮〟も含まれます。

真の芸術家同士の交流が、その大きなヒントとなります。

社会は、芸術家を抑圧するのを、そろそろ 根源的にやめましょう!!


このように、うまく言えたかは分かりませんが、逆に何でも言いすぎるのもダメで、〝洗いざらい自分本位な心配を吐くのではなく 公の場にコミットするルールに実践としてインターネットの(わたしたちの)公開報告はオープンに使う〟ということです。


難しいかもしれませんが、男性ならば 女性と子どもに受け入れてもらえる〝インターネットの活用〟になるように 試行錯誤しましょう。

著作の国際基準の〝レディ・ファースト〟〝おもいやり〟とは そういうことです。

きっと、そこがスタート地点なのです。


きっと―――――。
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2019年04月17日

すばらしい[人間関係]コミット・アート ~著作と社会交流と〝今〟~ ⑤ 《FIN》

私は、芸術家としてのコミュニケーションをしながら、生きてきました。

一人寂しいことも経験し、〝繋がりたい人がずっとそばにいる〟〝大好きな人たちとの末永い人間関係の場所に〟そんなシチュエーションをより強く 望むようになりました。


その中で、インターネットを 自分の魅力の排他性を隠す道具にすることに、もはや飽き飽きし、バイタリティを切り離し 想像そして反復する妄想のようなものに至ることは〝気分が悪いだけのもの〟であることに 気付いていきます。


インターネット上には、人間関係に優れた すてきなつながりを持った芸術家もいます。

壁にぶつかりながらかもしれませんが、色々なところから、学べます。



私は、人間関係と芸術の〝相性〟について、いつも悩んで くじけてきました。

芸術をやればやるほど、公の場で その意図に耐える交流をする〝エネルギーと機会〟を得る方法が 難しくなっていったからです。


芸術は、コミュニケーションです。

インターネットで つながっていくことで、私は あらためて 学んだのです。

形式ではなく。

形を伴わせる強引さもいらない。

インスピレーションの〝アート〟は 自由でいいんだ。

☆―☆―☆―


単なる多数決は、内面や深さの発見と成熟に いい影響を及ぼさないことが、インターネット社会では言えました。

歪みはそのまま 報告ページとして残るのです。

もし、良い意図の芸術の中から〝弱い部分〟を〝社会に受け入れられている通念だ〟として〝本来の意図を自分勝手に独占無視して〟〝多数の同様の良い意図の芸術の弱い部分の表面構造を抜き出して〟〝悪意を持って組み合わせて〟〝知られていない無名サイドの深い功績を一般サイドにショックを与える形で社会現象を起こすために惜しげもなく起爆装置と化して〟悲しいほどに〝世の中の見たくもない部分を無気力に見せられる矮小化〟を画策されたら、その傷跡は 必ず 私たちの歩みに残るのです。

そのおかしな意図とは〝悪い意味でのインターネットのモラルのハードルを壊す事〟にあります。


私は逆で、〝積極的な協力としての 芸術家同士の作品間の 広義の引用を含む コミュニケーション そして 他分野との同様な多面的交流にまで広がるための インターネット上のハードルを下げること〟を 意図して こうして 文章を報告しています。

実際にそれは、花開きました❀


もし、悪い方の意味で、ハードルを壊された場合、私のやってきたことは〝誤解され〟それが目論見でしょうが〝世の中なんて醜いんだ 強者の言いなりになるしかないんだ だからモラルなんてばかばかしくて皆 欲望に浸って自分なんて無くしてしまえばいいんだ〟という呪いを〝多数決にて証明〟させ、そのウィルスを〝子どもや女性の差別となる し好物で自他を鈍らせる バラバラで気分の悪い 天国と称する地獄〟インターネットを媒体とする意味のない独裁主義のためだけに 公のお墨付きを語って ばらまくわけです。

現時点で、インターネットに公の〝すてきな人間関係〟〝協力して創る 自由な芸術と著作の為の 熱心なアップデート型 自由なコミュニケーション引用の為のルール〟が 条件付きでしか 前進しないのは、やはり、誰かが リベラルな民主主義の多数決を悪用して〝インターネットは芸術家を壊すためのし好品である〟という 混乱を〝無防備な経路で信じ込ませることに成功した〟からなのでしょうか?

私たちの深い洞察と意志は、生きますか?

行きましょうよ。



健全に深く、公のインターネットコミュニケーションがリベラルな多数決・正常な判断を伴って 豊かで濃厚な安定を獲得すると、誰も誰かを陥れたりするような 意味のないパクリ騒動のような問題は 起きず、邪な画策は 皆にしっかりと伝わって見抜かれてバレて 目論見は拒絶され、社会の因習の蓄積・ルールの混乱こそが苦しみとしての〝し好物の牢獄の掲示板なんだ〟と〝理解して二度とそこに陥らない〟のです。

自転車の乗り方と同じで、覚えてしまえば、思い込みとしての無秩序な情報に左右される必要が無いのです。


うまく書けたかは分かりません。

本当は、30ページくらいのパートに分ける文章量ですが、5パートにしています。


好きな人の 渾身の〝やさしいアート〟の 公のインターネットでの〝プレゼント〟は、えも言わぬ至福です。

皆にも そういった喜びを味わってほしいのです。



誰もが著作を持ち、誰もが究極的には芸術家―――

きっと、未来の地球は、どんどん豊かになるでしょう!!


いいね(≧▽≦)☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡
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