2019年03月04日

エンターテイメント・ブログと 一般ビジネス広告の 阿吽の関係(・∀・)ωωω

アニメやゲームなどの〝広義の芸術分野〟は、今なお〝周辺化〟されているように思います。

理由は、内面を〝ものづくり〟に 縮小・還元して見る傾向(商業的選択圧力)があるからです。

すなわち、健全で深い〝内面〟を よりインテグラル(4象限的)に理解(定立)しようとする〝アート〟が、公共の福祉・社会の発展(みんなの幸せ)に寄与するということです。

〝売れようとすること〟で やりすぎてしまい、上記の条件をクリアできないような作品(思想・意図)が 一定数存在することなどから、一般ビジネス(企業)からは、とっつきにくい存在(分野)と見なされがちなのでしょう。

まず、〝そうではない〟と 説得力を持って主張できるようにする必要があります。

私が思うに、そういった 統合的芸術分野の〝真の強さ〟は、〝ファンにある〟と思います。

ファン(文化)と アート(作者)が 同時生起的(左側の象限)にて しっかり根付いていれば、内面のプロフェショナルな勢力運動(主張)となり、周りに認められていくでしょう。

そのために必要だと感じるのが〝ファンのブログ活動〟で、私はさらに〝大多数を占めるであろう一般企業の利益を助ける広告も (可能なら) 掲載して運営するべきだ〟と主張します。

そのためには〝まともな広告〟である必要があるので、方法は限られてきますが、多くの企業が芸術分野に一目置いて感謝するようになれば、アーティスト側への投資も増えて、世界はさらに新しい豊かさを得るでしょう。

著作権上の時代の流れで、日本は (該当の) TPPに合意しましたが、世界の公共の福祉を考えるという意味ですので、職業選択の自由を最大限に取るのです。

つまり、健全で深く(意志を持って一生懸命)行っているのなら、一定数の人が言うほどは ブログ広告は 難しいわけではないのです。

〝長い目で見て、芸術と一般的な広告は 大きく関係する〟ということを、今回は言いたかったのでした。

結局、自分たちの利益のことしか考えない〝騙して儲ける〟という〝長期的に見て社会を混乱させる〟排他的な営みが問題なのであって、芸術家は〝統合的なリンキングとその理解〟が〝努力義務≒広義の仕事〟だと思います。

ファンのブログは、〝良い広告≒良い意図〟を 一致させていく〝核の営み〟だと 考えます。

これは、政治と世界平和にも言えますね。


(ちなみに ファンのブログの視点は 主体[経験・解釈]×対象[芸術家の意図・作品] が メインです。 これらが総合されて文化に成ります。)

posted by インテグラルとど at 13:18| Comment(0) | 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2019年03月08日

核ミサイルを〝平和利用〟に! ~世界のエネルギー問題解決~

経済的な事柄ならば、核兵器をつくらなければ良いのです。

また、今存在する 核ミサイル等の 内部にあるエネルギー的なシステムは、お金をかけて ただ廃棄するのではなく、そもそも 発電の燃料になるものなのだから、公共のエネルギーにすればよいのです。

( 仕組みは ひとまず考えず、以下を主張します。)

核保持は単なる〝大人の事情=狂った社交辞令〟で、もし 世界で核を全廃する合意の可能性が含有されているのなら、最初から〝原子力発電に転用〟できるように 開発されていないとおかしいのです

また、発電用の原子力は兵器にできないようになっているはずです。

誰もがこういったことが 自分のレベルで分かるはずであり、にもかかわらず、いままだ エネルギー問題と核の放棄の一進一退が続いているのは、理解にくるしみます。

ノースの韓国さん(中国と隣接している方)をはじめ、様々な新興国・途上国が〝アメリカのような物質的に豊かな暮らしを羨む〟フラットランドな国際的心持ちの中で、〝兵器開発ではなく、核なき エネルギーへの転用の方が 遥かに簡単に内面を含んで豊かになれる方法だ〟と、私は強く言っておきますね(・∀・)
posted by インテグラルとど at 09:00| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2019年03月12日

自転車(サイクル)と 自動車(二輪・四輪)が 〝同じ車道を共有して走るための〟推奨速度構想 (私見)

自転車で車道を走っていると、あまりに自動車の追いつきが早く、端に寄って停車しているときに対向車が来る場合 後続車も急停車することになりがちです。

もっと速度を落としていれば、スムーズに運転できるのになと、いつも 疑問に思います。

そこで、スピードを出しすぎない方が良い道路を優先して、制限速度の表記を変えてみたらいいのではないかと想像しました。

実際には法律も変えないといけないのかもしれません。

制限速度40キロの道路は60キロ以上で[おおよそ平均的に]取り締まられるそうです。

これを、制限速度50キロで取り締まると言えば、速度計ばかりを見て前を見ないドライバーが多くなるだろうと 行政は考えているのだろうと、私は思いますので、〝推奨速度30キロ〟にすればよいのではないですかね?

誰かが言ってそうですし、そういった補助的な表記(安全運転表記全般)は 至る所で見られはしますが、現時点での40キロ制限の道を〝推奨速度30キロ、50キロ以上で[同上に(〃)]取り締まる〟とすれば、+20キロは 変わりません。

多くの次世代のドライバーは、速度を落とすでしょう。

自動車が減って自転車が多くなったタイミングで〝制限速度の標識はそのままでも 推奨速度は10キロ落とす〟と改正すれば、新たに標識を設置する必要もありません。

制限速度を守る自動車をあおる自動車は 自転車と原付の天敵なので、一発免停にしてください、といつも思っています。 煽りの対策に 自動車は後方にドラレコを付けて 、後ろの煽りにより制限速度を一定以上超えてしまった時には〝煽った方の取り締まりを主張できる〟仕組みにできれば、自転車は平均的にかなり走りやすくなるでしょう。 交通量の少ない道の方が、煽る自動車は飛ばすのです[驚]

この発想の最大のメリットは〝自転車の平均的な走行速度 時速20キロ〟に近づくということです。

カーブと横断歩道の多い〝ゾーン30〟の〝推奨速度は20キロ〟(以下) です。 自転車位の速度です。

上記の道でも、未だに自動車は40キロ以上出しているのではないですか?

自転車[この例では私]が横断歩道前の車道外側線エリアの停止線で停止、時間が経って横断歩道通過自動車が来なくなってから 渡ろうとしていた歩行者が横断開始、まだ歩行者が渡り切っていないときに 大して減速せずに新たな自動車が突っ切ってきて 通過

が私が見る現状で、もっと速度を落とさないと 安全運転義務を制御できないと、自動車達は いつも シチュエーションとして結果的に主張をしています (はたから見ると)。

自転車は自動車が来なくなってから発車するのが 安全上 より正しいので、自動車は わざわざ 前方に車両がいないとき 無駄に速度を出してこなくてよいです。 自動車の為の加速スペースだということは無いです。 むしろ、縦の 自転車の安全マージンです。

〝自転車は車道〟と 公に声を大にして言われた今、〝大概の道は やむを得ない歩道走行が知恵〟と主張する私(ルールにのっとった個人的な運転)でさえも、なるべく車道を走った方がいいのではないか? と (歩行者皆無の歩道でも) 時々思います。

全ての道が律義に 自転車通行可とは書いていないし そういう道の中でも、路側帯や車道外側線が狭くて交通量のある道は〝元々自転車は歩道を走行するべき乗り物という世間的立場だった〟から 〝自転車は歩道を走行する設計で作った〟ようにしか見えないので、通過方法に苦労しがちになることもあります。

歩道が狭くて仕切られていて 歩道に人が一定数いる〝ゾーン30〟の道などは〝推奨速度20〟に今すぐにでもして〝自転車は車道走行を徹底推奨〟すべきです。 ここを 時速40キロで走ってくる自動車は ルール違反うんぬん以前に〝交通のジャマ〟です。 自転車を歩道に追いやってはいけない道は、存在します。

自動車は多分、フローチャートのような運転をしているのでしょう。 自転車ならば 加速もブレーキも 力に比例して伝わりますので 自転車より自動車は 安全の細かい部分に対して対応が粗くなり そのことにドライバーは 大概気付いていません。 自転車が前方にいる場合は、もう少し自転車の感覚になって 余裕を持って速度を落とす方が 長い目で見て早くなる気がします。 急がない方が 燃費がいい上に 安全で快適です。

自動車は、車間距離が狭くなる現状などの理由により〝安全で快適な運転を忘れて 目的地に早く着く運転をしがち〟なのだと思います。 自転車と違って、余裕のある運転ができにくいし そういう運転の選択肢が本来は存在することを 認識できなくなっているのでしょう。

このことが分かっている自動車ドライバーならば 今回の〝推奨速度〟のメリットは十二分に うなづけるはずですので、積極的に声を上げていけば 実現するかもしれません

その場合は、車間距離をさらに取るように ルールを変えた方が良いのかもしれませんね。

到達時間と運転方法を総合的に考えていけば、〝平日休日・全時間帯〟で 適用は可能だと分かるはずです。 運転とは、大部分が ルールを含んだ上での 個々人の創意工夫なのです。


[特集] 〝セーフティで優しい自転車走行への道〟☆2019要約加筆バージョン☆ は こちら
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2019年03月16日

なぜビジネススーツは魅力が無いのか? ~リベラルの真の目的~

唐突ですが、なぜこの題名(表現)になったかは 割愛します(爆)


ここで言うスーツは、就職活動の時に必要な?ものを指します。

粗いですか(・∀・)??


[ 【魅力≒芸術的なファッション性】 : 成り行きでこのニュアンスになりましたが、日本の制服文化的視点を重心にして〝なぜビジネススーツは魅力的なのか!〟という記事を 真剣に書いても良いのです♡ ]


社会が内面に何とかして開こうと手探りを始めているということで、次世代向けの社会システムに興味のある方向けですが、現状として アプローチの方法と領域が バラバラだと感じます。

つまり、スーツから見る なんとやら―――――(・∀・)


はっきり言って、〝強制されている〟と思うでしょう。

私はそう 強く思います。

これを〝仕方がない 言いなりになろう〟と言うと、〝すでに感受性が潰されており 内的に非常に貧困〟です。

〝着たいものを着ていきたい〟

これが正常でしょう。

ただし、何を着ていくのか、そもそも服があるのかという 面倒事もあります。


なぜ、こんなにも〝かたくな〟に スーツが指定されているかは さておいて、一般論では〝スーツは ファッションという名の私事(わたくしごと)ではない!〟と 誰かが〝言い切ります〟!

一方で、アパレル?――ファッション業界に関係する制服には〝販売用のファッション性が追求されている〟という視点もあるので、そもそも〝ファッション=私事=仕事には御法度 が成り立つ強い根拠はない(いくらでも反例や要点を挙げられる)〟と むっさω言えます。


結局は〝リベラルな合意〟が〝機能適合のみの狭い視野に拘束されている〟ということです。

内面のリベラルな合意を把握できずに ずるずる 来ているわけで、〝内面≒芸術〟が〝リベラルな合意の外側に投げ出されている=(前)慣習的なコミットに留まる〟という〝芸術の周辺化≒内面を物に縮小すること〟が 起きました。

本来、子どもでも内面を持っていますので、上記は〝子どもの意識とは関係が無い 不均衡な運動〟です。


〝働きたくない〟と言うと〝来るな〟が〝合理的〟と思われますが、これは〝リベラルな内面の視点が決定的に欠けています〟!

この視点は、リベラルな内面から見ると〝暗黙の不合理なルールの外側(土壌)から突いている〟と 理解(発話)できます。 そうとも取れないのは〝内面など ビジネスルールに存在していないから〟です。

一方で、マーケティングで、顧客の内面を理解しようとするアプローチは とうに一般的でしょう。 〝顧客(の好み)はビジネスでは無いから 上記ルールは適用しない〟とでも 言うのでしょうか。


志望動機は〝決定的な理由〟が求められますが、〝内面が無いなら 特性と学歴しか根拠にしようが無い〟としか言えません(驚)

リベラルな内面の合意から見ると、そんなもの 全く〝決定的な理由〟に なっていません

よって、厳選に選んだつもりで〝くじ引きで選んでいる(爆)〟わけです( ゚Д゚) ←その場合。

はい?――と思うかもしれませんが 一定数の〝社会に合わない〟と思わざるを得ない人が つぶやいているはずです。

道路交通を見て見ましょう。 歩行者が横断歩道上で分かりやすく待っていても 誰も停止線で止まれないのではないですか?――流れなどという〝いいわけ〟は そんな程度です。 社会は回っています。(混乱のドヤ顔で)


芸術家がなぜ〝周辺化されている〟のか ひを見るより明らかな理由です。

そもそも〝リベラルな合意の内面(≒独り立ちしているアーティストの熱意)は 存在さえ認識されていない〟のです。

本当の動機(熱意)は〝普遍的に 相手の本当に言いたいことを理解する〟ことで 成り立ちます。


リベラルな内面の合意が成されないまま 上記〝相手を理解〟しようとすると、通常〝本人の身体的な感覚や感情と快不快に特性〟のみが 議題として挙がり 内面(ハート)が そこにありません。

最初の方に言ったように、〝リベラルな内面が合意されなければ (前)慣習的なもの 他者の意味(熱意)に普遍的に立てないもの〟に ただ深そうな言葉を並べるだけのアプローチに 成り下がります。


教育は〝慈善事業ではない〟とか言うことを(不合理に)好む人がいますが、〝リベラルな内面の合意(リベラル教育の根源性)とは そのレベルにまで成長することを奨励する責任を持つこと〟なので、ないがしろにすることを以って〝私は自分勝手な独断で 社内の人間関係(普遍的意味による熱意)など どうなってもいい〟と言います。

私は、〝面接のスーツも 仕事に関わるすべてのコストは リベラル教育的責任を根拠に以って ビジネスに拠るものなのだから 会社が全て負担すべきだ〟と主張します。

リベラルな内面の合意が必要な意味です。

ん?――分からないって??

くじ引きで選ばなければ、魂(普遍的な熱意の関係)で選べれば、互いに相性が良く〝自然に責任と関係にコミットする〟ので〝長く続けられて コストも下がるし 提供に値することをも十二分に納得できる〟からですよ。

無慈悲な競争に勝手に流れ慣らされてきたことで 誰も分かっていないのかもしれませんが〝他の企業より一歩先の地平でやりたいという協力〟なのです。一歩先への手探りの閉ざされた競争だと 普遍的な内面が根付かないので 結局 宣言だけです。


どういうことかは、〝なぜ はっきりとした笑顔と態度で営んでいるのですか?〟――― 会社人間は〝答えられない(はっきり聞かれない)と思います〟

実は、会社から離れているのに〝だからこそ 笑顔と言葉遣いと細やかな作業〟を楽しんでいる強者がいます。

これはもはや、会社の外の〝営みに育てられた〟のです。

会社の外側の〝より普遍的に人々の目線の中で公開する〟営みが、真の前進です。

普遍的な内面を忘れることで 適当に業務を継ぎ立てていった成れの果てが〝過半数をも超える!?自社の隠蔽〟です。 結局、私の言っていることの基本が ばかげたようにしか見えなくても 根拠は示せているでしょ?


久々に、こういった内容の主張を書いてみました。

昔に おかしいおかしい と思ってきたことなので、現在の眺めから書いておいても 意味はあるだろうと感じ、書きました。

文字では 感情的近況(アーティスト的な何とやら)が伝わらないのは知っていますが、〝解釈する〟という運動は アート鑑賞と同じですので、大した目的の役割の違いはありません❉
posted by インテグラルとど at 09:00| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2019年03月17日

京都のねこちゃんが✧とってもキュート(・∀・)♡

書こう書こうと思って、書く機会がありませんでしたので、こちらに書きます。


〝みゃーこ〟かわええ――(゚∀゚)――!!


P.S.

テレビをつけた時にたまたま、京都の市長さんが 出ていて、新しい駅ができるーってやっていました(・∀・)

そういえば、すでに 色々なお花が そこらへんに咲いておりますね。


にしても、〝丹波口〟駅って、すごいところにあるやん(・∀・)ω

いいね♡


地理的に 兵庫県の篠山口駅も検索でどうぞ♪

posted by インテグラルとど at 12:17| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

ちっぽけな一輪は❀ちっぽけじゃない! ~有名無名の✧ステージ=ストリーム✧~


いつでも うきうきで たのしい日々が〝いい〟ですよね。


現状を打破できない環境が続いていると、そのバランスに慣れてしまって、〝夢を失う〟ような状態になることがあります。

無名サイドは〝現状の報告〟に強く、有名サイドは〝夢への勇気づけ〟に強く、別々の発達ラインとして 見ることができるものです。

(あらゆる領域に発達ラインを見ることができる ということです。)


つまり、両者の立場(慣性系)共に〝発達のレベル(深さ)がある〟重要な点があり、そこを見落とすと 〝無名より有名の方がましで、どんな手段を使って 夢を失っても お金を稼げる方が 勝ちだ〟などという〝狂った結論〟に達し得るわけです。


アニメの制作で言えば、〝意志の持てない〟作画をする人が求められているとしますと、私はそういったおもしろみのない文化の〝作品にはふれない〟でしょう。


このように、無名サイドの中に〝どうにもならない空気〟の蔓延の雰囲気が漂ってくると、誰かが〝王座に〟就こうとしますよね。 (おかしな意味で。)

私たちは、そういった〝二の舞〟を もう行く必要は無いのです。


で(・∀・)


明るい話題が〝無名サイドに浸透〟すればいいわけですよ。

例えば私たちが 作品の〝ワンピース〟に関する話題を〝ウキウキ〟と行えれば、無名サイドの私たちは〝ワクワク〟です(・∀・)

これを、アニメサイド(?)の私たちにできるのか? と言いますと、〝慣れ合い〟はせずに〝簡素な批評に開かれた堂々とした協力〟の人間関係に インターネットを通じて開ければよいわけです。

そのために ブログとか開いてきたんです♡


さっきの〝二の舞〟を行かないポイントですが、かつても似た へんてこ雰囲気だったので〝皆の増幅的心配事を利用させない〟意味で

〝著作権法のTPPあれこれに対する 日本の次の一歩に関して いちいち おかしな解釈で突かない!〟これに尽きます。

芸術家サイド、特に美術家さんは、〝絵を掲載する〟ので、そのまま あれこれ想像しがちですが、私も野外の簡易ライブで声を掛けられたこともあるので、もう、おまわりさんも信頼しましょう


私の主張した〝統合的リンキング〟は〝芸術的なセンスを持って他の芸術作品の視点と一緒に描く〟ということです。

これをなにやら〝よく思わない〟ところに〝矮小化〟された結果、コミックマーケットのファンアートかな?の関連にて〝ダメ〟だとか 逆に〝正義なんだ〟とか火が付いていたりしますが、元々の〝妬みの抗争〟に原因があるわけで、深いものは深いし、統合的リンキングを邪魔しているものはしています。

これを、著作権的なTPP関連の合意運動と法律で すぐに〝深さを見ることで 悲惨な矮小化だけを解体する〟所に行きつかないでしょうが、〝芸術家が深さを主張する〟運動をあきらめてはいけません。 それがカギです。

知識に飛びつくより、自分の根源的な〝アート魂〟により、持っているものを、描いてきたものを、ちゃんと見るのです♡♡


この〝深さを主張する〟は〝コミュニケーション〟です。

芸術家は 一般社会人サイドとは違った交流 即ち〝インターネットでの作品公表にて互いに主張を包含し合っていく〟ので、その深さを見抜いていくことで〝他のアーティストの作品の主張も自分の芸術的コミュニケーションにて引用する〟ことは 避けては通れません。 それをしないと、権利=責任 の通り、その世界空間から追放されます。

この〝あたりまえのこと〟は、深さによって〝芸術家自身が主張〟していく必要があり、ただそこに並べられているだけのものではありません。

この覚悟を持った芸術家は、TPP関連の合意に〝つつく〟よりも、より真剣に〝心配事にとらわれない〟必要性を強く分かっています

肝心の芸術家サイドは、著作的運動のプロフェッショナルであり、特にその〝無名サイド〟は インターネットにて大きな発言力を持っているため、他分野の無名サイドに

〝むしろキタ――(゚∀゚)――!!〟感を醸し出していた方が、明るいですよね。



というわけで、ありったけの きらっきら✧の話題を

いつも お空に✧描いて✧いきましょう(・∀・)♡


☀☀☀

posted by インテグラルとど at 12:37| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2019年03月21日

自転車追い越し―見通しの悪いカーブの手前で車はなぜ速度を上げるのか?

交通量がそれほどでもない片側一車線の破線の道(今回のコーナーにて議論する種類の道)ならば自転車でも走りやすいと思います。

例えば、下りの後に上りがある場合、自転車は速度を上げることが多いでしょう。


[このコーナーは私的な走行経験に基づいた普遍的な?おしゃべりで、交通安全が目的です。 また、走行は各自がしっかりと責任を持ってくださいね。]

(速度を下げない=高速走行のまま=速度を上げる[題名表現] の意味です。)



基本、自転車が高速になるほど 左側のマージンを取る方が安全だと 私は経験により思います。

自転車が高速で走行しているとき、私は後ろに自動車は付けないようにしていますが、制限速度をオーバーして突っ切ってくる自動車がいますよね?

自転車が時速30キロ、道の制限速度が時速50キロ(ただし山奥などのローカル規格)、自動車がすぐに追いついてきたら まず 時速50キロよりも かなり速度を上げています。

自動車は日常的に、それを危険運転だと認識せず、注意されないからと 当たり前のように繰り返しているようです。

なぜそうなのかと 私が言えるのは、その後、自転車を追い越すのに〝1.5メートル以上空けるタイミングは必ず1分以内に来る〟からです。 きっちり運転できるのなら 安全上、ロスなどほぼ無いです。 なのに カーブで無理やり抜かしてくる自動車が一定数いることから、そのドライバーたちは〝当たり前のように繰り返しているのではないか?〟と私は言います。

自動車は自動車に殆ど追い越されませんから〝あまり見られていない〟と思っているかもしれませんが〝コミュニケーションができるので発言力を持った=人間 が乗っている自転車に 追い越しなどのふるまいの体感はバッチリすぎるほど要チェックされて〟いるのですよ?

自転車では〝いかに自動車に安全に追い越させるか〟をイヤというほどやります。

自転車に乗らない自動車ドライバーには 優秀な人でない限り この体感はまったく無いのだと思います。

余談ですが、読みにくかったら、自動車ドライバー〝さん〟を付けてね。


自転車と自動車はブレーキの性能が違うので、自動車が自転車を〝自動車と同じ速度感覚で見て車間距離を詰めるのは自転車から見てとてつもなく危険〟なのです。 速度が出ている時はブレーキをかけて停車するまで時間がかかるため 停車する必要がある時は 早めに強くブレーキを掛ける必要があり、私の経験では この運転を自転車がなぜするのかを認識すらしていないドライバーばかりだと思います。

歩行者に対して、自動車が一瞬で止まれる場合でも、自転車は無理なのです。

自転車は、歩行者に対して安全運転義務は必要ないと 自動車ドライバーたちは思っているのでしょうか?

前方自転車の速度自体 掴みにくいのは分かります。

歩行者がほとんどいない道の場合で話していますが、自動車が真後ろにいる場合は 減速自体ができにくくなるということです。


私は、どうしても速度を上げたいときは 後方に自動車が来ていないときに上げますが 高速走行時の後続ブロックは危険なので 自動車がかなり後方にいる時の 減速の意思表示のために行うことがある程度です。

自動車に道を譲っていると思われない進路(左端走行のバリエーション)を 分かりやすく取るということです。

それでも後続車が迫ってきたら、見通しの悪い地点や対向車が来ている場合に 減速して端に寄って 徐行・停車するしかないでしょう。 (安全な地点に。)

どれだけ、自動車が来ていないときに発車して縦のマージンを取っても このシチュエーションは起こり得ます。


カーブの手前などで自転車を無理に追い越そうとする自動車は、対向車が来ないだろうとして追い越しに入り 来たら スレスレでも構わない と 大して何も考えていません。

体感です。


自転車が減速すると 自動車も減速することがあるため、信頼して速度を下げない方が良いこともありますが、危ないシチュエーションほど 期待を裏切られることが多い気がします。

下り坂では、自転車の減速は 時間がかかるため ややタイミングが不自然になりがちで、速度を下げない方が 後続車にとって 走りやすい流れになるのではないかと思いますが、その場合、自転車が時速30キロ出ていれば 自動車は 本来 10キロほど速度を早めに下げて 時速40キロくらいで 距離をかなり開けて カーブの後 対向車線の状態が確認できるようになってから 速度を上げて追い越すべきでしょう。

自転車走行中は 後続車の台数が殆ど見えないため、最悪のタイミングの2歩手前で追い越された時 たまたま後続車が複数いたら 最悪のタイミングで追い越しが発生するわけです。

全員が制限速度をオーバーしないと赦せないような走行をしていると 自動車は 時速40キロという (このシチュエーションでの) 高速走行状態でも 後続車をつける結果となるわけです。

最大速度が時速50キロ、カーブは時に(最)徐行して 最大でも50キロまでしか出すなよ! という意味です (私の書き方・視点です)。

50キロ以上出せではないです。

自動車って、免許制ですよね(・∀・)??


自転車の下りでは ゆっくりめ の走行が安全だと思いますが、(横断歩道のない場所で歩行者がいきなり横断し始めるなど) 急停車する可能性があり それが適切なシチュエーションである場合です。 車道でどんな時でも とてつもなく ゆっくり走行するのが 必ずしも良いわけではありませんね。


たとえ時速10キロの自転車でも 前方にいて 追い越しが安全にできない場合は、自動車は距離を空けて 時速10キロ位まで 速度を落とさなければいけません (自転車視点)。 後続車が怖い場合でも 前方が自転車ですよ? 適切な判断を任せます

自動車ドライバーに言いたいのですが、通勤で片道10km 自転車でって言うと、すごいって思いますよね?

時速10キロって、電車でも変わらないくらいの移動です。 (都市部で近距離換算)

たった1時間で10キロも進むのですから、特に信号が無い道ならば、全く遅くならないではないですか!

時速10キロは、自動車ドライバーにとって 停止も同じなのかもしれませんが、奥が深いですよ。 時速10キロは!


自転車と自動車、どちらの乗り手に話しているのか?と 思うような文章かもしれませんが、歩道からの視点も含み、ありとあらゆる着眼点を含んで走行するのが良いのではないでしょうか?という 発話(私の主張)を含みます。


[特集] 〝セーフティで優しい自転車走行への道〟☆2019要約加筆バージョン☆ は こちら
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2019年03月24日

誰がトクをするの? ~著作にルール? 【引用(主張)=交流】~ ☆一般向け☆


芸術家は シンプルに明るい日々が良いので、今回の主張は〝アーティストと直接的な縁の無い〟人々向けとしています。 【アーティストも読めます。】


[今回のお話のポイント : 「解釈・判断には適切な深さが必要」 「嫌がらせのパクリ発言は拒絶・反証できる」 「法則・メタ要素は個人的な著作を越えている・先だって在る」 「引用は主張で コミュニケーションにとても重要な責任」 「深さを認めたい衝動の抑圧・責任の放棄が 著作的なルールと世界の 混乱となる」 「二人称の著作のルールと引用の交流を重要視し 個々人の断片化した利益に還元しないこと!」]


〝引用の主張〟とは〝主体(主観)が行う〟責任(権利・義務)です。

つまり、〝引用のネタ元(主体・主観)を理解できる(深さを持った)人〟が適切です。

〝引用の方法(慣行)〟は〝(主張が)多岐に渡り〟〝(主体・主観が) コミュニケーションとして なぜ行うのか〟を〝(解釈者が)主体・主観的に判断・理解〟する必要があります。 (その高度で〝あたりまえ〟です。)

仮に、そうでない者が〝これはパクリだ〟と言っても、〝そうやって引用(表記・描写・主張)しないと理解できないから〟〝この主張に興味のあるコミュニケーションを享受している主体の集まり(コミュニティ)は こういった関心・アート・運動・人間関係・明らかな領域での深さを持った人たちだから〟〝興味の持てる人が適切なバランス(批評や包含)によって理解できる主張の最大数を抱えているから 誰も理解したがらない単なる独裁的で歪んだ或いは稚拙な主張とも関係しないんだ〟〝だから 真に興味(責任)の持てる人たちだけが それを真剣に主張しているんだ〟〝証拠や実質も(一定の方法を内面などより 適切な者が一定期間以上試みることで)存在するんだ〟という反証・主張(深さを伴ったパラダイム)によって、実は〝(浅い パクリであるという主張を) 拒否〟できます。

それを知らない者が、その責任のすさまじさを〝知らなかった〟では きっと〝すまされない〟と思うのですが、表面上は逆に取られていて〝法律の方を(内面など無視して)独裁的に歪めて捉えた気になって、僅かでも似ているものがあれば 知らなかったでは済まされない〟とか〝パラダイム的に破滅的に崩壊〟している主張(にもならない主張)が 未だに横行して(いる気になって)います。

その深さの〝すさまじさ〟を知らないと〝社会や世界は大混乱〟し、〝表面上は それをした者が責任を取らなくてよいように 周りはふるまっているように見えるから(シャドー・投影)〟と感じても(主観)、〝真実(元の主張・パラダイム)が明らかになることで(主に内面的な)証拠が提示され 周りが納得し 責任を取らなくてよいなんてことはなかったんだ〟ということが どんどん明らかになってきます。 (それを皆が避ければ、やがて次の世界大戦 世界の崩壊が起こるからです。 外交政治にも影響を与えるからです。)

ゆえに、理由も反証できない〝虚無主義的・操り人形的・嫌がらせでナルシシズムを楽しむだけ的〟な〝これはパクリだ〟という根拠のない主張は、これからの時代〝絶対に おすすめしません〟!!

えらいことに、なりますよ。

なぜかと言いますと、〝どのような深さと規模でどのような経験(山)を越えてきた人々の主張であるか〟が見えないのに〝そんなものに価値は無い〟と断定しているからです。

価値は無いと思っても 明確に〝なぜそうなのかを長期的にでも〟〝主張〟できる熱意と実質が無いかぎり、〝知らなかったでは済まされない〟でしょう。

私が手厳しく言っている 一部のおかしな人たちとは 道路交通で例えるなら〝運転免許など機能していない(これは議論はできます)ので 自動車はルールを無視して好き勝手に運転しても良い(誰もそんなことは言っていない!)〟という主張を〝言えるから言っていいんだ〟として 自分も含め 騙している人たちのことです。 ( )内は 私のモラルに基づいた説明です。

〝パクリだという根拠のない(悪い方の)主張〟は〝上記の道路の例えで言えば 自動車のルール無視がまずいことだと私たち(社会)は既に反証している あたりまえの点を認識できない人々に騙してウソを植え付けている 本人が 嘘だからやってはいけないことだという自覚すらも崩壊している〟ということです。

これは・・・危ないでしょ?

芸術を〝売り物にしようとする〟制作の現場で〝過酷な労働〟が蔓延している実情は〝上記の無自覚的な虚無主義が 明らかな根拠と末路により いけないことである(知っていたら絶対にやらなかった)とすら認識されていないものが〟〝縛れていない〟からです。

おかしなルールで運転している自動車(売り物に特化した製品の領域 の崩壊)が多いと、自転車(売り物にするための条件がある著作各種)はまともに運転すらできません。 ―― ( ) は例えです。

これからの法律(基本的な規制)は アート関連においては〝ミラーサイトを取り締まる〟以上のところに行くべきではないのです。

解釈の深さと実質を伴う〝コミュニケーション〟によって〝引用(リンキング)は統制〟されているのであり、第三者(裁く権限を持っているとするもの)が〝間違った解釈をした〟結果〝公共の福祉に絶大な不利益を与えた (次の世界大戦が起きて地球が崩壊した)〟となると〝誰が責任を取るのですか?〟

もう一度言いますが、〝深い実質を伴った主張(とその綿密な引用のネットワーク)を(ルール上)間違って解釈する=パクリだと主張する〟は〝同じこと〟です。 法律が〝ニヒリズムに基づくと、公共の福祉を破壊します〟!

もう一度言いますが、つまり〝法律は公共の福祉を破壊します〟!??

はい??

ということです。

もっと穏やかに言いたいですが、これは、芸術家には言っていません。 その苦労を知らない人々に対して〝知らなかったでは済まされない〟部分を突いているのみです。

その気になれば、コミュニケーションをぶち壊すのは〝キャラ名やキャスト名をもじって作者や作品(主張)にあてつける〟だけで(短絡的には)事足りるのです。 法律でまずそこを縛るのは(現在当然そうなっていない点も含めて)無駄です。

なぜならこれは、引用の基礎〝コミュニケーション=私たちのアイデア・著作〟という あたりまえすぎる事実があるからです。

(私たちが受け入れられる〝私たちが適切に使えるキャラクターの(普遍的・形式的)名称〟などが コミュニケーションとして在るということです。)

著作的な〝法則〟〝深層構造としてのメタ要素〟と言えまして、〝自動車を健康に運転するための日常的なやりとり〟のようなものです。 こちらまで崩壊すると〝著作物はできません〟!!

つまり、本当に、法律がニヒリズムを支持したら〝否応なしに 破滅的な結果が出る・見て分かる・知っていたらこんな決まりにはしなかった〟ということです。

なので、〝一部のおかしな人以外は〟〝そもそも 著作に関するルールがおかしくなりようがない (そうでないと著作自体ができないから)〟となり、〝深いアーティストが著作自体の事実を主張する自由 (権利=責任・義務) が これまで同様 当たり前に存在することを 明らかにするのみ〟で成り立つことがわかります。

よって、騒いでいる人がいるなら、それは〝ニヒリズムに加担している〟ことにはなりませんか?

もちろん、公共の福祉にのっとった〝ルール〟を適切に〝話し合っている〟ならば、それに該当しませんよ。

確かに、現時点での〝企業内の隠蔽の発覚〟〝世界的な違和感だらけの政治近況〟など心配の〝著作に投影された〟形態を見ている、ブログなど誰でも書くものこそ〝著作〟の運動であるから、など、様々なことが言えますが、〝強い責任を引き受けた深い芸術家の引用の世界〟を〝殆どの一般の人々〟は〝知りえない〟点で、〝誰にでも言える程度のこと(間違った解釈) では 少なくともありません〟!

しかし、法律を具体的に運用しようとなれば、〝明らかに既におかしい部分=深い芸術家が引用の責任を負う法則的構造をなかったことにする主張〟は〝最初から相手にすることすらできない〟のです。

よってこれは、ニヒリストが流行らせただけの〝混乱〟と言えます。

深い芸術家は まじめで仕事熱心であり、私のように〝じっくり〟論じる時間が無いだけです。

行政さん。自転車専用通行帯の路上駐停車(特に交差点直後と直前も)・車両通行帯での自動車の自転車への追い越し方。ちゃんと 正しい安全なルールの進展はありますか?――著作関連よりも 誰でも見て分かるのはまずこちらからですよ。これができれば、芸術家も よりイキイキとできるのです。(著作関連の法則・ルールを 明快に説明できるから・社会がそれを求めるから。)

記号論では 見て判別できるデータは〝シニフィアン〟です。 これだけで〝内面=著作・意図・感情や思想〟は〝網羅されますか?

明らかに〝こころの中の気持ち〟は〝データ=シニフィアン〟だけでは〝100%は理解不可能〟です。

データ(シニフィアン)を 質・量ともに〝膨大にすれば〟解釈はし易いのですが、それでも〝作者(とそのコミュニティ)が コミュニケーションによって 時間展開上で説明・アップデートする〟ことでしか〝100%の理解〟はできないのです。

一見、データ(シニフィアン)だけで 芸術は成り立っているように見えますが、芸術家がどのようにしてその意図を込めたのか・現在その作品内でも表れている内面的な〝何を見てほしいのか〟などは〝主体(主観)=シニフィエ〟であり、そのコミュニケーション(データ・シニフィアンと 内面・シニフィエの総合的・複雑なやり取り)にて、初めて〝本当の芸術と言う指示対象(レフェラン)〟が明らかになるのです。

AQAL(ポスト形而上学)では こういったメタ的な法則的流れを〝オペレーティング・システム〟と形容したりしますが〝深層的な法則は 深い芸術ほど 色濃く根拠を増し 引用とコミュニケーションとして複雑に反映され ルールで縛ることはできません! (さらに先だって存在する〝法則なので〟!)〟

データ(シニフィアン)を見ただけで(深さに関わらず)誰でも(そのシニフィアンの表面を把握できる感覚があるなら)〝パクリだと言える〟などということは、100%ありません! (内面的な経験を必ず通します。)

事実は逆で、上記のパクリと言う〝間違った解釈〟が〝公共の福祉を壊滅をもさせる 確固たる責任が存在することへの無視〟なのです。

時代の深さが発展するほど、稚拙な人々(未来ある健全な子どもではなく)の人生(生活)との緊張度(今まで起こらなかった現実的な問題)が倍増していきますが、こういった深さの無視こそが その倍増の〝正体〟だということです。

深さを認識したい (けど 責任を取りたくないから深さなんて なかったことにしよう)〟このシャドー化のプロセス(抑圧した衝動)がプレッシャーとなって、著作的な法律(ルール)に投影されます。

これを〝悪用する〟芸術もどき (とてつもなく不健全なもの) は 全力で〝規制する〟べきですが、〝深さを認識したい(原型を受け入れる)〟という〝シャドー・ワーク (セラピーのことです)〟こそ、ルールを考案する私たちは〝緊急で行う必要のある合意(実践)〟です。

私はいつも思うのですが、こういう風に〝カオスの逆 (光は闇と関わらない・愛は憎しみとは無関係・クリシュナムルティ的な法則的主張)〟を しっかりと行える運動(声)は、まだまだ稀有です。

私は、いますよ(・∀・)♡
posted by インテグラルとど at 09:00| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする