2020年04月09日

【社会現象】 2020年 知性溢れる見解と実践の覚書 (真剣ver.)

桜を見て、共時性も起きました。

今も一つの機会とみて、書けることは書いておこうと思います。


この内容は、今まで、色々なジャンルとして ご報告した内容を基礎にするものですが、生活が錯乱している場合は、ひとまず、最も有効な対策だけしてください。

このブログをお読みになっている読者の方々は、見解はどうであれ、有益な視点になるでしょう。

☆ 04 21 さらに追記 ☆
☆ 05 06 さらに追記 ☆


私の生活は、自然の中に入った後、数日間 インドアな生活をする というものです。 (単騎で。)

これは、ここ数年で、特に変わりありません。

詳細はともかく、全員がこのような〝車間距離〟を営んでいれば、ウイルスはすぐに終結すると思います。


資本主義・自由主義は、これまでさんざん甘やかされてきました。

クリシュナムルティの書いたことを素直に読んでいけば、私がここで言わんとしていることが よく分かるはずです。

飽食主義、有効ではない付け足し的ジャンル・業務で 社会を複雑にする拝金主義、情報を我が手に操作しようとして 不安を煽り心を操るメディア、ブランド力で民衆の生活世界を支配する大企業、暴走した自動車社会による倫理の欠如した交通戦争、生態系の世界的な無視――

総合的に、日々これらを直感的に捉え、未来に活かそうとする現代人が、果たしてどのくらい いるのでしょうか?

そこに、今回、丸型突起の新型ウイルス (今話題のあれ) が登場してくるわけです。


そもそも、ウイルスとは、地球上にて、バランスを何らかの意味で支えており、乳酸菌と比較できるかと言えば、―――耐性菌を抗生物質で生じさせ、人体内部の菌のバランスが悪化し、免疫の低下とともに、菌の他、新たなウイルスが猛威を振るいやすくもなる―――

つまり、現代人の多くは、仕事に意味を持てず、したくもなく、坂井泉水さん流に(言う)〝こころの環境破壊〟が起きており、新型ウイルスに対応できる〝精力〟は、〝炎〟は、地球上に あまり無い状況と言えるのかもしれません。

ツイッターで見られた発言の中で、〝会社を休みにしてくれないと、仕事を引き続きしなければならない〟というものがありました。

なぜ地下鉄に乗らなければならないのか、大の大人が、そう言っているわけです。

都市部での交通戦争は、相変わらずです。


秩序主義ならば、ひとまず、バイキンマンはやっつけましょう。

しかし、この世から細菌が消えると、人類は滅びます。

つまり、ウイルスも、ホロン階層上だけでなく、もう少し現実的な意味でも、単純に悪者であるしかない、そうあらねばならない、という〝既成信念〟とは、関係が無いのが本当でしょう。

一部の病理的な保守派が、国の国民への権力の増長に興奮するという、勘違いも甚だしい〝戦争ロマン〟に、私たちが付き合う道理は、1ミリもないのです。


総理は、無能でしょうか?

内面を見る、保守派に文化づくられた人々の中には、そうして、政府を非難する者がいます。

しかし、重要なのは、〝どうやってウイルスを終結させるかという社会システム[Q/4]〟であり、個々人の幼い感情論は、ここにて、乏しい意味しか持ち得ません。

リベラルが強い〝社会制度の側面〟を、保守派が牛耳ってきた〝風習〟の面に還元してすり替えて、国に当たっているのです。

そういう非難者は、風習ではなく制度の問題、であることを看破できない意味で、社会に混乱をもたらす張本人[ホロンの中のウイルス]であり、その主張は〝破たんしています〟!!

まず、繰り返しますが、こういった〝洞察〟から、鍛えましょう。


日本人は、とにかく〝対面〟を好み、私のような〝無駄なことを省く数学タイプ〟に、生きにくい社会を提供し続けます

これが、今回の、ウイルスの指数関数的社会現象を生み、人と顔を突き合わせないと〝生きていけない〟経済システム・制度・金銭管理を伴う〝社会〟を作ったわけです。

簡単に言うと、今回のハザードを〝想定〟する必要が無いと考え、出来てもいなかった、のです。

社会の日常時間は、悪い意味で、当たり前に過ぎていきます。


この常識が染みついてきた限り、総理に当たっても、自分たちの風習のせいだとしか言えず、保守派もリベラルも同罪でしょう。

全員が、そこの常識を疑ってかかって、即座に、〝飲食店と遊技場には寄らないようにしよう〟と 行動すれば、まず、治まる話だと思います。


しかし、現状、若い子は、外で集団で ほっつき歩いていたりしますし、電車は動かないと 経済が崩壊しかねない社会です。

ゴールデンウィークに会社と飲食店などの密室系だけ全て閉めて、アウトドアとドライブスルーの周遊休暇にするとしても、まず、飲食店等に国が税金の一部を援助する、その代わりに、2月以降のこういう時に閉める――ことを、約束させられなかったことが原因でもあります。

会社と家族は違いますし、市民をコントロールせず、資本制度の方をコントロールすべき でした。

どうせ、一定の人々は聴きませんし、また、地域の子どもが今も見せる無邪気な はしゃぎ様を見ていると、とても大切に思えます。 大人だけがこれを失うことで大混乱している、と、無駄な既成知識の横行です。


ウエイパーで、スープスパゲティを作ってみました(・∀・)

おいしかったです。


案外、それで治るのかもしれません。

風邪と同じウイルス種なので、かかっていても、免疫が付いている場合があり、すでに、ほとんどの人が、大丈夫かもしれません。

グレーフルーツか、バナナか、風邪ならば何でも食べて治すわけですが、必ずしも、症状が出て実害が出るのではなく、病は気からなので、免疫を付けるための健康維持の話に見れます。

潜伏期間がより短かったサーズやマーズの方が、攻撃性≒症状、が早い、ということならば、今回の新型は、症状が出ていない時点で 大きくうつるということもない、と見れば、潜伏期間の長さから恐怖を煽り、社会の崩壊をもくろむ〝誰か〟も見えて来るかもしれません

嘘のニュースというのも、ニュース(噂)になりましたしねぇ。


症状が出てからでも、遅くはないはずです。

対面社会の風習(一種の差別意識)さえ、なんとかすればね。


海外の方がドライだから、都市閉鎖 (強引な手段) はできますが、日本に観光客が来ますので、世界から非難されそうですね。


太陽の光をたくさん浴びると、案外いいのかもしれません

暑い地域の人は、そもそも日ざしを避けるので、ぽかぽかになると〝収束するという根拠〟の無さを〝反証〟する場合は、冬は日照量が大したことがなく、春になることで、自然に陽を浴びることを好み、習慣的に、内部から免疫が付いていく、という見方もあります。

実際、私は、冬しか風邪をひきません。


うつすことでの責任、は、保守派的な翻訳としては妥当で、そこは 私の仕事で無いだけですが、より真実は、潜伏期間にとらわれ過ぎて、実際の社会の崩壊を軽く見、物資が行きわたらずに食料自給率が低下し大量の命と切り離せない話になったら・・・例えば、中国では、昔、政策をして逆に飢饉になりましたよね?

経済の方が、敏感でした


自転車での通勤が増えます。

ある意味、やっと、というところでしょう。


都市部では、鉄道があったので、特に、バス等を除く 道路交通に頼る必要はありません。

例外が起きた時、免許の取得保持の利便性の薄さと、自動車維持のコストと貧富の差の現状より―――、つまり、自転車しかないです。

原付は歩道を通れない分、待機・待避が満足にできず、道路を走り続けるのは困難です。

このフェーズで、なぜまだ、自動車社会の交通戦争なのか? です。

この出来事を考慮したならば、そろそろ、自動運転のフェーズ3とも言える、〝全員が制限速度・安全速度を守れるシステム〟に移行していたはずです。

今、どうでしょうか?

ウイルス騒動で、謙虚で一丸な気持ちが、芽生えているでしょうか?

自動車だから関係ない、と言って、スーパーに通って、煽られないように 制限速度以上で、会社に行っていませんか?


自動車保険は、〝自転車・歩行者の為に全てを創始し慈しみ尽くすような儲け商品ですか?〟

現状では、そうは思いません。

自転車に乗ってみれば、よく分かるでしょう。

徒歩でも、同様です。


郊外は自転車歩行者が圧倒的に少ないため、フェーズが遅れるとして、都市部では、自動車維持に回すコストが〝生活を圧迫〟してもおかしくない理由が、今回の騒動です。

絶対に必要なのか?という意味です。

食料の方が大切でしょう。 ド田舎は例外です。 (車でスーパー。)


家賃が高すぎるのが、大きな欠点です。

海外では、日本とは別の仕組みで似たような矛盾が横行して、〝リーマン・ショック〟が起きました。


鉄道を止めると、生活出来ない人が 絶望しますが、仕事に意味を持てない原因の社会システムとして、働いても 生きていくのに必要なコストが賄えない ことが挙げられます。

そういう仕組みになっていることは、〝貧富の差が拡大している〟点で分かり、大企業が〝無駄な業務を増やしている〟と想定でき、実際のところ そうでしょう。

国が放任しているのが、今回のウイルスの現状と相関すると思います。


ベーシックインカムは、完全自動運転と並ぶ〝未来に必須待望の社会システム〟で、どうなっているかと言えば、生活費すら安くならず、スマホの月額費用でさらに家計は苦しくなっているでしょう。

実際、書店が消失しているのは、そういう理由だそうです。

今もまだ、秩序の無い現代です。


私は、スイーツが好きで、温泉も好きで、小さなショップは心配です。

チェーン店は、従業が過酷なので、どうなってもあまり〝感情〟は沸きませんが、思うところは、訪れる人がせっかく減っているというのなら、換気して、席も広くエリアを取って、個人経営の小さなカウンター販売の感覚で、慎重に営む方法があります。

それ以前に、小さなショップは、運営するという自由な選択肢も持てないほどではないか、心配です。

なじみの店ならば、少数の客しか付かないならば、開いても構わないでしょう。

老人は話し相手を求めて、マスク越しに、集まって話します

子どもも、サッカーの練習をしたかったりするのです。


いまこそ、おそばマスク になる時がやって来た!!! ...のかもしれません( ^^) _


歩道で、ウォーキングとランニングをする人が増えていくので、自転車は、車道・・・を走れたら苦労は無いので、とっても意識を高めて どこかを走る必要があります。

私がライドしてきた中で、通勤時間ほど おっそろしいものは、基本、他に無かったです。

公共交通機関での感染の原因は交通戦争、つまり、自動車です。

リバーサイドのサイクリングロードだけでOKなら、使い倒しましょう。


このように、〝メディアに不安を煽られないこと〟〝拝金システムに生活世界を支配されないこと〟が基本中の基本ですが、このコーナーで書いた(類の何らかの)ことを考えて実践(吟味・確認実証・反証)するのが〝面倒だ〟という方は、〝どうすればウイルス騒動が集結するのか 本当に真剣に考えているのに 答えが出せないです!〟などと、言うべきではありません。


自転車通勤を推奨しているわけでもありませんが、都心は、通勤自動車を半分とか1割にしなければ、自転車の走る姿なんて、観れたもんじゃない気がします。

大阪市内や阪神圏主要部でも、同様です。


優れたインテグラルな意見・見解・視点が、多数 インターネット上に在れば、私もこうしたコーナーを わざわざ設けないのですが、逆に、この混乱に便乗して、自分たちの意図・行為を 不当にばら撒く輩がいそうなので、警戒のためにも、載せておきます


私たちは、一体何と戦っているのでしょうか?

心の健康と 体づくり、いつもと同じペースの日常、今の子どもの活力を考慮に入れた落ち着き、忘れてはならない〝生活 (ライフ)〟があります


☆ 04 21 追加 ☆

・アウトドアのために、人の少ない県外へ行くことを、公共交通機関を除いて、むしろ奨励すべきです。 都市部は狭すぎます。

・免疫は、付きます。すなわち、免疫が付いている人が、スーパースプレッダーになる場合を除き (そんな仮定はおかしな話で、すでにウイルスが消えているのに うつすという説、或いは、共存としての免疫という説――が真でなければ) そのうち、大多数が、免疫を持って、症状も出ないか軽症のまま、収束します。 (少なくとも、現時点で、私はそう思います。)

・ロックダウンにおけるデモなど、世界の現状を考えましょう。国民主権とは?

・精一杯やってもダメだったら、結果は受け入れるべきです。 (頑張っても感染者数が増え続けるなら、上記の免疫の話を熟考のうえ、ウイルスと付き合っていく方法を模索するということです。 現実逃避しても、経済がさらに低迷するだけです。)

・免疫と特効薬は(Q/3)、密室の営業規定は(Q/4)です。 個体外面と集合外面。 特効薬があてにならないのなら、社会制度(Q/4)を洗練集約するとともに、上記のアウトドアの奨励などの、免疫(Q/3)を極めない手はありません。 それ(Q/3)こそが、現時点での最強の特効薬なのです。

・蔓延が、蔓延+核戦争 (最悪)、となったら、前者が収束していない上に後者が被さるわけです。 それに比べれば、前者だけの方が、はるかにマシです。 いざとならなくても、自然災害(ウイルス)を受け入れる準備は、当然だと思います。

・医療崩壊のみ、全力で何とかすればよいのです。 高齢者が多い日本は、その意味も含めて考えます。

・資本主義倒壊(5)→帝国主義化(4)→ミーイズム(3)―――前者から中者への分解退行期が今だとすると、それ(4)の強制(保守派的なロックダウンなど)でも収束が見られない場合、後者の〝自己責任の奔放〟に 人それぞれ化(3)していくので、そうなって無秩序になっても、経済自体はずっと存続させることが可能。 だとしますと、今、余計な経済的な規制を入れるのは、逆効果というか、長い目で見て無意味だと思います。

このように、〝長い戦いになる〟と最初につぶやいた人は、すでに 〝単なる収束は難しい〟ことを読んでいると言えます。 後で、やっぱり・・・と思うより、出来るだけ引きこもって、仕事を強制停止できないと分かれば、収束を目標にすることから、免疫を高めることで自然災害の (ただし人類が生態系を壊したことで いらっしゃった) お客さんと、うまく付き合う方法に、世界規模の合意で、迅速にシフトすべきなのです。 このタイミングを見誤ると、経済が崩壊して、アレルギーという名の社会的な免疫疾患(Q/4)みたいになります。 つまり、この主張の根元は、権力の暴走と自由の抑圧が悪い方向に転がるのだろう、との心配から来ます。 なぜなら、ここまで真剣に考えて自粛の意味を解釈して自己責任を語る人は、稀だからです。 こういった意見を周辺化して深さを ないがしろにするならば、世界経済の空中分解は不可避でしょう。 明るく言いますと、うきるんるんで理性的に過ごせば、解決はそこです。(合意にあるのです。)

誰かが、こういったヴィジョンを、広める必要があります。


☆ 05 06 追加 ☆

・前回指摘した、退行分解が 深刻な近況をはらんで、個人・社会・文化を横断して、始まりつつあります。 (県境・帝国主義的保守のアンバー的防衛としての乖離。)

〝自粛の目的〟は、〝医療崩壊を食い止めること〟で、それ以上の意味を持ちません。それ以下の意味も持ちません。

・〝自粛〟の定義は、混乱しており、目的も達成目標も、解釈が人それぞれ過ぎます、それが最終的に、自己中心主義の政治(3)に退行するのは目に見えているわけです。

・自粛に対する〝普遍的な合意〟が必要で、ロックダウンすらそれを満たしていません。参考にはなりません。 合意には、〝集団免疫をつける合意〟〝自分の健康を最大限に活かす生活の権利と責任の合意〟を含みます。 政府がそれの存在を強調しないのは、長い目で見て危険です。

・なぜなら、政府は、自粛によって、国民をコントロールしようとしているようにしか思えないからです。 アナウンスや看板などがその例でしょう。 医療崩壊を食い止めること以上の意味を持たない自粛に、権力の暴走が見て取れます。 政府が国民に信頼されなくなると、自己中心主義に 政治含めて退行します。広義のギャング社会となるわけです。交通戦争は今もそうです。

・ウイルスの爆発的な指数関数的増加は、医療崩壊を引き起こすので、それを食い止めたのが、今回の自粛です。 イギリスの最初の方針は〝集団免疫を付けることは正しい〟次に〝医療崩壊を起こさないことが その有効条件〟――最初の〝集団免疫〟が間違いだったという〝破たんした〟解釈が横行して、誰もそれを批判しないところが、世界的な合意が無いことの証拠です。 スウェーデンを除いて、冷静な見解を持った〝普遍的な自粛〟は 根付いていないようです。

・つまり、ウイルスの爆増を抑えたことで、医者たちが安堵した〝目的達成〟が成り立ち、その結果、数週間で起きた感染数が、数年のスパンで見て何割かは減るとは見れるものの、一定の感染者が 交通制限のように 渋滞して長期的に流れてくることになるので、医療崩壊を食い止める自粛によって、総合的な自粛期間は かなり伸びます。 爆増で1ヶ月なら、制限状態では 数ヶ月から2年程、集団免疫を獲得しながら 現状が続く見込みです (証拠から、それが政府が意図している事実でしょう。)。 長期的なポイントは、医療崩壊を食い止めることであり、根絶は短期的には不可能です。できると思って自粛するから、おかしくなるのです。

・長引く自粛が意図である以上、学校の休校など、2年続けるには無謀ないくつかの取り決めは、数ヶ月で打ち切ることは必至です。 部分的に休校に成り得ることの理解を得て、クラスや学校ごとに授業を行い、競争社会・受験戦争を否定した進学・就職ができる世界を目指すべきです。 受験戦争は、ウイルスショックを助長する無力な風習である証拠が今です。 すべての学校を平等に休校する意味も、半年 経てば 無くなります。

・同様に、個人的な旅行などの活動と県外への移動、リゾート施設や飲食の個人店とチェーン店など (子どもから見ても健全と見なせる広義の健康を促進する居場所) の運営、番組、芸術活動と制作、スポーツ、ライブや観戦、鉄道の通常使用、今まで制限されてきた数々の活動も、半年経てば、圧力強制の意味を失い、自粛の心得だけ残しながらも、奨励する方向にしていかないと、意味がないことに気付きます。 それができない場合、リベラル国家の存続は不可能でしょう。 ウイルス爆増・医療崩壊の構図になれば、強い自粛のフェーズに戻るということです。 ウイルスの変異も、集団免疫の獲得が予防の鍵です。 2年後のワクチンの期待も可能です。

・苦しい時に達成目標が必要で、現時点での自粛の意味論的混乱は、国民主権という意味で、政府のせいです。 自粛は医療崩壊を食い止めるためのもので、医療の補強は、税金の使い方で大部分行うものです。 達成目標は、根絶ではなく、爆増の抑止です。 政府は きっちりと、その旨を明らかにすべきです。 それをしないならば、リベラル国家であることを やめるという宣言を行っているのです。 (強制が絶対化されるので、その無謀な政策の結果、ギャング国家を奨励することになります。)

・都道府県の対立という、非リベラル的な退行現象も、自粛の意味論的混乱という〝失敗〟です。 既に、自粛の目標は達成されたとすべきで、都道府県全部の合意が〝なし〟若しくは〝カオス〟若しくは〝根絶〟ならば、遂行矛盾や無謀策に行きつき、やはり、ギャング社会への退行を奨励してしまいます。 都道府県の対立は、自粛の意味論的政策の行きすぎに対する、シャドー領域(無意識)のボイコットです。

・保守派は、ウイルスをうつされたくないので、かかることに怯えています。 一方で、リベラルは、集団免疫の仕組み上、一定数がかかることは当然だと帰結できるので、自分がかかりたくないのにリベラル面するのが、最も欺瞞だと、本当は分かっています。 そこが問題のポイントで、保守派には防衛をさせるべきだが、それ以上のことが必要で、個別にやればよく、リベラルは、緊張を緩めて、大切な他者のために、爆増を抑えられたタイミング以降は、うつされても構わない、よって、うつしても 繊細でいることができるだけでなく、気にしないことができる。 スウェーデンはこの洞察です。 うつされたくないと保身に出ると、今の都道府県間での嫌がらせ事件行為が横行し、結局は、ギャング社会を奨励します。 これは、子どもの社会とは全く違う、病理的な暮らしです。

戦争行為によって、数えきれない人が 命を落とすので、二度と戦争はすべきではありません。 保守派は戦争をします。 ウイルスに対する自粛はデリケートで、人災だからと自粛を強制すると、保守派が間違った力を持ち、意味論的混乱のまま破壊的な核聖戦をします。 未来の地球が壊れます。 ウイルスは、決してそんなことはしません。 人です。 うつされたくないと思った結果、核爆弾を落とすのです。 自粛の根源的対象は〝戦争の火種になる行為の自粛〟であり、〝間違った防衛・抑制〟は、〝真の自粛の責任の放棄〟となり、国も世界も、このことを一番迅速に、繰り返し繰り返し 強調していくべきなのです。

ウイルスは、人災ではありません。自然災害です。 交通戦争は、過失による個別の責任がありますが、社会システムとインフラの欠陥です。 弱者は該当者に責任を保険でしか補償要請できません。 真の原因は 法律を含む、社会システムにあります。 そして、道路交通には 移動という〝目的〟があります。〝リスクとリターン〟があるのです。 リベラルはすべてこのビジョンが基本であり、ウイルスの媒介は〝社会的な象限にある〟メカニズムで、そこに目的はなく〝リスクとリターン〟もありません。 つまり、過失としての責任は発生せず、保守派が誤解しているような〝犯人〟はいません。 誰も悪くはないのです。 悪者をでっち上げた分だけ〝損失〟が確定します。 ウイルスの媒介には 故意というものは無いとすべきであり、個々人の防衛責任という権利があるのみであり、その結果、医療崩壊を起こさせない緊急自粛も部分的にアリというだけであり、うつしても大丈夫、だからうつされても大丈夫、この精神が崩壊すれば、意味論的崩壊と遂行矛盾により、人は、知性による正直な自信を失います。

・すでに長く生きた老人たちは、生態系をいじって 高度経済成長に加担した者たちであり、その主要の責任を交通戦争含めて中心的に持っています。 ウイルスによる命の視点は、寿命の中に含めて受け入れるべき問題であり、安楽死問題と直結します。 誰も言わないので強調しますが、老人は独りぼっちが嫌です。 ウイルスにうつされたくないという顔をすると、残念そうにします。 平均的に、魂の知性が高いです。若者が学ぶべきことが多いです。 老人たちに必要なのは、心の健康、自由に秩序ある〝和〟であり、まごころです。 自粛だの人災だのは、混乱することで、この〝和〟を壊します。 私たちは、変わる時が来たのです。

・芸術が真っ先に差別される、ということが あってはなりません。 今回の自粛は、芸術家も含んだ合意でしょうか?――政府が、芸術を軽視している、と見なせれば、国民は政府に懐疑的になり、ギャング社会に退行します。 デリケートで微妙な問題もはらむ〝新作アニメ〟は、老人含む〝こころの和〟にとても重要な役割を果たすものであり、政府の勝手な自粛による意味論的混乱という強制で、制作を壊されている、と思われないようにする〝れっきとした事実を見せられる〟マージンは必要です。 学校と同じで、部分休校もあり得る、というような方向で、任意制作として、復帰するタイミングを間違えれば、何かを失って二度と戻ってこない気がします。 政府は、芸術を命とは関係ないと思って、軽んじているような現状空気なのですが、そうではないところを見せてほしものです。 テレビ局の方がその判断なら、政府が 芸術番組を 劣遇しないバランスで奨励すべきです。 電車を動かすなら、任意制作で、アニメ放映も動かすべきです。 焦って作ることだけ避ければよいです。 映画は 延期寄りでよいでしょう。

私は、一週間、家から出ずに引きこもることができますが、国民のほとんどは無理です。  一人で秘境に行くという勇気も労力も持てないので、必然的に、〝運動〟の範囲内で、〝人が集まる定番の運動場である歩道など〟にお墨付きという安心感を得るために出かけていきます。 もちろん、集団で出かけ、集団ばかり集まっているエリアに行くのです。 これは、〝密集地を避ける複雑なアドバイスの元に奨励するアウトドア〟とは違います。 正しいアウトドアが奨励されない〝政府投げやりの軟禁状態〟が生み出した〝もがくようなボイコット〟です。 このままほおっておけば、確実にギャング社会に退行して、人それぞれ主義に陥ります。 何度も言いますが、交通戦争は常にそうです。パトカーも交通の流れを変えることができない現状で ずっと続いているわけです。 この意味でも、自粛の目的は〝医療崩壊の原因であるウイルス爆増を抑えること〟であり、すでにその段階は達成していると見るべきです。 無策な道路交通が引き起こした交通戦争により、〝人々は交通ルールを守れない〟ことが明らかになりました。 自分の命を守れて弱者を犠牲にするルールしか採用しません。 つまり、無策な自粛政策も、〝人々はルールなき混乱した現状を守れない〟ことは必至で、これに強制を加えても〝退行を奨励するだけ〟となります。 既に〝ウイルス爆増は食い止めた〟ので、その秩序ある〝ルールは守れた〟とするならば、自動車交通の暴走肥大化は、〝秩序あるルールによって健康化することが可能〟と見れます。 ウイルスは自然災害、自動車交通の戦争は人災です。 どちらを強化・強制すべきかは、明らかだと思われるのです。

・政府が権力に自粛の目的をすり替えてすらいる、と皆のフラストレーションの混乱がつのるであろう中、仕事に行くこと、電車に乗ること、野菜作りからインフラ事業まで、ありとあらゆることを〝罪〟だと思ってしまう人が後を絶ちません。 暗い社会になっていくのは目に見えていて、ウイルスのせいだと言うのは〝通用しない〟ことを見ました。 大震災を無かったことにできないのと同様です。 最初の原因が、ミクロとマクロの象限の違いにすぎません。 政府は、国民が〝罪を背負うことを助長、奨励すらしてしまっている〟現状です。 それは明らかに間違いです。 誰も悪くないのです。目的と相関する人災ではなく 目的を持たない自然災害です。それを伝える義務もあります。 (目的を持たないものを根拠に 目的を持った種々の活動を罪としているのです。) メディアも適当なことばかり言って責任を取らないからでしょう。 だとすると、政府はメディアにきっちりと〝人災ではなく自然災害〟だと報道させる強制力を持つべきです。 こういうところだけは〝言論の自由〟と結び付けられていたら笑えます。(笑えません。)――冤罪です。

・交通の場合は、自転車や30キロ制限の原付を4輪自動車が片側多車線の道で 追い抜く=追い越す 場合。 隣以降の通行帯で追い越さない場合、重い罰則を科すべきです。 1m空けて徐行・最徐行するなら構いませんが、ルールによりきっちりと決められているにもかかわらず、全く変わっていない現状の中で〝一番危ない〟交通戦争の原因のひとつです。 罰則を設けても大して取り締まられることは無いので、驚異的な人災である以上は、重い罰則を制定すべきです。 片側多車線の一般道で自動車が起こす暴虐の数々は、故意と言えます。 交通のインフラが脆弱すぎます。 これが無理なら、自動車が走れる一般道は、すべて片側1車線未満にすべきです。 自粛により、歩行者と自転車は爆発的に増え、用途もあります。―――こういった交通人災から何とかできないならば、政府が自然災害であるウイルスによって自粛を実質強要するのは 法的根拠としても空回りしているので妥当とは言えず、説得力も持ち得ていないことは、国民主権の全国民として、自覚すべきです。

・自転車の場合は、歩道で減速せず1mのマージンを極限まで削いでスルスル抜けてくる、停止義務のある交差点で(自転車運転により停車した例えば私の)後ろに止まらない、停止線を越えてすり抜けた後 信号無視と予測不能の行動をする(自動車のせい)、一旦停止せずに横道から突っ込んでくる、突如曲がったり 歩道から飛び出してくる、歩行者がいても徐行しない、(例えば自転車に乗っている私の) 安全運転義務とその振る舞いを理解しない (状況による 押して歩く選択の瞬間からは 歩行者になる、歩行者視点で ルール崩壊の自転車を見ることにもなる)。―――自動車のせいで車道が走りにくいと、散々な目に逢うので、自転車も取り締まってほしいけれど、結局は自動車の独壇場。 ルールを知らない大多数の自転車と ルールを知っていて故意に横暴な ほとんどの自動車。 ウイルスと比較にならない凶悪さです。

・自粛が長引くことで、劣遇された数々の営みはどうするべきか?――(一部の 健全性のコミュニオンに大きく逆らう営みは別にして) 店を閉めるのが当たり前・従わないと罪と言い切る人、政府含む。――そういう人々は、7日間、一度も家から出ない、くらいは、複数回 やらなければならない。 つまり、権力を振りかざしてはいけないし、罪だと言ってはいけないのです。

・現状、大多数が仕事に行くことで、自粛の目的が〝根絶ではなく爆増の抑止〟であることに〝合意〟しています。 ぶっちゃけると そういうことです。 慎重な判断を要しますが、劣遇された職業があってはなりません。

・今回の結論は、〝ウイルスは意図を持たない自然災害であり、誰しもが例外なく、人ごろしと言われてはならない、徹底した情報的説得が必要である〟ということです。 そのために、なぜそうであるのかを自分で考える、知性を使います。 実践の絶好の機会です。
posted by インテグラルとど at 13:24| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2019年12月05日

LOVE!未来のハート(⋈◍>◡<◍)✧ ~時間と空間 予知のタイプと〝奇跡の出逢い〟~

これまで、〝予知能力〟についての インテグラルな 体系化が 成されていなかったと思います。

アインシュタインは ユングに、共時性について 研究することを 奨励していた と 言います。
〝予知能力〟には、実は、今まで知られていなかった〝普遍的〟な 秘密があったのです。


私の経験を交えて、今夜、これを解き明かしましょう♪


私は、パラレルワールドやワープに関する〝移動〟を、2つのタイムに差異化しました

1光年(ワープ単位)の移動が、1年前後のパラレルワールドに飛ぶ移動成分と、1光年の距離の移動成分に区別できるのです。

同様に、予知もまた、今まで知られていなかった〝2つの差異化〟によって、飛躍的に理解が深まるでしょう。



AQALで考えるにあたり、知られがちな〝予知〟は、必ずしも高度なレベル(第3層)によって 発現するとは限りません。

おそらく、〝状態-段階〟に 関係が深いのです。

にもかかわらず、〝構造-段階〟として〝洗練できる〟奥深い要素があるに 違いありません。


今回言いたい最大のことは2点です。

〝愛の交流がとても重要〟〝空間的ではなく 時間的な予知がある〟

――――――――


予知の力に気付いた人は、未来のシーンを把握するようになります。

そして、より良き未来に向かって 前進する選択肢が生まれ広がり、有名になる道が開かれるくらい、ハードな人生が、あるいは自分の望む形で 開示され、使命となる のです。

その道の中で、必ず、印象の強い 似た目的を紡いでいる仲間に出会う ことになります。

彼らが、予知によって結ばれた連合であり、コミュニティです。

そこで予知(ビジョン)は、全象限を帯びて、構造的に未来へと成長していきます。

決定的なシンクロニシティに対するみらいのことば〟は、ここで共創造される のです。


しかし、予知の連合は、より良い未来を紡ぐ仲間ではありますが、それを〝世間に伝える〟技法を極めるに対して、決定的に 弱い立場にあります。

有名側に立ちやすい性質のために、その守秘義務とも言える壁が、真実に対して 立ちはだかるのです。

予知が第3層に向かって紡がれるとき、ILP(統合的な実践)を含みながら、新たな仲間が開示されるように、運命は新たなステージへと 時を進めます。

それが、〝時間を予知する人々〟の参加です。


空間の予知は よく想像されていますが、時間の予知 の方は、おそらく誰も知らないでしょう。


理由は、それが〝予知だと認識できないから〟です。

時間的な予知は、予知というよりは〝予感〟です。

予感ならば 知られていますが、ワープのタイムの2つの差異化と同じく、第3層の高度で AQAL的に 予知と予感を 分類・捕捉している例は 無いか 稀有でしょう。


時間的な予知は、未来のビジョンではなく、シンクロニシティを伴う 直観として現れます

これは、感覚的に 比較的 外在化して現れることもあり、いつ出かけるのか、その理由とはなぜか、予定の無いカテゴリーはどこか、といった点にまで及ぶものです。

上記は、誰でも ある程度までは 行っていることから、人それぞれという〝相対主義〟に からめとられて 気にも留めなくなる ことが 多いようですが、〝夢-自己実現〟的な直観を体験・研究していくと分かるように、〝その先があります〟!


その先こそが、シンクロニシティ(共時性)を〝構造-段階〟的に捉える技法と経験、洗練するに値する根拠の獲得 (ティール組織・第2層のビュー) です。

さらにその先、第3層(インディゴ)に達する中で、直観は、共時性を伴いながら、新たな出会いを引き寄せます

それが、共時性の〝みらいのことば〟によって開示された〝予知の存在です。


第3層の共時的言語(超-把握)は、いつ それと関わるかを含んで、〝予知が実際に存在する〟ことを証明します

核心に変わったならば、なぜ、共時性が自分たちに向かって生起し続けているのか、という疑問が起き、〝ふしぎな偶然は 私たちが起こしていた!?〟という過程と統合して、この〝直観〟が 紛れもない ひとつのカテゴリーの予知であることが、導かれるのです。

ここで、空間的な予知の仲間と、時間的な予知の仲間が出会います


予知の責任は、色々とディープなこともあり、その権利を自由にできるまでに という目的では、第3層への成長は必須なのです。

それは、空間的な予知の存在に、時間的な予知と共に気付いた後者の仲間という〝創発(ゴール)〟により、達成されます。

このコーナーとして、或いはこのページのように、〝証拠を持って〟報告する 決定的なフェーズを越えるから です。


さて。

では、予知の差異化を進めましょう。


通常の、空間的な予知を(s)、時間的な予知を(t) とします。

(s)(t)は、主体とその周辺のビューです。


(s)は、列車のダイヤの 外側の(静止系的な)景色、(t)は、列車自体の印象に対する(動系的な)眺め です。

(s)は、いつその出来事が起こるのか、(t)は、出来事と その決定的な条件、を〝予測できません〟!

(s)は、権力的な悪用に弱く、(t)は、交流に対して壁を作りすぎる、という 知られざる盲点が あるようです。

(s)は有名側に、(t)は無名側に、役割分担していることが多く、一方に概ね無意識的です。

(s)は、比較的 早熟の時期に 困難な重圧を避けられず、(t)は、晩成の時期まで 夢を信じられず絶望することが多いでしょう。


次に、(s)と(t)の〝連携-関係性〟を見てみましょう。


(t)の洞察を(s)が信頼し、(s)のメッセージとしての行為を(t)は信頼します

(s)と(t)の交流によって、時間空間それぞれが AQAL的に充実していく のです。

(t)は〝1人称的〟で始まりますが、多くの(s)の紡ぎあげた情報によって、2人称と3人称の視点に応用・拡張 されます。

これは、(t)同士も同様です。

(s)も3人称から始まり、(t)そして(s)との出会いで、2人称と1人称の視点に応用・拡張 されます。

(s)は〝未来の情報・シーン〟に、(t)は〝共時性・一瞥〟に それぞれ優れています

両者とも、構造的成長と経験を積み、愛の交流を重ねることで、正しい解釈が得られ、より良き道へと 進めます。

その営みに決定的に必要なのが、インテグラルな方向性を持った〝良心(コミュニケーションによるモラル)〟です。

一歩踏み出すことが、何度も、必要なのです。


このページの洞察は、芸術作品による 統合的な対話によって 成り立っている経験が主です

つまり、著作権の分野は、(s)と(t)による 多様なニーズを伴った〝統合的なリンキング〟を考慮する必要 があり、特に、前後の混同(PPF)を避けながら、世界基準で、未来に合った決まりを 修正・洗練させる必要 があります。

こういった 超次元的なリンキングは、単なる〝儲けたいという衝動〟が〝良い意味で皆無〟で、文化的なトレンドを創る 形で、種々悪用への対策として 君臨します。

キャラクターひとつでも、すてきな存在で以って、ストロングです


また、〝みらいのことば〟を 牛耳ろう・乱用しよう、とする者たちに対しては、これまでに開示されていなかった、予知の重さの反作用を受けることにより、想定外の理解に 行かざるを得ません。

短絡的な視点では、先取りで〝売れる〟かもしれませんが、高値変動の〝ハイパースペース〟券のようなもので、正統に長い時空間の中での インテグリティな〝現存〟が成されなければ、〝著作・内面をはじめとする 高度や象限の視点〟として、〝生兵法は大怪我の基〟となるのです。


作品とアーティストの 統合的なコミュニケーションとしては、(s)が、(t)が自分の責任と判断と直観で触れることになる(s)自身の作品を、ビジョンを見て (t)に向けて〝創作する〟のです。

(t)は、上記を、長期的に、慎重に、統合的に紡いでリンキングして、無名サイドの発達ラインから 洗練させた現状報告能力と立場を生かして、それらを開示します。


(s)と(t)は、どのような組み合わせでも 相性が良さそうで、(s)同士が最も出会いやすく ある範囲で ほぼ必然であり、(t)同士が最も出会い難いと言えますし 出会っても 単純には 気づかないのではないでしょうか。

(s)は、ラマナの言う 真我探究と同等のグルヨーガとして、空の下で、(t)を導くこととなりつつ、(t)もまた、独特な形で(s)を助けていきます。

その絆は、作品などにて、本人たちが語ってくれています


(s)が、見たビジョンを持って (t)の列車(ハートと ビュー)と 心を通わせると、空間に時間が付く形で 新しい時空間としてマッピングでき、第3層的な出力形態として 洗練させることで、起こるタイミングと意味が〝深く分かるように〟なります。

チームワークが大切 なのです。

ただし、かなり超次元的に行われるので、普通のそれとは 全く想像の範疇外ですが。


そして、すべては、〝リアルアップデートワールド〟(予知と直観の無数に続く 瞬間創発に その延長 [多様な運命と歴史と方向]の理解) として コミュニケーションを含んだ解釈・理解が必要 です。

強い予知と予感は、曖昧なそれと比べて、〝より創発して 変えられた未来を 直覚〟します

〝未来は変えられなくとも 過去は変えられる〟とは、習慣の例のように、統合的な実践によっても 理解できる〝意識と選択からのレール[今この瞬間からの より良いラインへ]の変更〟ということです。

この意識的な強さと、より先の創発的な未来を 判断・認識・捕捉するための 秘訣は、一致・相関するのです。


(s)は、未来に どうすれば素敵であるかを アップデートの連続で実践し、(t)は、どの瞬間にインスピレーションを受けて紡げばいいかを リアルに直覚・実践します。

(t)の場合、なぜそれをする必要がないのか、これは 決定的にやる必要があるのだ、という事象に対して明確な理解が存在するために、タイミングとテンションを印象によって把握することで、その多次元的な地図化を無意識に保て、(s)も、それらを 理解と根拠により 信頼します。

(t)は、印象が、夢が、近い時間にあるのか、遠い時間にあるのか、気持ちや知性で分かる のです。

そして、そんな(t)の繊細さ、デリケートさを包むように、〝未来のことば による コミュニケーション〟を、(s)は 言葉と文脈を選んで リンキングして紡いで届ける のです。

多次元をテーマにした アートを営む人々の中で、深いコミュニケーションの経験などの差から、この手のリンキングが うまい人と 下手な人が います。

どのようなバージョンでも、言いたい根っこは伝わりますが、タイミングと強さと感じが異なり、結束に差が出ます。 ――― どの分野でも その手の一流同士が 口に出して話していることの(s)(t)交流バージョンです。

このリンキングを、〝取って儲けるためだ〟と 勘違いしている人々も いるのが 事実で、なぜそれでは〝まずい〟のかは 説明した通りです。

引用参考として提示する場合でも、本人が世に出した分の〝責任として〟の権利を持つ ことになります。


いずれも、非二元(空)からの〝形〟として、自由な個性・いろどり(才)としての〝関わり方・表現〟で、進化する悟りの通り、〝成長〟します。

元因的な 多次元的コミュニケーションが〝創発・洗練〟していくのです。

それでも、(t)のライブラリーは、本人の吸収・到達可能なエリアまで であり、キャパシティや相性やタイミングをはじめ、複雑なファクターによって、制約を受けます。

この点は、(t)のタイプを より多く育てる さらに良き文化が成り立つことで、解決できます。

(s)から(t)へのリンキングにおいて、(t)のキャパシティの性質を知って 無理強いしないのは 大前提の鉄則(未来のマナー)です。

上記は、(t)から(t)へも同様で、さらに進んで、(t)から(s)へも同様です。

信頼があれば、どんな未来でも〝今に浸透存在する〟という直覚により、扉を開けます

どちらにせよ、すべてが巨視的・微視的に繋がって、必ず すべては伝わっている のです。


生きた証を残して。

それも また 含めて、奇跡は、今、ある のです。


(s)と(t)は、単体の立場では バランスが取れないことが多いので、有名的立場の責任を(t)が(s)の分を引き受ける形で、大衆側の立場の機転を(s)が(t)の分を取り入れることで、コストが分散 されて、すてきが無限大です(≧▽≦)!!!!!!


さて。 私も ずっと ひっかかっていたことを、こうして ライトアップして〝提示〟できたので、ホッとしましょう。


このブログ〝とどのインテグラル〟の メインな読者の方々は、圧倒的に(t)のタイプが強い と思いますので、その点を意識していただければ、と思います。

(s)と(t)は、グラデーションの持った成分で さらに、発達ラインとして定義も可能 かもしれない点など、いろいろ言えます。

(s)も(t)も、第3層にて洗練していく中で、多数の基本的な発達ラインと いくつかの分野での実践と経験が、大きく利いて きます。

私の場合は、AQALや音楽の視点 を前に出して、今回のご報告に至ったわけですが、もっといろいろな分野が世界にはあるので、すべてが繋がっていく中で、このコーナーの発見・差異化は、ピンとくる人々にとって 必ず役に立ちます。

私の場合、自動書記ではありませんが、夢からメロディや歌詞を引っ張ってくるとき、決定的に そうした方がいい瞬間に対しての 時間的感受性はあるようで、長期的に紡いでいくことで、この場所に たどり着きました。

そして、有名無名問わず、〝偏見は良くない〟ことが証明 されたわけです♪


(t)は〝いつ出会うか〟 (s)は〝誰と出会うか〟 ―― 楽しい愛の出会いは、未来の ドキドキ♡ ワクワク☀ です。


ILPの実践を含む意味で、(s)と(t)の創発・開花・完成の〝輪〟は、〝愛(=LOVE)〟によって 加速、成されるのです。

この〝LOVE〟を 忘れないでください。 とても大切です。



この発見を、次世代に紡ぎます

もしあなたの大切な人が、ふしぎな予知の彩を 発揮していたとしても、焦らずに、その核を見極めてください。


誰もが、大切な人に、愛を持って、その願いを叶えようとする、ひとすじの魂なのです。

それこそが、スピリット(空)の中の、〝魂(ソウル)の人間関係(フレンド)〟です!!



☆彡

posted by インテグラルとど at 22:06| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2019年11月14日

未来の〝ことば〟 ~状態・構造と アートに〝ともだち〟~


空しかない。 そこから、無形の眠り、何もない意識が芽生え、夢の世界へと下降する。

時間が現れる。 過去や未来、多次元が くるまって、光の道のしるしに。

夢から覚めると、いつもの日常、物質とシステムのある世界、そして身体に気付く。

なんらかの、空からの印象を 覚えていることもあるよ



という風に、〝状態-段階〟としての〝非二元神秘主義(S/nd)〟が色濃くなると、〝構造-段階〟としての第3層に 永続適応しやすくなります。

空から夢が、光から形が、それが、状態と構造の秘密のひとつで、インスピレーションや直観と呼ばれ、昔から、報告されてきたジャンルですね。


仏教では、微細神秘主義(S/s) つまり、夢の世界の現象は、魔境と呼ばれて、その中に、一種のESP、つまり、過去や未来が 時間的な順序を越えて把握される現象・視点があることに、合意しています。


私が音楽を作る時、どうしても作りたいと思う音楽ほど、メロディの印象が色濃いもので、夢の世界から 引っ張ってくる気がある、つまり、空から未来を見ている、ような説明が可能です。

合理的に体験(9)は できませんが、合理的に説明(8)は できます。

そのメロディにさらに、いつ詩を付けるのか、その印象も、直観です。


好きな人だと感じた時の、言えないときの絶望感が、ダイモンがデーモンに変わる時が、つまりは、空からの形、時間の順序を飛び越えるという未来を感じ取っている、解釈している、と見れます。

私の場合は、実際に未来の映像は見えませんが、後で 答え合わせ(9)をする時に、確かに、知らない事実や名詞があるにもかかわらず〝知っている〟印象があることに気付くのです。


別の見方では・・・

例えば、働かざるもの食うべからず!という理念で動いている意識は、それ以外の価値観をシャドーとして締め出します

中には、〝ものを見れば 先の印象が分かる〟人がいますが、せいぜい、物質的な粗大領域(S/g)に 関心と対象が限られていて、深いメロディやアートの夢 そういった美とは、無縁で、低俗だという価値判断 (自分本位の歪んだヒエラルキー) を行うと思います。

上記は、この家がいいとか、そういうことです。 (それも重要なジャンルですけど。)


私が、自転車で信号を守らないとすれば、裏道重視でロングライドをするという発想も持てません。

正しい手順、方法をクリアして初めて、その領域に、想い、直観が適用できるのです。

(楽しいお話を入れるならば、〝KinKiのやる気まんまんソング〟は その流れで 聴きましょう♪)


王様が象に賢者を踏み潰させよう、という昔話がありますが、賢者は避けるわけです。

それもまた、自然な無選択の意識で、シャドーワークとも、信号順守の発達ラインとも関係してきます。


ということは、非常に深い願いであるからこそ、そこに〝構造-段階〟として定立できる根拠があるからこそ、直観は出でて、そのジャンルを広げるのは、良いことを4象限をクリアして〝行おう〟という、明確な実践によってです。

(つまり、現代の自動車社会は、直観の範囲を 乏しく、即ち〝限定〟するようです。)


アインシュタインのような天才は、多数派とは異なる脳構造であったことが知られていますが、つまり、マイノリティな脳構造、器質的な障害として分類されている場合でも、インスピレーションの直覚方法が ユニークないし実践的で、要は、それにエネルギーを使っている、自分の世界に入っている、というだけだったりします。

アーティストは、だいたい そうです。


上記にも、もちろん、構造-段階 があります。


では、共時性(シンクロニシティ)や既視感(デジャヴ)は、どうなのでしょうか?

これらは、インスピレーションの一種、時間的順序を越える ひとつの状態だと説明できますが、それらを解釈する〝構造-段階〟つまり、その 総合的なネットワークに依拠します。

形態形成(8)として合理的に説明できますが、実際は、外側のシステムに共時性が起こることが多く、デジャヴも ごく日常の領域(S/g)にて起こることから、五感で把握しているシステムと関連して認識される点で、同種でしょう。

夢の世界(S/s)では、デジャヴやシンクロニシティ(グロス・S/g・的な時間)は、包含・超越されている、と言えます。


共時性として、自動車が好きな技師が 道路交通のシステムについて日々考えていた場合、ふしぎな偶然が 道を含んで現れることが有り得ます。

数字に強い人が、数字に関する日常的な共時性を解釈することを含めて、起こり得ることもあります。

動物好きな人が、目撃した動物に付与する、出会いの運命の解釈を含めて、未来から自分自身へのメッセージ的な共時性としての シチュエーションもアリです。

つまり、システムと社会もまた、内面と相関する象限であり、意図と直観の反映の範囲となります。

今日これを見るから出かけよう、という 行動力が、無意識下で意識されている、そういう流れで 外側に共時性が見出せることが多いのでしょう。

いかにたくさんの、自分にとって意味の持てる情報を把握できるか、この資質を育むことで、共時性の法則をある程度 経験できると思います。


今回言いたかった最大のことは、〝コミュニケーション〟です。


アーティスト同士が、芸術で対話する時、この資質は極限になるようです。

統合的対話によって、美の発達ラインなどから、作画、メロディ、あらゆる〝交流-解釈〟ができます。

会って話すよりも、インテグリティが増す実践となります。

そこに、共時性が伴うことが多いと気付いていく中で、誰かが意図したように感じれば、第3層の構造的根拠で、そういった長時間的把握・言語がある、と 気付けます。

私は昨年、そういったことの具体例を、根拠を持って 挙げました。

(提示したのは、深さを中心とした、ほんの一角です。)


私は、未来を見れないと思っていましたが、色々な経験をしていくと、印象では 何となく、どうなっていくのかが分かります。

どこから自動車が来るかは分からなくても、来そうなところで自分はどうしたいのか、どうしているのか、そういった 流れの把握は、〝無選択の意識〟に近いところで やっていると思います。


好きな人が やがて現れるという直観を持つ人でも、その強い印象を映像化できないとしても、たしかに 未来を見ていると 捉えられます。


どのようなバージョンだとしても、最初に起こっている流れは、同じでしょう。


もう一度、要点を繰り返しますが、未来を見ることに こだわりすぎると、自分が閉じているルール・領域を 忘れます。

無意識に追いやられたシャドー領域に特に言えますが、リベラルの闇 (自動車社会をはじめ... いわゆる エゴVSエコ) にも言えますが、その部分は、未来の印象を把握するには不十分であるだけではなく不適切でもあるので、未来が見えない、ということになります。

だから、統合的実践(ILP)が効いてくるのです。


TVゲームなどにて、何かを引き当てるのを予想する、というのは、通常 無理です。

スポーツ選手がレースで、というならば、本気で勝負しているなら、どうしたいかという点で 在りえるでしょう。

ゲームの場合は、本当に、このタイトルをブログに乗せて交流したい、とか、何か意味につながる達成を予期する見込みの共時性は、アリです。

予想全般に言えますが、内面の深さを無視した粗大中心志向(S/g 絶対化)では、共時性は理解できませんし、意味を持ちません。

この点を別方向で心配している人は、気にしすぎないように。


つまり、お金のモジュールを実践する時は、自分がなぜ これ(節約など)をやりたくて、そうすればどうなるのか、を真剣に考える時に 多次元的な 意味を持つ、ということです。


今回、これを書いた動機は、やっぱり、気付くタイミング含めて、色々と 昔は 有り得ないと思っていた〝すごいこと〟が 起こっていたからです。


私の作った歌、メロディの印象と作詞だと思いますが、そこ(視点の視点の視点...)からインスピレーションを閃光を得て、世界に意味があることを、人間の優しさの本来を、伝え広めたい、と 繋いでくれた人々がいることに気付けたことが、今回のご報告の基礎にもなっています。

具体的には、去年に掲載(別ブログ中心に掲載)しましたが、まだ 続き があるようです!!

(⋈◍>◡<◍)。✧♡



P.S. ――― (2019.11 15)


〝this way〟… 〝way〟は「方法」!



―――――――――――――――――――――――――――――――


P.S. ――― (2019.12 02)


〝 by 〟が〝 キー 〟なの!? (笑)


ラベル:AQAL
posted by インテグラルとど at 22:28| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする

2019年10月20日

自動車の逆走は絶望です! ~対向・突然・自転車視点・片側1車線等・説明有~

私が実践している自転車走行を まとめていたりする筆者(とどさん♢)ですが、自転車は自動車に配慮される立場であり、自動車は 自転車がどれだけ気を付けていても 生命の危機的状況の意味で 回避できない、運転?が可能です。

逆に、自動車は、同様の意味で、ほぼ100%できます。 つまり、安全運転義務は、自転車の場合、ルールを守ることであり、自動車に対してのそれ以上の安全運転義務はありません。

ここを勘違いして、自転車は端に寄らなければいけない、が、すり抜けをしてはならない(筆者の主張でもある)という、矛盾だらけの強制に成り下がるのです。

自転車は、特に歩行者に対して強力な安全運転義務があり、端を走りすぎると、歩行者に配慮できないので、そういった癖をつけてはいけません。

また、自転車は、自動車の追い越しマージンを1.5m以上制限速度以内で安全なシチュエーションで取ってもらう権利があり、そのために、端に回避できるマージンを1mくらい取る安全策を取らなければ、とてつもなく危ない状況におかれると言えます。

自動車は、こういった点を殆ど意識しておらず、片側1車線より狭い道では、対向車は、自転車から見て右側(対向自動車から見て左側)を空け過ぎながら、自転車をすれすれマージンで減速せずに平気で離合する、自動車ならば一旦停止するのに、といった、安全運転義務の本質を欠片も分かっていないのではないか?という運転をしている場合が はたから見て多すぎます。

自転車と極限まで縮小したマージンに共通分母化して それだけを覚えてスルーするドライバーが大量におり、もっと端に寄れる場合でも 平気でまん中を通過します。

その最縮小マージンを 自動車の所要時間短縮のために とんでもない あるとあらゆる 状況に強引に適用させるのです。

自転車は車道、といっても、これらを考慮に入れない場合、うまくいかないに決まっています。

私がこういったコーナーをまとめておくのは、自動車の危険運転を勝手に呑み込んで、仕方なかったんだで済ますと、必ず歩行者に〝同じ〟暴力を与えるからです。

そうならないために、筆者は、自動車の病理的な愚行!? を、うのみにせず、まとめていきます。


私が数年走っている中で、一番回避と予測不可能である自動車の運転?は、主に片側1車線の破線の道の直線区間で ちょうど後続車がいないときに、対向車の真後ろにぴたりと異常に車間距離を詰めている自動車が、前方の対向車がわずかに制限速度以下になったなどの理由で、突然 何の前触れもなく飛び出してくる運転?です。

――運転?、です。――

この、運転?は、恐らく、前方の自動車は、自転車が来ていることで速度を下げるのでしょうが、制限速度が50キロの時にせいぜい40キロとかでしょうから、それを突如追い越す問題の後続自動車の速度は+20キロとして、時速60キロ位でしょう。

何の前触れもなく、自転車の前方に、いきなり時速60キロで突っ込んでくる自動車が現れます。


その時の状況ですが、まず、死んだと思いました。

同時に、体がぴくつき、一瞬言うことをきかず、頭が真っ白になり、なぜ当たらなかったかふしぎで、どういった状況だったかふり返ることができないくらいのタイミングだったわけです。

左にガードレールもあったので、左に寄りすぎる方法も 一瞬で使うことはできません。


自転車のみが片側を、自動車2台がもう片側を走っているとします。

その後方自動車は、そもそも、対向車の有無に気付いていたのでしょうか?

もし不明ならば、対向車と正面衝突する危険が高く、わざわざ反対車線をいきなり走行しないでしょう。

ということは、自転車は、車両とも対向車とも見られていないことになります。

では、対向車・・・もとい、対向自転車の存在には気づいていたのでしょうか?

自動車は見えるのに、自転車は見えない、もしこのシチュエーションが対向で起こり得るのならば、とても危険です。

自動車は要するに、反対車線からやってくる〝車両〟の存在に気付かずに、反対車線に突如飛び出すことになるからです。

このときの自転車の速度が時速15キロ程度だとすれば、原付やオートバイの速度には及ばないので同じ話にはならないのでしょうが、2輪各種でも 自転車側のシチュエーションで 同じ突然の自動車出現はあり得るわけです。

おそらく、真後ろに張り付いている自動車は、前方自動車の死角で、前方のいくらかの部分が見えず、ある速度以上でやってくる車両を時間で読んで、何もいないと判断したのでしょう。

これは、郊外つまり田舎に多く、自転車が車道を走っていることを想定できていないことが原因です。

自転車は車道、というメッセージは、都会中心の発想であり、郊外の状況には さらに対応しきれていない、と考えるのが妥当でしょう。


しかし疑問が残ります。

もし、自動車が、時速15キロ程度で走ってきていたらどうしていたのでしょうか?

自転車だから見えなかったのだとすれば、原付やオートバイが時速15キロで景色を見ている場合でも有り得ます。

その後、オートバイが突如加速する場合もあるわけです。

いずれにしても、時速15キロで走行してくる自転車や自動二輪との正面衝突は、避けられないような運転をしていたことになります。

これは、どう考えても、安全運転義務違反でしょう。


さらに別の視点もあります。

本当にわざとではなかったのか?


自転車に特に言えますが、運転には盲点があります。

それをなるべく克服していくために、安全に数走るのです。

しかし、自動車が一般道を安全に走るのは、上記の出来事含め、基本無理です。

今回の場合、前方の車両にも責任が発生しかねない状況でした。 (実際はそうでもないはずですけどね。)

これは、前方がサンデードライバー(暫定)、後方が安全運転義務違反者、というわけですが、自動車が制限速度オーバーで流れる状況と、自動車社会が自転車走行に及ぼし続けている破滅的な現状を理解するには十分です。

つまり、前方の自動車は、後方の自動車に、自転車が死ぬぞ!とあおり、自転車が死ぬわけです。

何も対向車線から来ていないことを確信していないのに反対車線をいきなり走行した場合、安全運転義務違反ですが、何か来ていた場合は、4輪自動車でないから弾いても構わない、と考えていたのなら、もはや、殺人未遂です。

しかし、それが誰にでも自動車ドライバーにできてしまうのが、自動車社会の狂った現在です。

つまり、自転車ならば、当たっても自分は無傷で済むから、自転車が来ていることが分かっていてあえて最悪のタイミングで飛び出した、可能性が浮上します。

自転車が来ているかわからない場合、自動二輪各種も 稀ではあるが そうなので、少なくとも100キログラム程度の物体が人と共にやってきているか わからないのに 強気で飛び出せるものでしょうか?

自転車がやってきていることが分かっていれば、自転車しか来ていないことが分かっているわけで、つまりはそれを無視、恐怖を与えるためだけに、突っ込んだのです。


世には、運命というものが存在します。

パラレルワールドをマッピングし、この世界の過去の真実を、歴史を改変することなく 記憶として取り出すことができるライブラリーが出来たならば、もう嘘は付けません。

先の出来事を既に分かっている人から、実際に起こったことを感じ取れる人だっています。



種々未遂的行為を、わざとやっている人に言います。

あなたの行ったことは、絶対にバレます。

というより、すでに把握されています。

そして、それは、あなたに必ずしも報告されるとは限りません。

そんなばかな・・・うそやろ、と思うかもしれませんが、権力者の中枢のヒミツ的な内容の深い部分を 全てあなた一人で網羅していますか?

つまりあなたが〝これからどうするか〟です。

近いうちに、まとめて過去の行為の〝代償〟がやってきます。

免停どころでは済まされません。

きっと、家族にも迷惑が掛かるでしょう。

あなたは、見える人をすでに苦しめている、ということです。


自転車は、明らかに、自動車との走行で安全上不利です。

それでも、現状のまま続いているのは、自転車が唯一 自動車から自分を守ることのできる〝天下の宝刀〟である〝法律〟を盾にすることができるからです。

それしかできません。

そのために、自転車はルールをちゃんと守りましょう。

自転車がルールを破っていれば、自動車との事故で、自動車側の思う壺です。

自動車側は、ありとあらゆる手を使い、自転車にルールを無視するように画策します。

私は、先頭の時に停止線で止まりますが、直後の自動車ドライバーが何を考えているか知りたいです。

もし、邪魔だと言ったとしたら、もう何も言いません


自転車がしっかりルール、つまり安全運転義務を全うしていれば、それ以上落ち度が無いので、自動車の制限速度以上で流れる現状、1.5m以上開けない追い越し、(片側2車線以上にて)同一車線上での追い越し、信号の無い横断歩道での歩行者無視&横道からの停止線で止まらない、赤になった直後の信号無視の自動車まで見られる、ありとあらゆる事実を いくらでも突きつけることができます。

これらはすべて、自動車の自転車への安全運転義務違反にあたり、歩行者へも同様です。

自転車がルールを守ることで歩行者に配慮しているのだから、比較も容易です。

もし自動車が全て守っているというのならば、いくらでもドライブレコーダーを開示し、どのような運転でこれらをクリアしているか情熱的に話してくれるでしょう。

というより、そういう自動車とは事故にはなりません。


もちろん、これまで述べたことは、合理的に理解するための簡略に過ぎず、やや誇張表現もあるとして、それでも、安全運転義務違反のドライバーが考えているほど オーバーで的外れではありません。


自転車の最大のメリットは、歩行者にのみ、最大限の安全運転をすればよいということです。

道路を走る上で、最もリスクが低い乗り物なのです。

つまりは、より気軽に、自由に走れる癒しを秘めています。

ただし、自動車に対しては、命を懸けることで、このリスクの軽量化を行う点は、要注目です。

この、命をかけるとは、安全運転義務違反の自動車ドライバーが勘違いしているような、命を落とすことを覚悟して それでも車道に出ている、というわけではありません。

冒険に、自分の命を落とすことを想定する馬鹿はいません(笑)

弾かれる気は毛頭ありません。

そうではなくて、安全運転義務違反の自動車が少なからずというか大量にいる現状を見て、或いはそうでなかったとしても、先ほどのことを繰り返しますが、自動車より自動車に対して安全上不利なだけです。

自転車のせいにして、自動車自らの安全運転義務違反を正当化するのは、誰がどう見ても 堂々明白に〝犯罪〟です。


リベラル社会では、証拠として 膨大な裏付けがない限り、強い償いを科すのは不可能で、それが寛容で良いわけですが、自らの手を汚せば汚すほど、証拠が膨大になっていきます。

つまりは、本当にわざとやっている自動車は、いつでも検挙できるということです。

ただ、今日までそうでなかったとしても、明日は。

なので、明日に不平を言うのはやめましょう。


ここで思うのは、ケン・ウィルバー「ワン・テイスト」などで読み解かれている〝奴隷〟の社会・文化的真実です。

アメリカとアフリカの場合で、〝保守派など〟は〝残酷な白人が親切な黒人に対して〟行ったと読み解く傾向が強いらしいのですが、ウィルバーによると、実際は、〝ふつうの人々がふつうの人々に対して行った〟という、言いたいことが分かれば かなりぞっとする結論です。

自動車社会は、フラットランドという、病理的なリベラリズムから来ているのが定説ですが、そういった、金銭至上主義的傾向は、人種至上主義的なナチズムのような病的上昇志向とも関係していき、つまり、病理的なリベラル社会によって媒介された、歪んだ保守的ナルシシズム人間たちが、上記の奴隷制度を展開し続けている、と読むのが妥当です。

残酷な自動車社会の安全運転義務違反と種々未遂と思われる行為は、頭のおかしい残酷な自動車ドライバーによって侵されているのではなく、ごくごく普通の人間が、ごくごく普通に自動車に乗っている結果、異常な事態が起きている、と捉えた方が、あらゆる点で核心をつきます。

つまりは、かつての奴隷制度と同じく、全くの無自覚であるわけです。


これは、奴隷制の廃止はあくまで、産業[外面]に対しての平等だったのであり、モラル[内面]の深さに対しての平等はまだ未発達のまま、これが病理的なリベラル、即ち、自動車ドライバーのモラルは未発達・未分化の奴隷制度に埋め込まれたまま、であることを意味します。

以前の私の自転車走行も、その影響を受けていたふつうのドライバーにすぎなかった、というだけです。

これは、インテグラル理論を勉強するだけでは全く分からず、構造主義を使って、外側から内面のデータを取って初めて分かるものでしょう。

少なくとも、モラル、自転車の運動スキル、車道のルールと危険予測の理解、の3つの発達ラインが伸びていないと、私のここで書いていることを まともに理解するのは無理でしょう。

そうでない人 (要解釈!) は、いずれにしても、内面の次元で、奴隷制度を展開している、異常な現代の、ふつうの人々( ;∀;)です。

なんか、変わった普通ですね。


後ろの対向車に突然飛び出される例に戻れば、いきなり 一般道の限界速度以上で突っ込んでこられる身になれ、と思いますが、ふつうの人なので、無理なのでしょう。

こういったシチュエーションは何回か体験しました。

このコーナーではその中で一番ひどかった経験を書いています。

その日のライド中、気がずっと変になりそうになりながら、経験と勘で何とか安全運転していくことになり、飛び出した自動車ドライバーは、正直 何の意図があって、こんなことができるのかと思いました。

ロボットで言うなら、私の中の頭の導線が過半数焼き切れてしまった感じです。

自動車の車間距離の詰め方は異常ですが、それに気づかないふつうの人々こそ、さらにそうだと私は強く言います。

自動運転に私の経験はきっと役に立つでしょうが、まず、こんな在りえない現状が事実であることを 道徳の尺度で判断しない限り、実体を変えるのは無理でしょう。 自転車を車道に上げるのも。

もし自動車ドライバーがわたしを歩道に上げるためにわざと危険行為をやったのなら、全くの見当違いです。

まず、私がこういった記事をブログにして載せているなどと考えもしないでしょう?

次に、そもそも、自転車は、高級なロードバイク以外、誰も車道に出たがっていません。 つまり目論見は成功どころか、まだ スタート地点にすら立っていないのです。 この程度の自転車の量で、音をあげてどうするんだ!!

そして、自動車のメーカーが、内面のモラルでリベラルの尺度を持っているのなら、こんな運転の現状を知ってショックでしょう。 自分たちの開発した自動車が殺人の道具に使われているなんて許しがたいことでしょう。 きっと、全力で自動運転を開発し、メーカー側が責任を引き受けます。

具体的に、どこがどういう特許を取得して、どう引っ張っていくのでしょうね?

生存戦略では生き残れないのは、まず間違いありません。

例の危険運転は、私がびくつき、右に寄れていたら、死んでましたよ。

特に、ダンシングは 走行に便利な能力なので、急ブレーキと突発的な進路変更が シッティングと比較にならないくらい不安定となる点も理解していない自動車ドライバーに対して、後続車はもちろん、対向車が来た場合に 使用を 少し中断する、といった さらなる防衛策を講じるのが妥当です。

ただし、ここまでくると、対向車が来るだけで、まともに走れなくなるので、自動車がやらなければならない当たり前のことをやってくれないことにまで こちらが神経をすり減らす コストを自ら負う必要はありません。


今回の議論の目的は、〝自動車社会と道路交通の、社会文化的背景を攻撃する〟ことで、どうにもならずに変えることもできないような停滞した現状を、変えられるかもしれないという希望を持ってもらうために 書き下ろした次第であり、単に特定の個人なる ふつうのドライバーに罰則を追わせても、集団倫理やシステムには影響が乏しく、全く新しい捉え方が必要、そのために、自動車に乗り慣れた者は 自転車で安全運転をする根源的な意味と意義を忘れて もはや再獲得不可能な状況に引き裂かれている故に、代わりに筆者の視点を提供しています。

自動車に乗り慣れている場合、基本、高速道路も走ることになるので、自転車の速度域で高速進行しているという実感も壊れ、速度と自分の運動能力の関係感覚も機能しなくなり、人に適したペースで見る景色の素晴らしさもドライバーとして忘れ、その現実に慣れ、結果、なぜ自動車が今までと同じ扱いで悪いのかが分からなくなっている事実を、社会文化的な条件により説明することで、説得力を持たせるに至る、という知恵を持っていただきたかったからです。


才能のある人々の多くは、自転車に乗って危険な現状に身を置くことが望ましくないため、こういった事実を発信することができません。

私は現在、不幸、或いは幸福にも、この手の経験が豊富にあるため、書けるうちに書いておきます。

自動車社会、そして、道路交通の未来が、きっと良い方向に変わりますように!


――――――――――願いを込めて❀

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posted by インテグラルとど at 23:44| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする