2019年04月22日

広告雑誌の〝意図・感情・思想〟 ~情報社会のモードと深度~

世に存在する〝ありふれた情報〟は〝モード(世間の常識の発言力のタイプなど)〟を規定し(影響を与え)ますよね。


あなたが、自分をうまく表現できない空気があるとしましょう。

それが、その意味でのモードです。



(↑ ここでは、深さよりも 健全なバランスとシステムから見ます。)


資本主義は、お金を効率よく稼ぐための手段に思われていますが、〝どういった手段(目的)で消費(貯蓄)するか〟は 決まっていません。

これをあおる(コントロールしようとする)のも、その意味でのモード(を規定する)ということです。


私が、放映コミュニティを指して〝第一の抗争〟と表現したもの(に近い現状)でもありますが、〝広告主それぞれの意図・感情・思想〟を規定する〝意図・感情・思想〟があり得るということです。

後者のそれ(意図)が〝お金を稼ぎたい〟だとしますと、上記の健全なバージョンに無頓着な〝他の意図や想いと深さはどうでも良い〟主張となり(得)ます。

資本主義全体について、〝お金を稼げればそれでいい というモードで どんどんおかしくなってきている!〟という仮説は立てられませんか?


今回のコーナーは、〝社会になじめない〟〝自分に合っていない空気を感じる〟〝手におえない〟といった悩みを抱え続けてきた人に向けて書いています。

(実は、元々のこのブログの趣旨が、この辺りにあります。)

上記の広告主を〝芸術家〟(あなたの特に好きなアートの 意図・感情・思想を込める人) に置き換えて見れば、より実感できることと思います。

私は、芸術家は差別されていると書きましたが、そういうモードがあることは、誰でも大概 分かります。

(アートとアーティスト自体は広告ではありませんが、順当に見ていくと 芸術[内面]が情報として扱われる〝動向〟を捉える上で、大切な視点であることが 分かるはずです!)


私の経験上、特に求人雑誌が〝アイデンティティや夢や生き方のモードをコントロール〟している現状に加担している(可能性がある)と思います。 (――勿論 発行を単純に反対するものでもありません。)

そういった情報源と関係なく芸術家を目指した人と 関係して目指した人では、社会に対する〝役割意識〟が異なる(傾向がある)と思います。

簡単に言うと、〝あなたの夢は何ですか?の答え〟を成熟させられるような自信の文脈(モード)は〝誰によって与えられますか?〟

あなたの夢です。 (あなたの関係です。)



最近、信号を守って横断歩道を渡っていても、右左折で突っ込んでくる自動車が多いと感じます。

〝働け働け〟のモードの社会なら、上記は助長(黙認)されるのではないでしょうか。

求人雑誌の意図に〝通勤のルールを成熟させたい〟という思い(発想)があるかどうかで、長い目で見て信頼できる情報か 判断できるかもしれませんよね。


そういった広告情報誌には、私の報告してきた生き方、夢・思想を明確に持ったことによる〝なるべく働かないライフのススメ〟(メリットの主張) が存在しない(としか思えない)ので、〝特定のモード以外を周辺化している〟〝発生を妨げている〟と言えるかもしれません。 (ここでは 相対的に後に発生する深さ視点だけではなく バランス・健全性でも見ます。)

必要ないと断定している主体〝意図・感情・思想〟がある(あり得る)ということです。


(具体的なシステムの反例で良いならば、電話番号不要 などの〝金銭的コストを下げる〟試みすらないのでしょ?)


こういったモードは 深くかかわりだすと ややこしいので、基本ノータッチですが、政治の理解には このような(深層的背景に走る各種問題に対する鋭い)感性が必要なのかもしれません。

上記に成熟した理解を持った政治家は、これから さらに必要とされるでしょう。

私たちの税金(資源)や生活(安全)を〝なかったことに〟しないような≪公共の福祉・システム・意図≫が ますます重要になっています。


信頼の原則を無碍にするのは、この意味での〝脚色〟です。

企業同士がなぜ協力せず、足の引っ張り合いを未だにしている (と言われる例が少なからずある) のかと言えば、〝日本人はモード (ここでは いわゆる 集団に作用するデマのようなもの) に影響されやすいから〟と 言えるのかもしれません。

(主題が〝広告雑誌〟ですが、こういったジャンルだけでも ――種々広告情報紙と そのオンライン版を含む―― 流れや 全体像をとらえる大きなヒントとなるでしょう。 好きなだけ考えましょう。)


あなたは、唯一無二の〝人間〟なので、決して型にはめられていいような存在ではありません(・∀・)♡

あなたの深みを見つけましょうω ←強気☆彡

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2019年04月17日

すばらしい[人間関係]コミット・アート ~著作と社会交流と〝今〟~ ⑤ 《FIN》

私は、芸術家としてのコミュニケーションをしながら、生きてきました。

一人寂しいことも経験し、〝繋がりたい人がずっとそばにいる〟〝大好きな人たちとの末永い人間関係の場所に〟そんなシチュエーションをより強く 望むようになりました。


その中で、インターネットを 自分の魅力の排他性を隠す道具にすることに、もはや飽き飽きし、バイタリティを切り離し 想像そして反復する妄想のようなものに至ることは〝気分が悪いだけのもの〟であることに 気付いていきます。


インターネット上には、人間関係に優れた すてきなつながりを持った芸術家もいます。

壁にぶつかりながらかもしれませんが、色々なところから、学べます。



私は、人間関係と芸術の〝相性〟について、いつも悩んで くじけてきました。

芸術をやればやるほど、公の場で その意図に耐える交流をする〝エネルギーと機会〟を得る方法が 難しくなっていったからです。


芸術は、コミュニケーションです。

インターネットで つながっていくことで、私は あらためて 学んだのです。

形式ではなく。

形を伴わせる強引さもいらない。

インスピレーションの〝アート〟は 自由でいいんだ。

☆―☆―☆―


単なる多数決は、内面や深さの発見と成熟に いい影響を及ぼさないことが、インターネット社会では言えました。

歪みはそのまま 報告ページとして残るのです。

もし、良い意図の芸術の中から〝弱い部分〟を〝社会に受け入れられている通念だ〟として〝本来の意図を自分勝手に独占無視して〟〝多数の同様の良い意図の芸術の弱い部分の表面構造を抜き出して〟〝悪意を持って組み合わせて〟〝知られていない無名サイドの深い功績を一般サイドにショックを与える形で社会現象を起こすために惜しげもなく起爆装置と化して〟悲しいほどに〝世の中の見たくもない部分を無気力に見せられる矮小化〟を画策されたら、その傷跡は 必ず 私たちの歩みに残るのです。

そのおかしな意図とは〝悪い意味でのインターネットのモラルのハードルを壊す事〟にあります。


私は逆で、〝積極的な協力としての 芸術家同士の作品間の 広義の引用を含む コミュニケーション そして 他分野との同様な多面的交流にまで広がるための インターネット上のハードルを下げること〟を 意図して こうして 文章を報告しています。

実際にそれは、花開きました❀


もし、悪い方の意味で、ハードルを壊された場合、私のやってきたことは〝誤解され〟それが目論見でしょうが〝世の中なんて醜いんだ 強者の言いなりになるしかないんだ だからモラルなんてばかばかしくて皆 欲望に浸って自分なんて無くしてしまえばいいんだ〟という呪いを〝多数決にて証明〟させ、そのウィルスを〝子どもや女性の差別となる し好物で自他を鈍らせる バラバラで気分の悪い 天国と称する地獄〟インターネットを媒体とする意味のない独裁主義のためだけに 公のお墨付きを語って ばらまくわけです。

現時点で、インターネットに公の〝すてきな人間関係〟〝協力して創る 自由な芸術と著作の為の 熱心なアップデート型 自由なコミュニケーション引用の為のルール〟が 条件付きでしか 前進しないのは、やはり、誰かが リベラルな民主主義の多数決を悪用して〝インターネットは芸術家を壊すためのし好品である〟という 混乱を〝無防備な経路で信じ込ませることに成功した〟からなのでしょうか?

私たちの深い洞察と意志は、生きますか?

行きましょうよ。



健全に深く、公のインターネットコミュニケーションがリベラルな多数決・正常な判断を伴って 豊かで濃厚な安定を獲得すると、誰も誰かを陥れたりするような 意味のないパクリ騒動のような問題は 起きず、邪な画策は 皆にしっかりと伝わって見抜かれてバレて 目論見は拒絶され、社会の因習の蓄積・ルールの混乱こそが苦しみとしての〝し好物の牢獄の掲示板なんだ〟と〝理解して二度とそこに陥らない〟のです。

自転車の乗り方と同じで、覚えてしまえば、思い込みとしての無秩序な情報に左右される必要が無いのです。


うまく書けたかは分かりません。

本当は、30ページくらいのパートに分ける文章量ですが、5パートにしています。


好きな人の 渾身の〝やさしいアート〟の 公のインターネットでの〝プレゼント〟は、えも言わぬ至福です。

皆にも そういった喜びを味わってほしいのです。



誰もが著作を持ち、誰もが究極的には芸術家―――

きっと、未来の地球は、どんどん豊かになるでしょう!!


いいね(≧▽≦)☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡
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2019年04月13日

子どもと女性が輝く よりすてきな自由の寄せ描き♡ ~著作と社会交流と〝今〟~ ④

自分の描いたもの、つまり 私の著作を持ちよって、公の場であるインターネットで交流する。

それが、さらにアルバムの寄せ描きのように いつのまにか アートの対話でみんなの作品にもなる。


こんな経験と実質は、子どもと女性の活動・学びでは、とっくに常識です。

なぜか、政治・行政など〝社会のルールを決める〟代表のはずの陣営は、こういった感性に無意識なようで、周辺化しがちとなります。


分かると思いますが、インターネットの無かった時代の(サークルの中で絵を描いたり演奏したりして問題なかった)ルールを、情報化の今 平等にどこでも繋がって友と交流できる時代の(インターネットという公の場が当時のサークルに当たるようなスペースとしての)ルールに ただ横からだけ流用しても〝合うわけがない〟のです。

かみ合わない。適合しない。構成要素と範囲が全く違う。

古いOSで、新しいソフトは〝動かない〟のです。

国際基準を飲む=おかしいルールを脱ぎ 全てよりリベラルな自由へ開き続ける

ということです。


著作的な国際基準。私たちは、国は、本当に合意できたの?


芸術家が、台風の目です。

公共の福祉に〝深く〟コミットする以外 道はないということを〝著作とアーティスト同士の健全で深い独自の交流〟によって〝示していく必要がある〟のみです。

そこに、次世代の子どもと 女性が 強い力を持つのです。

芸術家は〝インスピレーション=両性的な多次元的交流〟をモットーとするので、本来的な意味で言っているのです。

そのために、着目して成すべきことは多いです。


インターネットでのつながりは、部屋でのサークルのようなもので〝誰でも見れるので 嫌がらせができない〟ことが〝本来〟なのです。

不特定多数も〝傾向〟で規定でき、その代わり〝同レベルで深くつながった独自の慣性系ないしネットワークが内部に構築されるコミュニケーションの文脈としてのパーソナルスペース〟の成熟ができる社会です。

しかし、なぜか、誹謗中傷などが まかり通っています。

これは、すでにかなり社会のルールがおかしいのです。


インターネットは公の場です。

ただ、昔のサークルとは かなり違った構成なので、インターネットの交流が公共の場となるための〝確かなルール〟を 自らが声高らかに叫んでいかなくてはなりません。


その第一歩が、繋がりたい人と繋がるということです。

繋がった人と思いを共有・交換するために、実際に思っていることを何らかの方法で伝えて、〝公共の場で出会っている〟事実を主張 しなければ オープンであるとは言えません。

繋がったその人が分かるような〝文章・言葉〟などを〝リンキング・広義に引用〟することで〝自分のブログで表現する・描く〟こともできます。

プライバシーも、当時のサークルとインターネットの現在では違い、相手のパーソナルスペースを守るために〝様々な方法で行うことのできるリンキング・広義の引用〟を行うのが最善なのです。

つまり、プライバシーとインターネットとコミュニケーションを考えていくと、必然的に〝リンキング・引用の とてつもない 広く自由で 細分化された(多ニーズに合った) リベラル・ルール〟を構築することになります。

ここ、誰もが見落としていませんか?


芸術家同士であるならば、〝著作によるリンキング・広義の引用によるコミュニケーションでしか守れない相手のパーソナルスペース・プライバシーの配慮〟というものが、とても大きく存在しているのです。

保守派などが 大して思慮せず これを制限すれば、プライバシーに対しての大混乱が起きるのです!

これは、ルールを制限した者に近いほど 何らかの責任を必ず負うことになっています。

文脈上は。――実は権利と責任とはそういうものです。

これを信じられないとき、誰も主体的に責任を取らず、ルールも適当でよいと考えてしまうのです。


プライバシーとは、コミュニケーションと〝同じ内面の別の側面〟です。 (個人の内面 と 文化の内面)

インターネット上の記録や著作は〝コミュニケーションという公の場で堂々と見るもの〟です。

相手のプライバシーに配慮する〝リンキング=責任〟を取ればよく〝社会の文字通りのルールに対する心配は 公共の福祉に対して 目を背ける 時間のもったいない行為〟です。

著作に対する国際的なルールとは、〝より普遍的なルールを根拠でもって自分で解釈して 社会にコミュニケーションをつくる 約束〟です。

なぜか、日本は〝具体的にこれはこうだ〟とか 言いがちで、〝国際的=普遍的に主体のモラル〟が 責任の取れる〝すべて〟であることを、おかしく 忘れています。


つまり、次の一歩は、〝好意を寄せる・繋がりたいと思う〟インターネット上に記録報告されている広義の著作の〝内面・解釈〟を〝歪めて収拾する〟癖を 各自が主体的責任を知って 緩めていくべきだということです。

誹謗中傷の掲示板などは、この歪み切ったバージョンを 自ら止められないところまで悪化させた 習慣文脈上の〝キュレーション〟なのです。

〝出会いたい〟対象・コミュニティに対して〝適切なパーソナルスペースとプライバシーの配慮・リンキング・広義の引用としてのルール〟があるのです。

自分が (無意識でも本当の意図を伴って)繋がりたい人へのインターネットによる収集により〝プライベートに〟行っていると称する〝相手が公にしてほしいと思うはずの行動〟は、〝公の場に相手の報告・著作がある〟というモラルにより〝コミュニケーションとして主体的責任を感受する〟事が可能です。


これの歪んだヴァージョンは、大人の意味が事典的に成さない〝アダルト〟的意味での〝し好物〟としての〝コミュニケーションから無責任の収集〟です。

この文脈だけならば リベラル嫌いバージョンの保守派が喜びそうで ナルシシズムを擁護する自由派もどきが発狂しそうな気もしますが―――


女性の中には〝おんなのこ〟がいます。

成長して成人するのだから、あたりまえ ですよね♪



そんな女性、大人でもティーンエイジャーでも、対して 悪しき意図を伴った者が〝独特の服装になってもらって情報発信〟すれば、〝内なるおんなのこも一緒に〟大公開です。

粗い例えであって、描いたバージョンでも 何でも良いのですが、子どもと女性に〝おかしい〟差別の無意識的原因となっている こうした根強い文化は、〝公の場の子どもと女性との責任あるコミュニケーションしか道はない!〟という方向に持っていく〝主体的に徹底的な習慣〟が必要です。

もちろん、上記の例えは〝男性〟も 加えられます。


ファッションショーならば、公の場で見てほしいはずです。

それが〝コミュニケーション〟です。

その責任へのコミット方法は〝広義の引用=リンキングとしてのプライバシー配慮〟も含まれます。

真の芸術家同士の交流が、その大きなヒントとなります。

社会は、芸術家を抑圧するのを、そろそろ 根源的にやめましょう!!


このように、うまく言えたかは分かりませんが、逆に何でも言いすぎるのもダメで、〝洗いざらい自分本位な心配を吐くのではなく 公の場にコミットするルールに実践としてインターネットの(わたしたちの)公開報告はオープンに使う〟ということです。


難しいかもしれませんが、男性ならば 女性と子どもに受け入れてもらえる〝インターネットの活用〟になるように 試行錯誤しましょう。

著作の国際基準の〝レディ・ファースト〟〝おもいやり〟とは そういうことです。

きっと、そこがスタート地点なのです。


きっと―――――。
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2019年04月09日

道のルールとリベラル・スペース♪ ~著作と社会交流と〝今〟~ ③

リベラリズム(現代のリベラル教育など)には〝具体的な規範を押し付けてはならない〟という〝素晴らしいモラル〟が 体現されています。

これを、道路交通と内面に開いて、著作の交流と見ます。


グレーゾーンと言う言葉がよく飛び交っていますが、〝噂話・デマ〟と同じ性質のものだと感じます。

私は道路にて〝すり抜けを全般的に勧めない〟のですが、理由は〝認識されていないかもしれないけれどルール違反だから〟〝全てのシチュエーションを分かろうとしていないのだろうけれど とても危ないから〟です。

すり抜けることで自転車は〝車道デビューしやすくなる半面 自動車が自転車に安全な縦と横の車間距離を保たない自動車中心社会の現状〟に気付くので、そうやって走ることに行きつくかもしれないけれど すり抜けを覚えないでほしい、と言っています。

確かに、すり抜けることでしかわからない〝道路のルールの混乱の学び〟はあり、それはグレーゾーンと言うよりは〝ありえない・おかしな現状〟なのです。

自分がその現実に巻き込まれていることすら気付かずに〝無意識に認めてしまう=(文脈で言える)デマを真実だと取り違えてしまう〟点が、深刻です。


つまり、虎穴に入らずんば・・・的な要素はありますが、〝社会のルールが混乱している=深い内面により より正しいルールの深層的意図を把握して 公共の福祉に反する主張を拒絶する という営みが成功していない〟―― 危うさに気付いて〝皆で別の道を探索する〟べき 緊急の課題があるのです。

確かなことは、ルールを破ってでも〝気付かなければならない社会の歪みと危機的な混沌〟があり得て、さらに〝次世代を巻き込んではならない〟というビジョンで行動しなければなりません。

そうしなければ、さらに混乱(歪んだ慣習)は蓄積されてゆくからです。


話を進めましょう。


著作のコミュニケーションの芸術家同士の引用の〝より高パフォーマンスに自由な公共の福祉にのっとったルール〟は、そういった〝次世代に開かれた健全で深い〟ナチュラルな奮闘の中でしか 継いでいけないのです。

インターネットという公の場と〝記録の継続的な報告〟の〝兼ね合い〟は〝さらに真剣な情熱〟によって ルール(道)になるように〝自ら試して〟いかなければならないのです。

それが これからの公の交流の〝常識と勇気〟です。

良い意味で、さけられないもの なのです。


ヒルクライム、という言葉が、自転車視点でありますが、坂道を好んで上る〝クライマー〟の生きざまと似ている部分が〝芸術家〟にあります。

自分の出来る部分で〝深く洗練させながら他者と交流したい!〟そんな〝強い渇望(情熱)〟です。

〝ルールの混乱した自動車社会の中の道路の中の坂道の中のクライマーの交流のための熱意〟は なるべく交通量の少ない道が良いという近況の他〝インターネットで報告して気持ちを共有したい〟というところに行くでしょう。

車道に〝目的地に行くだけの用途〟しか付加できないわけではない点でお分かりのように、 著作が〝売るためだけの用途にしか開いてはいけないわけがない〟のです。

道具的歪んだバージョンの合理性のみの単一目的的絶対化は、深い意図と羅針盤を無視し、混乱したルールの蓄積に無力です。

芸術・著作は〝交流するため〟に〝混乱したルールを吟味して越えていく必要がある〟のです。


道の安全性が日本では〝ローカル〟です。 著作に関するルールは今や日本でも〝世界基準〟です。

前者が未だ 非国際的で混乱しているのに、どうやって 同じ〝ルールを決める感性〟で〝より内面的に普遍的に開ける〟のでしょうか?


自転車を追い越す自動車は〝1.5メートルほどの距離を空ける努力をしても良い〟ではありません。

〝1.5メートル近く 必ず空けなければならない〟のです。

つまり、カーブの手前では 自転車位まで早めに速度を落とす〝自動運転式の運転〟ができていないとおかしいのです。

それ(自動車の本来のルール)を知らない自転車も、ルール上確かにおかしいのです。

リベラルの 具体性を押し付けないという寛容性(大好き!)にて、〝ルールを守らずに乱用する者にだけ得をする〟混沌たる結果になっていることが、私は気に入らないのです。

保守派は〝著作も道も もっと厳格にルールを作って拘束するべきだ〟と言うかもしれませんが、そんなもの〝覚えきれないし、奴らは 縛られないところでいくらでもやらかしていき〟むしろ酷くなるくらいです。

リベラルの良いところをもし捨てれば、現在の国際情勢の〝退行特急的揺れ戻り〟と同じく 二度と〝誰もが得をする よりすてきで自由で とても危ない歪んだ者だけライセンス拒絶することができるような社会〟に 軽やかに変容する機会(一期一会)は〝与えられないかもしれません〟!


日本発祥の芸術は特にそうですが、国民的な〝文化的ルール〟によって〝成り立って〟きました。

世界基準にする場合、基本的な〝子どもも安心の 文化的な著作的 もっとより自由な交流を最大限生かす〟社会のルールを しっかりと成り立たせていかないと、国際的なグラウンドで〝日本の文化を納得してもらえる〟ことは無いのです。


もったいない(・∀・)ωωω


みんなのアイデアを検討して、一緒に芸術・著作を 作りましょうよ!

それを、著作同士のインターネット上の交流でも、深くならばできるのです!



✧今回の補足結論 : 「インターネット=公の場(安心感・メリット)自らが主張・定立しなければならない!!」 ✧
posted by インテグラルとど at 09:00| 実用的生活実践 | 更新情報をチェックする